8 貴紳衆庶の参詣

 

() 上皇・公家の参詣

 

熊野三山には白河上皇(10531129)9回、鳥羽上皇(11031156)21回、崇徳上皇(11191164)1回、後白河上皇(11271192)34回、後鳥羽上皇(11801239)28回、土御門上皇(11961231)2回、後嵯峨上皇(12201272)3回、亀山上皇(12491305)1回と、歴代上皇をはじめ貴族の参詣が続いた。善行を重ねるほどに熊野三所権現の功徳が増すという、「多数作善功徳信仰」が上皇らの熊野詣での回数に表れているようだ。特に熊野に34回参詣した、後白河上皇が撰した歌謡集「梁塵秘抄」(治承年間[11771181]成立)では、熊野に関する歌が多数載せられている。

 

 

 

「巻二 四句神歌 神分」

 

神の家の小公達は、八幡の若宮、熊野の若王子子守御前

 

比叡には山王十禅師、賀茂には片岡貴船の大明神

 

 

 

熊野へ参るには、紀路と伊勢路の何れ近し、どれ遠し、

 

広大慈悲の道なれば、紀路も伊勢路も遠からず

 

 

 

熊野へ参るには、何か苦しき 修行者よ、

 

安松姫松五葉松、千里の浜

 

 

 

熊野へ参らむと思へども、徒歩より参れば道遠し、すぐれて山峻(きび)し。

 

馬にて参れば苦行ならず、空より参らむ 羽賜(はねた)べ若王子

 

 

 

熊野の権現は、名草の浜にこそ降り給へ、

 

和歌の浦にしましませば、年はゆけども若王子

 

 

 

花の都を振りすてて、くれくれ参るは朧(おぼろ)けか、

 

且つは権現御覧ぜよ、青蓮の眼を鮮かに

 

 

 

「巻二 四句神歌 僧歌」

 

聖の住所は何処どこぞ、箕面よ勝尾よ。播磨なる、書写の山、

 

出雲の。鰐淵や。日の御崎、南は。熊野の。那智とかや

 

 

 

聖の住所は何処どこぞ、大峰葛城石の槌、

 

箕面よ勝尾よ 播磨の書写の山、南は熊野の那智新宮

 

 

 

大峰通るには、仏法修行する僧ゐたり、唯一人、

 

若や子守は頭を撫で給ひ、八大童子は身を護る

 

 

 

「巻二 雑 八十六首」

 

勝れて速き物、鷂(はいたか)(はやぶさ)手なる鷹、

 

滝の水、山より落ち来る柴車、三所五所に申す言

 

 

 

熊野の権現は、名草の浜にぞ降り給ふ、

 

海人(あま)の小舟に乗り給ひ 慈悲の袖をぞ垂れ給ふ、

 

 

 

「巻二 四句神歌 神社歌 熊野二首」

 

紀の国や牟婁の郡に坐(おは)します

 

熊野両所は結ぶ速玉

 

 

 

熊野出でて切目の山の梛(なぎ)の葉は

 

(よろず)の人の上被(うはぎ)なりけり

 

 

 

参詣者は潔斎の後、音無川を徒渉して中州にある本宮()へと向かう。これは、「熊野詣日記」に「これをぬれわら沓の入たうと申す」とあるように、「ぬれわらじの入堂」といわれた。証誠殿で家都美御子神を拝し、奉幣・経供養を行いある者は現世安穏、後生善処、ある者は極楽往生を願った。本宮の後は熊野川を船で下って新宮へ、続いて那智に参詣、三所の近傍に祀られた神々も巡拝した。

 

特に歴代上皇の参詣では、山内の僧侶を集めて経供養導師のもと経典を転読せしめて一切経、金泥大般若経、五部大乗経、金泥一切経等の供養が行われ、更に写経の奉納、千僧供養も行われていて、「いほぬし」の記事と合わせ見ると、その態様は仏教式であったといえると思う。

 

 

() 本地仏の設定

 

