最澄と道忠一門 ~山上多重塔のかなたに~ 2

【 鑑真と弟子たち 】

 

道忠は来日した鑑真(持統天皇2年・688~天平宝字7年・763)より具足戒を受けて律宗を学び、持戒第一の弟子とされ、師亡き後のことと考えられますが関東に下って人々に菩薩戒を授けて周り東国の化主と呼ばれる人物でした。

 

 

 

天平勝宝7(755)9月、東大寺に戒壇院が建立され鑑真が戒和上となりましたが、この時、鑑真と共に来日した唐僧の法進(景龍3年・709~宝亀9年・778)は師の片腕として戒壇の創立に尽力し、天平宝字3(759)に唐招提寺が創建されて鑑真が移住すると、法進が東大寺戒壇院の次の戒和上になっています。法進は「沙弥十界並威儀経疏」「注梵網経」「東大寺受戒方軌」「沙弥経鈔」等を著し、律師から少僧都へ、そして大僧都へと昇進します。

 

法進と同じく師に随い来日した唐僧の思託(生没年不詳)も師の戒律弘宣を助け、天平宝字元年(757)1123日に備前国の墾田百町を賜ると伽藍建立の費用にあて、天平宝字3(759)81日、平城京の右京五条二坊の新田部親王(にいたべしんのう ?~天平7年・735)邸跡地の施入を受けて、そこに唐招提寺を開創しました。そこには思託も移住し、師の伝記である「大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝」3(後の宝亀10[779]2月、淡海三船[おうみのみふね]が「唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)」として1巻にまとめる)、日本初の僧伝となる「延暦僧録」10巻を著しました。

 

 

 

鑑真一門は法進と思託を中心に二つに分裂していたようで、それは、東大寺戒壇院の戒和上となり南都仏教界に順応しながら昇進して国家仏教の一翼を担った法進と、大乗的見地に立ち人々を教化する菩薩行を重んじた思託との違いであり、道忠と晩年の鑑真は後者の側に立っていたことを、薗田香融氏は論考「最澄の東国伝道について」(1954年 仏教史学第三巻第二号p.56)において指摘されています。 

 

東大寺 戒壇堂
東大寺 戒壇堂

【 比叡山での写経 】

 

鑑真が亡くなってから4年後の神護景雲元年(767)に生まれ、延暦16(797)には31歳となっていた最澄の写経事業を道忠が助け、そこには道忠の弟子であった法鏡行者(後の第二代天台座主となる円澄 宝亀2年・771~承和4年・836)も加わります。

 

鎌倉時代末期の元亨2(1322)、臨済宗の僧・虎関師錬(こかんしれん 弘安元年・1278~興国7/貞和2年・1346)が著して朝廷に上呈された日本初の仏教通史である「元亨釈書」によれば、「釈円澄」の伝に「甫七歳。新羅法玄摩頂曰。汝必為人師。十八事道忠菩薩。忠者鑑真之神足也。使令左右晨昏無倦。間即誦習。忠愍其懇誡授菩薩戒。名為法鏡行者。延暦十七年。上叡山従伝教落髪。教改今名。時歳二十七。」とあり、少年円澄は新羅僧・法玄に師事し、18歳の時、道忠の弟子となって菩薩戒を授けられ法鏡行者と称し、延暦17(798)には比叡山へ上り最澄の門弟になり円澄と改名しています。

 

比叡山寺での写経事業により最澄と道忠に深い絆が生まれたものでしょうか。武蔵・上野・下野にあって民衆教化の菩薩行を展開した道忠一門と、延暦4(785)717日、19歳の時に比叡山に入り、その時著した「願文」に「伏して願くば、解脱の味独り飲まず、安楽の果、独り証せず。法界の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく妙味も服せん。」と書いたと伝えられる最澄の二者が気脈を通じ、「志」を共有したであろうことは想像に難くない、といえるでしょう。最澄と道忠、その門弟らとの交流は比叡山寺の人材を育てることになり、東国の化主たる道忠と弟子の広智、徳円らに学び、付法された青年僧が、初期天台教団の座主を務めるようになります。

 

 

 

国会図書館近代デジタルライブラリー 「元亨釈書」釈円澄

 (「国史大系」第14冊第14巻 1897年~ 東京 経済雑誌社)

 

