日蓮滅後の門下の動向をめぐって 1

1282年・弘安5年

9月 日 「身延相承書」を日蓮が日興に渡され、「本門弘通の大導師」と定められたと伝承。

  

98日 日蓮一行、身延山を発。

 

918日 池上に着。

 

919日 波木井実長に書を送る。「波木井殿御報」

◆「波木井殿御報」では「所らうのあひだはんぎやうをくはへず候事恐れ入り候」とあり、日蓮は書を代筆させ、半形を書くこともできないほど、病の症状が重い状態でした。

 

108日 日蓮は六老僧を定める。

一弟子六人事 不次第」と、六老僧を一弟子とする。

 

1013日 「池上相承書」を日蓮が日興に渡され、「仏法の一切が附属され、身延山久遠寺の別当」と定められたと伝承。

 

 

10月13日 日蓮入滅

 

【  宗祖御遷化記録 】

 

16日 「宗祖御遷化記録」を日興が執筆。 正本・西山本門寺蔵

(「御遷化記録」は、平成5120日に国の重要文化財の指定を受けました)

 

「宗祖御遷化記録」の一部

 

一 弘長元年 辛酉 五月十二日 伊豆国被流 御年四十

預伊東八郎左衛門尉 造立正安国論一巻 奉最明寺入道殿也

  同三年二月廿二日赦免

 

一 文永八年 辛未 九月十二日 被流佐土島 御年五十

  預武州泰司 依極楽寺長老 良観房訴状也 訴状在別紙

  同十一年 甲戌 二月十四日赦免

  同五月十六日 甲斐国波木井身延山隠居 地頭南部六郎入道

 

一 弘安五年 丙午 九月十八日 武州池上入御 地頭衛門太夫宗仲

同十月八日 本弟子六人被定置 此状六人面々可帯 日興一筆也

 

定 

一弟子六人事 不次第

 蓮花阿闍梨 日持 

    日頂 

 佐士公   日向

一 白蓮阿闍梨 日興 

 大國阿闍梨 日朗 

 弁阿闍梨  日昭

右六人者本弟子也 仍為向後所定如件

弘安五年十月八日

同十三日辰時御滅 御年六十一 即時大地震動

同十四日 戌時御入棺 日朗 日昭 子時御葬也

 

 

◆「宗祖御遷化記録」の「一弟子」の意味するところは?

「いちでしろくにんのこと ふしだい」ですから、日蓮の一弟子である六人に次第はない、という意味でしょう。「一弟子」とは一番弟子、第一の弟子、第一級の長老ということで、それが「不次第」ですから、日蓮選定の六老僧は「日蓮門下の第一級の長老・本弟子であり、門下の依師、法燈であり、六老僧に区別はなく対等である」という解釈が可能ではないでしょうか。

 

◆これは「六老僧」が日蓮滅後の導師となり、それぞれが率いる「六老僧一門」が日蓮の法門を伝承、令法久住の責を全うし、外に向かっては有縁の地を中心に教線を担い、妙法蓮華経の流布・広宣流布を託された、同時に「六老僧一門」相和しての共栄、興隆を願われたことでもあるのでしょう。

それを日蓮が入滅に先立ち六老僧に遺命され、託された老僧もその遺命を拝して共有した、後代への明白な文証が、「御遷化記録」であると拝察します。

・・・実際は日蓮の遺命、思いとは違う方向へと展開していくわけですが。

 

 

1282年・弘安5年

 

1211日 「波木井の書状」

まことに御経を聴聞つかまつり候も、聖人の御事はさる御事にて候。それにわたらせ給候御ゆえとこそ偏へに存じ候へ。よろづ見参にいり候て申べく候。恐々謹言
十二月十一日  源 実長

 

◆弘安510月に四老僧を始めとする弟子衆が身延に入り、翌年の1月に百か日忌ですから、それ以前に日興が身延に在山していたとしても不思議ではありません。波木井実長を教化したのは日興であり元々、法縁の多いところです。ですが、この「弘安51211日の波木井の書状」を引用して1282年・弘安510月~1289年・正応2年春までの、日興身延常住の根拠にするのは時系列からしていかがでしょうか。

 

 

1283年・弘安6年(滅後2年)

 

1月 日蓮百ケ日忌

 

1月 百ケ日忌後、日昭は相模浜土、日朗は鎌倉比企谷、日頂は下総真間へと下向。

 

45日 富木常忍は「観心本尊抄私見聞」を著します。

 

426日 太田乗明卒 76

 

1013日 日蓮一周忌

 

 

1284年・弘安7年(滅後3年)

 

44日 北条時宗卒 34

 

512日 日目は、日尊を伴い身延山を訪れます。

◆尊師実録 (日蓮宗宗学全書2-411)

弘安七年甲申・五月十二日、甲州身延山へ登山、同年十月十三日、大聖人第三回御仏事に相当たる日、始て日興上人に対面、御影堂出仕云々

 

1012日 富木常忍は日頂を勘当します。

◆日頂の幼少時、母親が富木常忍と再婚して養子となりました。

この頃には、日頂は真間弘法寺の住持でしたが、別当の及川宗秀等の讒言があり、富木常忍から勘当されてしまいます。後に弟子の日揚に弘法寺を託し、自身は重須の日興のもとへと参じました。

 

1013日 日蓮三回忌

 

同日 日尊は日興と会う。

 

1018日 日興は上総の美作房日保に宛てて書を送る、「美作房御返事」。

何事よりも身延沢の御墓の荒れはて候て鹿かせきの蹄に親たり懸らせ給ひ候事目も当てられぬ事に候 

⇒日興は他の老僧方へ登延を促します。

 

12月 日昭は鎌倉に妙法華寺を開創。

 

 

1285年・弘安8年(滅後4年)

 

14日 波木井実長の「弘安8年正月四日状」(西山本門寺蔵)

◆波木井実長は日興に供養の書状を送る。

文中「こしやう人(故聖人)の御わたり候とこそ思まいらせ候へ」と。

⇒この波木井氏の喜びは六老僧の誰も定住していなかった身延山に、弘安7年秋以降、日興が常住するようになったからではないかと考えます。

 

4月 日昭は武家への申状で「天台沙門」と名乗る。

 

同年 身延山に入った民部阿闍梨日向は学頭となる。

 

同年 日朗は武家への申状で「天台沙門」と名乗る。

 

 

1286年・弘安9年(滅後5年)

 

219日 「無記年の二月十九日状」?

