12 熊野三山検校の活動と本山派・当山派の成立

 

(1) 聖護院・道興

 

 

衆徒(社家)や本願の宗教を考えるのに、見逃せないのが白河上皇の熊野参詣以来、熊野三山に置かれた検校職と在地との関わりだろう。

 

寛治4(1090)、熊野に参詣した白河上皇が先達を務めた増誉(10321116)()を熊野三山検校に補任して以来、三山検校には6代・覚実まで天台寺門系の僧が補任されている。その後、後鳥羽上皇の信任を得た仁和寺出身の長厳(11521228)が真言僧としては初めて、7代の熊野三山検校となり、建保7年・承久元年(1219)から承久3(1221)まで在職している。8代検校には東寺出身で鶴岡八幡宮寺別当の定豪(11521238)が補任され、承久3(1221)から嘉禎4年・暦仁元年(1238)まで務めている。9代の良尊からは再び天台寺門系となり、21代の満意の頃には天台寺門系・聖護院門跡の重代職となっている。

 

 

 

ここで注目したいのが、22代検校となった道興(14301527)の事跡だ。道興は永享2(1430)、左大臣・近衛房嗣(14021488)の二男として生まれ、幼少時に出家し、台密教学を学んでいる。父・房嗣は文安2(1445)関白となり、寛正2(1461)太政大臣に任じられている。長じてからの道興は聖護院門跡の第24世になり、園城寺長吏、熊野三山検校、新熊野社検校を務めている。

 

道興の三山検校は寛正6(1465)から明応10年・文亀元年(1501)の長きにわたるが、彼は検校となった翌年の文正元年(1466)722日、畿内から美濃、尾張、伊勢、紀伊、更に若狭、丹後、備前、備中、備後、安芸へと至る廻国巡礼を行い、921日に帰京。翌10月には丹波・播磨に巡礼し、続いて118日には那智へ向かい参籠修行をはじめている。応仁元年(1467)5月、京都での戦が本格化(応仁の乱)するも参籠を続け、応仁2(1468)7月に3年間の参籠を終えて帰京。86日には聖護院が兵火により焼け、道興は伊勢に向かう。宇治の三室戸寺に滞在した後、洛北の岩倉に移された聖護院に住している。

 

道興は室町幕府第8代将軍・足利義政(14361490)の護持僧で、風雅の交わりがあり、義政・義尚(14651489)父子に歌を贈られながら、文明18(1486)616日、東国巡礼に旅立った。この時に詠んだ和歌・漢詩・俳諧歌と紀行文が「廻国雑記」として伝わっている。

 

それにより旅の行程を見ると、山城、近江、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、上野、武蔵、下総、上総、安房、相模、下野、常陸を三ヶ月で廻り、秋には再び下総、武蔵、相模をめぐり伊豆、駿河へと足をのばし、相模から武蔵に至り河越(川越)・大塚の十玉坊で越年。翌文明19(1487)2月には甲斐に向かい、同月に武蔵に戻り、3月上旬に上野、下野から北上して下旬には陸奥の宮城野、松島、塩釜の浦へと至っている。帰路の名取川で歌を詠んだところで「廻国雑記」の記述は終わり、519日に帰洛している。彼が廻国巡礼を終えて都に戻ったのは、同年4月の聖護院焼失という事態を受けてのことと思われるが、もしそのようなことがなければ、白山・立山・日光中禅寺・筑波山・鎌倉の社寺・相模の大山寺・安房の清澄寺等、霊場社寺の巡拝を重ねた歩みからして、平泉の浄土を目指していたものだろうか。明応2(1493)813日、今度は西国を巡礼行脚し、備前児島から讃岐に入り越年。翌明応3(1494)6月に帰洛している。

 

このような道興の諸国巡礼は、大峯、葛城、熊野三山に連なる修験者が、聖護院を中心とする本山派として形成されていく過程での掌握作業であり、組織化であったといえるのではないかと思う。

 

 

 

応仁元年(1467)10月下旬、那智参籠中の道興は、春秋二季に入山する修行者を風雨から守るため、那智滝の絶頂に一宇を建てる。堂舎は滝頭龕(ろうとうがん)と号された。道興は手ずから不動明王の尊像を棟札に写して、滝頭龕の壇上に安置。数日間にわたり肝胆を摧き、思いを凝らして懇ろに開眼供養を行った。そこには那智山の瀧本執行・法印珍海が連なり、道堪が那智山執行の時のことだった。応仁2(1468)4月には、道興は法華経・般若心経・阿弥陀経・廻向経等を那智滝七ヵ所の秘水で書写し(細字法華経)、応永33(1426)に那智の社殿より妙法山へ上がったところに建てられていた「那智山如宝堂=如法堂」の本尊として奉納。有縁・無縁の衆生が妙経の功力により、共に菩提に至るのであるとしている(和歌山県海南市・長保寺蔵)