                 延暦寺 根本中堂
                 延暦寺 根本中堂

【 最澄と東国の道忠一門 円澄・広智 】

 

最澄が東国へ伝道に赴いた時期について、薗田香融氏は「弘仁7(816)夏頃から弘仁8(817)夏頃」(前記「最澄の東国伝道について」)とし、菅原征子氏は「弘仁8(817)の春からほぼ半年ぐらいのごく短い期間」(前記論考p.64)佐伯有清氏は薗田氏の論考「最澄とその思想」(日本思想体系4p.490)を受けて「最澄の東国巡化が、弘仁八年であったことは確実である。」(「慈覚大師伝の研究」p.340)とされています。以下、各氏が判断の史料に用いられた文献を見ながら、そこに登場する人物なども確認していきます。

 

 

 

◇弘仁7(816)51日 最澄より弟子・泰範宛ての最後の手紙

 

我公此生結縁。待見弥勒。儻若有深縁。倶往生死。同負群生。以来春節。東遊頭陀。次第南遊。更西遊北遊。永入叡山。待生涯。去来何廻遊日本。同殖徳本。不顧譏誉遂本意。

 

文中、「来年春には東国へ赴く」とあることから、それは弘仁8(817)の春であると推測されます。

 

 

 

◇承和4(837)214日 第二代天台座主・円澄の「相承血脈書」(光定撰)

 

謹按故円澄和上。受伝法灌頂書曰。弘仁八年五月十五日。在緑野寺法華塔前。故最澄大和上。為鎮国家利楽有情。入於胎蔵金剛両部大曼荼羅壇。親執宝蓋。於円澄広智両弟子頂。而伝授両部灌頂者。

 

 

 

弘仁8(817)515日、上野国の緑野寺(浄法寺)法華塔前で、円澄は広智(こうち 生没年不詳)と共に最澄から金剛胎蔵両部の灌頂を授けられています。この記述から弘仁8(817)5月、最澄が上野国を訪れていたことが確認されます。

 

 

 

「叡山大師伝」に「本願所催。向於東国。盛修功徳。為其事矣。写二千部一万六千巻法華大乗経。上野下野両国。各起一級宝塔。塔別安八千巻。於其塔下。毎日長講法華経。一日不闕。兼長講金光明。仁王等大乗経。弘願所逮。後際豈息哉。所化之輩。逾百千万。見聞道俗。無不歓喜。爰上野国浄土院一乗仏子教興。道応。真静。下野国大慈院一乗仏子広智。基徳。鸞鏡。徳念等。本是故道忠禅師弟子也。延暦年中遠為伏膺。不闕師資。斯其功徳句当者矣。」とあり、広智は道忠に師事して下野国の小野寺(大慈寺)に住した僧で、同じく道忠の弟子であった浄土院(緑野寺)の教興・道応・真静ら、大慈院(小野寺・大慈寺)の基徳・鸞鏡・徳念らと協力して、最澄が本願とした「法華経六千部書写」の内、二千部一万六千巻を書写し、上野・下野両国に一級の宝塔を造立しています。

 

 

 

参議で比叡山寺の俗別当だった大伴宿禰国道(おおとものすくねくにみち 神護景雲2年・768~天長5年・828)が天長2(825)に義真、円澄に宛てた書状には「坂東諸国。未聞其義。此則常陸僧借位伝燈大法師位徳溢。空拘権教。未会真実之所致也。経云。当来世悪人。聞仏説一乗。迷惑不信受。破法堕悪道。夫誹謗妙法。常生難処。悲哉。溢公罪如経説。禅師以去弘仁八年。為令一切衆生。直至道場。結縁八島之内。奉写法華経六千部。今聞下野国。小野寺沙弥広智。伏依師教写千部。毎年行檀。毎日長講。揚一乗奥義。述十如之妙旨。正法将来。若人更起。所謂為如来之使。行如来之事。是以左相君。遙加随喜。持奏令度。今使円教東被。唯憑斯人。努力努力。」(大日本仏教全書・天台霞標22 p.256)とあり、坂東諸国では法相宗の徳溢(徳一)が活発に教化を展開し、妙法=妙法蓮華経=法華経を誹謗したこと、弘仁8年、最澄が東国を訪れたことが記録されています。また、最澄の法華経六千部書写の願いを受けて、下野国・小野寺の広智が中心になって法華経を一千部書写し、長講が行われていました。

