日蓮の夢~いつも他国侵逼難を憂える

 

日蓮法華の信仰者がいつも国際情勢や戦争のこと、日本の防衛などを語り、書くのには意味があります。

 

⇒導師である日蓮が「いつも国際情勢や戦争のこと、日本の防衛を考えていた」からです。

「立正安国論」を以て北条時頼を諫めてからの日蓮の思考には、絶えず「自界叛逆難[じかいほんぎゃくなん](国内の内乱)」「他国侵逼難[たこくしんぴつなん](外国勢力の日本侵略)」があり、遺文中の随所に記述しています。

 

系年が佐渡配流の翌年・文永9(1272)とされ(立正安国会刊『日蓮大聖人御真蹟対照録』による)1024日に蒙古との合戦に関する夢想を記した「夢想御書」には以下のようにあります。

 

 

「夢想御書」真蹟2行完・静岡県三島市玉沢 妙法華寺蔵

(定本1-111P660、平成校定1-114P712、平成新編P617)

文永九年太才壬申十月廿四日 夜夢想ニ云ク、来年正月九日

蒙古 為治罰月相国大小可向等云云

 

意訳

文永九年太才(たいさい)壬申(みずのえさる)十月廿四日(1024)、夜の夢想(むそう)に云はく、来年正月九日、蒙古は月相国(日本国か)治罰の為、大小向かふべし等云云。

 

 

文永8(1271)の法難の後に佐渡に流され、周囲が法敵だらけで我が身にいつ何が起きるかもしれない、また幕府から「日蓮を処刑せよ」との達しが来るかもしれないという過酷な状況下にあっても日蓮は明日の我が一身の事ではなく、「立正安国論」で警告した他国侵逼難が現実化して蒙古によって侵略されるであろう「日本国の将来のこと」を憂いていたのです。

 

「夢想御書」の読解には二つあり、

1 「蒙古が日本に攻め寄せる夢想」

2 「日本が蒙古に攻め込む夢想」

というもので、両者の解釈は真逆なものとなっています。

 

1 菅原関道氏の論考「日興本『立正安国論』と紙背文書』(興風」20P182)より

「日蓮が文永九年十月二十四日夜に見た『来年正月九日、蒙古は月相国を治罰するため大小の軍勢を向かわせるだろう』という夢想と思われる。書かれたのは二十四日からそう遠くない頃であろう」

 

2 「日蓮聖人遺文辞典・歴史編」P1115より

「来年正月九日、蒙古国治罰のために相模から大小の軍勢が向かうであろうとの文永九年十月二十四日の夢想を書き記したもので、『立正安国論』に警告した他国侵逼難すなわち蒙古襲来の近いことを示唆している」

 

また、「夢想御書」は一弟子の日興が立正安国論を書写した「立正安国論写本・玉沢本」の紙背に二行で記述されており、他には涅槃経・摩訶止観輔行伝弘決・法華文句記要文の書き込みがされています。

 

日興による「立正安国論」の書写と「夢想御書」の記述はどちらが先に書かれたものかについても、

1 日興本「安国論」が先に書かれ、後に日蓮が「夢想御書」「要文」を記した

中山日親、辻善之助氏、片岡随喜氏、菅原関道氏

2 その逆の成立とする

高木豊氏

と二つに分かれています。

 

私としては以下のように考えます。

日蓮はかねてから他国侵逼難が近いことを警告しており、それは日蓮が訴えるところの法華経を信受しない謗法国・日本が治罰されることを意味するものでもある。日蓮の潜在意識は「他国侵逼難=外国勢力による日本侵略」である故に、その夢想もまた「来年正月九日、蒙古は月相国=日本を治罰するため大小の軍勢を向かわせる」というものではなかったろうか。(ただし、月相国を日本国とする用例が現在のところ見当たらない)

流刑地の佐渡の国での紙は大切なものであったから(参考・佐渡御書「佐渡国は紙候わぬ上」)、一弟子の日興に書写させて常時携帯していた「立正安国論」の紙背に、夢想の記憶を留めるために二行の文章=「夢想御書」を書き込んだものではないだろうか。

 

文永91024日の夢は文章化されて「夢想御書」として残りましたが、一々記述しなかった「同様の夢想」は何度もあったのではないでしょうか。

 

