14 日蓮と日昭

【 御書に見える日昭の事跡 】

 

中尾堯氏の考察にある「鎌倉における日朗の法華堂」に関する日蓮在世の史料というものは目にしたことはありませんが、日昭の坊舎については御書に記述されています。

ここでは、中尾氏の言われる「日朗の法華堂」よりも日昭の法華伝道拠点の方がその存在は明らかであり、そこに奉安された曼荼羅には授与書きがあるという観点から、また日興の系統からはあまり知られていない日蓮と日昭の関係を解明する意味からも、日蓮が日昭に言及した書状と曼荼羅により両者の関わりを確認してみましょう。

 

 

    「弁殿御消息」 文永9(1272)726

不審有らば諍論無く書き付けて至らしむべし。

此の書は随分の秘書なり。已前の学問の時もいまだ存ぜられざる事、粗之を載す。他人の御聴聞なからん已前に御存知有るべし。総じてはこれより具して至らん人には、よりて法門御聴聞有るべし。互いに師弟と為らん歟。()弁殿・大進阿闍梨御房・三位殿

 

鎌倉の日蓮一門は「新尼御前御返事」に「かまくらにも御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて」とあるように、文永8(1271)の法難で退転する者が多く、留まった者も所領・家宅の没収などで一門は衰微したのですが、文永9(1272)2月の二月騒動(自界叛逆難の現実化)を経て復興されつつあったようです。

文永9(1272)726日、鎌倉で活動を展開していた日昭・大進阿闍梨・三位房の3名に宛てて、佐渡の日蓮は「随分の秘書」を送りました。「開目抄」以降の、その法門書がどのようなものであったかは不明ですが、これにより3名が鎌倉一門の中核であったことが分かります。日蓮は「随分の秘書」に不審点があるならば、不要な議論をせずに聞きたいことを書きつけて佐渡に送るよう指示。また、その書の内容は今まで学んだことのないものであり、あなた方3名が互いに師弟となり法門を研鑽すべきである、と教導しています。

 

大進阿闍梨については「真間釈迦仏御供養逐状」に、「御所領の堂の事等は、大進の阿闍梨がきゝて候。」とあるのが初見でしょうか。「五人土籠御書」には、「大進阿闍梨はこれにさたすべき事かたかたあり。又をのをの(各々)の御身の上をもみはてさせんがれう(料)にとゞ()めを()くなり。」とあります。大進阿闍梨は鎌倉でやるべき種々のことがあり、日朗らの身が今後どのようになるかも見定めなければならないので鎌倉に留め置く、としており、門下を見守るべき導師的立場であったことが窺われます。

 

 

    「妙一尼御返事」 文永10(1273)426

弁殿は今年は鎌倉に住し衆生を教化する歟。

⇒日蓮は、今年は日昭が鎌倉に住み続けて、衆生を教化する=弟子檀越を教導することを妙一尼に伝えています。

 

 

    「波木井三郎殿御返事」 文永10(1273)83

鎌倉に筑後房、弁阿闍梨、大進阿闍梨と申す小僧等之あり。之を召して御尊び有る可し、御談義有る可し。大事の法門等粗申す。彼等は日本に未だ流布せざる大法少々之を有す。随つて御学問注し申す可き也。

 

 

    「弁殿御前御書」 文永10(1273)919

しげければとどむ。弁殿に申す。大師講をおこなうべし。大師と(取)てまいらせて候。三郎左衛門の尉殿に候文の中に涅槃経の後分二巻・文句五の本末・授決集の抄の上巻等、御随身あるべし。

 

 

    「弁殿御消息」 建治2(1276)721

たきわう(滝王)をば、いえふく(家葺)べきよし候けるとて、まか(退)るべきよし申し候へば、つかわし候。

 

(妙一尼の配慮により、佐渡在島中から)日蓮のもとで仕えていた滝王丸を、屋根葺きのために、身延より鎌倉の日昭のところへ向かわせたことが記されています。それは日昭の房舎、または妙一尼の家屋のことでしょうか。文面からはどちらともいえないと思われます。

 

 

    「兵衛志殿御返事」 建治3(1277)1120

かたがたのもの、ふ(夫)二人をもつて、をくりたびて候。その心ざし弁殿の御ふみに申すげに候。

 