 

 

 

前後しますが、第5代天台座主の円珍(弘仁5年・814~寛平3年・891)三種悉地法を授けた徳円(延暦4年・785?)「徳円阿闍梨印信」(承和9年[842515)に、「最澄阿闍梨去大同五年五月十四日。比叡山止観院妙徳道場。伝授広智阿闍梨。」(智証大師全集下巻p.12941918年  園城寺事務所)とあり、「広智付徳円三昧耶戒印信」(天長7年[830]閏1216)には「日本大同五年五月十四日。比叡山一乗止観院内供奉沙門最澄。於近江国比叡山妙徳道場。付三部三昧耶。牒弟子広智。」(大日本仏教全書・天台霞標22 p.221)とあって、大同5(810)514日、比叡山寺の止観院妙徳道場で、広智は最澄より三部三昧耶を授けられていたことが分かります。

 

 

 

承和2(835)115日、円澄は広智に宛てた書状に「又仁(仁=円仁)与徳(徳=徳円)。大禅師之所生子也。一入唐也。一入京也。」と書いていますが、文中の大禅師は広智のことであると推定され(慈覚大師伝の研究p.354)、これにより、広智は第三代天台座主・円仁(延暦13年・794~貞観6年・864)の師僧であったことが分かります。もっとも早く成立したと考えられる「三千院本『慈覚大師伝』は、円仁の誕生から比叡登山まで、広智のはたした役割について、いっさい沈黙している。」(p.335)なかで、円澄の広智宛て書状に、円仁が広智の弟子であったことを触れているのは「まことに貴重」(p.354)、「円仁が広智の弟子であったことを伝える同時代史料は、これ以外にはない。」(p.354)と佐伯有清氏は解説されています。

 

 

 

「元亨釈書」には「釈安慧。姓狛氏。内州大県郡人。七齢事州之小野寺広智。俗之号菩薩者也。智異其才器。携付台嶺伝教。時年十三。」とあり、第四代天台座主・安慧(あんえ 延暦13年・794~貞観10年・868)もはじめは小野寺(大慈寺)の広智に師事し、後に最澄の門弟となった人物でした。

 

 

 

国会図書館近代デジタルライブラリー 「元亨釈書」安慧

(「国史大系」第14冊第14巻 1897~ 東京 経済雑誌社)

 

 ときがわ町 慈光寺(道忠創建と伝える)付近
 ときがわ町 慈光寺(道忠創建と伝える)付近

【 下野国・小野寺と上野国・緑野寺 】

 

小野寺=現在の大慈寺は栃木県下都賀郡岩舟町にある天台寺院で、天平9(737)に行基(天智天皇7年・668~天平21年・749)が開基、二祖は道忠、三祖が広智と伝えています。弘仁6(815)41日、空海(宝亀5年・774~承和2年・835)は「諸の有縁の衆を勧めて、秘密蔵の法を写し奉るべき文」=通称「勧縁疏」を著して、弟子を東国、西国各地に派遣、請来した経論36巻の書写流伝・秘密法門の宣布を始めました。この時、空海は徳一(とくいつ 生没年不詳)と小野寺の広智のもとにも使者を派遣し、密典の書写を依頼しましたが、徳一は「真言宗未決文」(815821頃の成立と推測される)を著して、11カ条の疑問を提示しています。尚、空海から徳一宛ての書簡には「陸州徳一菩薩」とあり、徳一は弘仁6(815)には陸奥国にいたことがわかります。

 

 

 

緑野寺=現在の浄法寺(群馬県藤岡市浄法寺)も天台寺院で、道忠が創建と伝えています。薗田香融氏は鑑真が日本に持ってきた経典のほとんどは道忠が東国に移したのではないか、と指摘し、「続日本後紀・巻第三」承和元年(834)5月の条に「乙丑。勅。令相模・上総・下総・常陸・上野・下野等国司。勠力写取一切経一部。来年九月以前奉進。其経本在上野国緑野郡緑野寺。」とあることについて、「『続日本後紀』承和元年五月の条、相模・両毛・両総等の国司に一切経を書写奉進せしめたことがみえるが、其経本は上野国緑野郡緑野寺にあると注記されている。平安初中期に有名であった緑野寺経本とは、おそらく鑑真が請来し、その遺弟が護持していたところから唐土請来の経典として重んぜられていたのではないか。」(最澄の東国伝道についてp.54)と解説されています。 