一閻浮提広宣流布・立正安国を期して天下泰平・国土安穏を願う仏教者であればこそ、国際情勢と国内の動向に敏感になり、経文に照らして自界叛逆難、続けて他国侵逼難を警告、国家と民の行く末を案じ続けた日蓮。

「立正安国論」をはじめとする遺文にはその心情が細かく記述されていますが、現代の国際情勢、実際に起きている国家間の戦争、また日本を取り巻く安全保障環境の悪化などを踏まえれば「日蓮が憂えたこと」は「現代の日蓮門下の憂いである」ともいえ、故に今日(こんにち)の日蓮法華信仰者は国際情勢や戦争のこと、日本の防衛などについて語り、書きゆかねばならないのではないでしょうか。

そこに「総じて、日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は、日蓮がごとくにし候え」(四菩薩造立抄・弘安2[1279]517)との教示通りの、「弟子の道」があると思うのです。

 

 

「立正安国論」 文応元年(1260)7月16日

詮ずるところ、天下泰平・国土安穏は君臣の楽うところ、土民の思うところなり。夫れ、国は法に依って昌え、法は人に因って貴し。国亡び人滅せば、仏を誰か崇むべき、法を誰か信ずべきや。まず国家を祈って、すべからく仏法を立つべし。

 

 

帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。しかるに、他方の賊来ってその国を侵逼し、自界叛逆してその地を掠領せば、あに驚かざらんや、あに騒がざらんや。国を失い家を滅ぼさば、いずれの所にか世を遁れん。汝、すべからく一身の安堵を思わば、まず四表の静謐を禱るべきものか。

 

 

「安国論御勘由来」 文永5年(1268)4月5日

また、その後、文永元年甲子七月五日、彗星東方に出で、余光大体一国等に及ぶ。これまた世始まってより已来無きところの凶瑞なり。内外典の学者も、その凶瑞の根源を知らず。予、いよいよ悲歎を増長す。しかるに、勘文を捧げてより已後九箇年を経て、今年後正月、大蒙古国の国書を見るに、日蓮が勘文に相叶うこと、あたかも符契のごとし。

 

 

「別当御房御返事」 文永後期

「大名を計るものは小恥にはじず」と申して、南無妙法蓮華経の七字を日本国にひろめ、震旦・高麗までも及ぶべきよしの大願をはらみて、その願の満ずべきしるしにや、大蒙古国の牒状しきりにありて、この国の人ごとの大いなる歎きとみえ候。日蓮また先よりこのことをかんがえたり。閻浮第一の高名なり。

 

 

「観心本尊抄」 文永10年(1273)4月25日

この釈に「闘諍の時」云々。今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。この時、地涌千界出現して、本門の釈尊は脇士と為りて一閻浮提第一の本尊この国に立つべし。月支・震旦にいまだこの本尊有さず。

 

 

「法華取要抄」 文永11年(1274)5月24日

我が門弟これを見て法華経を信用せよ。目を瞋らして鏡に向かえ。天瞋るは人に失有ればなり。二つの日並び出ずるは、一国に二りの国王並ぶ相なり。王と王との闘諍なり。星の日月を犯すは、臣の王を犯す相なり。日と日と競い出ずるは、四天下一同の諍論なり。明星並び出ずるは、太子と太子との諍論なり。

かくのごとく国土乱れて後に上行等の聖人出現し、本門の三つの法門これを建立し、一四天四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑いなきものか。

 

 

「新尼御前御返事」 文永12年(1275)2月16日

今この御本尊は、教主釈尊、五百塵点劫より心中におさめさせ給いて、世に出現せさせ給いても四十余年、その後また法華経の中にも、迹門はせすぎて宝塔品より事おこりて寿量品に説き顕し神力品・嘱累に事極まって候いしが、金色世界の文殊師利、兜史多天宮の弥勒菩薩、補陀落山の観世音、日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士、我も我もと望み給いしかども叶わず。これらは智慧いみじく才学ある人々とはひびけども、「いまだ日あさし。学も始めなり。末代の大難忍びがたかるべし。我五百塵点劫より大地の底にかくしおきたる真の弟子あり。これにゆずるべし」とて、上行菩薩等を涌出品に召し出ださせ給いて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆずらせ給いて、「あなかしこ、あなかしこ。我滅度して後、正法一千年、像法一千年に弘通すべからず。末法の始めに謗法の法師、一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくおどらん。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難ならびおこり、一閻浮提の人々、各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらん時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給わざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、この五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん。乃至、後生の大火炎を脱るべし」と、仏記しおかせ給いぬ。