波木井実長より日興への書状に「さてわたらせ給候ことハひとへにしやう人のわたらせ給候」と。

 

 

1287年・弘安10年(滅後6年)

 

1013日 日興の書写本尊の初見。

 

◆「弘安・正応・永仁・正安」(1287年~1301)期の、初期の日興書写本尊の讃文は「仏滅度後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曾有大曼荼羅也」と「二千二百三十余年」となっています。一方、日興に付属されたと伝えられる本門戒壇の大御本尊は「二千二百二十余年」です。

 

 

1288年・正応元年(滅後7年)

 

48日 民部阿闍梨日向は、諸岡入道のもとで絵曼荼羅を描かせます。

 

68日 日持と日浄は日蓮七回忌報恩のために、池上に御影を造立。

(現在、池上本門寺・大堂に安置、国宝)

 

1013日 日蓮七回忌

 

11月 「与波木井実長書」日興著と伝承

◆一閻浮提之内日本国、日本国之内甲斐国、甲斐国中波木井郷久遠実成釈迦如来之金剛宝座也、天魔波旬不可悩、上行菩薩日蓮上人之御霊崛也、怨霊悪霊もなたむべし

(日蓮宗宗学全書2-169
身延を「上行菩薩日蓮上人之御霊崛也」と記述。

 

125日 波木井実長は日興へ書状を送る。

 

1216日 日興は身延を離れる心情を記述した書を原弥六郎に送る、「原殿御返事」。

 

 

【 日蓮の遺骨について 】

 

「原殿御返事」より

追って申し候。
涅槃経第三第九二巻御所にて談じて候いしを、愚書に取具して持ち来って候。
聖人の御経にて渡らせ給い候間、慥かに送り進らせ候。
兼ねて又御堂の北のたなに四十九院の大衆の送られ候いし時の申状の候いし、御覧候いて便宜に付し給うべくや候らん。見るべき事等候。毎事後信の時を期して候。

 

追って申し上げます。
涅槃経の第三巻と第九巻の二巻を御所(実長邸)で講義致しましたが、その際、私の書物と紛れて持って来てしまいました。
これは日蓮聖人ご所持の御経ですから、確かに元のところへお送り致しました。
それから、御堂(日蓮がいた十間四面の大坊)の北の棚に、四十九院の大衆が幕府に送った時の申状がありますが、確認していただき、都合が付いた時に送ってください。私のものであり必要ですので。何かありましたら、次のお手紙で申し上げます。
恐恐(恐れながら申し上げました)。

 

自身の書物と紛れて持って来てしまった「涅槃経の第三巻と第九巻の二巻」を日蓮聖人ご所持の御経であるからとして、元のところ(身延山)へ送り返した日興です。いかに自分が去る所・身延とはいえ、先師所持の経典を大切にされ元に戻すという細やかな心遣いをする日興が、日蓮の遺骨を持ち出すことはまずは考えられないと思います。

 

 

・池上における日蓮の遺言

1282年・弘安五年919日 「波木井殿御報」

さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候みを九年まで御きえ候いぬる御心ざし申すばかりなく候へばいづくにて死に候ともはか()をばみのぶさわ(身延沢)にせさせ候べく候。

 

 

・「富士一跡門徒存知の事」 

一、甲斐の国波木井郷身延山の麓に聖人の御廟(ごびょう・霊を祀る、墓所)あり而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細は彼の御廟の地頭南部六道入道[法名日円]は日興最初発心の弟子なり、此の因縁に依つて聖人御在所九箇年の間帰依し奉る滅後其の年月義絶する条条の事。

⇒ 「身延山の麓に聖人の御廟あり」「日興彼の御廟に通ぜざる子細は彼の御廟の地頭南部六道入道」と、身延山に日蓮の「御廟」が有る、と明確に記述しています。

 

 

・「五人所破抄」三位日順草案 

日興が云く~抑身延一沢の余流未だ法水の清濁を分たず強いて御廟の参否を論ぜば汝等将に砕身の舎利を信ぜんとす何ぞ法華の持者と号せんや、迷暗尤も甚し

⇒ 三位日順は「日興が云く」として身延に参詣するのは、「砕身の舎利=真骨」によるものであり、法華の持者とはいえないと制誡。認識として、「身延山久遠寺は砕身の舎利がある御廟」としています。

 

 

1289年・正応2年(滅後8年)

 

1月  日興は武家へ申状を提出。 (富要 8-332 )

◆興師申状の一、祖滅八年、写本要山等に在り、武家への諌状なり 

~日蓮聖人仏の使いとなり生を末世に受けて正法を弘め志を求法に寄せて円意を悟る~

正応二年正月日

⇒「日蓮は仏の使い」と。

 

121日 波木井日円は鎌倉より書状を越前公に送る。

 

春、日興は身延を離山

  

61日 日興は鎌倉の波木井日円(実長)へ書状を送る。

 

65日 波木井日円は日興へ返書を送る。(無記年の書状)

(前略) 日円は故聖人の御弟子にて候也。申せば老僧たちもおなし同胞にてこそわたらせ給候に、無道に師匠の御墓を捨てまいらせて、失なき日円を御ふしん候はんは、いかで仏智にもあひかなはせ給い候へき。御経にこうを入れまいらせ候師匠の御あわれみをかふり候し事、おそらくはおとりまいらせす候。せんこのしやへちはかりこそ候へ。されは仏道のさはりになるへしともおほえす候也。こまかにはけさんにも申て候き。又えちせん殿くはしく申さるへく候也。

恐々謹言 

六月五日 伯耆阿闍梨御房 日円花押 (富要 8-14 )

 

・「日興に対するこのような波木井氏の言い方は不遜極まる返事である」と指摘する向きもありますが、波木井氏は六老僧に対して対等意識であったことがうかがえます。

 

【 「三師御伝土代」の「波木井殿も五人の方に心寄せなるによって」について 】

 

日時の「三師御伝土代」日興上人御伝草案には、以下のようにあります。

 

而て大聖御滅後六人の上足奏状を捧け給ふに五人は天台の沙門と云云、興上は日蓮聖人弟子某と申状書き畢ぬこれに依って五人は一同して、興上一人正義を立つ、欝憤して不和の間、波木井殿も五人の方に心寄せなるによって、興上は身延山出て給ひて南条次郎左衛門時光が領駿州冨士上野の郷に越え給ふ、大聖人より時光が給はる御書に云く賢人殿と云云、これに依りて此地を占め寺を立て給ふ。

 

比較的、日興の時代に近いはずの1300年代末から1400年代前半の時点であるにも関わらず、基本的な認識が今日とは相当異なっています。

日時の認識としては、「波木井実長が五老僧に心を寄せたから日興が身延を離山した」ということになっています。

波木井実長は五老僧方へと変心した、故に日興は身延離山をなしたという認識です。

 

しかし、「美作房御返事」(弘安七年・〔1284〕十月十八日付け)には以下のようにあります。

 

・此の如き子細も如何と承はり度く候、波木井殿も見参に入り進らせたがらせ給ひ候、如何が御計ひ渡らせ給ひ候べき、委細の旨は越後公に申さしめ候ひ了ぬ。若し日興等が心を兼て知し食し渡らせ給ふべからずば其の様誓状を以て真実智者のほしく渡らせ給ひ候事越後公に申さしめ候、波木井殿も同事にをはしまし候、

⇒我々、日興・波木井氏の気持ちをご存知なかったのであれば、誓状を書いてもよい。

 

・さればとて老僧達の御事を愚かに思い進らせ候事は法華経も御知見候へ、地頭と申し某等と申し努々無き事に候、今も御不審免り候はゞ悦び入り候の由地頭も申され候某等も存し候、其れにもさこそ御存知わたらせ給ひ候らん、

