1282年・弘安5年 壬午(みずのえうま) 61歳

後宇多天皇

 

北条時宗

 

11

日蓮 日目に法門を相承すと伝う(日興門流上代事典P493)

⇒「日睿類集記」1349年・貞和5613日成立 日睿著(富要8260)

大上人御出世御本懐御法門日目上人御相承は弘安五年正月一日也。日目上人より日郷上人御相伝は元弘元年(1331)十月一日也 

 

 

17

書を人々(四条金吾)に報ず

四条金吾殿御返事(八日御書)

(2-424P1906、創新223P1630、校2-458P2040、全P1198、新P1586)

身延・四条金吾

 

真蹟断簡2行・高知県高知市筆山町 要法寺蔵

5 満上335

録外11-17 受6-38 遺30-40 縮2091

 

*昭和定本四条金吾殿御返事(八日講御書)

創価学会新版・全集四条金吾殿御返事(八日御書)

平成校定「八日講御書(四条金吾殿御返事)

 

*法華経と釈迦仏への信仰を賞賛

(そもそも)八日は各々の御父・釈迦仏の生まれさせ給ひ候ひし日なり。彼日に三十二のふしぎあり。一には一切の草木に花さ()きみ()なる。二には大地より一切の宝わきいづ。三には一切のでんばた(田畑)に雨ふらずして水わきいづ。四にはよる()へん()じてひる()の如し。五には三千世界に歎きのこゑなし。是くの如く吉瑞の相のみにて候ひし。是より已来(このかた)今にいたるまで二千二百三十余年が間、吉事には八日をつかひ給ひ候なり。

然るに日本国皆釈迦仏を捨てさせ給ひて候に、いかなる過去の善根にてや法華経と釈迦仏とを御信心ありて、各々あつ()まらせ給ひて八日をくやう(供養)申させ給ふのみならず、山中の日蓮に華かう()ををく()らせ候やらん、たうとし、たうとし。 

 

 

111

書を上野郷主等に報ず

上野郷主等御返事(うえののごうしゅとうごへんじ)

(2-326P1622、創新343P1928、校2-459P2041、新P1587)

身延

 

形木1紙完・高知県高知市筆山町 要法寺蔵

 

< 系年 >

昭和定本「弘安2111()

創価学会新版・平成校定「弘安5111日」

 

*寺尾英智氏「日蓮聖人真蹟の形態と伝来」P310より(要旨)

千葉県夷隅郡・某家にも同一版の書が所蔵されており、表具裏には要法寺所蔵本にはない「金餅御消息」との表題の木版の刷物が貼付されている。文面は上野郷主等御返事」の釈文となっており、上野郷主等御返事」とは真蹟身延山曽存とされている「金餅御消息」であったことが窺われる。

花押は蕨手後期に属しており、弘安4年夏季以降は「蓮」字の「しんにょう」の筆端が鋭く上方に跳ね上がって著しい特徴を示すが、当書も同様であることから「弘安5111日」の書状であると考えられる。

 

*本文

昔の徳勝童子(とくしょうどうじ)は土のもち()ゐを仏にまいらせて一閻浮提の主となる。今の檀那等は二十枚の金のもち()ゐを法華経の御前にさゝ()げたり。後生の仏は疑ひなし。なんぞ今生にそのしるし()なからむ。恐々。

 

 

114

書を内記左近入道に報ず

「内記左近入道殿御返事(ないきのさこんにゅうどうどのごへんじ)

(2-425P1907、創新415P2136、校2-460P2042、全P1300、新P1587)

身延・内記左近入道

創価学会新版・内記左近

 

真蹟3紙完

1紙端書9行、本文6行・大阪府堺市堺区材木町東 妙国寺蔵

210行、第3紙日付等5行・東京都荒川区西日暮里 本行寺蔵

縮続156 縮二続119

 

*平成校定「内記左近入道殿御返事(来臨曇華御書)

全集「来臨曇華御書」

 

< 系年 >

昭和定本・創価学会新版「弘安5114日」

 

*本文

追伸。御器(ごき)の事は越後公御房(えちごこうごぼう)申し候べし。御心ざしのふかき由、内房(うつぶさ)へ申させ給ひ候へ。

春の始めの御悦(おんよろこ)び、自他申し籠()め候ひ了んぬ。抑(そもそも)去年の来臨(らいりん)は曇華(どんげ)の如し。将又(はたまた)夢か幻か、疑ひいまだ晴れず候処に、今年の始め深山(みやま)の栖(すみか)、雪中の室(むろ)へ多国を経ての御使ひ、山路(やまじ)をふ()みわ()けられて候にこそ、去年の事はまこと()なりけるや、まこと()なりけるやとおどろ()き覚へ候へ。他行(たぎょう)の子細、越後公御房の御ふみ()に申し候か。恐々謹言。

 

内記左近入道殿御返事~三人の登場人物

 

 

116

(3続編42P2146)

書を著すと伝う

「彼岸抄」

身延

 