 

最澄像 浄法寺
最澄像 浄法寺

【 最澄と東国の道忠一門 徳円 】

 

◇「慈覚大師伝」

 

弘仁五年。官試及第。時年廿一。明今正月金光明会。受沙弥戒。七年。東大寺。受具足戒。其夏中。遂諳講大小二部戒本。兼学習諸威儀法則。先師有本願。欲書写二千部法華経。率弟子等。赴向上野下野。果願已畢。於両州之間。各択十人弟子。授伝法灌頂。大師又其一人也。先師常歎謂諸弟子曰。我朝固執小戒。未入大乗。身後妙果。何以可期。汝曹宜捨小趣大。弟子等情執不同。種性各異。執強者違教背去。機熟者廻心仰慕。先是大同元年冬十二月廿三日。於叡山止観院。円澄法師為上首。百有余人。授円頓菩薩大戒。此授天台師々相伝大戒之始也。厥後時受之者。弘仁八年三月六日。又授徳円及大師矣。

 

「慈覚大師伝の研究」(p.178~ 佐伯有清氏 1986年 吉川弘文館)

 

 

 

承和9(842)515日 「徳円阿闍梨印信」

 

最澄阿闍梨去大同五年五月十四日。比叡山止観院妙徳道場。伝授広智阿闍梨。皆有印信。師師相付也。復澄阿闍梨去弘仁八年三月六日。下野州大慈山寺伝付弟子徳円。印署未蒙。大師遂没去。天長七年閏十月十六日為取印信於野州大慈山道場。更受広智阿闍梨。方給印信。今阿闍梨徳円嗣師跡故。伝授弟子僧円珍。最後紹継仏種莫断。広智和上是第五付属。沙門徳円第六付属。僧円珍第七付属。

 

「智証大師全集下巻」(p.1294  1918年 園城寺事務所) 

国会図書館近代デジタルライブラリー 「智証大師全集

 

 

 

◇徳円の「最澄授徳円戒牒」

 

弘仁836日付の疏文

 

謹於下野州都賀県大慈山寺遮那仏前。受如来金剛宝戒~

 

 

 

弘仁5(814)、円仁は官試に及第=言試に合格。弘仁7(816)には東大寺で具足戒を受け、続いて最澄の東国伝道に随い弘仁8(817)36日、小野寺(大慈寺)にて、徳円と共に最澄より円頓菩薩大戒(金剛宝戒)を受けました。この「慈覚大師伝」の記事からも弘仁8(817)3月時点での、最澄の下野国滞在が確認されます。

 

 

 

徳円は、大同3(808)617日の「沙門広円遺言状」に「付嘱弟子盛澄。基徳。広智。得念(徳念)。安証(徳円の沙弥時代の名)同法等。冶部省依勅旨所与。比叡山最澄大阿闍梨。転授灌頂公験。」とあることから、はじめは小野寺(大慈寺)の広智・基徳・徳念と共に奈良・大安寺の広円(天平勝宝7年・755? 三論宗・勤操の弟子)に学んでいたことがわかります。弘仁3(812)には比叡山寺にて最澄に師事、弘仁14(823)、比叡山寺の大乗戒壇で光定と共に大乗戒を受けました。「徳円阿闍梨印信」によれば弘仁8(817)36日、小野寺(大慈寺)(円仁と共に受けた円頓菩薩大戒とは別に)最澄より三種悉地法を受けた際、徳円は印署を蒙ることができず、天長7(830)1016日、広智より再度受法して印信を給わっています。承和9(842)515日、比叡山西塔の釈迦宝前にて、徳円は三種悉地法を後に第5代天台座主となる円珍に伝え(この時、円仁は入唐中)、第6代座主・惟首(ゆいしゅ 天長3年・826~寛平5年・893)と第7代座主・猷憲(ゆうけん 天長4年・827~寛平6年・894)も徳円のもとで学んでいます。

 

 

 

