日蓮の本尊観~「本尊問答抄」をめぐって

 

「日蓮は曼荼羅正意ではなかった」との説があります。

「本尊問答抄」には、
『問うて云はく、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答へて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし。』
『汝云何(いかん)ぞ釈迦を以て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。』
とあり、文末にも
『此の御本尊の御前にして一向に後世をもいのらせ給い候へ』
とある。
これらを依文として「妙法曼荼羅を本尊とすることを日蓮は教示」と解釈、「法勝人劣、曼荼羅本尊正意説」を日蓮本仏信仰圏では主張するが、それは違う。

この書簡は弘安元年(1278)9月に、清澄寺の法兄たる浄顕房に与えしものであり、2年前の建治2(1276)721日、浄顕房・義成房に宛てた「報恩抄」の「送り文」(726日付け)に「御本尊図して進候」とあって、日蓮は浄顕房らに御本尊を授与されたことがうかがわれる。

清澄寺といえば虚空蔵菩薩求聞持法を修する霊場であり、そこには様々な仏菩薩の像が奉安されていたことであろう。ましてや、弘安3(1280)になると、日蓮に馴染みのある台密(天台密教)ではなく東密(東寺の密教・真言密教)の僧とされる寂澄が清澄寺の院主となっており(阿闍梨寂澄自筆納経札)、そのような宗教的環境では「日蓮図顕曼荼羅」は不審に思われこそすれ、浄顕房・義成房と共に拝する人などは皆無であったことだろう。故郷、清澄寺のかような状況を理解した日蓮が、浄顕房また義成房に強き法華経信仰を勧奨するために、妙法曼荼羅帰命成仏を説き、勢い「法勝人劣的教示」をするのは自然ともいえ、これは清澄寺という独特の信仰世界での「機」を考慮された「対機説法」というべきであろう。日蓮の本尊は終生所持した釈尊像と曼荼羅の「人と法」にして、どちらかに優劣をつける次元ではないのである。

 


「阿闍梨寂澄自筆納経札」(早稲田大学所蔵文書)
房州 清澄山
奉納
六十六部如法経内一部
右、当山者、慈覚開山之勝地
聞持感応之霊場也、仍任
上人素意六十六部内一部
奉納如件、
弘安三年五月晦日 院主阿闍梨寂澄

  


さて、どうでしょうか。
本来なら、「以上の主張を、御書を用いて破折せよ」とか、教学試験で出題してほしいものですね。決して観念論等ではなく、「ものごとに真正面から取り組んで生きていく、強き自分建設の取り組み」でもあると思うのです。

 


(1) 
まず、日蓮が「何を以て本尊としていたのか」は、通称・万年救護本尊の讃文からも明らかでしょう。

讃文
「大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢 日三ヶ国之 間未有此 大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智 隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之」

大覚世尊(釈尊)が入滅された後、二千二百二十余年が経歴するが、月漢日(インド、中国、日本)の三ケ国に未だなかった大本尊である。日蓮以前、月漢日の諸師は、或いはこの大本尊を知って弘めず、或いはこれを知らなかった。
我が慈父=釈尊=久遠の仏は仏智を以て大本尊を隠し留め、末法の為にこれを残されたのである。後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して、初めてこの大本尊を弘宣するのである。

『末法の衆生が拝する大本尊は妙法曼荼羅、しかも末法において弘宣される法体である』と日蓮は定義しているのです。

 


(2) 
弘安元年319日に始まり、弘安3528日まで続いた法華経講義では、
今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益あるべき時なり。されば此の題目には余事を交えば僻事なるべし。此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり。

(御講聞書)
と、妙法の大曼荼羅を本尊として題目を唱えることを教示します。

「人(仏像)でも法(曼荼羅)どちらでもよい」ではありません。日蓮が人(釈尊像)を所持、拝したのは、権教に執着する人々に「法華経信仰を勧奨する意=他仏他神から仏教の本道に還りなさい」があったのだと拝察します。

 


(3) 
現存真蹟の初見である文永8(127150) 109日、「相州本間依智郷」において顕した曼荼羅(立正安国会御本尊集NO1・京都立本寺蔵)から現存最後の弘安5(128261)6月の曼荼羅(NO123・京都本圀寺蔵)まで、日蓮が顕した曼荼羅は試算では900幅以上ともされ(私は500幅ほどと考えますが)、しかもそれは文永11(1274)10月の蒙古襲来「文永の役」後の同年12月・万年救護本尊を顕して「衆生救済の宣言」をした翌年・建治元年(1275)から本格化しており、「何を本尊として何を弘通、流布したかったのか」は、日蓮自身の成したことを見れば明らかといえるでしょう。


このように、妙法曼荼羅の図顕と授与に精魂を傾けた日蓮が「法華経の題目を以て本尊とすべし」と書いたのは、一時的な対機説法というよりも、相手が故郷の法兄であればこそ「常の教示をさらに鮮明にしたもの」と理解すべきではないでしょうか。身延に集う門下は法華経講義等を通して聞けるものが、故郷とはいえ遠き清澄寺では、書を通してしか伝えられないのですから、書簡にこそ「日蓮の伝えたかったこと」が記されていると理解するのが道理だと思うのです。そこには、「法兄を通して清澄寺大衆にも教示する」の意が含まれていたことでしょう。

 

 2022.12.3