本満寺本 真蹟なし

録外15-38 縮二続39

*平成校定は偽書として不収録

 

 

120

書を南条時光に報ず

「春初御消息(はるのはじめごしょうそく)

(2-426P1907、創新344P1928、校2-461P2043、全P1585、新P1588)

身延・南条時光

 

12 満下112 真蹟なし

録外5-33 遺30-41 縮2092

*平成校定「春初御消息(上野書)

 

*冬の身延山・衣はうすし食はたえたり

春の初の御悦び、木に花のさくがごとく、山に草の生ひ出づるがごとしと我も人も悦び入って候。さては御送り物の日記、八木(こめ)一俵・白塩(しほ)一俵・十字(むしもち)三十枚・いも()一俵給び候ひ了んぬ。

深山の中に白雪三日の間に庭は一丈につもり、谷はみね()となり、みね()は天にはし()かけたり。鳥鹿は庵室に入り、樵牧(しょうぼく)は山にさしいらず。衣はうす()し食はた()えたり。夜はかんく(寒苦)鳥にことならず。昼は里へい()でんとおも()ふ心ひまなし。すでに読経のこえ()もたえ、観念の心もうすし。今生退転して未来三五を経()ん事をなげ()き候ひつるところに、此の御とぶら()ひに命いきて又もや見参に入り候はんずらんとうれしく候。

 

法華経の行者をやしなひて仏にはならせ給ふ

過去の仏は凡夫にておはしまし候ひし時、五濁乱漫の世にかゝる飢えたる法華経の行者をやしなひて仏にはならせ給ふぞとみえて候へば、法華経まことならば此の功徳によりて過去の慈父は成仏疑ひなし。故五郎殿も今は霊山浄土にまいりあはせ給ひて、故殿に御かうべ()をなでられさせ給ふべしとおもひやり候へば涙かきあへられず。 

 

 

129

書を著すと伝う

「撰法華経付嘱御書」

(3続編43P2149)

身延

 

真蹟なし

録外3-3 縮二続3

< 系年 >

昭和定本「弘安5年正月29()

*平成校定は偽書として不収録

 

 

1

書を著す

「春の始御書」

(2-427P1909、校2-462P2044)

身延

 

真蹟1紙断簡5行・東京 某家蔵

 

< 系年 >

昭和定本「弘安5年正月()

 

*本文

春の始めの御悦(おんよろこ)び、花のごとくひらけ、月のごとくあきらかにわたらせ給ふべし。さては(後欠)

 

 

1

曼荼羅(117)を図顕する

*顕示年月日

弘安五年太才壬午正月 日

*讃文

仏滅度後二千二百 三十余年之間一閻 浮提之内未 曾有大漫 荼羅 也

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者等 南無大迦葉尊者等 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王

*寸法

95.5×47.0㎝ 3枚継ぎ

*所蔵

千葉県茂原市鷲巣 鷲山寺(じゅせんじ)

 

 

1

曼荼羅(118)を図顕する

*顕示年月日

弘安五年太才壬午正月 日

*授与

俗安妙 授与之

*讃文

仏滅度後二千二百三十 余年之間一閻浮提 之内未曾有 大漫荼羅也

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 南無天台大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王

*寸法

65.5×47.0 ㎝ 2枚継ぎ

*所蔵

静岡県伊豆市雲金 妙本寺

 

*伊豆市 宗祖御本尊曼陀羅 

 

 

1

曼荼羅(119)を図顕する

*顕示年月日

弘安五年太才壬午正月 日

*授与

俗日専 授与 之

*讃文

仏滅度後二千二百 三十余年之間 一閻浮提之内未 曾有大漫荼羅 也

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者等 南無大迦葉尊者等 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 大第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無天台大師 南無伝教大師 阿修羅王 大龍王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王

*寸法

94.5×53.0㎝ 3枚継ぎ

*所蔵

静岡県沼津市下河原 妙海寺

 

 

217

書を桟敷女房に報ず

「桟敷女房御返事(さじきのにょうぼうごへんじ) (衣服供養の事)

(2-401P1860、創新250P1705、校2-463P2045、全P1232、新P1589)

身延・さじきの女房

創価学会新版・桟敷女房

 

真蹟2紙完・和歌山県和歌山市坂田 天台宗・了法寺蔵

⇒近年、横浜市の日蓮宗・妙法寺に移管された。

(日蓮宗新聞2022.11.20「ご真蹟に触れる・448」中尾堯氏)

 

録外14-41 遺24-34 縮1701

 

*昭和定本「桟敷女房御返事」

創価学会新版「桟敷女房御返事(衣服供養の事)

 

< 系年 >

昭和定本「弘安4217()或は建治4()

創価学会新版・平成校定「弘安5217日」

全集「建治4217日」

 

法華経を供養

白きかたびら布一切給び了んぬ。

 