天長7(830)1216日付の「広智付徳円三昧耶戒印信」には「大日胎蔵。亦復同日。授上野緑野多宝塔如法壇。並受於叡山大師最澄阿闍梨」とあり、これは前記・円澄「相承血脈書」の「弘仁八年五月十五日。在緑野寺法華塔前。故最澄大和上。為鎮国家利楽有情。入於胎蔵金剛両部大曼荼羅壇。親執宝蓋。於円澄広智両弟子頂。而伝授両部灌頂者。」との記事と重なることから、弘仁8(817)515日、上野国の緑野寺(浄法寺)法華塔前で最澄が金剛胎蔵両部の灌頂を弟子に授けた時、広智と円澄の他に徳円がいたと推測されます。

 

 

 

これまで見てきたことから、道忠に連なり小野寺・緑野寺を基軸にしたネットワーク=道忠一門(道忠教団)が、最澄の東国伝道への導き手であり受け入れの母胎であった、といえると思います。

 

 

 

※光定撰の「伝述一心戒文」、円澄の「円澄和尚手書」、円澄和尚記によったとされる光定撰「相承血脈」に書かれた密教の修法・密教伝授の内実について、水上文義氏は論考「台密思想形成の研究 第三篇 台密の教相と事相 第一章 台密事相とその伝承 ― 三種悉地法を中心に」(p.363~ 2008年 春秋社)にて疑点があることを指摘され、これら文書は「徳円印信」類とあわせて、対空海が念頭にあったこと、円澄の正統性を宣揚する意図があったであろうことを解説されています。 

 

               比叡山 西塔 釈迦堂
               比叡山 西塔 釈迦堂

【 最澄を東国へ赴かせたもの 】

 

延暦25年・大同元年(806) 10月、唐より帰国して、大同4(809)7月中旬には京都・高雄山寺に入った空海のもとへ、最澄は幾度となく書を送り、門弟を行かせて、自らも弟子の礼をとり灌頂を受ける等、密教伝授の完璧を期しました。しかし、弘仁4(813)末頃、空海からの「叡山の澄法師、理趣釈経を求むるに答する書」にて密教受法の厳格なることを説かれ、経典の貸し出しを拒絶されてしまいます。

 

 

弘仁6(815)41日、空海は「勧縁疏」を著して弟子を各地に派遣、秘密法門の宣布を始めて、密教は顕教に勝ることを強調し始めます。空海の書簡は「下野広智禅師」のもとにも届き、広智と共に道忠の弟子であった上野国緑野郡・浄院寺(緑野寺)の教興も空海の勧進にこたえて、「金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経」(金剛頂経)を書写しています(高山寺所蔵本)。弘仁7(816)には、最澄の愛弟子・泰範も空海のもとに留まり比叡山寺には帰らないことが明らかとなり、最澄の密教伝授の願望は途中で終わることになりました。同年、「依憑天台集」に序文を加えて、「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯ず」と面授を重んじる真言授受法を批判したのは、密教観を修正しなければならない環境となったことを示すものでしょうし、それは同時に、この頃の最澄の傷心を表したものともいえるでしょうか。

 

時を合わせるように、空海との関係が終わる頃には東国で新たなる事態が起こりました。「本朝高僧伝」(臨済宗の卍元師蛮[まんげんしばん 寛永3年・1626~宝永7年・1710]が史料を集めて「元亨釈書」の欠を補い元禄15[1702]に成立した高僧伝75)がもとになりますが、法相宗の徳一は筑波山を開き中禅寺という神宮寺を創建した後、会津に赴いたと伝えられています。その徳一は「仏性抄」を著して最澄の法華一乗の天台義を批判。最澄は徳一の論難に対して猛然と反論、両者の論争は三乗一乗論争(三一論争)・三一権実論争・仏性論争等と呼ばれ、その応酬は弘仁12(821)まで続いたとされます。

 

 

 

比叡山寺俗別当・大伴宿禰国道の書に、徳一は坂東諸国で法華経を誹謗しながら教化活動を展開していたことが書かれていることから、東国にいた徳一が論難した直接の相手は当時既に教線を拡大し、かつ重なり合っていた道忠一門に対してではないかと思われます。それは同時に、道忠一門より青年僧を受け入れ、自門の中核としていた最澄教団への挑戦でもあったのではないでしょうか。旧来の仏教勢力の側において教学に秀でた徳一にしてみれば、後進の道忠一門、一体でもあった新興の最澄教団の勃興は看過できないものがあったのでしょうし、道忠・最澄一門からしても、旧仏教勢力の論客ともいえる徳一であれば、また衆生教化という布教の土壌を共通のものとしていたことからも、徳一を論破しておく必要があったのではないかと思われます。