 

平安中期の文人・儒学者である慶滋保胤(よししげのやすたね)は、寛和年間(985987)に「日本往生極楽記」を編纂。その冒頭には、次のようにある。

 

 

 

(われ)少き日より弥陀仏を念じ、行年四十より以降(このかた)、その志いよいよ劇(いそがは)し。口に名号を唱へ、心に相好を観ぜり。行住坐臥暫くも忘れず、造次顚沛(さうしてんはい)必ずこれにおいてせり。それ堂舎塔廟に、弥陀の像あり、浄土の図あるをば、敬礼せざることなし。道俗男女の、極楽に志あり、往生を願ふことある者には、結縁せざることなし。経論疏記に、その功徳を説き、その因縁を述ぶるものをば、披閲せざることなし。

 

 

 

保胤の阿弥陀仏への厚い信仰が伝わってくる記述だが、これより20年程前の応和4(964)、彼は大学寮紀伝道の学生、天台僧と共に、念仏結社ともいうべき「勧学会」を始めている。そこで行われたのは、保胤の記すところでは、「方今、一切衆生をして諸仏知見に入らしむるは、法華経より先なるはなし。故に心を起し合掌して、その句偈を講ず。無量の罪障を滅して極楽世界に生ずるは、弥陀仏に勝るものなし。故に口を開き声を揚げて、その名号を唱ふ」()というもので、天台浄土教の法華と念仏の併修信仰であった。

 

「法華経こそが一切衆生を諸仏知見に入らしめ、念仏により極楽世界に生ずる」との信仰は、「朝・題目、夕・念仏」という言葉に示されるように、当時の貴族、知識層に広まっていた。このような、法華経により現世の知恵を得、往生を期して阿弥陀信仰に励み極楽浄土への憧れを抱いた者が遠路・難路を越えて熊野に詣でれば、そこでは自らの信仰が投影されようし、また受け入れる側もその「願い」と「求め」に応えたものを用意することになる。

 

 

 

永観2(984)冬に成立した「三宝絵詞」では、「此の山の本神」である家都美御子神は「証誠一所と名づけ」られ、熊野の神々に本地仏が設定される萌芽がみられた。

 

「扶桑略記」永保2(1082)1017日条には、「十七日甲子。熊野山犯来大衆三百余人。荷負新宮那智御躰御輿。来集粟田山。暫安御輿於其山口。大衆参入公門。訴尾張国館人殺大衆等之状也。」とあり、熊野大衆が新宮・那智の神輿を奉じて上洛したことが記されている。この記述は「那智」の史料上の初見とされ、強訴で神輿を動座した初例()ともされる。

 

熊野別当が神領の押領を訴えた永保3(1083)94日の「熊野本宮別当三綱大衆等解」には「三所権現の護持」とあって、この頃には、三山が共通して権現を祭る「熊野三所権現」が成立していたと考えられる。また、「権現」とあることから、永保年間には熊野の地は神仏が習合し、本地垂迹説により神が語られていたことが推測される。

 

鳥羽上皇の熊野御幸が回を重ねる頃には熊野三山の神々の本地仏が定まり、「長秋記」長承3(1134)21日条には、「熊野十二所権現」の本地が書き留められている。鳥羽上皇と待賢門院璋子(11011145)の熊野参詣に同行した源師時(10771136)は、熊野三所権現の本地仏を先達に問い、その答えとして「丞相(証誠殿・本宮)の和命家津王子」は「阿弥陀仏」、「中宮(新宮)の早玉明神」は「薬師如来」、「西宮(那智)の結宮」は「千手観音」と回答されている。

 

 

 

「長秋記」

 

今夜、以便宜奏請云、鳥羽御堂用木瓦如何、仰云、可然者、招先達、間護明本地、

 

丞相、 和命家津王子、 法形阿弥陀仏

 

両所、 西宮結宮、女形、 本地千手観音

 

中宮、 早玉明神、俗形、 本地薬師如来

 