法華経を供養しまいらせ候に、十種くやう(供養)と申す十のやう候。其の中に衣服と申し候はなにゝても候へ、僧のき()候物をくやうし候。其の因縁をとかれて候には、過去に十万億の仏をくやうせる人、法華経に近づきまいらせ候とこそとかれて候へ。あらあら申すべく候へども、身にいたわる事候間こまかならず候。

 

 

222

岡宮妙法尼 寂と伝う(岡妙記・日蓮宗年表)

 

 

225

日朗に代筆せしめ書を日興に報ず

「伯耆公御房御消息」

(2-428P1909、校2-464P2046、新P1589)

身延・伯耆公=日興

 

日朗代筆 正本・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵

 

21 満上232

30-42 縮2094

 

*南条時光の病の平癒を祈って

本文

御布施御馬一疋鹿毛御見参に入らしめ候ひ了んぬ。

兼ねて又此の経文は廿八(28)字、法華経の七の巻薬王品の文にて候。然るに聖人の御乳母(おうば)の、ひとゝせ(一年)御所労御大事にならせ給ひ候て、やがて死なせ給ひて候ひし時、此の経文をあそばし候て、浄水をもってまいらせさせ給ひて候ひしかば、時をかへずいきかへらせ給ひて候経文なり。なんでう(南条)の七郎次郎時光は身はちいさきものなれども、日蓮に御こゝろざし()ふかきものなり。たとい定業なりとも今度ばかりえんまわう(閻魔王)たすけさせ給へと御せいぐわん候。明日寅卯辰(とらうたつ)の刻にしやうじがは(精進河)の水とりよせさせ給ひ候て、このきやうもん(経文)をはい()にや()きて、水一合に入れまいらせ候てまいらせさせ給ふべく候。恐々謹言。

 

⇒現在、「御秘符」「御符」というものがある。

1271年・文永85月の「四条金吾女房御書」(日朝本 宝9 真蹟なし)には、

懐胎(かいたい)のよし承り候ひ畢(おわ)んぬ。それについては符()の事仰せ候。日蓮相承の中より撰(えら)み出だして候。能()く能く信心あるべく候。」

「此の薬をのませ給はゞ疑ひなかるべきなり」

「口伝相承の事は此の弁公にくはしく申しふくめて候。則ち如来の使ひなるべし。返す返すも信心候べし」

とあり、日蓮が檀越に「符」を与えたことが記されている。

 

この「伯耆公御房御消息」は「日朗代筆」とされているが、こに記された「明日寅卯辰(とらうたつ)の刻にしやうじがは(精進河)の水とりよせさせ給ひ候て、このきやうもん(経文)をはい()にや()きて、水一合に入れまいらせ候てまいらせさせ給ふべく候」に、今日の「御秘符」「御符」の原型があり、その作法が記されているのだろうか。そして、これを日興が自門流に伝えたものか。もちろん、今日の「御秘符」「御符」作成の作法等が、日蓮・日朗・日興の時代のままとは限らないと思うが。

 

*「覚禅抄」(かくぜんしょう※)には「行者百箇日の間、持斎すべし」「後夜東方に向かいて、明星を拝し奉るべし。毎日の寅の時、明星の出る時也」「閼伽水(あかみず)は行者これを汲()む。(中略)日蝕平旦にこれを汲むべし。寅の時以前にこれを汲まず」とあり、「伯耆公御房消息」に「明日寅卯辰(とらうたつ)の刻に精進河の水とりよせさせ給い候て、この経文を灰に焼きて、水一合に入れてまいらせさせ給うべき候」とあるところから、日蓮は弘安5年に至っても虚空蔵菩薩求聞持法(こくうぞうぼさつぐもんじほう)を用いていた、との説がある

 

1253年・建長5年の立教から29年を経過した1282年・弘安5年、日蓮は台密を盛んに批判しており、この時に至っても「日蓮が虚空蔵菩薩求聞持法を用いていた」とはいかがなものか。

日蓮の入門した清澄寺は東密と台密が共に在ったと推測される寺院であり、山中では盛んに「虚空蔵菩薩求聞持法」が行われ、事実、日蓮も「幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立て」(善無畏三蔵抄)て、「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給は」(清澄寺大衆中)ったのだが、文永中期の蒙古国書到来以降から真言密教(東密)批判を展開。1271年「文永8年の法難」に続く佐渡期を経て、1274年・文永11年の蒙古襲来(文永の役)より天台密教(台密)への本格批判が開始される。

これ以降も、密教の菩薩である虚空蔵菩薩に依る修法を用いたとは考えづらいものがある。

 

※『覚禅抄』

真言宗小野流の覚禅[1143年生まれ、嵯峨阿闍梨]が仏典、儀軌、修法について記した書で全128巻。台密の「阿娑縛抄(あさばしょう)」に対して、東密の図像研究の基礎資料となっている。

 

 

228

「法華証明抄(ほっけしょうみょうしょう)」を著し日興に下して南条時光に与う

(2-429P1910、創新345P1930、校2-465P2047、全P1586、新P1590)

身延・南条時光

 

