釈尊に関する教示と大集経の「五五百歳・闘諍堅固・白法隠没」

 

善無畏三蔵抄 文永7年(1270)か

我等が父母世尊は主師親の三徳を備えて一切の仏に擯出せられたる我等を唯我一人能為救護とはげませ給ふ、其の恩大海よりも深し其の恩大地よりも厚し其の恩虚空よりも広し、二つの眼をぬいて仏前に空の星の数備ふとも身の皮を剥いで百千万天井にはるとも涙を閼伽の水として千万億劫仏前に花を備ふとも身の肉血を無量劫仏前に山の如く積み大海の如く湛ふとも此の仏の一分の御恩を報じ尽しがたし。

 

どうでしょうか。

日蓮は、主師親三徳の教主釈尊をどこまでも讃嘆、宣揚し、その恩に報いるべきことを説いています。これだけではなく、当抄には教主釈尊に関する記述が溢れんばかりにあります。

 

 

又、我が師釈迦如来は一代聖教乃至八万法蔵の説者なり。此の裟婆無仏の世の最先に出でさせ給ひて、一切衆生の眼目を開き給ふ御仏なり。東西十方の諸仏菩薩も皆此の仏の教へなるべし。

 

此の釈迦如来は三の故ましまして、他仏にかはらせ給ひて裟婆世界の一切衆生の有縁の仏となり給ふ。

 

一には、此の裟婆世界の一切衆生の世尊にておはします。阿弥陀仏は此の国の大王にはあらず。釈迦仏は譬へば我が国の主上のごとし。

 

先づ此の国の大王を敬ひて、後に他国の王をば敬ふべし。

 

天照太神・正八幡宮等は我が国の本主なり。述化の後(のち)神と顕はれさせ給ふ。此の神にそむく人、此の国の主となるべからず。されば天照太神をば鏡にうつし奉りて内侍所(ないしどころ)と号す。八幡大菩薩に勅使有って物申しあはさせ給ひき。大覚世尊は我等が尊主なり、先づ御本尊と定むベし。

 

二には、釈迦如来は裟婆世界の一切衆生の父母なり。~

 

三には、此の仏は裟婆世界の一切衆生の本師なり。~

 

我等衆生も又生を裟婆世界に受けぬ。いかにも釈迦如来の教化をばはなるベからず。而りといへども人皆是を知らず。委く尋ねあ()きらめば、「唯我一人能為救護」と申して釈迦如来の御手を離るべからず。

 

而れば此の土の一切衆生生死を厭(いと)ひ、御本尊を崇めんとおぼしめさば、必ず先づ釈尊を木画(もくえ)の像に顕はして御本尊と定めさせ給ひて、其の後力おはしまさば、弥陀等の他仏にも及ぶべし。然るを当世聖行なき此の土の人々の仏をつくりかゝせ給ふに、先づ他仏をさきとするは、其の仏の御本意にも釈迦如来の御本意にも叶ふべからざる上、世間の礼儀にもはづれて候。

 

其の後承りしに、(道善房が)法華経を持たるゝの由承りしかば、此の人邪見を翻(ひるがえ)し給ふか、善人に成り給ひぬと悦び思ひ候処に、又此の釈迦仏を造らせ給ふ事申す計りなし。

 

日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つベし、禅宗・真言宗も又謬(あやま)りの宗なりなんど申し候は、強言とは思し食すとも実語・軟語なるべし。例せば此の道善御房の法華経を迎へ、釈迦仏を造らせ給ふ事は日蓮が強言より起こる。

 

日本国の一切衆生も亦復是くの如し。当世此の十余年已前は一向念仏者にて候ひしが、十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ、二三人は両方になり、又一向念仏申す人も疑ひをなす故に心中に法華経を信じ、又釈迦仏を書き造り奉る。是亦日蓮が強言より起こる。

 

 

仏教僧の中には釈尊への恋慕渇仰(れんぼかつごう)のあまり天竺へ渡航せんとした明恵もいますが、ここまで『釈尊に還れ』と説きに説いた鎌倉時代の僧は、やはり日蓮をその筆頭に挙げるべきではないかと思います。伊豆で刻まれた釈尊像は終生奉安、亡き後は墓所の傍らに立て置くように遺言。これらを見れば「日蓮は釈尊を教主とし、その像を推奨された」と理解する人も現れようというもので、実際、四条金吾夫妻は釈迦仏像を造立しています。

 

ところがです。

「撰時抄」(建治元年・1275)には次のようにあります。

 

今末法に入つて二百余歳大集経の於我法中闘諍言訟白法隠没の時にあたれり、仏語まことならば定んで一閻浮提に闘諍起るべき時節なり、

中略

是をもつて案ずるに大集経の白法隠没の時に次いで法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか、彼の大集経は仏説の中の権大乗ぞかし、生死をはなるる道には法華経の結縁なき者のためには未顕真実なれども六道四生三世の事を記し給いけるは寸分もたがはざりけるにや、