 ⇒ さればとて、老僧達をおろそかにしているわけではない。私も波木井氏も、老僧達の不審が解けることを心より望んでいる。


これらを読めば、日昭、日朗、日向等の老僧側が波木井実長を嫌い、避けていることが分かります。それは感情的なものであったのでしょうか。日蓮三回忌にも登延せず、池上等自身有縁の地で法要を行っています。
このような問題について、日興は他の老僧に対して「誓状を書いてもよい」「おろそかにしているわけではない」「不審が解けることを心より望んでいる」等、丁寧に取り組み波木井実長を守り、日蓮門下内の不和を解消し、和合僧となれるように腐心しています。そのような心情の表れが「美作房御返事」ではないでしょうか。

 

なんとか「五老僧側と実長の関係を修復させたい」と手を打っていた日興の当時の苦心、実情を知れば、「波木井殿も五人の方に心寄せなる」とは随分と違うものである、ということが理解できます。

 

6世日時の頭の中を占めていたのは、当時、坊地をめぐる紛争の相手となっていた宰相阿闍梨日郷の一門、日賢⇒日伝・保田妙本寺側の動向だったのではないでしょうか。同じ日興の弟子の系統が、あい別れての紛争は消耗戦に等しかったのではと思います。

 

 

1290年・正応3年(滅後9年)

 

103日 日興は日目に本尊を授与、「譲座本尊」と呼称される。

 

1013日 大石寺開創

 

 

1291年・正応4年(滅後10年)

 

3月 日頂は「天台法華宗沙門」と称して、申状を提出する。

 

 

1292年・正応5年(滅後11年)

 

8月 日法は板曼荼羅を造立すると伝える。

この年に開創とされる河口湖町勝山の法華宗・妙本寺に、650数年間秘蔵保管されてきたという伝日法彫刻板曼荼羅があります。

 

17世日精「家中抄」(富要5-245)

日興身延山離散の時、日法共に離散し給ふ、其の後光長領内に於て一宇を建立し名乗を以つて寺号と為し光長寺と名け此に於いて不断の謹行なり、然るに日法、日春、兼日契約して云はく先死を以て開山と為すべし云云、然るに日春は老年の故に死去せり故に開山と為すなり、又日春三十三年忌時日法自ら板本尊を彫刻して以て彼の菩提に擬す、其の端書に云はく「日春上人三十三年御菩提の為に之を開く弟子日法」と此の文兼約に符合するか、故に此の本尊今甲州小梅村妙本寺に在るなり。

又大聖御筆曼茶羅を以つて死人を覆ひ葬する輩之れ有り故に御筆の本尊を以て形木に彫り之を授与す(此の形木今光長寺に在り)、されば冨士一跡門徒存知の事に云はく「御筆本尊を以て形木に彫り不信の輩に授与して軽賤する由し諸方に其の聞え有り、所謂日向日頂、日春等なり」(文)、日春形木彫の初なり。

日法上人の誕生は正嘉二(戊午)年、御遷化は暦応四(辛巳)年正月五日、行年八十三歳なり。

甲州東郡休息の立正寺開山日朝、此の仁の代に始て八品所顕の立義を立つ、日朝上洛して本能寺に参詣して本門八品上行所伝の南無妙法蓮華経と唱ふ、即日隆に値遇して法門あり同腹中の故、是れより通用せるなり、此れより以後冨士とは不通なり。

 

⇒「日春三十三年忌時日法自ら板本尊を彫刻」とあります。

日春は1311・応長元年316日寂です。この板本尊が彫刻されたのはプラス33年で、1340年代となります。

 

 

1294年・永仁2年(滅後13年)

 

51日 曾谷入道法蓮卒。 

 

1295年・永仁3年(滅後14年)

 

11日 六老僧の一人日持は松野・蓮永寺を日教に託し、単独で海外布教へと出発と伝える。

奥州から蝦夷に渡り、後に北京、外蒙古へ至ると伝承。

 

 

1296年・永仁4年(滅後15年)

 

62日 民部阿闍梨日向は本尊書写(京都・妙伝寺蔵)

「永仁四年大歳丙申六月二日 □坊日□授□」日蓮聖人門下歴代大曼荼羅本尊集成NO22

 

日向書写本尊には「若悩乱者頭破七分」「有供養者福過十号」が書かれ、「仏滅度後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曾有大曼荼羅也」とあります。

通称・本門戒壇の大御本尊は「若悩乱者頭破七分」「有供養者福過十号」が共になく、「二千二百二十余年之間」です

 

一部では「身延山で本門戒壇の大御本尊を拝していた日向が、後に大御本尊を真似て板本尊造立に及んだ」と言われますが、仮に日向が通称・本門戒壇の大御本尊を意識していたのなら、少なくとも自らの書写本尊に「若悩乱者頭破七分」「有供養者福過十号」を加えたり、年数を書き違えたりすることはなかったでしょう。

 

 

1297年・永仁5年(滅後16年)

 

925日  波木井実長日円卒 76

日興著「弟子分本尊目録」

一、 甲斐國南部六郎入道者日興ノ弟子也、仍テ所申与フル如シ件 (日蓮宗宗学全書2-114)

 

※永仁6(1298) 日興著

白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事」(白蓮弟子分に与へ申す御筆御本尊目録の事)

略して「弟子分本尊目録」

 

同年  摩訶一日印は越後に本成寺を創建。

 

 

1298年・永仁6年(滅後17年)

 

215日 日興は重須に御影堂を建立して、大石寺より移ります。

 

48日 摩訶一日印は越後本成寺に一尊四士を造立。

 

同年 日興、「白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事=弟子分本尊目録」を作成。

 

同年 日興、本弟子六人を選定。

1336年の三位日順による「日順阿闍梨血脈」 (富要 2-22 )

此の師亦た法主の佳例に准望して六人の名言を授与す、頗る上聖値遇の古老なり、仍て過半先立つて逝去す、往古治定する所なるが故に本六人と云ふ、次に一乗の大機を撰量して、重ねて六人の碩徳を添加す・是れ最後随逐の若徒なり、蓋し末世の竜衆と謂ふべし、近来賞翫に預れば乃ち新六人と名く。

 

 

1299年・正安元年(滅後18年)

 

36日 富木日常は「常修院本尊聖教事」を著します。

 

320日  富木日常卒 84

 

 

1300年・正安2年(滅後19年・日興の身延離山11年)

 

315日 四条金吾頼基卒 71

 

48日 日昭は京都四条烏丸において「法華本門円頓戒血脈譜」を著して日祐〔尊海弟子智祐〕に授けます。

 

同年  寂仙房日澄は日向と義絶し日興の門に入ります。

 

同年  日向は下山光長の新堂、一体仏の開眼供養を修します。

 

12月、日向、板本尊を造立

◆身延山文書
「身延山久遠寺諸堂等建立記」

一、板本尊 本尊は祖師の御筆を写すが、下添え書きは、第三祖向師の筆也。下添え書きに云く、正安二年庚子十二月 日、右、日蓮幽霊・成仏得道・乃至法界衆生平等利盛の為に敬ってこれを造立す (日宗全22-56)

 