真蹟9紙完(但し第2紙前半65字及び宛名欠)

110(校・11)・大阪府高槻市梶原 一乗寺蔵

2紙後半6行・京都府京都市上京区寺之内通大宮東入ル妙蓮寺前町 妙蓮寺蔵

311行以下第9紙迄・静岡県富士郡芝川町西山 富士山本門寺蔵

 

日興本・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵

日朝本 宝13 満上81 満下243 延山録外1

録外9-15 遺30-43 縮2095

 

*平成校定「日道本・大石寺、大阪 蓮華寺蔵」

*昭和定本「法華証明抄(死活抄)

 

*冒頭「法華経の行者 日蓮 花押」

 

文末「伯耆房に下す」

 

*釈迦仏の金口の御口より

末代悪世に法華経を経のごとく信じまいらせ候者をば、法華経の御鏡にはいかんがう()かべさせ給ふと拝見つかまつり候へば、過去に十万億の仏を供養せる人なりとたしかに釈迦仏の金口の御口より出でさせ給ひて候

 

*天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か

しかるにこの上野の七郎次郎は末代の凡夫、武士の家に生まれて悪人とは申すべけれども心は善人なり。其の故は、日蓮が法門をば上一人より下万民まで信じ給はざる上、たまたま信ずる人あれば或は所領或は田畠等にわづらいをなし、結句は命に及ぶ人々もあり。信じがたき上、ちゝ()・故上野は信じまいらせ候ひぬ。又此の者嫡子となりて、人もすゝめぬに心中より信じまいらせて、上下万人に、あるひはいさめ或はをどし候ひつるに、ついに捨つる心なくて候へば、すでに仏になるべしと見へ候へば、天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か。命はかぎりある事なり。すこしもをどろく事なかれ。

又鬼神めらめ此の人をなやますは、剣をさかさまにのむか、又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか。あなかしこあなかしこ。此の人のやまいを忽(たちま)ちになをして、かへりてまぼ()りとなりて、鬼道の大苦をぬくべきか。其の義なくして現在には頭破七分の科(とが)に行はれ、後生には大無間地獄に堕()つべきか。永くとゞめよ永くとゞめよ。日蓮が言をいやしみて後悔あるべし、後悔あるべし。

 

 

229

「園城寺御下文」 下賜されると伝う(大石寺蔵写本、富士年表)

 

 

3

書を門下に報ず

「莚三枚御書(むしろさんまいごしょ)

(2-430P1913、創新396P2051、校2-466P2049、全P1587、新P1592)

身延・南条時光

 

真蹟4紙断片・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵

縮続118

 

*昭和定本「弘安53月上旬」

創価学会新版「弘安53月」

 

*日蓮の病の治癒、体調の回復

(むしろ)三枚・生和布(なまわかめ)一籠(ひとこ)給び了んぬ。

抑三月一日より四日にいたるまでの御あそびに、心なぐさみてや()せやまい()もなを()り、虎と()るばかりをぼ()へ候上、此の御わかめ給びて師子にの()りぬべくをぼ()へ候。

 

御筵(おんむしろ)を法華経にまいらせ給ひ候

さては財(たから)はところにより、人によって、かわりて候。此の身延山には石は多けれども餅なし。こけ()は多けれどもうちしく物候はず。木の皮をはいでし()き物とす。むしろ()いかでか財とならざるべき。

中略

いわうや日本国は月氏より十万より(余里)をへだ()てて候・辺国なる上、へびす()の島、因果のことわりも弁(わきま)へまじき上、末法になり候ひぬ。仏法をば信ずるやうにてそし()る国なり。しかるに法華経の御ゆへに名をたゝせ給ふ上、御むしろ()を法華経にまいらせ給ひ候ひぬれば。

 

 

4

曼荼羅(120)を図顕する

*顕示年月日

弘安五年太才壬午卯月 日

*授与

沙門天目 受与之

*讃文

仏滅度後二千二百 三十余年之間 一閻浮提之内 未曾有 大漫荼 羅也

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗尊者等 南無大迦葉尊者等 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王等 大龍王等 鬼子母神 十羅刹女

 

*備考

・年月日の右下に異筆で「禅」とあり、続く何字かを削損した形跡がある。
・「卯月」下の「二」は他筆と見える。

・当曼荼羅の授与書に「沙門天目受与之」とある。

京都妙滿寺蔵の「文永十一年六月の曼荼羅(11)」もまた「沙門天目受与之」とあり、古来より謀筆の論議が生じている。

 

⇒「御本尊集」は「当御本尊の授与書は聖筆、妙満寺の其れは他筆と拝するのが至当のようである」とする。

 

*寸法

93.0×50.9㎝ 3枚継ぎ

*所蔵

京都府京都市上京区智恵光院通五辻上ル紋屋町 本隆寺

 

⇒「提婆達多」「阿闍世王」が省略されている。

 

 