中略

後五百歳に一切の仏法の滅せん時、上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて謗法一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと、梵・帝・日・月・四天・竜神等に仰せつけられし金言虚妄なるべしや。大地は反覆(はんぷく)すとも、高山は頽落(たいらく)すとも、春の後に夏は来たらずとも、日は東へかへるとも、月は地に落つるとも此の事は一定なるべし。

 

此の事一定ならば、闘諍堅固の時、日本国の王臣と並びに万民等が、仏の御使ひとして南無妙法蓮華経を流布せんとするを、或は罵詈し、或は悪口し、或は流罪し、或は打擲し、弟子眷属等を種々の難にあわする人々いかでか安穏にては候べき。これをば愚癡の者は呪詛(じゅそ)すとをもいぬべし。法華経をひろむる者は日本の一切衆生の父母なり。章安大師云はく「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」等云云。されば日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、又主君なり。而るを上一人より下万民にいたるまであだをなすをば日月いかでか彼等の頂を照らし給ふべき。

 

 

日蓮は、

『今は末法に入って二百余年となる。大集経に説かれる「我が法の中において闘諍言訟して白法隠没せん」の時にあたっている。仏の言葉が真実ならば、一閻浮提に闘諍が起こるべき時節である。

中略

これらを以て考えてみれば、大集経の白法隠没の時に次いで、法華経の大白法・南無妙法蓮華経が日本の国、一閻浮提に広宣流布することは疑いないことであろう。

かの大集経は仏説の中では権大乗の経である。生死を離れて成仏する道ではなく、法華経の結縁なき者には未顕真実の経ではあるが、六道、四生や三世の事を記していることでは、寸分も違えることはない』

と説きます。続いて、

『釈尊が後五百歳に、一切の仏法が滅する時=末法の仏法滅尽を慮り、上行菩薩に妙法蓮華経の五字を付属して謗法一闡提の病深き衆生の良薬にしようと、梵帝・日月・四天・龍神等に言われた金言が虚妄となるはずがあろうか』

として、

『たとえ大地が反転することがあったとしても、高山がくずれたとしても、春の後に夏が来なくとも、日が東に沈んだとしても、月が地に落ちたとしても、このことは間違いのないことなのである』

とするのです。

 

続けて、

それが一定ならば、末法となった闘諍堅固の時に日本国の王臣万民が「仏の使いとして南無妙法蓮華経を流布せんとする者」に対して罵詈、悪口を浴びせ、流罪に処し、殴打したり弟子・眷属に様々な弾圧を加える人々がどうして安穏でいられることがあろうか。こういうと愚かな人は、日蓮は呪っていると思うであろう』

と記します。

 

次に、「法華経を広める者は日本の一切衆生の父母」であり、章安大師の「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」との文を引用し、「日蓮は当帝の父母」「念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、又主君」即ち「主師親」を宣言します。

 

整理してみましょう。

・この文節は大集経の「五五百歳・闘諍堅固・白法隠没」を踏まえています。

・「後五百歳に一切の仏法の滅せん時」は末法の始めの五百年に釈尊の教えが滅尽するということ、まさに白法隠没です。

・「釈尊が上行菩薩に妙法蓮華経の五字を持たせて、末法の謗法・一闡提の重い病の人々の良薬にせんとした」といっても、当然、釈尊は知らないことであり日蓮の独自の解釈・理解からの言葉です。ここでは上行菩薩という釈尊正統を文の表に現しながらも、その前で「一切の仏法の滅せん時」と釈尊の教説すらも滅尽することを前提としているのですから、弟子檀越の理解力を考慮しながら継承性と正統性を示して事実上、「末法の新しい法=それは日蓮が常に教示していた妙法口唱による成仏」というものを明示している、と読み解けるのではないでしょうか。

・「されば日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、又主君なり」に至って自らの「主師親三徳」を強調したということは、末法における「主師親の三徳」は誰なのかを宣言したものといえるでしょう。

 

まとめますと、

『日蓮は爾前権教の仏像世界から妙法の世界へと多くの人々を導く過程では「衆生の機」を重んじて法華経の教主釈尊を強調し、正法受持と同時に一部門下の仏像造立を讃嘆。自らも釈尊像を奉安することにより、諸仏・諸菩薩・諸神によるのではなく釈尊に還り、その本懐である法華経受持を促す。

一方では、大集経の「五五百歳・闘諍堅固・白法隠没」から、末法では釈尊の教えが滅してしまうことを十分に認識理解しており、門下の信仰理解を考慮し仏勅使、上行菩薩である記述を文の表に顕しながらも、実質的には「末法の教主」「末法の主師親三徳体現者」と読み解けるものが書簡(御書)の随所に見受けられる。

何よりも、日蓮の「末法の教主」「末法の主師親三徳体現者」を証明するものは、自らが発案し、自らの手で顕した曼荼羅を本尊として門下に授与し、成仏を約したことである。』

ということではないかと思います。

 

鎌倉時代の仏教界の様相、衆生の信仰と理解、日蓮の妙法弘通と法門展開、門下の信仰のかたち等々。これらを俯瞰するように総合的に見ていけば、一見矛盾のようなことも「実はそのような意味があったのか」と理解できるようになるのではないでしょうか。

 

2022.12.31