 

 

「曽谷入道殿許御書」 文永12年(1275)3月10日

今、末法に入って二百二十余年、「我が法の中において闘諍言訟して白法隠没せん」の時に相当たれり。法華経の第七の薬王品に、教主釈尊、多宝仏とともに宿王華菩薩に語って云わく「我滅度して後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等にその便りを得しむることなかれ」。大集経の文をもってこれを案ずるに、前の四箇度の五百年は、仏の記文のごとく既に符合せしめ了わんぬ。第五の五百歳の一事、あに唐捐ならん。したがって、当世の為体、大日本国と大蒙古国と闘諍合戦す。第五の五百に相当たれるか。彼の大集経の文をもってこの法華経の文を惟うに、「後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して」の鳳詔、あに扶桑国にあらずや。

 

 

「撰時抄」 建治元年(1275)

文の心は、第五の五百歳の時、悪鬼の身に入る大僧等、国中に充満せん。その時に智人一人出現せん。彼の悪鬼の入る大僧等、時の王臣・万民等を語らって悪口・罵詈、杖木・瓦礫、流罪・死罪に行わん時、釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌の大菩薩らに仰せつけば、大菩薩は梵帝・日月・四天等に申しくだされ、その時、天変地夭盛んなるべし。国主等そのいさめを用いずば、隣国におおせつけて彼々の国々の悪王・悪比丘等をせめらるるならば、前代未聞の大闘諍、一閻浮提に起こるべし。その時、日月の照らすところの四天下の一切衆生、あるいは国をおしみ、あるいは身をおしむゆえに、一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば、彼のにくみつる一りの小僧を信じて、無量の大僧等・八万の大王等・一切の万民、皆、頭を地につけ掌を合わせて、一同に南無妙法蓮華経ととなうべし。例せば、神力品の十神力の時、十方世界の一切衆生、一人もなく娑婆世界に向かって大音声をはなちて、「南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」と一同にさけびしがごとし。

 

 

今、末法に入って二百余歳、大集経の「我が法の中において闘諍言訟して白法隠没せん」の時にあたれり。仏語まことならば、定めて一閻浮提に闘諍起こるべき時節なり。伝え聞く、漢土は三百六十箇国二百六十余州はすでに蒙古国に打ちやぶられぬ。華洛すでにやぶられて、徽宗・欽宗の両帝、北蕃にいけどりにせられて、韃靼にして終にかくれさせ給いぬ。徽宗の孫・高宗皇帝は、長安をせめおとされて、田舎の臨安行在府におちさせ給いて、今に数年が間京を見ず。高麗六百余国も新羅・百済等の諸国等も、皆、大蒙古国の皇帝にせめられぬ。今の日本国の壱岐・対馬ならびに九国のごとし。闘諍堅固の仏語、地に堕ちず。あたかも、これ大海のしおの時をたがえざるがごとし。

 

 

これらの大謗法の根源をただす日蓮にあだをなせば、天神もおしみ、地祇もいからせ給いて、災夭も大いに起こるなり。されば心うべし。一閻浮提第一の大事を申すゆえに、最第一の瑞相これおこれり。

あわれなるかなや、なげかしきかなや、日本国の人、皆無間大城に堕ちんことよ。悦ばしきかなや、楽しきかなや、不肖の身として今度心田に仏種をうえたる。

いまにしもみよ。大蒙古国、す万艘(すうまんそう=数万の船)の兵船をうかべて日本国をせ(攻)めば、上一人より下万民にいたるまで、一切の仏寺、一切の神寺をばなげすてて、各々声をつるべて「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱え、掌を合わせて「たすけ給え、日蓮の御房、日蓮の御房」とさけび候わんずるにや。

 

 

「神国王御書」 建治元年(1275)

日月を射奉る修羅は、その矢還って我が眼に立ち、師子王を吼うる狗犬は、我が腹をやぶる。釈子を殺せし波琉璃王は、水中の中の大火に入り、仏の御身より血を出だせし提婆達多は、現身に阿鼻の炎を感ぜり。金銅の釈尊をやきし守屋は、四天王の矢にあたり、東大寺・興福寺を焼きし清盛入道は、現身にその身もうる病をうけにき。彼らは皆大事なれども、日蓮がことに合わすれば小事なり。小事すら、なおしるしあり。大事、いかでか現罰なからん。