4

曼荼羅(121)を図顕する

*顕示年月日

弘安五年太才壬午四月 日

*授与

俗藤三郎 日金 授与之

*讃文

仏滅度後二千二百三十余年之 間一閻浮提之内未曾有 大漫荼 羅也

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大日天王 大月天王 天照太神 八幡大菩薩 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 鬼子母神 十羅刹女

*寸法

93.6×48.8㎝ 3枚継ぎ

*所蔵

大阪府堺市堺区材木町東 妙国寺

 

 

6

曼荼羅(122)を図顕する

*顕示年月日

弘安五年太才壬午六月 日

*讃文

仏滅度後二千二百三十 余年之間一閻浮提之内 未曾有大漫荼羅 也

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王

*寸法

67.9×45.8㎝ 2枚継ぎ

*所蔵

千葉県茂原市鷲巣 鷲山寺

 

 

6

曼荼羅(123)を図顕する

*顕示年月日

弘安五年太才壬午六月 日

*讃文

仏滅度後二千二百 三十余年之間 一閻浮提之内 未曾有大 漫荼羅 也

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王 大梵天王 釈提桓因大王 大持国天王 大増長天王 大広目天王 大毘沙門天王 大日天王 大月天王 大明星天王 第六天魔王 天照太神 八幡大菩薩 転輪聖王 南無龍樹菩薩 南無天台大師 南無妙楽大師 南無伝教大師 阿修羅王等 大龍王等 鬼子母神 十羅刹女 提婆達多 阿闍世大王

*寸法

67.6×44.5㎝ 2枚継ぎ

*「集成」15

*所蔵

京都府京都市山科区御陵大岩 本圀寺

 

 

7

書を著すと伝う

「法華本門宗要抄」上・下

(3続編44P2150、校3真偽未決書14P2886)

身延

三宝寺本 真蹟なし

7-15 縮二続106

 

 

811

書を著すと伝う

「上野五郎左衛門尉殿御書」

(3続編45P2168)

身延

真蹟なし

録外24-41 縮二続105

*平成校定は偽書として不収録

 

 

821

書を著すと伝う

身延山御書」

(2-432P1915、校3真偽未決書13P2877)

身延

 

日意本・京都府京都市左京区東大路二条下ル北門前町 妙伝寺

日朝本 平賀本 真蹟なし

録内18-1 遺19-41 縮1297

 

*録内「甲州身延御隠居御抄」

< 系年 >

昭和定本「弘安5821()或は建治元年()

 

 

98

日蓮 病気療養のため身延を出山して常陸に向う(波木井殿御書・定P1932)

 

*「元祖化導記」身延山11世・日朝

二十五・武州池上のこと

或る記に云く、弘安五年壬午九月八日午の刻身延の沢を出御有って、其の日は下山兵庫四郎の所に一宿、九日大井庄司入道、十日曾祢の次郎、十一日黒駒、十二日河口、十三日くれじ、十四日竹下、十五日関下、十六日平塚、十七日瀬野、十八日の午の剋に武蔵の国荏原郡千束郷池上村に着き了んぬ。

同九月二十五日鎌倉田中より信者の輩上下参り集まる、折節立正安国論の御談義之れ有り、皆人座に列なるの砌に聖人仰せに云く、我今三七日の内に死ぬべしと云云、又鎌倉の三室の人人参るに種種の法門を述べたまへり。

 

 

918

日蓮 武蔵国池上着(波木井殿御報・定P1924)

 

 

919

書を波木井実長に報ず

「波木井殿御報(はきいどのごほう)

(2-433P1924、創新288P1817、校2-468P2055、全P1376、新P1596)

池上・波木井実長

 

日興代筆正本・身延山久遠寺曽存(意・筵録等)

日意本・京都府京都市左京区東大路二条下ル北門前町 妙伝寺

日朝本 平13 宝19

録内33-23 遺30-51 縮2104

 

*平成校定「波木井殿御報(波木井書)

全集「波木井殿御報(池上到着御報)

 

*池上着

(かしこ)み申し候。みち()のほど()べち()事候はで、いけがみ(池上)までつ()きて候。みち()の間、山と申し、かわ()と申し、そこばく大事にて候ひけるを、きうだち(公達)にす()護せられまいらせ候ひて、難もなくこれまでつ()きて候事、をそれ入り候ながら悦び存じ候

 

墓は身延沢に

さては、やがてかへ()りまいり候はんずる道にて候へども、所らう()のみ()にて候へば、不ぢゃう()なる事も候はんずらん。さりながらも日本国にそこばくもてあつか()うて候み()を、九年まで御きえ(帰依)候ひぬる御心ざし申すばかりなく候へば、いづくにて死に候とも、はか()をばみのぶさわ(身延沢)にせさせ候べく候。

 