 

    弘安元年[1278](或いは弘安3[1280])1020日、日蓮は日朗と池上宗仲に対して書状(両人御中御書)を発しました。そこには、

「故大進阿闍梨の坊は~べん(弁)の阿闍梨にゆづられて候よしうけ給はり候ひき」

「大国阿闍梨・大夫志殿の御計らひとして弁の阿闍梨の坊へこぼ(毀)ちわたさせ給ひ候へ。」

「弁の阿闍梨の坊をすり(修理)して、ひろ(広)く、もら(漏)ずば、諸人の御ために御たからにてこそ候はんずらむめ」

「このふみ(文書)ついて両三日が内に事切て」

とあって、鎌倉在住の弟子・大進阿闍梨は「自らの亡き後の房舎は日昭に譲渡する旨の譲り状」を残していたが、大進阿闍梨が死去した後も房舎は無住のままで、事後処理をしていないのはどういうことかと日朗・池上宗仲に指摘。直ちに房舎を解体して、その材木で日昭の房舎の増築修理をするように、と指示しています。

尚、鎌倉の大進阿闍梨が亡くなった時期については、山上弘道氏の論考「四條金吾領地回復を伝える諸遺文の系年再考」(興風23P597)で、「弘安元年の78月頃」と推定されており、「両人御中御書」の系年も「弘安元年1020日とするのが妥当」とされています。

 

 

⑧「王日殿御返事」 弘安3(1280)

弁の房の便宜に三百文、今度二百文給了んぬ。

 

 

このように、日昭は師の佐渡配流中、法華勧奨の現場に立ち檀越の教導に当たって、壊滅状態だった鎌倉の日蓮一門を再興し、天台大師講を行っています。そこには日朗、大進阿闍梨も共にあったようです。日昭は門下の近況を身延の日蓮に報告、供養の取り次ぎもしていて、鎌倉界隈の門下の導師としての存在でありました。

日昭は建治2(1276)4月に曼荼羅37通称・祈祷御本尊(133.4×98.5㎝ 8枚継ぎ)を日蓮から授与され、弘安3(1280)11月にも曼荼羅101通称・伝法御本尊(197.6×108.8㎝、12枚継ぎ)を授与されており、これら本尊と御書の記述を合わせ考えると、鎌倉日蓮一門の重鎮、師匠の補処としての日昭というものがうかがわれ、鎌倉のいずれかの地に大幅の曼荼羅を奉掲できる相応の房舎を構えていたことも確認されるのです。

 

 

【 「釈子」と「伝之」について 】

日蓮と日昭の関係において、特に注目すべきは弘安311月の「伝法御本尊」の授与書きに、「釈子日昭伝之」と表現されたことだと思われます。以下、日蓮の著作者としての署名、「撰号」の冠詞の変化を確認してみましょう。

 

 

・系年が文応年間(12601261)とされる「三部経肝心要文」(真蹟16)では、題名の下に「天台沙門日蓮」と記しています。尚、山中喜八氏は、「建長の末(12551256)に書かれたもの」と推定されています。(「日蓮聖人真蹟の世界・下」P225)

 

 

・筆跡より日興写本とされる「立正安国論」では、題号の次下に「天台沙門日蓮勘之」の署名があります。他に「天台沙門日蓮勘之」と記したものには日高写本、日祐写本、日弁写本があります。

 

 

・文永3(1266)の「法華経題目抄」では、本文冒頭に「根本大師門人 日蓮 撰」と記します。

 

 

・系年が佐渡期と推測される「顕謗法抄」では、冒頭「本朝沙門 日蓮撰」と変化しています。

 

 

・系年、文永9(1272)とされる「祈禱抄」にも、冒頭「本朝沙門 日蓮 撰」とあります。

 

 

・文永10(1273)425日の「観心本尊抄」でも、冒頭「本朝沙門 日蓮撰」とします。

 

 

・文永11(1274)524日の「法華取要抄」では、冒頭「扶桑沙門 日蓮 述之」と記します。

 

 

・建治元年(1275)6月の「撰時抄」になると、冒頭「釈子 日蓮 述」と、「釈子」を冠するようになります。

 