已上三所

 

若宮、女形、 本地十一面

 

禅師宮、俗形、 本地地蔵菩薩

 

聖宮、法形、 本地龍樹菩薩

 

児宮、 本地如意輪観音

 

子守、 正観音

 

已上五所王子

 

一万普賢、十万文殊、勧請十五所、釈迦、飛行夜叉、不動尊、米持金剛童子、毗沙門天、礼殿守護金剛童子・・・也、

 

 

 

平安後期には、熊野の神々は本地仏が仮の姿をとり現れたもの、即ち本地垂迹説で語られるようになり、本宮は阿弥陀如来の西方浄土、新宮は薬師如来の東方瑠璃浄土、那智は観音菩薩の補陀落浄土とされ、熊野の地は「山中他界」であると同時に、仏・菩薩の浄土と観念されるようになっていた。この信仰は、時代を重ねるごとに強まり、室町期の「熊野山略記」(永享2年・1430)にも「証誠大菩薩家津美尊者、本地無量寿仏垂迹也」「西御前 結宮者、本地千手千眼観自在尊垂迹也」「中権現早玉の宮者、本地薬師如来垂迹也」()と記されている。

 

本地仏が定められたということは、社殿にその像が造立されたということでもある。和歌山県岩出市の真言宗豊山派・遍照寺には木造弘法大師坐像があり、国の重要文化財に指定されている。坐像の胎内背面から発見された墨書銘には「熊野三御山大仏師良円 永仁二年甲午十月三日 奉造進之而已」と書かれていて、永仁2(1294)頃、熊野三山の仏像を造立していた仏師の存在が確認される。()

 

 

() 熊野信仰の心

 

 

ここで、熊野に参詣した古の人々の心に思いをはせてみよう。

 

11世紀中頃には設立した「いほぬし」の著者・増基法師は、熊野へと向かうにいたった心境を歌人らしく記している。

 

「いつばかりのことにかありけむ。世を逃れて、心のままにあらむと思ひて、世の中に聞きと聞く所々、をかしきを尋ねて心をやり、かつは尊き所どころ拝み奉り、わが身の罪をも滅ぼさむとする人有りけり。いほぬしとぞいひける。」

 

俗世を離れ自らの心のままにあろうと思い、世の中に伝えられる名所、趣のある所をたずねて我が心を解き放ち慰め、また聖地・霊場をめぐり拝してわが身の罪障を滅却させよう、とした増基がたずねたのが熊野だった。ここに当時の人々が熊野へと向かった「思い」と「願い」の一端が表現されていると思われ、それは「心の解放・慰め」であり、「滅罪と生善」ではなかったろうか。

 

 

 

天仁2(1109)1026日、本宮・証誠殿に参拝した藤原宗忠(11621241)は「今日、幸いにして参詣の大望を遂げ、証誠殿の御前に参る。落涙抑え難く、随喜感悦せり。かくの如き事、定めて宿縁有るか。三種の大願成就するを知る。」と日記に記している(中右記)

 

建仁元年(1202)、藤原定家(11621241)は後鳥羽上皇の熊野参詣に供奉し、その模様を日記(熊野道之間愚記)に記録している。1016日、「山川千里を過ぎ、遂に宝前に奉拝。感涙禁じ難し」と感激の中で本宮・証誠殿に参拝。17日には、「祈るところはただ、生死を出離し、臨終の正念なり」と書いている。

 

(熊野道之間愚記[又は後鳥羽院熊野御幸記とも]は定家の日記「明月記」からの抜抄)

 

 

 

「平家物語」にある、平維盛(11581184)が熊野の海で入水する前に三山を詣でた時の描写は、同書が成立した鎌倉期における「熊野信仰の心」を豊かに表したものではないかと思う。

 