*栗鹿毛の馬は

又くりかげ(栗鹿毛)の御馬はあまりをもしろ(面白)くをぼへ候程に、いつまでもうしな()ふまじく候。ひたち(常陸)のゆ()へひ()かせ候はんと思ひ候が、もし人にもぞと()られ候はん。又そのほかいた()はしくをぼへば、ゆ()よりかへり候はんほど、かづさ(上総)のもばら(藻原)殿のもとにあづけを()きたてまつるべく候に、し()らぬとねり(舎人・とねり=貴人の牛馬などを扱う雑人[ぞうにん]などの称)をつけて候ひては、をぼつか(覚束)なくをぼへ候。まかりかへ()り候はんまで、此のとねり(舎人)をつ()けをき候はんとぞんじ候。そのやうを御ぞんぢのために申し候。

 

*所労のため判形を加へず

所らう()のあひだ、はんぎゃう(判形)をくは()へず候事、恐れ入って候。

 

 

921

書を著すと伝う

「本寺参詣抄」

(3続編46P2171)

三宝寺本 本満寺本 真蹟なし

録外13-2 縮二続27

*平成校定は偽書として不収録

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

925

日蓮 池上にて「立正安国論」を講ずと伝う

(富要5-139)

 

 

 

9

日目 池上にて日蓮の命により伊勢法印を論破すと伝う

 

*「三師御伝土代」(富要513)

日目上人御伝土代

 

弘安五年壬午夏の始大聖人甲州自り武州池上へ入御共奉して池上に参る処に、二階堂伊勢入道の子息伊勢法印、山門衆徒たるが聖人と問答申す可しとて同宿十余人若党三十余人相具してまいる大学匠なり。誰か問答すべきと老僧達中老俗方固唾を呑む。大聖仰せに云く卿公問答せよと云云。時に日目廿三(23)才すなはち御問答十重あり、第一即往安楽世界阿弥陀仏なり、十重一一に詰て帰り畢ぬ。冨木禅門已下聖人の御前にて問答の躰上聞す、聖感あつて云くさればこそ日蓮が見知りてこそ卿公をば出たれと云云。

 

 

9

「身延相承書」を著すと伝う

・創価学会新版「身延相承書」

(創新460・伝承類P2232)

 

・昭和定本「日蓮一期弘法」(3続編49P2184)

録外16-41 遺30-52 縮2105

 

・平成校定「日蓮一期弘法付嘱書(身延相承書)(3相伝書1P2061、新P1675)

日広本・京都府京都市左京区新高倉通孫橋上ル法皇寺町 要法寺蔵

日辰本・静岡県富士郡芝川町西山 富士山本門寺蔵

日出本・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵

 

・全集「身延相承書[総付嘱書](日蓮一期弘法付嘱書)(P1600)

真蹟なし

 

*真偽論

「法華仏教研究」11号 宮田幸一氏の論考「再び日蓮御影本尊を論ず」

 

 

103

「日朗御譲状」を著すと伝う

・「日朗御譲状」

(3続編50P2185)

池上・日朗

録外6-38 遺30-52 縮2106 真蹟なし

 

 

日朗御譲状
譲り與(あた)ふる
南無妙法蓮華経
末法相応一閻浮提第一の立像釈迦仏一体

立正安国論一巻 御免状
右、妙法流布一切利益の為に、法華経中の一切の功徳に於いては、大国阿闍梨(日朗)に與ふる所也。

中略

釈尊一代の深理も亦日蓮一期の功徳も、残るところなく、日朗に付属する所也。

 

弘安五年十月三日   日蓮  花押

 

 

*国会図書館デジタルコレクション 日蓮上人御遺文 日朗御譲状

 

⇒「一閻浮提第一の立像釈迦仏」とは、他の日蓮の教示にはなく取って付けたような表現であり、明らかな偽書というべきだろう。

 

 

107

書を著すと伝う

波木井殿御書」

(2-434P1925)

身延・波木井

本満寺本 真蹟なし

録外25-33 遺30-53 縮2107

*平成校定は偽書として不収録

 

 

書を著すと伝う

「法華和讃」

(3続編47P2174)

真蹟なし

録外11-18 縮続10

< 系年 >

昭和定本「弘安5()

*平成校定は偽書として不収録

 

 

書を著すと伝う

「読誦法華用心抄」

(3続編48P2178)

真蹟なし

録外16-29 縮続20 受6-44

< 系年 >

昭和定本「弘安5()

*平成校定は偽書として不収録

 

 

108

日蓮 一弟子六人を定補す

⇒「一弟子六人事 不次第」と六老僧全員を一弟子とする

 

 

108

「産湯相承事(うぶゆそうじょうじ)」を著し日興に相伝すと伝う

(創新・伝承類459P2229)

 

*「家中抄」(富要5154)

日興

同十月八日に本弟子六人を定め置かるゝに日興其の撰にあたり給へり、此の日・産湯相承を記録す、同十日には本尊七箇決併に教化弘教七箇の決を記し給ふ

 

 

1010

「御本尊七箇之相承」「教化弘経七箇口決大事」を著し日興に相伝すと伝う(同上)

 

 