悦ばしいかな、経文に任せて五の五百歳広宣流布をまつ。悲しいかな、闘諍堅固の時に当たって、この国修羅道となるべし。

 

 

「光日房御書」 建治2年(1276)3月

同じき四月八日に平左衛門尉に見参す。本よりごせしことなれば、日本国のほろびんを助けんがために三度いさめんに御用いなくば山林にまじわるべきよし存ぜしゆえに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ。

 

 

「報恩抄」 建治2年(1276)7月21日

去ぬる文永八年九月十二日、平左衛門ならびに数百人に向かって云わく「日蓮は日本国のはしらなり。日蓮を失うほどならば、日本国のはしらをたおすになりぬ」等云々。この経文に、智人を国主等、もしは悪僧等がざんげん(讒言)により、もしは諸人の悪口によって失にあつるならば、にわかにいくさ(戦)おこり、また大風ふかせ、他国よりせむべし等云々。去ぬる文永九年二月のどしいくさ、同じき十一年の四月の大風、同じき十月に大蒙古の来りしは、ひとえに日蓮がゆえにあらずや。いおうや、前よりこれをかんがえたり。誰の人か疑うべき。

 

 

「種々御振舞御書」 建治2年(1276)

去ぬる文永五年後正月十八日、西戎・大蒙古国より日本国をおそうべきよし、牒状をわたす。日蓮が去ぬる文応元年太歳庚申に勘えたりし立正安国論、今すこしもたがわず符合しぬ。この書は白楽天が楽府にも越え、仏の未来記にもおとらず。末代の不思議、なに事かこれにすぎん。賢王・聖主の御世ならば、日本第一の勧賞にもおこなわれ、現身に大師号もあるべし。定めて御たずねありて、いくさの僉義をもいいあわせ、調伏なんども申しつけられぬらんとおもいしに、その義なかりしかば、その年の末十月に十一通の状をかきて、かたがたへおどろかし申す。

 

 

さては十二日の夜、武蔵守殿のあずかりにて、夜半に及び頸を切らんがために鎌倉をいでしに、わかみやこうじ(若宮小路)にうちいでて、四方に兵のうちつつみてありしかども、日蓮云わく「各々さわがせ給うな。べちのことはなし。八幡大菩薩に最後に申すべきことあり」とて、馬よりさしおりて高声に申すよう、「いかに八幡大菩薩はまことの神か。和気清丸が頸を刎ねられんとせし時は、長一丈の月と顕れさせ給い、伝教大師の法華経をこうぜさせ給いし時は、むらさきの袈裟を御布施にさずけさせ給いき。今、日蓮は日本第一の法華経の行者なり。その上、身に一分のあやまちなし。日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城におつべきをたすけんがために申す法門なり。また、大蒙古国よりこの国をせむるならば、天照太神・正八幡とても安穏におわすべきか。その上、釈迦仏、法華経を説き給いしかば、多宝仏・十方の諸の仏菩薩あつまりて、日と日と、月と月と、星と星と、鏡と鏡とをならべたるがごとくなりし時、無量の諸天ならびに天竺・漢土・日本国等の善神・聖人あつまりたりし時、『各々、法華経の行者におろかなるまじき由の誓状まいらせよ』とせめられしかば、一々に御誓状を立てられしぞかし。さるにては、日蓮が申すまでもなし。いそぎいそぎこそ誓状の宿願をとげさせ給うべきに、いかにこの処にはおちあわせ給わぬぞ」と、たかだかと申す。

 

 

「下山御消息」 建治3年(1277)6月

しかるに、去ぬる文永十一年二月に佐土国より召し返されて、同四月の八日に平金吾に対面してありし時、理不尽の御勘気の由、委細に申し含めぬ。また「恨むらくは、この国すでに他国に破れんことのあさましさよ」と歎き申せしかば、金吾が云わく「いずれの比か大蒙古は寄せ候べき」と問いしかば、「経文には分明に年月を指したることはなけれども、天の御気色を拝見し奉るに、もっての外にこの国を睨みさせ給うか。今年は一定寄せぬと覚う。もし寄するならば、一人も面を向かう者あるべからず。これまた天の責めなり。日蓮をばわどのばらが用いぬものなれば、力及ばず。あなかしこ、あなかしこ。真言師等に調伏行わせ給うべからず。もし行わするほどならば、いよいよ悪しかるべき」由、申し付けて、さて帰ってありしに、上下共に先のごとく用いざりげにある上、本より存知せり、「国恩を報ぜんがために三度までは諫暁すべし。用いずば、山林に身を隠さん」とおもいしなり。