「証誠殿の御まへについ居給ひつつ、しばらく法施参らせて、御山のやうををがみ給ふに、心も詞もおよばれず。大悲擁護の霞は熊野山にたなびき、霊験無双の神明は、音無河に跡をたる。一乗修行の岸には感応の月くまもなく、六根懺悔の庭には、妄想の露もむすばず。いづれもいづれもたのもしからずといふ事なし。」

 

「当山権現(本宮・証誠殿)は本地阿弥陀如来にてまします。摂取不捨の本願あやまたず、浄土へ引導き給へ」

 

「那知の御山に参り給ふ。三重に漲りおつる滝の水、数千丈までよぢのぼり、観音の霊像は岩の上にあらはれて、補陀落山共いっつべし。霞の底には法花読誦の声きこゆ、霊鷲山とも申しつべし」

 

 

 

承久の乱(承久3年・1221)の頃からは、北伊勢の藤原実重(生没年不詳)の「作善日記」に見られるように、地方武士に熊野信仰がひろまり多くが参詣した。永仁4(1296)頃に成立した歌謡集、「宴曲抄」上の「熊野参詣」には、遠路遥々難路を越えて、ようやくの思いで本宮の地に詣でた人々の喜びが、感性豊かにつづられている。

 

「山下に上を望めば、樹木枝を連ね、松柏(まつかしわ)(みどり)(かげ)(しげ)く、道は盤(つづら)に折れ、巌(いわ)は巓(てん)に通じて逆上(さかのぼ)る。登り登りては暫く休み、石岩の辺(ほとり)行々(ゆきゆき)ては、なお又、幽々(ゆうゆう)たりとかや。此の雲に埋(うず)む峯なれば、げに高原(たかはら)の末遠み。凝()り敷く岩根は大坂の、王子を過ぎて行く前(さき)も、はや近露にや成りぬらん。桧曽原(ひそはら)しげり木の下に、木は枯れ寒く雪散れば、花かと紛(まが)ふ継桜(つきさくら)。岩神・湯の河はるばると、御輿を越えて傍伝(そばづた)ひ、閑谷(かんこく)人、稀(まれ)なり。鳥の一声、汀(なぎさ)の氷、峯の雪、物ごとに寂しき色なれや。

 

嬉しきかなや仰ぎ見て、是(これ)ぞ発心の、門と聞けば、水よりいとど濁りなく。心の内の水のみぞ、げに澄まさりて底清く、あらゆる罪も祓う殿。御前の川は音無の、浪(なみ)静かなる流れなればかや。」

 

 

 

平安から鎌倉、南北朝、そして室町時代に至るまで、多くの貴紳衆庶が熊野・那智に参拝した時は、神を拝しながらも仏を念じる心が強かったのではないだろうか。室町時代の「熊野詣日記」(応永34年・1427)では、熊野本宮を以下のように描写している。

 

「御社の躰たらくをおか()みたてまつ()るに、いまさら心もこと()葉におよハす(及ばず)、この土ハこれ花蔵の世界なり、証誠大菩薩の御本にいた()りぬるは、すみやかに九品のうてな()にむ()まれたり、十万億土をほかに求へからす、十二所の御本地各々の誓願をおも()ふに、いつれもたのもしからすといふ事なし。」

 

 

 

熊野本宮の様は心も言葉もつくせぬもので、それは「花蔵の世界」即ち阿弥陀仏のまします蓮華蔵世界であり浄土そのものであった。本宮で証誠大菩薩を拝すればすみやかに往生し、九品の蓮の葉の台に生まれるのであり、十万億土を他所に求めてはいけない。熊野十二所権現の本地の誓願はいずれも頼もしいものである、としている。訪れる人にとって、都のかなたにある熊野本宮は、現世の極楽浄土であった。

 

 

()  五十六億七千万年の未来

 

 

貴紳衆庶が身を粉にして詣でた熊野・那智はまた、埋経の聖地でもあった。「那智山瀧本金経門(きんけいもん)縁起」は「大治五年(1130)九月六日 沙門行誉」の奥書を持ち、それを書き写した写本が、那智山瀧本の役職持ちであった旧大蔵坊の家系に伝来している。写本には年紀として、「明暦弐年(1656) 丙申 雪月六日書写 那智山瀧本衆中」と記されている。