1011

「本因妙抄(ほんいんみょうしょう)」を著すと伝う

(創新458・伝承類P2219、校3相伝書3P2062、全P870、新P1676)

 

*平成校定「法華本門宗血脈相承事(本因妙抄)(血脈抄)

日時本、日俊本・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵

日我本・千葉県安房郡鋸南町吉浜 保田妙本寺蔵

真蹟なし

 

 

1013

池上相承書を著すと伝う

・創価学会新版「池上相承書」

(創新461・伝承類P2232)

 

・平成校定「身延山付嘱書(池上相承書)(3相伝書2P2061、新P1675)

日広本・京都府京都市左京区新高倉通孫橋上ル法皇寺町 要法寺蔵

日辰本・静岡県富士郡芝川町西山 富士山本門寺蔵

日出本・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵

 

・全集「池上相承書[別付嘱書](身延山付嘱書)(P1600)

真蹟なし

 

 

1013

日蓮 辰刻(たつのこく・午前7時頃から9時頃)に池上宗仲邸にて入滅

 

 

1014

戌刻(いぬのこく・夜7時頃から9時頃)入棺、子刻(ねのこく・深夜11時から1時頃)葬送、火葬

 

1016

日興 「宗祖御遷化記録」を記す

正本・静岡県富士郡芝川町西山 富士山本門寺

(「御遷化記録」は、平成5120日に国の重要文化財の指定を受ける。)

 

一 弘長元年 辛酉 五月十二日 伊豆国被流 御年四十

預伊東八郎左衛門尉 造立正安国論一巻 奉最明寺入道殿也

  同三年二月廿二日赦免

 

一 文永八年 辛未 九月十二日 被流佐土島 御年五十

  預武州泰司 依極楽寺長老 良観房訴状也 訴状在別紙

  同十一年 甲戌 二月十四日赦免

  同五月十六日 甲斐国波木井身延山隠居 地頭南部六郎入道

 

一 弘安五年 丙午 九月十八日 武州池上入御 地頭衛門太夫宗仲

同十月八日 本弟子六人被定置 此状六人面々可帯 日興一筆也

 

定 

 一弟子六人事 不次第

 蓮花阿闍梨 日持 

    日頂 

 佐士公   日向

一 白蓮阿闍梨 日興 

 大國阿闍梨 日朗 

 弁阿闍梨  日昭

右六人者本弟子也 仍為向後所定如件

弘安五年十月八日

同十三日辰時御滅 御年六十一 即時大地震動

同十四日 戌時御入棺 日朗 日昭 子時御葬也

 

一 御葬送次第

先火  二郎三郎 鎌倉住人

次大宝華  四郎次郎 駿河国富士上野住人

次幡  左 四條左衛門尉  

右 衛門太夫

次香  富木五郎入道      

次鐘  大田左衛門入道

次散花  南条七郎次郎      

次御経  大学亮

次文机  富田四郎太郎      

次佛   大学三郎

次御はきもの  源内三郎 御所御中間

次御棺 御輿也

          侍従公

      左   治部公

          下野公

          蓮花闍

前陣 大国阿闍梨

          出羽公

      右   和泉公

          但馬公

          卿公

         

          信乃公

      左   伊賀公

          摂津公

          白蓮阿闍梨

後陣  弁阿闍梨

          丹波公

      右   太夫公

          筑前公

          帥公

次天蓋   大田三郎左衛門尉     

次御太刀  兵衛志

次御腹巻  椎地四郎         

次御馬   亀王童 

瀧王童

 

日昭  日朗  日興  他行 他行 日時   ( 第四紙継目 )

花押  花押  花押        花押

 

一  御所持佛教事 

御遺言云

佛者 釈迦立像 墓所傍可立置云々

経者 私集最要文名註法花経

同篭置墓所寺六人香花当番時

可被見之 自余聖教者非沙汰之限云々

仍任御遺言所記如件

弘安五年十月十六日 執筆日興  花押

 

弁闍梨  大闍梨  白蓮闍梨  他行   他行  蓮花闍梨 ( 第五紙継目 )

 花押   花押    花押 佐土公  伊予公    花押

 

定         次第不同

墓所可守番帳事  

正月  弁阿闍梨

二月  大国阿闍梨

三月  越前公 

淡路公

四月  伊与公

五月  蓮花阿闍梨

六月  越後公 

下野公

七月  伊賀公 

筑前公

八月  和泉公 

治部公

九月  白蓮阿闍梨

十月  但馬公 

郷公

十一月 佐土公

十二月 丹波公 

寂日房

右守番帳次第無懈怠可令勤仕之状如件

弘安六年正月 日

 

 

 

「宗祖御遷化記録」に見る日蓮一代の三大事

 

*「法華仏教研究」9号 東佑介氏の論考「『日蓮聖人御遷化記録』諸本に関する一考察」

*「法華仏教研究」21号 川﨑弘志氏の論考 中尾堯稿「『日蓮聖人御遷化記録』の意味するところ」を読んで

  