 

これら道興の活動は、「熊野別当」の名称が歴史の表舞台から消えて100年を経過してからのことであり()、熊野三山検校が上代の形式的な立場から直接、那智等の在地に関わるようになったことを示す一例といえるものだろう。

 

 

 

山上不動堂棟札本尊

 

山上不動堂棟札本尊銘書之写如左

 

于時、上執行法印道堪

 

二季山入之時、常客陵風雨、竟日佇立、不堪

 

思之。仍設一宇方室、号曰瀧頭合龕。是則依

 

立像不動明王      御瀧絶頂也。然予手自摸不動明王尊像、安

 

以此板当棟札      置彼室於壇上。数日摧肝贍、凝懇念、奉開

 

眼供養。同瀧本執行法印珍海、相共逐供養儀

 

則畢。冀大聖威怒王摧破魔界而、此所長

 

久、令垂擁護給矣。        先達度 光明房重海

 

同仙瀧房有儀

 

 

 

于時応仁元稔十月下旬、飛瀧千日行人、聖護院准三宮道興御判(同行弁為、宣献)

 

命瀧本庵主心海老和尚、成草創之功畢。()

 

 

 

現在、棟札の存在は確認されていないが、文化4(1807)、時の熊野三山検校・二品法親王が滝頭龕を修理し、その際に不動尊像を彫刻して安置。この像は青岸渡寺に伝来していることが、「和歌山県の文化財」第三巻()で紹介されている。同書には棟札の文もあり、そこでは文末の「命瀧本庵主心海老和尚成草創之功畢」はなく、これについて太田直之氏は「これも本願側の偽作と判断できよう」と指摘されている。()

 

大河内智幸氏は、道興の実弟・近衛政家(14441505)の日記「後法興院記」を引用し、道興が那智で参籠したことを示されている。()

 

ここで、大河内氏が紹介された「後法興院記」を確認してみよう。

 

 

 

◇文正元年(1466)112日、政家邸へ聖護院(道興)、実相院、実池院らがおとずれ懇談。そこでは、道興は7日より那智へ参籠するため3年間は会えないこと。また実池院は6日より加行を始めることが告げられた。その後、奥御所も加わり深夜まで飲食している。3日朝、道興と実相院が帰宅し、昼過ぎに実池院が帰り、奥御所と政家は一緒に蹴鞠をしたようで、夕方に奥御所が帰宅している。8日、雪交じりの雨の中、道興は那智に向け旅立ち、政家は3年の別れを惜しんでいる。

 

 

 

文正元年十一月二日

 

庚午 晴陰不定、時々小雨麗、聖護院、実相院、実池院等令来給、聖門自来七日那智参籠也、三ヶ年之間不可有交会間、各被参会處也、実池院亦自来六日被始加行云々、今夜各御逗留、終夜有大飲、奥御所令来給、

 

 

 

三日

 

辛未 晴、聖護院、実相院今朝令帰給、実池院未刻許令帰給、有蹴鞠興、及黄昏奥御所被帰、

 

 

 

八日

 

丙子 雨雪交降、実相院令来給、文紀西堂来、三體講尺也、先読左伝、詠作各到来、定来十六日之題、観河原御禊、文欣

 

種光朝臣来、返進鹵簿圖并御禊頓宮指圖等、聖門今朝那智進発云々、三年之間骨肉南北之隔戀慕尤深者乎、

 

 

 

◇応仁2(1468)74日、那智参籠を終えた道興は京都に戻り政家をたずね、大願を果たしたことを喜びあっている。帰京時の道興の姿は「山科家礼記」応仁二年七月六日条に「昨日聖護院御参、峰入御体也、御髪、ヲイ()、トキン(頭巾)、スズカケ(篠懸)、キ()ナルヒタタレ(直垂)、大口、カイノ結組也」とあるように、山林を斗藪する山伏姿であった。

 

 

 

応仁二年七月四日

 

壬戌 晴、午刻許聖護院被参殿御方、今日自南都上洛云々、余歓楽以外之間不参也、未刻許聖門令来此所給、太刀折紙等給余、大願一事無違乱被遂其節之間、一身大慶不可過之、三年光景奉期今日了、

 

 

 

◇応仁2年閏107日、道興が那智参籠3年の間に書写した細字大般若経を見た政家は、言語道断、奇妙の至りと驚き、一行に字数が百五十余の小さな文字では、老眼には見えず黒蟻がつらなるようで、凡慮の及ばないところである、と記している。

 

 

 

応仁二年閏十月七日

 

癸亥 晴、参平等院御影御前、

 