◆大白蓮華「堀上人に富士宗門史を聞く」

学会  その中で、これはというのは、民部日向の御本尊くらいですか。

 

堀  ええ、民部日向の御本尊。それは私が東蔵に入らないうちに小さいですから、中蔵から持ってきたですね。「日蓮幽霊」と書いてありますがね。

 

学会  日向が書いたもの・・・。

 

堀  ええ、日向の書いたもの。

 

学会  ははあ。

 

堀  これくらいの(手でさし示さる、二尺弱)

それから何年かして、後で身延に行った時には、島智良の師匠分になっている、内房の本成寺の「冷泉養惇」というね、こりゃ、頑固な、とっても偉い、商売気を離れた学者でした。それが永いこと身延の総監やっていましたから。それが、わしと島智良との関係を知っていますからね。その人が、弟子がわしの世話になったからといってね、あんたのために何かしなくちゃならんというて、再々呼んでくれたです。東蔵に案内されたのは、そのときです。

そのときの蔵番(図書館主任)が今、身延で山務総監か何かやっています。「江利山」というが、まあ、何かのですかね、それが主任でしたから。それが案内したです。そうすると、その、民部日向の板本尊ばかりじゃないんじゃ。例の身延の「重遠乾」の三人ね。日重、日遠、日乾、ああいう人にまで板本尊があるんですよ。

 

学会  はあ。

 

堀  それは誰も、見た者はないです。見せないんじゃ。立派ですよ、ほとんど六尺くらいですかね。それぞれに寸法は違いますけれども・・・・。そんな大きな板本尊だったですよ。

 

 

正安年中 二十家阿闍梨日華は立像釈迦造不造について、書を小室日伝と式部公日妙に送ります。「与二人書」

 

※参考

1250年頃(鎌倉中期)から1300年頃(鎌倉末期)にかけての中古天台の書

「修禅寺決」(伝最澄)

「断証決定集」(伝最澄)

「三大章疏七面相承口決」(伝最澄)

「漢光類聚」(伝忠尋)

「法華略義見聞」(伝忠尋)

 

 

1302年・乾元元年(滅後21年)

 

1月28日 日向と天目、鎌倉名越にて本迹対論。

 

38日 日頂は下総真間弘法寺を日揚に託し、重須の日興のもとに参じます。

 

 

1303年・嘉元元年(滅後22年)

 

3月 日頂は重須に正林寺を創建します。

 

同年 中山日高は日興のもとを訪れ、後に下総に「富士の立義」を私に弘通しました。

 

 

1304年・嘉元2年(滅後23年)

 

813日 日興は寂仙房日澄を重須談所の初代学頭に補任します。

 

 

1305年・嘉元3年(滅後24年)

 

同年 三河公日蔵(蓮東坊)は下野平井に信行寺を創建。

 

1412年・応永19年に板本尊(通称・紫宸殿御本尊模刻)が造立されます。

 

1307年・徳治2年(滅後26年)

 

春 鎌倉法華衆徒に法難が起こりました。(徳治2年の法難)

 

624日 日頂は鎌倉の了性房日乗に書を送り、日興に代り法難を乗り越えるよう励まします。

 

 

1308年・徳治3年9月28日(滅後27年)

 

928日 六老僧の一人・日頂が著したとされる「本尊抄得意抄添書」(日蓮宗宗学全書1-44)

この書が日頂のものであると一部では主張します。

 

「興上・一期弘法の附属を受け日蓮・日興と次第、日興は無辺行の再来として末法本門の教主・日蓮が本意之法門直受たり、塾脱を捨て下種を取るべき時節なり」

 

文中の「日蓮=本門教主」との考えは、1480年・文明12(滅後199)、京都・住本寺僧・日叶の「百五十ヵ条」以降に明文化、多用されます。

「本尊抄得意抄添書」は室町・戦国期以降の作でしょうか。

 

 

1309年・延慶2(滅後28年)

 

この年、寂仙房日澄は「富士一跡門徒存知事」を草しました(富士年表による)

以下、「富士一跡門徒存知事」より

 

◆当時の六門徒の本尊観

日興以外の老僧は「仏像主体、曼荼羅傍」との認識。

 

一、本尊の事四箇条
一、五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり、随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云、而る間盛に堂舎を造り或は一躰を安置し或は普賢文殊を脇士とす、仍つて聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り又は堂舎の廊に之を捨て置く。
日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり。


一、上の如く一同に此の本尊を忽緒し奉るの間或は曼荼羅なりと云って死人を覆うて葬る輩も有り、或は又沽却する族も有り、此くの如く軽賎する間多分は以て失せ畢んぬ。
日興が云く、此の御筆の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず正像末に未だ弘通せざる本尊なり、然れば則ち日興門徒の所持の輩に於ては左右無く子孫にも譲り弟子等にも付嘱すべからず、同一所に安置し奉り六人一同に守護し奉る可し、是れ偏に広宣流布の時本化国主御尋有らん期まで深く敬重し奉る可し。

 

 

◆各地の造仏

・正安二年(1300)民部阿闍梨彼の新堂並びに一躰仏を開眼供養す

 

・永仁年中(12931298)、越後国に摩訶一と云う者有り[天台宗の学匠なり]日興が義(一尊四士)を盗み取つて盛んに越後国に弘通する

 

・正安年中(12991301)以来、浄法房天目と云う者有り[聖人に値い奉る]日興が義を盗み取り鎌倉に於て之を弘通す

 

・少輔房日高去る嘉元年中(13031305)以来、日興が義を盗み取つて下総の国に於て盛んに弘通す。

 

・伊予阿闍梨の下総国真間の堂は一躰仏なり、而るに去る年月、日興が義を盗み取つて四脇士を副う

 

・甲斐国に肥前房日伝と云う者有り[寂日房向背の弟子なり]日興が義を盗み取つて甲斐国に於て盛んに此の義を弘通す

 

 

◆形木本尊の存在・・・「日向・日頂・日春等」

本尊を彫刻という手法はこれらの門流が先駆けか。

 

一御筆の本尊を以て形木に彫み不信の輩に授与して軽賎する由・諸方に其の聞え有り、所謂・日向・日頂・日春等なり。日興の弟子分に於ては在家・出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若は又在所を追放せられ一分信心の有る輩に忝くも書写し奉り之を授与する者なり。

 

 

◆広宣流布の時の本門寺について、先師・日蓮は「何れの国・何れの所とも之れを定め置かれず」と国(地方)・場所を定められなかった。日興が申し状等で「富士山麓に本門寺を建てるべき」と明示した。

 

一、   本門寺を建つべき在所の事。(富要1-56)

彼の天台・伝教は存生に之れを用いらるるの間・直ちに寺塔を立てたもう。所謂大唐の天台山・本朝の比叡山是れなり。而るに此の本門寺に於ては先師何れの国何れの所とも之れを定め置かれず。

爰に日興が云わく、凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり。然れば駿河国・富士山は、是れ日本第一の名山なり。最も此の砌に於いて本門寺を建立すべき由、奏聞し畢んぬ。仍って広宣流布の時至り、国主此の法門を用いらるるの時必ず富士山に立てらるべきなり。~

 

 