 

 

 

このように、最澄の東国伝道の背景としては、空海との交流が途絶え次なる展開を期していたところに、空海が上野国の教興や下野国の広智のもとにまで密教の宣布を始めていたこと。一体ともいえる道忠一門が旧仏教を代表する論客の徳一から論難されていた(同時に教化の現場における道忠一門と徳一信奉者との接触もあったと考えられます)、ということがあるのではないでしょうか。そこには、道忠一門から最澄に東国伝道の要請があった、という推測が成り立つのではないかと思います。

 

東国巡錫に訪れた最澄のもとに集まった群衆について「元亨釈書」は「上野緑野寺豫塲者九万人。下野大慈寺五万人。」と上野国・緑野寺で9万人、下野国・小野寺で5万人と伝え、「叡山大師伝」は「逾百千万。見聞道俗」と100千万としていて、共に多くの人々が集まったことを伝えています。有縁の僧より聞いていた最澄という人物の人柄に直に接し、受戒し灌頂を受けた人々の信仰の喜びと熱気に、その場は包まれたことでしょう。

 

このような東国への衆生教化の旅(弘仁8年・817)は最澄自身にも新たなる展開へのエネルギーとなったようで、翌弘仁9(818)421日に「六所造宝塔願文」を作成。513日には「天台法華宗年分学生式」(六条式)を、8月末には「勧奨天台宗年分学生式」(八条式)を朝廷に上奏し、続いて弘仁10(819) 315日に「天台法華宗年分度者回小向大式」(四条式)を朝廷に上奏しています。六条式・八条式・四条式の三つを合わせて「山家学生式」と呼ばれていますが、これによって最澄は大乗戒壇の建立、南都僧綱の統制から離れた独自宗派の勅許を明確に求めています。  

 

当然、旧仏教勢力は反発し、嵯峨天皇の諮問を受けた大僧都・護命を始めとする南都僧綱は、弘仁10(819)519日に反対意見を表明するのですが、最澄は翌弘仁11(820)には「顕戒論」三巻を著して反駁しています。そして弘仁13(822)64日、最澄は比叡山寺の中道院にて遷化するのですが、前日の63日に嵯峨天皇は大乗戒壇設立の上申を允許していて、弟子・光定により綸旨は病床の最澄に報告されていた、と考えられます。大乗戒壇設立の太政官符は最澄遷化の一週間後に下されています。

 

 

 

最澄の一生を俯瞰すると、その晩年に全精力を傾けたといってもよい大乗戒壇設立への活動は、東国伝道が大きな転換点であり出発点であった、また原動力ともなったといえるのではないかと思うのです。

 

 

 

国会図書館近代デジタルライブラリー

叡山大師伝」 伝教大師全集 1912年 天台宗宗典刊行会編 

 

元亨釈書」 国史大系 第14巻 1897~年 経済雑誌社編 

 

                 比叡山 浄土院
                 比叡山 浄土院

【 1200年前の光景 】

 

長々と道忠一門と最澄の関わりを概観してきましたが、そこから僧・道輪につながる手がかりは、現状では残念ながらないようです。

 

 

 

ここで視点を変えて、出家の世界から娑婆世界の現実というものを少しでも見ることにしましょう。「無間地獄の受苦にあう衆生が救われ安楽を得て彼岸へ往けるように願い」造立された山上多重塔ですが、「為兪无間 受苦衆生 永得安楽 令登彼岸」と刻んだ僧・道輪の前にはどのような光景が展開されていたのでしょうか。

 

これまで研究者の方々によって指摘され、そして仏教を信ずる私達が思いをいたすべきは、歴代朝廷の蝦夷征討によって東国の衆生=民衆が置かれた厳しい現実だと思います。山上多重塔の前に佇むと、「その時代の声」を聞かねばならない、またそのために読み書き続けていこう、との思いがこみ上げてきます。

 

これより「日本書紀」「続日本紀」「日本後紀」等に記された事項をもとに、歴代の朝廷による蝦夷征討を見ていきます。歴史のかなたにかき消されてしまった、今は聞こえることのない、「その時代の人々の声」を少しでも聞き取る努力をしながら。 

 

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