 

日蓮の法華勧奨の展開、度重なる受難と宗教的新境地の開拓とともに、天台沙門・根本大師門人から本朝沙門へ、続いて扶桑沙門から釈子日蓮へと至ったのではないでしょうか。この「釈子」には、身命に及ぶ受難を経て法華経最第一を証明した法華経の行者であること、教主釈尊に導かれ包まれた正統にして正当の仏弟子であること、そして次なる蒙古襲来を前にして釈尊に直参する正統の仏教者から末法の教主として国難の矢面に立とうとする自覚と覚悟等、これらを包摂した万感の思いが込められているのではないでしょうか。

 

日蓮は「釈子」を「我れ一人だけのもの」とはせず弟子にも冠するのですが、現存・曽存の図顕曼荼羅から「釈子」を冠されたことが確認できるのは、上記「伝法御本尊」を含めて3幅、即ち3名だけのようです。

 

・曼荼羅60

弘安二年太才己卯二月 日・釈子日目授与之・94.9×52.7㎝ 3枚継ぎ

 

・中山法華経寺に曽存した弘安26月曼荼羅

弘安二年太才己卯六月 日・釈子日家授与之・104.5×57.0㎝ 3枚継ぎ

「日等臨写本・日蓮聖人真蹟の形態と伝来」(P5197)、「日蓮聖人真蹟の世界・上」(P254255)による。

 

弘安2(1279)2月に日目、弘安2(1279)6月に日家、弘安3(1280)11月に日昭、この3名に日蓮は授与曼荼羅によって「釈子」を冠しており、日目、日家、日昭をいかに評価していたか、3名に他とは異なる格別の信頼、期待をよせていたことが理解されます。

更に細かい点ですが、日目には「釈子日目授与之」、日家には「釈子日家授与之」、日昭には「釈子日昭伝之」とあり、日目・日家の「授与之」は他の曼荼羅と同じく通常の如く記されるものであるのに対し、日昭授与の曼荼羅に「伝之」とあるのは管見の限り図顕曼荼羅中ではこの1幅だけで、そこに込められた日蓮の意を読み取ることが必要になると思われます。

 

「之を授与す」は被授与者に曼荼羅を授け与える、ということですが、「之を伝う」だと曼荼羅に顕された師匠の法華経信仰世界をそのまま被授与者に伝える、師より伝えられたということはそれを未来にも伝えよ、との意が込められているのではないでしょうか。即ち、「日蓮が法門」を継承し、未来に伝えるべき導師として日昭に重きを置いた表現ではないかと考えるのです。

 

もちろん、弘安5(1282)10月の「宗祖御遷化記録」に見られるように、六老僧は「一弟子」です。と同時に、日昭は日蓮の法華伝道初期よりの弟子であり、他の5人の先達として経験と年齢からも一門の指南役、長老的存在であったと思われ、鎌倉一門を再建した功ある導師として師匠から期待されていた証が「釈子日昭伝之」ではないでしょうか。

 

尚、日朗の房舎については、「日蓮攷」(P115 2008 山喜房仏書林)での高木豊氏の教示によれば、日像への書状に「持仏堂ノ障子五間之唐紙当用ニ候」(与肥後殿書・日蓮宗宗学全書6上聖部P29)とあること、正和5(1316)106日付けの僧某両名の請取状に「比企谷の御坊」(大田区史・資料編寺社2 P114)とあること、別の日朗書状に「オモヒカゲ候ハズ鎌倉ヤケ候テ御処モヤケ候テ経論聖教モ皆焼失、オモフバカリモナク存候」(与肥後殿書・日蓮宗宗学全書P28)とあることから、その存在をうかがい知れるのは日蓮滅後になるようです。

 

日朗所有の坊舎が今日の鎌倉比企谷妙本寺になったとされていますが、高木氏は妙本寺の寺号の初出については、池上本門寺・妙本寺3代である日輪の無年次閏719日付けの「寺主上人」(京都妙顕寺2代・大覚)宛ての書状に見えるのが最も早く、同書の系年を延文2(1357)と推定され、妙本寺の寺号は同年以前から用いられていた、とされています(日蓮攷P115)

 

 

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