◆文中の「義絶」を、一部では「日興が本門弘通の大導師であった証拠である」と主張。

 

一、甲斐の国波木井郷身延山の麓に聖人の御廟あり、而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細は彼の御廟の地頭南部六道入道[法名日円]は日興最初発心の弟子なり、此の因縁に依つて聖人御在所九箇年の間帰依し奉る滅後其の年月義絶する条条の事。

釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし是一。

次に聖人御在生九箇年の間停止せらるる神社参詣其の年に之を始む二所三島に参詣を致せり是二。

次に一門の勧進と号して南部の郷内のフクシの塔を供養奉加之有り是三。

次に一門仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇之を造立し荘厳せり、甲斐国其の処なり是四。

已上四箇条の謗法を教訓するに日向之を許すと云云、此の義に依つて去る其の年月彼の波木井入道の子孫と永く以て師弟の義絶し畢んぬ、よつて御廟に相通ぜざるなり。

 

⇒文書を読めば、何らかの特別な付属を受けた宗教上の権威的立場にある弟子としての義絶ではなく、日蓮の法門継承の主体は自らとその門下であるとの自覚による、「宗教的信念により確立された正統の弟子としての立場」からの義絶といえるのではないでしょうか。

 

 

◆「富士一跡門徒存知事」文末

御本応永廿九(1422)年極月廿七日に書写せしめ畢ぬ 筆者・日算六十八歳

永正十八(1521)年六月四日に之を書き畢ぬ、此の抄は九州日向の国日知屋の定善寺より相伝す、同じく細島妙谷寺に堪忍の境節、北向の御堂の部屋にて之を書写し畢ぬ。駿河国重須本門寺衆大夫公日誉在判 

編者曰く 大石寺蔵日誉写本に依つて之を写し他の数本を以て校訂を加ふ。

 

 

1310年・延慶3年(滅後29年)

 

38日 日朗は重須を訪ねて日興と法門談義か

 

◆家中抄・日興 17世日精 (富要 5-170 )
延慶三年(1310)三月八日・日朗始て冨士に参詣し給ふ、爰において本迹の僉議あり終に屈伏して是より以後本迹勝劣同心一味の状を興師に献ぜらる、其の後文保元年(1319)にも亦参詣あり

 

◆三師御伝土代・日興上人御伝草案  日時筆  (富要 5-10 )
一、日朗上人去る正中の頃(13241325)冨士山に入御あり日興上人と御一同あり、実に地涌千界の眷属上行菩薩なり、御弟子にてまします貴とむべし

3月14日 寂仙房日澄寂。49

 

 

1311年・応長元年(滅後30年)

 

3月16日 岡宮光長寺2代(初代説もあり)日春寂。

 

626日 大石寺・蓮成坊開基、越後房日弁寂 73

 

 

1312年・正和元年(滅後31年)

 

314日 鎌倉で大火があり、日朗の住坊が焼亡して経論等が全て焼失してしまう。

 

 

1313年・正和2年(滅後32年)

 

民部日向は身延より上総藻原に移り、身延山の後住には大進阿闍梨日進が就く。

⇒藻原寺の寺伝では、長南町坂本の「奥の院向尊殿」は民部日向の隠居所。
日向廟上に「700年、未開の御宝窟」があるとのこと。

 

 

同年 三位日順は日蓮御影を描きます。

 

◆家中抄・日順伝  (富要5-242)

延慶三(庚戌)三月十四日澄公入滅す(時に十七歳なり)正和元(壬子)年大聖人の御影を図し奉り興上の披見に備ふ、日興嘆じて曰はく相似の分なりと書き付けて下さる(十九歳なり)、文保二(戊午)十一月廿四日大師講、重須談所に於て講談を至さるるの時日順表白を書せらる・是れ重須談所の論議の始なり(廿五歳なり)、興師七十二歳なり。

 

 

◆「富士一跡門徒存知の事」

一、聖人御影像の事。
或は五人と云い或は在家と云い絵像木像に図し奉る事在在所所に其の数を知らず而るに面面不同なり。
爰に日興が云く、御影を図する所詮は後代に知らしめん為なり是に付け非に付け有りの侭に図し奉る可きなり、之に依つて日興門徒の在家出家の輩聖人を見奉る仁等一同に評議して其の年月図し奉る所なり、全体異らずと雖も大概麁相に之を図す仍つて裏に書き付けを成すなり、但し彼の面面の図像一も相似ざる中に去る正和二年日順図絵の本有り、相似の分なけれども自余の像よりも少し面影有り、而る間後輩に彼此是非を弁ぜしめんが為裏書に不似と付け置く。

 

 

1314年・正和3年(滅後33年)

 

93日 民部日向は上総に寂 62

 

◆参考・「日代八通の譲り状」の一

一、六人の弟子を定むと雖も日代は日興付属の弟子として当宗の法燈たるべし、仍て之れを示す、正和三年十月十三日日興在判、御歳六十九歳。 

 

 

1317年・文保元年(滅後36年)

 

38日 日頂は重須に寂 66

 

116日 「遺跡之事」日昭著 (日蓮宗宗学全書1-12)より

一、聖人御歯二粒ハ御存生之時親リ聖人之御手自リ賜フ所也

 

同年 三位日順は重須談所2代学頭に補任される。

 

同年 日朗が再び重須を訪問し正御影を拝すると伝える。

 

 

1318年・文保2年(滅後37年)

 

1124日 日興は重須談所に問答講(論議)を始め、三位日順は「表白文」を著します。

 

◆三位日順 「表白」  (富要 2- 11)

我が朝は本仏の所住なるべき故に本朝と申し月氏震旦に勝れたり・仍つて日本と名く、富士山をば或は大日山とも号し又蓮華山とも呼ぶ、此れ偏へに大日本国の中央の大日山に日蓮聖人大本門寺建立すべき故に先き立つて大日山と号するか、

 

 

同年 日興は画工に自像を写させる。

 

◆日精「家中抄」 (富要5-171)

文保二年に師画工を召して自身の御影を写さしめ給ふ、此の年白蓮持仏安置本尊を書写し給ふ重須の本尊なり今平井信行寺に在るなり。

 

 

 

12月 鎌倉幕府の執権・北条高時は日朗に対し「殿中で諸宗と討論せよ」と命じました。この時には年輩となっていた日朗に代わり、摩訶一日印が名代として討論。

これが「鎌倉殿中問答」と呼ばれるもので、1319年・元応元年915日の決着まで数度の討論を行い、諸宗を論破したとされています。

 

 

1218日  日朗一門の日像記示大覚「大曼荼羅事」。

 

 

1320年・文保4年(滅後39年)

 

1月21日 日朗、池上南窪に寂 76

 

 

1323年・元亨3年(滅後42年)

 

326日 日昭、鎌倉浜土に寂 103

 

622日 日興は佐渡国法華講衆に書を送る、「佐渡国法花講衆御返事」。

 

 

1324年・正中元年(滅後43年)

 

3月 南条時光は富士上野郷堀之内を二十家阿闍梨日華に寄託し妙蓮寺を開創。

 

4月 中山日祐は聖教書写のため上洛する。

 

 