聖護院三ヶ年之間於那智手自被書写大般若、今日被見之、言語道断奇妙之至也、例式料紙一行字数百五十余字也、老眼不可見之、字如黒蟻、凡慮尤難及、一部未終云々、

 

 

 

以上、「後法興院記」の記述により、那智滝の山上不動堂棟札に記された「応仁元稔(1467)10月下旬」、道興は那智に参籠中であったことが確認される。棟札文末の「命瀧本庵主心海老和尚、成草創之功畢」については、後世の、本願の瀧本庵主が起源を遡らせてその存在を示すために後から書き加えたもの、との理解でいいのではないかと思う。

 

                  那智の滝
                  那智の滝

 

(2)本山派と当山派

 

 

道興の生涯を通しての活発な巡礼と修行をその一環とし、歴代の熊野三山検校らの働きにより形成されたのが天台系の修験道・本山派だ。後に真言系・当山方()との相論を起こすことになるが、両派の形成と展開を、関口真規子氏の「修験道教団成立史」での教示をもとに概観してみよう。()

 

 

 

本山派形成の淵源としては、白河上皇の時をはじめとして、歴代上皇の熊野先達を天台寺門派の高僧が担ってきたことが挙げられる。14世紀後半から15世紀にかけて、聖護院門跡・熊野三山検校は各地の熊野先達・山伏らを包含し、熊野・大峯で修行する天台系修験者の統制を図っている。そして文明18(1486)、道興は廻国巡礼を行って熊野先達の掌握と修験者の組織化に努め、聖護院門跡を継いだ道増(15081571)は安堵・禁制を多く発し、それは「修験道教団」ともいうべき本山派の形成へとつながっていった。

 

 

 

鎌倉後期から南北朝時代にかけ、興福寺をはじめとする南都諸大寺堂衆は、戒律復興と修験道の修行のために山林斗藪を行ったが、その活動は大和国周辺寺院に止住する真言系修験者を結集するようになり、彼らが当山方の前身となった。真言系修験者集団は聖宝を斗藪の第一人者・根本として流祖と仰ぎ、室町期の作と推測される「大峯当山本寺興福寺東金堂先達記録」では、聖宝の大蛇降伏の剣と峯中の秘事を相承する興福寺東金堂が聖宝嫡流であるとしている。

 

南北朝時代末、南都諸大寺堂衆が修験者集団の指導的立場から退転する。権門寺院の統率を失った彼らは先達衆を中枢とする自治組織となり、「当山先達衆中」「諸先達」「当山諸先達中」と自称した先達衆は、配下の修験者を率いて活動した(先達衆は後に「三十六正大先達」と呼ばれるようになる)

 

聖宝信仰という独自性を持つ当山方と、天台系修験者を核とする本山派は確執を深め、権威の後ろ盾のない当山方は安土桃山時代以降、聖宝の創建した醍醐寺・三宝院門跡と関わりを持ち、慶長年間になると醍醐寺座主・三宝院門跡の義演(15581626)を当山方の棟梁と仰ぐようになる。

 

慶長7(1602)6月、三宝院門跡が当山方山伏の佐渡国大行院と智足院に金襴地結袈裟の着用を許可すると、翌慶長8(1603)7月、反発した本山派の山伏・多聞坊らによる大行院打ち入り事件が発生。以降、本・当の相論が続き、同年108日、徳川家康により「当山・本山各別」の裁許が下される。だが、本・当の対立はおさまらず、慶長14(1609)に修験道・愛宕山修験者に対する法度が発せられた後、聖護院門跡は武蔵国の諸寺院に年行事職の補任・安堵を下し、関東真言宗と当山派に役銭を賦課している。

 

慶長16(1611)、淡路国で本山派の大善院が当山派のナカ坊を打果し、同国の修験者を本山派に編入させてしまう。同年8月には、当山派が本山派の入峯妨害を企て、喧嘩沙汰となる。11月、当山派諸先達は駿府に下向し、言上書を提出。書面では自らを「日本之真言宗は、勿論当山之門流」と位置付け当山派の由緒を記し、当山派と関東真言宗に対する本山派の非分を訴えている。翌慶長17(1612)4月、当山派の主張が入れられた裁定が下される。

 

慶長18(1613)には幕府より修験道法度が発せられ、修験道は当山派と本山派の二つとなり、諸国の修験者はどちらかに属することとされた。背景としては、慶長末年から元和年間に幕府の寺院統制が強化されたこと、本山派の聖護院門跡が後北条氏、豊臣氏ら旧勢力との関係が深かったこと、本山派に当山派を競合させることにより互いを牽制させようとしたこと等が指摘される。三宝院門跡は義演の次の覚定、その後継の高賢の代から修験道法度を拠り所とし、先達の袈裟筋に連なる修験者の、直接支配を始めるようになっていく。

 

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