 

「那智山瀧本金経門縁起」は沙門・行誉が作成したもので、それによると、比叡山・飯室で出家した沙門・行誉は諸国を巡錫して修行を重ね、満30の年の大治2(1127)、那智山に参籠。金泥大般若経・法華経・最勝王経・五種陀羅尼等を書写口誦し、後世に伝えることを誓願する。常修三昧行・常坐三昧行・三時懺法等を修し度々、霊夢を感じている。ある時、王冠をつけ一丈許の梅枝を持った神人を見てその加護を受けて滝上に真金を得たという。

 

永誉・念覚ら、同法知識の助成で熊野三所権現の御正体、金剛界三十七尊、八供養具等を鋳造。続けて69千人の結縁者を募り、法華経、金泥大般若経、最勝王経、五種陀羅尼、仁王経等八百数十巻を書写し、大治5(1130)926日、那智瀧本の岩窟内に奉納したという。「縁起」に記された目録の名称・寸法と、経塚から出土した遺物のうち六寸大日如来、五寸四仏・四菩薩等が照合されている。

 

那智四十八滝と呼ばれ60余の滝がある那智山は、役小角が「第一の霊場と定め」千日行を遂げ、奈良時代より一部僧侶、優婆塞の山林修行、滝籠行の場であったと伝承されている。那智滝の麓、金経門と呼ばれる周辺では大正7(1918)3回、昭和5(1930)2回にわたって経塚遺物が多数発見され、その内容も仏像、鏡像、懸仏、立体曼荼羅壇の品、仏具、経筒、鏡、利器、合子、大壺、古銭、小塔等、多彩なもので、二百数十点に達している。仏像は観音像と目されるものが多く、平安後期の像が大半だが、飛鳥時代の光背残欠、白鳳時代の観音像、十一面観音像、弥勒菩薩像、奈良時代の聖観音像、薬師像、観音像、槌出仏、鋳出薬師像もある。このことから、先に見た「日本霊異記」の法華経の持経者が、熊野の地で山林修行、民衆教化、病者救済の活動を8世紀から行っていたことを踏まえて、那智滝では奈良時代から仏像等を埋納していた、との指摘がある。

 

だが、これについては寛弘4(1007)、藤原道長(9661028)が吉野の金峯山に自らの紺紙金泥の経巻を経筒に納めて埋納したのが、平安後期における、諸国での経塚造営のはじまりとされており、那智経塚の飛鳥・白鳳・奈良時代の仏像も道長の時代以降、那智での埋経が盛んになる中で持ち込まれたものではないだろうか。とくに那智山は、観音菩薩のいます補陀落浄土と喧伝されたことから多くの道俗が那智滝本に観音菩薩を埋納し、当時の諸国での埋経者がそうであったように、釈迦滅後五十六億七千万年後の弥勒菩薩の出現まで伝えるべく、経典の埋納を行い、遠き未来に思いをはせたのだろう。

 

行誉に続き、保元元年(1156)には、僧・願西が信濃国、美濃国の信者に如法経八部を書写させて、那智山の滝本におさめている。

                    那智の滝
                    那智の滝

 

() 大海のかなたへ

 

 

熊野・那智の地に仏像・経典を埋めながら未来へ託した一方、那智の浜では二度と戻らない大海への船出をする人がいた。補陀落渡海である。

 

「吾妻鏡」天福元年(1233)527日条には、同年37日、日夜法華経を読誦していた智定坊が、那智の浜より補陀落山に向けて渡海したことを載せている。

 

 

 

武州御所に参り給う。一封の状を帯し御前に披覧せらる。

 