1325年・正中2年(滅後44年)

 

◆参考 1013日付け 「五師へ付嘱状」 (富要8 -143 )

※ 当書は北山本門寺所蔵 保田妙本寺では日要以来、切紙相承の中に加えているとのこと。

 

一 日蓮聖人の御仏法 日興存知の分を日代阿闍梨に之を付嘱す。

一 本門寺三堂の本尊は式部阿闍梨日妙二十七箇年の行学たるに依り之を付嘱す。

一 東国は法華の頭領卿阿闍梨日目に之を付嘱す。

一 西国三十一箇国は法華の頭領讃岐阿闍梨日仙に之を付嘱す。

一 北陸道七箇国は法華の別当日満阿闍梨に之を付嘱す。

門徒の大事之に如かず。

正中二年(1325)乙卯十月十三日    白蓮阿闍梨日興在り判。

 

 

◆参考・日代八通の譲り状の二

一、日蓮聖人御法立の次第、日興存知の分弟子日代阿闍梨に之れを相伝せしめ畢ぬ、仍って門徒存知の為め置き状件の如し。

正中二年十月十三日(日興在判日代卅二才御歳八十才)

 

◆日代八通の譲り状の三

一、日興先年病床の時六人の弟子を定むと雖も其の後日代以下の弟子有り。六人の外と号して之れを軽賤すべからず、六人と雖も違背に於ては沙汰の限にあらず、仍つて後証の為め置き状件の如し。

正中二年十月十三日 日興在判。

 

◆日代八通の譲り状の四

一、正中二年十一月十二日の夜、日蓮聖人の御影堂に於いて日興に給ふ所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、並に日興影像一鋪、聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ、日興帰寂の後若し弟子分の中に相続の人と号して之れを出さしむる輩は門徒の怨敵、大謗法、不孝たるべき者なり、謗法の罪に於ては釈迦多宝十方三世の諸仏、日蓮聖人の御罰を蒙るべし、盗人の科に於ては御沙汰として上裁を仰ぐべし、若し出で来らん時は日代阿闍梨之れを相続して本門寺の重宝たるべし、仍って門徒存知の為に置き状件の如し。

正中二年十一月十三日 日興在判

 

 

1327年・嘉暦2年(滅後46年)

 

8月 日興は申状を公家に上奏。

 

◆興師申状の三、祖滅四十六年、写本要山等に在り、五人所破抄に引用せるものにして公家上奏の分なり

~今末法に入っては上行出世の境本門流布の時なり~天台伝教は像法の時に当たって演説し日蓮聖人は末法の代を迎へて恢弘(かいこう・広めること)す、彼れは薬王の後身此れは上行の再誕なり、経文に載する所解釈に炳焉(へいえん・明らかである)なる者なり

嘉暦二年八月日

⇒公に対しては日蓮を「上行の再誕」と。

 

1110日 日目は日道に土地「陸前三ノ迫加賀野・伊豆南条」譲状を与える。

 

同日 日目は日道に上新田坊を譲る。

 

◆参考・日代八通の譲り状の五

一、聖人御門徒各別の事は法門邪正本迹の諍に依るなり、日興の遺跡等法門異義の時は是非を論ずと雖も世事の遺恨を以て偏執を挿むべからず、就中日代に於ては在家出家共に日興の如く思し食さるべく候、門徒存知の為め置き状件の如し。

 

嘉暦二年九月十八日 日興在判

 

1328年・嘉暦3年(滅後47年)

 

7月  三位日順は「五人所破抄」を草案。

 

◆爰に先師聖人親り大聖の付を受けて末法の主たりと雖も、早く無常の相を表して円寂に帰入するの刻み、五字紹継の為に六人の遺弟を定めたまふ。

⇒「五字紹継の為に六人の遺弟」六門徒和合僧による妙法蓮華経の弘通。

⇒「末法の主」を一部では「日蓮本仏」の文証とする。

 

◆日興公家に奏し武家に訴えて云く。 日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり、(中略)

就中天台伝教は像法の時に当つて演説し日蓮聖人は末法の代を迎えて恢弘す、彼は薬王の後身此れは上行の再誕なり経文に載する所解釈炳焉たる者なり。

⇒日蓮を「上行菩薩の再誕」と。

 

◆今日蓮聖人は万年救護の為に六人の上首を定む・然りと雖も法門既に二途に分れ門徒亦一准ならず、宿習の至り正師に遇うと雖も伝持の人自他弁じ難し、能く是の法を聴く者此の人亦復難しと此の言若し堕ちなば将来悲む可し、経文と解釈と宛かも符契の如し迹化の悲歎猶此くの如し本門の墜堕寧ろ愁えざらんや、案立若し先師に違わば一身の短慮尤も恐れ有り・言う所亦仏意に叶わば五人の謬義甚だ憂う可し取捨正見に任す思惟して宜しく解すべし云云。

⇒他の老僧に対する富士一門としての意識と思想を明確に記述。

 

915日 重須開基檀那・石川孫三郎源能忠(法号妙玄日真)卒。

 

1220日 摩訶一日印は越後妙蓮寺で寂 65

 

 

1329年・元徳元年(滅後48年)

 

5月 三位日順は眼疾により甲斐大沢に隠棲します。

 

 

1330年・元徳2年(滅後49年)

 

◆参考 215日 「日妙譲り状」(富要 8-144 ) 

日蓮聖人の御仏法、日興慥に給はる所なり、就中日妙は三堂の本尊を守護申すべき仁なり、末代の為に日代判を以て証人として書写し畢ぬ、我か門弟等以後に於いて諍ふ事有るべからず候、仍て後日の為めに状件の如し。

元徳二年庚午二月十五日 日興在判  本門寺日妙に之れを授与す

 

同年 日禅は日助と共に上野に東光寺を開創。

 

 

1331年・元徳三年・元弘元年(滅後50年)

 

312日 日禅は大石寺日禅ガ坊(南之坊)で寂。

◆この時、「日禅授与本尊」は坊に奉安されていたことでしょう。

日禅亡き後、一旦、日興の手元にあずけられたのか?

そのまま坊に奉安されたのか?