 

 

「四十九院申状」 弘安元年(1278)3月

かつ、去ぬる文応年中、師匠・日蓮聖人、仏法の廃れたるを見、未来の災いを鑑み、諸経の文を勘えて、一巻の書〈立正安国論〉を造る。異国の来難、果たしてもって符合し畢わんぬ。未萌を知るは聖と謂うべきか。大覚世尊、霊山・虚空の二処三会、二門八年の間、三重の秘法を説き窮むといえども、仏の滅後二千二百三十余年の間、月氏の迦葉・阿難・竜樹・天親等の大論師、漢土の天台・妙楽、日本の伝教大師等、内にはこれを知るといえども、外にはこれを伝えず。第三の秘法、今に残すところなり。これひとえに、末法闘諍の始め、他国来難の刻み、一閻浮提の中に大合戦起こらんの時、国主この法を用いて兵乱に勝つべきの秘術なり。経文赫々たり、所説明々たり。彼といい、これといい、国のため、世のため、もっとも尋ね聞こしめさるべきものなり。

弘安元年三月 日 承賢、賢秀、日持、日興

 

 

「本尊問答抄」 弘安元年(1278)9月

日蓮がいさめを御用いなくて、真言の悪法をもって大蒙古を調伏せられば、日本国還って調伏せられなん。「還って本人に著きなん」と説けりと申すなり。しからば則ち、罰をもって利生を思うに、法華経にすぎたる仏になる大道はなかるべきなり。

 

 

「滝泉寺大衆陳状」 弘安2年(1279)10月

外書に云わく「未萌を知るは聖人なり」。内典に云わく「智人は起を知り、蛇は自ら蛇を知る」云々。これをもってこれを思うに、本師はあに聖人にあらずや。巧匠内に在り。国宝外に求むべからず。外書に云わく「隣国に聖人有るは敵国の憂いなり」云々。内経に云わく「国に聖人有れば、天必ず守護す」云々。外書に云わく「世に必ず聖智の君有り。しかしてまた賢明の臣有り」云々。この本文を見るに、聖人の国に在るは、日本国の大喜にして、蒙古国の大憂なり。諸竜を駆り催して敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取らん。君既に賢人に在さば、あに、聖人を用いずして、いたずらに他国の逼めを憂えん。

そもそも、大覚世尊、遥かに末法・闘諍堅固の時を鑑み、かくのごとき大難を対治すべきの秘術を説き置きたもうところの経文明々たり。しかりといえども、如来の滅後二千二百二十余年の間、身毒・尸那・扶桑等、一閻浮提の内にいまだ流布せず。したがって、四依の大士、内に鑑みて説かず。天台・伝教、しかも演べず。時いまだ至らざるの故なり。

法華経に云わく「後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布せん」云々。天台大師云わく「後の五百歳」、妙楽云わく「五の五百歳」、伝教大師云わく「代を語れば則ち像の終わり末の初め、地を尋ぬれば唐の東・羯の西、人を原ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時なり」云々。東勝西負の明文なり。

法主聖人、時を知り、国を知り、法を知り、機を知り、君のため、民のため、神のため、仏のため、災難を対治せらるべきの由勘え申すといえども、御信用無きの上、あまつさえ、謗法の人等の讒言によって、聖人、頭に疵を負い左手を打ち折らるるの上、両度遠流の責めを蒙り、門弟等所々に射殺され、切り殺され、殺害・刃傷・禁獄・流罪・打擲・擯出・罵詈等の大難、勝げて計うべからず。これに因って、大日本国、皆法華経の大怨敵と成り、万民ことごとく一闡提人となるの故に、天神は国を捨て地神は所を辞して天下静かならざるの由、ほぼ伝承するのあいだ、その仁にあらずといえども、愚案を顧みず言上せしむるところなり。外経に云わく「奸人朝に在らば、賢者進まず」云々。内経に云わく「法を壊る者を見て責めずんば、仏法の中の怨なり」云々。

 

 

「上行菩薩結要付嘱口伝」

今、末法に入って、仏の滅後二千二百二十余年に当たって、聖人出世す。これは大集経の闘諍言訟・白法隠没の時なり云々。

 

 

2023.8.14