申せしめ給いて曰く、去る三月七日、熊野那智浦より、補陀落山に渡る者有り。智定房と号す。これ下河辺六郎行秀法師なり。故右大将家下野の国那須野の御狩の時、大鹿一頭勢子の内に臥す。幕下殊なる射手を撰び、行秀を召出して射る可きの由仰せらる。仍って厳命に従ふと雖も、其の箭中(あた)らず、鹿勢子の外に走り出づ。小山四郎左衛門尉朝政射取り畢んぬ。仍って狩場に於いて出家を遂げて逐電し、行方を知らず。近年熊野山に在りて、日夜法華経を読誦するの由、伝へ聞くの処、結句此の企てに及ぶ。憐れむ可き事なりと云々。

 

而るに今、披覧せしめ給ふの状は、智定、同法に託して、武州に送り進ず可きの旨申し置く。紀伊の国糸我庄より之を執り進じて、今日到来す。在俗の時より出家遁世以後の事、悉く之を載す。周防前司親實之を読み申す。折節祇候の男女、之を聞きて感涙を降す。武州は昔弓馬の友たるの由、語り申さると云々。彼の乗船は、屋形に入るの後、外より釘を以て皆打ち付け、一扉も無く、日月の光を観るも能わず。只だ燈に憑()る可し。三十箇日の程の食物並びに油等、僅かに用意すと云々。

 

 

 

意訳

 

天福元年5月、北条泰時(11831242)のもとに紀伊国糸我荘より一通の書状が届き、泰時は将軍・藤原頼経(12181256)の前で周防前司親実に読み上げさせた。

 

37日、熊野那智の浜より補陀落山に向け渡海した智定房は、もとは下河辺六郎行秀という御家人であった。かつて下野国・那須野で行われた狩りの際、源頼朝より、勢子に取り囲まれた一頭の大鹿を射とめるよう厳命された。しかし、行秀が放った矢は命中せず大鹿は勢子の外に走り出してしまい、代わって小山四郎左衛門尉朝政の矢で討ち取ることができた。頼朝の前で失態を演じた行秀はその場で出家し、逐電。以後、行方不明となった。近年、行秀は智定坊と名乗り、熊野山で日夜、法華経を読誦していることを聞いていたが、結局は補陀落山への渡海に及んだという。まことに憐れむべきことである。

 

この書状は渡海前の智定坊が泰時に送り届けるよう同法に託したもので、紀伊の国糸我庄より今日、届いたものである。そこには在俗の時より出家遁世以後のことが、事細かく記されていた。周防前司親実が読み上げると、周囲の人々は感涙し、泰時は昔、行秀とは弓馬の友であったと語り憐れんだという。

 

智定坊の乗船は屋形に入った後、外から釘を打ちつけられて一つの扉も無いものだった。そこには日月の光が入ることもなく、ただ、燈だけを頼りとした。三十日程の食料とわずかばかりの油を積んでいたという。

 

 

 

「熊野年代記」には、「清和(天皇) 貞観十() 戊子 十一月三日、慶龍上人補陀落に入」とあり、貞観10(868)以降、那智の海岸から補陀落浄土を目指して海へ出る補陀落渡海が始まっているようだが、平安から鎌倉時代にかけての、熊野・那智における法華経信仰と実践はどのようなものだったのか。それに対して後世にまで大きなインパクトを与える一つの解答として、滅罪経典として尽きつめたところの究極の行為、捨身行へと向かわせるものであったということがいえるのではないだろうか。その実例が永興のもとを訪れた法華経読誦僧の捨身であり、那智山・応照の喜見菩薩のごとき火定と、観音菩薩の補陀落浄土を目指した智定坊らの渡海だと思う。

 

 

() 三山の組織

 

 

白河上皇の熊野詣でにはじまる参詣者の増加に伴い、平安末期から鎌倉時代にかけて、熊野三山の運営に関する組織が整備されている。古文書より確認される役職名等を確認しておこう。

 

 

 

本宮

 

熊野御幸略記・熊野本宮別当三綱大衆等解  永保3(1083)94

 

通目代、都維那、寺主、在庁、惣目代、上座、検校、修理別当、別当、

 