 

320日  中山日祐は身延日進を導師に請じ、法華堂開堂供養を修します。

 

10月1日  日目は日郷に法門相承したと伝えられています。(日睿類集記)

 

◆参考・日代八通の譲り状の六

一、熱海湯地の事、伊豆国走湯山の東院尼妙円の譲状に任せて知行せしめ了んぬ、弟子日代阿闍梨付法たるに依って譲り渡す所なり、仍て状件の如し。

元徳三年十月十一日 日興在判(日代卅七即ち元弘元年なり)

 

 

1332年・元弘2年・正慶元年(滅後51年)

 

112日 日道は日興の御遺告を記したか。

◆大石寺6世日時の筆とされる「三師御伝土代」に記述される。

 

日興上人御遺告、元徳四年正月十二日日道之を記す。

(富要 5-9 )

一大聖人の御書は和字たるべき事

一鎌倉五人の天台沙門は謂れ無き事

一一部五種の行は時過たる事

一一躰仏の事

一天目房の方便品読む可らすと立るは大謗法の事

倩を天目一途の邪義を案ずるに専ら地涌千界の正法に背く者なり。

右以条々鎌倉方五人併に天目等之誤多しと雖も先十七ケ条を以てこれを難破す、十七の中に此の五の条等第一の大事なり何ぞ此を難破しこれを退治せん云云。

 

 

5月1日 南条時光大行寂 74

 

1016日 日興は佐渡の阿仏日満を「北陸道七箇国の法花の大別当」に定めます。

(富要 8-145 )

 

~然れば、阿仏房の跡相続の子孫は北陸道の法燈たるべきの由、日蓮聖人の御筆跡の旨に任せて日満阿闍梨は北陸道七箇国の法花の大別当たるべき者なり、大衆此の後此の旨を存知せらるべし、惣じて日興門徒の僧俗等聊も之を違失することなかれ、~

 

同年 日興は新六僧を定めます。

 

◆参考・日代八通の譲り状の七

一、定る日興弟子の事

日目 日代

日華 日澄

日秀付日代 日道

日禅 日善 日助 日妙

日仙 日豪

日乗 日助

右定むる所此くの如し、日目、日仙、日代等は本門寺仏法の大奉行たるべきなり、但し日代阿闍梨を以て日興の補処と為し大聖人御筆の大漫茶羅以下自筆の御書等之れを相伝せしめ本門寺の重宝たるべきなり、本六人新六人共に此旨を存ぜらるべきなり、若し七十以後の状共と号し此の条々棄て置くの弟子等大謗法の仁たるべきなり、在家出家共に此条を守るべし、仍て置き状件の如し。

元徳四年二月十五日 日興在判

 

◆参考・日代八通の譲り状の八

日時

日弁

日経

日興 日什

日済

日延 日定

一、日秀阿闍梨の跡ならびに御筆大本尊、日代阿闍梨に補任せしむる所なり、日興が門徒等此の旨を存すべきなり、若し此の状を用ひざる者は大謗法の仁たるべきなり、仍って置き状件の如し。

元徳四年二月十五日 日興在判 

 

 

1333年・元弘3年・正慶2年(滅後52年)

 

113日 日興は「遺誡置文二十六ケ条」を定めると伝える。

 

27日 日興は重須にて入滅 88

 

2月 宰相阿闍梨日郷は「日興遷化記録及び遺物配分の事」を記します。

 

5月21日 新田義貞は鎌倉を攻略

 

5月22日 北条氏滅亡

 

5月25日 後醍醐天皇は光厳天皇を廃し、年号を元弘に復す。

 

65日 後醍醐天皇は京都に還幸(建武の中興)

 

1115日  日目は日尊・日郷を伴っての天奏上洛途中、美濃の垂井にて寂 74

 

 

1334年・建武元年(滅後53年)

 

17日 仙代問答

上蓮房日仙と伊予公日代は大石寺上蓮(百貫)坊において「迹門読不読」について問答をします。

 

この年、伊予公日代は重須を出て大石寺の藤木坊に仮寓しました。

 

17日 薩摩法印は仙代問答により日道の弟子となります。(叡縁)

 

215日 上蓮房日仙は讃岐へと向かいました。

 

2月 奥州題目板碑

我亦為世父 右為過去日目上人 衆徒

南無妙法蓮華経 元弘四年二月時正

救諸苦患者 為御報恩謹造立如件 敬白

 

44日 宰相阿闍梨日郷は安房山中に顕徳寺を開創します。(寺誌)

 

77日 上蓮房日仙は讃岐高瀬に中之坊を開創します。(寺誌)

 

816日 大石寺寂日坊・富士妙蓮寺開基、二十家阿闍梨寂日房日華は富士妙蓮寺に寂 83

 

 

1335年・建武2年(滅後54年)

 

118日 石川孫三郎妙林戦死。(大過去帳)

 

2月 薩摩法印は日郷に帰伏し、薩摩阿闍梨日叡と改めます。(叡縁)

 

3月 日叡は日向に帰り日能を教化し、法華堂(定善寺)を富士門流に改めます。(叡縁)

 

秋 日郷は大石寺蓮蔵坊を退出し、続いて安房吉浜に法華堂(保田妙本寺)を創建しました。(富要 8-69 ) 

◆この時点かどうか直接の証拠はないようですが、通称・万年救護本尊は日郷により保田妙本寺へ移されています。

 

 

1336年・延元元年(滅後55年)

 

915日 三位日順は甲斐下山にて「日順阿闍梨血脈」を著します。

 

◆~中ん就く及加刀杖の衆難を頂上の大疵に備へ・数数見擯出の経文を両度の流罪に表はす、况滅度後の怨嫉は如来の現在に越へ、護持此経の功力は正像の祖師に勝れたり、当に知るべし・日蓮聖人の出現は上行菩薩の後身なり、行者已に出世して結要付属を弘通す~

日興上人は是れ日蓮聖人の付処、本門所伝の導師なり禀承五人に越え紹継章安に並ぶ、所以は何ん、五老同く天台の余流と号し、冨山は直に地涌の眷属と称す~(富要2-22)

⇒日蓮を「上行菩薩の後身」と。

 

◆同書

・南無久遠実成釈迦如来上行菩薩―後身日蓮聖人―本門所伝導師―日興上人―日頂上人―

日澄―日順、大妙

・堀日亨師訂正

日蓮聖人―日興上人、日頂上人―日順、大妙(秋山新九郎)

 (富要2-2425)

⇒重須の血脈の系譜を記しています。

 

 

1124日 三位日順は「用心抄」を著します。

 

◆抑久遠の如来は首題を上行菩薩に付囑し、日蓮聖人の法門は日興上人に紹継し紹継の法躰は日澄和尚類聚す、類聚興顕して師に先立つて没す、上人常に誓願して曰はく、先聖に逢値する五老すら猶謬誤有り・早世以来の弟子定めて非義を懐かん、自今已後・聖人著述の書釈に任せ久く法光を曜し澄師所撰の要文を守りて宜しく宗旨を興すべし、法華に皆な進む時来り本門寺の立つの期至らば澄公の跡を以つて大学頭に補せよと云云、貴命実に憑み有り・言ふ所豈に唐損ならんや。

然るに日順八歳の幼稚の昔より四十有余の今に至るまで、鎮に一乗を学んで自然に聖教を伝授す、若くして両師に仕へて任運に本尊を感得せり、爰に元徳第一仲春の比・眼目病ひ有り身体廃るが如し、悲ひかな過去の誹謗今眼前に顕はれ、痛ひかな在世の行学・面目を失ふに似たり、仍つて師辺の案内を啓し、大沢に蟄居すと雖も鶴林の遺訓を恐れて富山の交衆を致す、兼ねて先師澄公の跡を尋求するに、衆中に未だ本尊所伝の法器有らず、法器とは正直信心の上に行学双備の仁なり、伏して以みるに大聖富山二代の門家・面面の異議今に絶へず、定めて知んぬ一は是・余は非なることを、(富要2-16)

 

