1233年・貞永2年(4月15日改元)・天福元年 癸巳(みずのとみ) 12歳

四条天皇

 

北条泰時

 

1

京都に猿楽流行

 

 

3

円実 興福寺別当に補任される(興福寺別当次第・興福寺寺務次第)

 

 

道元 山城国宇治に興聖寺を創建する(道元録)

 

 

日蓮 安房国清澄寺に登る

 

清澄寺の宗旨について

日蓮法華信仰の周辺~安房国清澄寺に関する一考

 

 

529

摂政・近衛基通 卒74(明月記)

 

 

713

道元 「普勧坐禅儀」を浄書

 

 

815

六波羅 犯科人成敗の17条を幕府に具申

 

 

11

真兼 東大寺別当に補任される(仁和寺諸院家記)

 

 

【 清澄寺と日蓮、修学に関する御書の記述 】

 

 

◇「善無畏三蔵抄」文永7 妙覚寺蔵 本満寺本 当書と推される真蹟断簡あり

日蓮は顕密二道の中に勝れさせ給ひて、我等易々と生死を離るべき教に入らんと思い候ひて、真言の秘教をあらあら習ひ、此の事を尋ね勘ふるに、一人として答へをする人なし。

中略

日蓮は安房国東条の郷清澄(きよすみ)山の住人なり。幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てゝ云はく、日本第一の智者となし給へと云云。虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給ひて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給ひき。其のしるしにや、日本国の八宗並びに禅宗念仏宗等の大綱粗伺(ほぼうかが)ひ侍りぬ。

 

 

◇「清澄寺大衆中」建治2年 真蹟曽存 平賀本

生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思(おぼ)し食()しけん、明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候ひし故に、一切経を見候ひしかば、八宗並びに一切経の勝劣粗(ほぼ)是を知りぬ。

 

 

◇「破良観等御書」建治2年 延山録外

予はかつし()ろしめ()されて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願(がん)を立て、日本第一の智者となし給へ。十二のとしより此の願を立つ。其の所願に子細あり。今くはしくのせがたし。其の後、先づ浄土宗・禅宗をきく。其の後、叡山・園城・高野・京中・田舎等処々に修行して自他宗の法門をならひしかども、我が身の不審はれがたき上、本よりの願に、諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからず、いづれも仏説に証拠分明(ふんみょう)に道理現前ならんを用ふべし、論師・訳者・人師等にはよるべからず、専ら経文を詮とせん。

 

 

◇「本尊問答抄」弘安元年9月 日興本

生年十二、同じき郷の内清澄寺と申す山にまかりのぼりて、遠国なるうへ、寺とはなづけて候へども修学の人なし。然而(しかるに)随分諸国を修行して学問し候ひしほどに我が身は不肖なり。人はおしへず、十宗の元起(げんき)勝劣たやすくわきまへがたきところに、たまたま仏・菩薩に祈請して、一切の経論を勘(かんが)へて十宗に合はせたるに、

 

 

◇「神国王御書」建治元年(または建治年間) 真蹟、日朝本

而るに日蓮此の事を疑ひしゆへに、幼少の比(ころ)より随分に顕密二道并びに諸宗の一切の経を、或は人にならい、或は我と開き見し勘(かんが)へ見て候へば、故の候ひけるぞ。我が面を見る事は明鏡によるべし。国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず。仁王経・金光明経・最勝王経・守護経・涅槃経・法華経等の諸大乗経を開き見奉り候に、仏法に付きて国も盛へ人の寿も長く、又仏法に付きて国もほろび、人の寿も短かかるべしとみへて候。

 

 

◇「四条金吾殿御返事」文永9年 日興本

而るに日蓮は法華経の行者にもあらず、僧侶の数にも入らず。然而世の人に随って阿弥陀の名号を持ちしほどに

 

 

◇「妙法尼御前御返事」弘安元年7月 真蹟断簡

(それ)(おもん)みれば日蓮幼少の時より仏法を学し候ひしが、念願すらく、人の寿命は無常なり。出づる気は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚譬へにあらず。かしこ()きも、はかなきも、老いたるも若きも、定め無き習ひなり。されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべしと思ひて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんが()へあつ()めて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並びに臨終の後とに引き向けてみ候へば、すこ()しもくもりなし。

 

 

◇「妙法比丘尼御返事」弘安元年9月 日朝本

此の度いかにもして仏種をもうへ、生死を離るゝ身とならんと思ひて候ひし程に、皆人の願はせ給ふ事なれば、阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱へ候ひし程に、いさゝかの事ありて此の事を疑ひし故に一つの願をおこす。日本国に渡れる処の仏経並びに菩薩の論と人師の釈を習ひ見候はゞや。又倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗と申す宗どもあまた有りときく上に、禅宗・浄土宗と申す宗も候なり。此等の宗々枝葉(しよう)をばこまかに習はずとも、所詮肝要を知る身とならばやと思ひし故に、随分にはしりまはり、十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々寺々あらあら習ひ回り候ひし程に、一つの不思議あり。

 

 

◇「佐渡御書」文永9320日 日朝本

日蓮も過去の種子已(すで)に謗法の者なれば、今生に念仏者にて数年が間、法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一等と笑ひしなり。今謗法の酔ひさめて見れば、酒に酔へる者父母を打ちて悦びしが、酔ひさめて後歎きしが如し。歎けども甲斐なし、此の罪消えがたし。

 

 

◇「題目弥陀名号勝劣事」文永元年 平賀本

妙法蓮華経は能開(のうかい)なり。南無阿弥陀仏は所開(しょかい)なり。能開所開を弁(わきま)へずして南無阿弥陀仏こそ南無妙法蓮華経よと物知りがほ()に申し侍るなり。日蓮幼少の時、習ひそこなひの天台宗・真言宗に教へられて、此の義を存じて数十年の間ありしなり。是存外(ぞんがい)の僻案(びゃくあん)なり。

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