「五人所破抄」より

(ここ)に先師聖人親(まのあた)り大聖の付を受けて末法の主たりと雖も、早く無常の相を表して円寂に帰入するの刻み、五字紹継の為に六人の遺弟を定めたまふ。

日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持已上六人なり。

 

 

1021

日興 日蓮遺骨を奉じて池上を発つ(富要5-145)

 

 

1021

日興 飯田に宿す(富要5-145)

 

 

1022

日興 湯本に宿す(富要5-145)

 

 

1023

日興 車返に宿す(富要5-145)

 

 

1024

日興 上野・南条時光館に宿す(富要5-145)

 

 

1025

日興 身延に帰山(富要5-145)

 

 

10

日興 「御遺物配分事」を記す

 

 

128

北条時宗 円覚寺を創建し蒙古襲来の戦没者を供養(鎌倉五山記)

 

 

1219

興福寺衆徒の強訴により権中納言久我具房・按察使源資平を配流す(帝王編年記)

 

 

この年

 

諸国に悪疫流行

 

日興  「本尊問答抄」をこの年に書写したと伝う(日興上人全集P149P150)

 

【 系年不明の書 】

 

書を門下に報ず

「高橋殿御返事(米穀[べいこく]御書)

(創新358P1953、校2-315P1564、全P1467、新P1242)

 

霊艮閣版日蓮聖人御遺文963(従諸法実相抄抄出) 真蹟なし

*創価学会新版・全集「高橋殿御返事(米穀御書)

 

*釈迦仏・地涌の菩薩、御身に入りかはらせ給ふか

米穀(べいこく)も又々かくの如し、同じ米穀なれども謗法の者をやしな()うは仏種をた()つ命をついで弥々(いよいよ)強盛の敵人となる。又命をたすけて終(つい)に法華経を引き入るべき故か。又法華の行者をやしな()うは、慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし。一切衆生を利益するなればなり。故に仏舎利変じて米と成るとは是なるべし。かゝる今時分人をこれまでつか()はし給ふ事うれしさ申すばかりなし。釈迦仏・地涌の菩薩、御身に入りかはらせ給ふか。

其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ。仏種は縁に従って起こる、是の故に一乗を説くなるべし。

 

 

「万法一如抄」

(3続編51P2186)

真蹟なし

録外11-21 縮二続15

*平成校定は真偽未決書として不収録

 

 

「臨終一心三観」

(3続編52P2205)

本満寺本 真蹟なし

録外17-6 縮二続42

*平成校定は偽書として不収録

 

 

末法一乗行者息災延命所願成就祈祷経文」

(3続編53P2207)

真蹟なし

縮二続130

*平成校定は偽書として不収録

 

 

「慧日天照御書(えにちてんしょうごしょ)

(3続編55P2219、創新449P2164、校2-470P2057、全P1297、新P1597)

延山録外4 真蹟なし

縮続94

 

*本文

もんて一閻浮提の衆の眼を抉(えぐ)るべきか、釈迦仏の御名(みな)をば幼稚にては日種(にっしゅ)という。長大の後の異名をば慧日という。此の国を日本という、主(しゅ)をば天照(てんしょう)と申す。

 

 

「十宗判名の事」

(3図録26P2391、創新93P981、校3図録33P2521、全P692、新P1598)

真蹟1紙・静岡県富士宮市上条 大石寺

 

*昭和定本「十宗事」

創価学会新版「十宗判名の事」

平成校定「十宗判名事」

全集「十宗判名の事」

 

 

「三種教相」

(3図録27P2392、校3図録34P2522、新P1599)

真蹟なし

録外22-35 縮二続77

 

 

一代五時鶏図」

(3図録28P2400、校3図録35P2532、新P1607)

5 満下285 真蹟なし

録外15-22 縮二続33

 

 

一代五時継図」

(3図録29P2407、校3図録36P2540、全P658、新P1613)

三宝寺本 真蹟なし

録外21-2 縮二続43

 

 

「釈迦一代五時継図」

(3図録30P2446、校3図録37P2581、全P633、新P1646)

15 真蹟なし

録外24-2 縮二続84

 

 

要文抄録

「花厳方等諸経要文」

真蹟19紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

大部分が他筆、第5紙に短い要文抄出、第8紙にもメモ程度の書き込み

 

 

古写本

「天台潅頂(かんじょう)玄旨(げんし)

真蹟ではない

19紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

筆者不詳、「天台潅頂玄旨」「鏡像円融口法」「一心三観血脈」が書かれている

 

 

「識分法門一念三千即離事」

19紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

真蹟ではない

 

 

「悉入花台法門」

12紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

2紙にメモ程度の筆12字あり、他は他筆

 

 

「天台四教略抄」

126紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

真蹟ではない

 

 

「天台深極抄」

152紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

真蹟ではない

 

 

「三教旨皈抄」

157紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

日蓮少年時代の筆写との伝承があるも、真蹟ではない。

用紙、筆風等よりすれば、それ以前の古い時代の書写本か。

 

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