時に建武第三太歳丙子仲冬二十四日、甲州下山大沢の草庵に於いて且は令法久住の為め且は門徒の繁昌を念ひ智目闇き上に肉眼盲たりと雖も、愚案を廻らす大概ね件の如し。~

本山所蔵の用心抄・心底抄合本の首に。

「(用心抄心底抄) 日眼 相伝南条日住之」

とあり日眼写本を日住が相伝せるなり、

 

同年 太夫阿闍梨日尊は京都六角に上行院を開創。

 

 

1338年・延元3年・暦応元年・建武5年(滅後57年)

 

55日 南条時光五男・時綱は「大石寺東方=東坊地」を日郷へ譲ります。(富要 9-37 )

 

◆大石寺の境内は分割され、東坊地は保田の日郷一門が所有を主張し、対する西坊地には日道一門が入り、問題が解決するまで72年間(堀日亨師談)を要するほどに紛糾しています。

 

 

1340年・興国元年・暦応3年8月(滅後59年 大石寺は5世日行)

 

412日 上総妙覚寺開基・美作房日保寂 83

 

5月中旬、日大は「日尊実録=尊師実録」を著す

 

◆同書・・・本尊の銘に云く「仏滅後二千二百三十余年」の曼陀羅を本義の如く書写し奉るべし

⇒本門戒壇の大御本尊の讃文年数は「二千二百二十余年」です。

 

◆同書・・・一 久成釈迦造立有無の事

日興上人の仰せに云く、末法は濁乱也、三類の強敵之有り、爾れば木像等の色相荘厳の仏は崇敬憚り有り、香華燈明の供養も叶う可から不、広宣流布の時分まで大曼荼羅を安置し奉るべし

⇒「末法は五濁悪世であり、三類の強敵が充満しており、いつ不足の事態が起きるか分からない。いざという時に、仏像では容易に動けない。故に広宣流布の時までは曼荼羅本尊を安置すべきが日興の教え」と、日大が理解していたことを示しています。

 

715日 日郷は延年寺成願より、京都鳥辺野の地を取得します。(日目墓地第1次買得)

(富要8-70)

 

8月 日尊は「日目筆本尊」を模刻。

 

◆日目上人御筆漫荼羅の分  (日尊上人模刻して其脇書に)

暦応三年壬辰八月日   上行日尊之を彫刻す   京都要法寺  (富要 8-210 )

 

 

1341年・興国2年・暦応4年(滅後60年 大石寺5世日行)

 

15日 岡宮光長寺2代和泉公日法寂。

 

25日 日叡は蓮蔵坊(小泉久遠寺)に参詣。(叡譜・950

 

212日 日叡は保田妙本寺において日郷より受学。(叡譜)

 

226日 日道寂 59

 

この年、太夫阿闍梨日尊は京都上行院に立像の釈迦・十大弟子を立てます。

 

◆祖師伝 日印の伝

此の仏像の事は去る暦応四年に有る仁の方より安置候へとて寄進せしめ候ひ畢ぬ、教主は立像脇士は十大弟子にて御座候 (富要 5-47 )

 

 

1342年・興国3年・康永元年(滅後61年大石寺5世日行)

 

314日 三位日順は「誓文」を著す。 (富要 2-28 )

 

◆別して本尊総体の日蓮聖人の御罸を蒙り、現世には一身の安堵を失ひ、劫つて諸人の嘲りを招き未来には無間に堕ち将に大苦悩を受けんとす、

⇒「本尊総体の日蓮聖人」を一部では日蓮本仏の文証としているようです。

 

同年 通称「大石寺御影」については御影の体内に日郷自筆の墨書銘が有り、この年に大石寺・蓮藏坊より保田妙本寺に遷座したとされています。

(「中世東国日蓮宗寺院の研究」P52 佐藤 博信氏著 2003 東京大学出版会)

 

 

1343年・興国4年・康永2年(滅後62年 大石寺5世日行)

 

27日 如寂房日満は「日代上人重須離山事」を記す。(富要8-165)

 

2月 奥州題目板碑

我亦為世父 右為一柳 [  ]

南無妙法蓮華経 康永二年二月 七月九日 (□の中に敬、横に白)

救諸苦患者 現当二世(□の中に造立)如件

 

4月 日尊は京都鳥辺山に逆修塔を建てる。(碑銘)

 

1013日 奥州題目板碑

右為存生期以後十三年

現世安穏 十月

南無妙法蓮華経 康永二年 敬白

(□の中に後)(□の中に善)処 十三日

造立如件

 

この年、伊予公日代は河合に移りました。(西山本門寺々伝)

続いて西山に法華堂「本門寺」を開創します。(興門清規)

 

 

1344年・興国5年・康永3年 (滅後63年 大石寺5世日行)

 

126日 日叡は日向より安房へ向かう。

 

28日 中山日祐は「法華本妙両寺本尊聖教録」を著す。(日蓮宗宗学全書1406

文中に、中山本妙寺における「板本尊」の記録があります。

 

◆「中世東国日蓮宗寺院の研究」P448

中山門流寺院では、康永3(1344)28日付日祐「本尊聖教録」には、「本妙寺」分のなかに「板本尊 一体」と「形木本尊 二鋪 三枚」が記載されている。

 

228日 日叡は成願後家尼より鳥辺野の地を求める。(日目墓地第2次買得)(富要8-71)

 

42日 日叡は安房に到着し夏の間、日郷に随って修行する。(叡譜)

 

68日 日尊は会津の日印を付弟として、日興の本尊と日蓮御影を授与する。

 

◆祖師伝・日尊の伝 

日尊八十歳、康永三年 日印を以て付弟と為す、其の状に云はく、

「 宰相禅師日印に授与す。本尊一鋪 日興上人御筆 正応三年正月十三日

大聖人御影一鋪

右付属として授与する所件の如し。

康永三年(甲申)六月八日 法印日尊 在判」 (富要 5-44 )

 

717日 京都上行院の三浦阿闍梨日印は日尊の造仏について西山・日代に尋ねます。

(富要5-49)

 

 

81日 日郷は本尊を書写し龍王丸に授与します。

10年後の1354年に河崎大輔阿闍梨日賢により模刻造立される。

 

813日 西山本門寺・日代は三浦阿闍梨日印に答えます。(富要5-51)

 

◆祖師伝 日印の伝

西山日代上人より日印に贈り玉ふ御返事に云はく

中に仏像造立の事、本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し国主御帰伏の時三ケの大事一度に成就し給はしむべき御本意なり、御本尊図は是なり、只今造立過無くんば私の戒壇建立せらるべく候か、若し然らば三中の戒壇尚以て勅裁無し六角の当院甚た謂れ無き者なり

⇒日代の見解では仏像造立は「本門寺建立の時」と。

 

1130日 日郷は日叡を日向(ひゅうが・現在の宮崎県一帯)(そう)導師職に任じます。

(叡譜)

 

1212日 日郷は日叡を伴って蓮蔵坊(小泉久遠寺)に赴きます。(叡譜)

 

 

1345年・興国6年・貞和元年(滅後64年 大石寺5世日行)

 

37日 日郷は「日蓮図顕本尊」を京都六条坊門にて日叡に授与。(叡譜)

 

58日 太夫阿闍梨日尊寂。81

 

 

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