 

 

熊野山政所下文  正治2(1200)5

 

三昧別当、権少別当、通目代、正権寺主、公文上座、修理正寺主房

 

 

 

新宮

 

中右記  天仁2(1109)1026日条

 

鳥居在庁

 

 

 

申状  正応3(1290)7

 

宮主

 

 

 

那智山

 

中右記  元永元年(1118)1015日条

 

上臈~明暹阿闍梨が務める

 

 

 

僧綱補任  天承元年(1131)

 

別当~長範が補任されている

 

 

 

初例抄・那智山僧綱例  仁平3(1153)216日条

 

一和尚~那智山常住の一和尚阿闍梨静誉が法橋に叙される

 

 

 

初例抄  元久元年(1204)

 

那智山検校~長厳のために設けられる

 

(12世紀後期より始まる那智山執行が、13世紀末から滝本執行と共に一山を統轄するようになる)

 

 

 

滝本執行長済譲状案  承久元年(1219)1018

 

滝本執行~この日の「滝本執行長済譲状案」が滝本執行の初出

 

 

 

権少僧都道覚紛失状  永仁6(1298)51

 

この日の「権少僧都道覚紛失状」には執行法眼覚賢、滝本執行法印幸意、法眼四人、権少僧都一人、権律師四人、在庁法眼祐承、在庁権律師道誉が署名

 

 

 

「那智山滝本事」(永享2[1430]の奥書)によれば、那智山は滝山参籠衆、陀羅尼衆、本山籠衆から成っており、滝山参籠衆の行法は裸形上人、役小角、伝教大師、弘法大師、智証大師、叡豪、範俊といった那智七先徳より伝えられたもの、とされていた。

 

 

 

鎌倉時代からは皇族・貴族以外にも各地の武士らの熊野三山参詣が増え、旅の案内や宿泊その他の世話を行う者を先達と呼ぶようになり、参詣者及び現地に行かず先達に供養を託す人は檀那と呼ばれた。一方、熊野の地で先達、檀那を迎え、祈祷・案内・宿泊の世話をする者は御師といった。御師と先達・檀那は師檀関係を結んだものとされたが、それは同時に御師の経済的基盤となることを意味し、鎌倉・室町期から戦国期にかけては先達単位、一族・一門単位、国・郡・村単位で譲渡、売買、担保の対象とされて御師間で取引されている。

 

 

 

旦那譲状

 

(端裏書)「大寂房譲状」

 

永譲渡處分事

 

証道房分

 

一、 三河国先達引檀那峯来寺別当丹波僧都并経有三位大僧都門弟引檀那等・野依一族等

 

一、 常陸国先達引檀那・同ミもりの助僧都門弟檀那等

 

一、 丹後国先達引檀那等

 

右於先達諸檀那等者、宗禅重代相伝處也、而証道房仁永所譲渡也、全不可有他人妨者也、仍為後日亀鏡譲状如件

 

観応貳辛卯年(1351)十二月十三日

 

阿闍梨祐宗 花押

 

執筆祐方 花押

 

権少僧都 宗禅 花押()

 

 

 

室町時代には、武士・庶民の参詣が「蟻の熊野詣で」と称されるほどに活発なものとなる一方、戦乱、飢饉、洪水、大地震の度に各山共に経営に窮することとなった。那智山では、多くの坊が疲弊し檀那を手放し、廊之坊・花蔵院・実報院の三院が多くの檀那を買い取り、中でも実報院が大きな勢力となっていった。

 

 

 

旦那売券

 

永うり渡申旦那之事

 

合代貳貫文者、

 

右件之御旦那事者、紀伊国田辺ミなとの九郎兵衛うり渡申處実也、何方よりいらん一言候ハバ、坂本之平六子孫みちやり可申候、仍為後日うりけん状如件

 

享徳三年(一四五四)八月十九日

 

うりぬし坂本平六 花押

 

かいぬし那智山実報院()

 

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