「大学殿の事」に学ぶ

 

「大学殿の事」は前欠、後欠の書ではありますが、実に興味深い記述であり、現代にも多くを伝えてくれるメッセージが込められていると拝します。

日蓮が「坂東第一の御てか(手書)き=能書家」(同書)と讃えたのが大学三郎能本(比企能本・ひきよしもと)。幕府に仕える儒官であった大学三郎に宛てた「大学殿の事」は弘安元年の書と推測されますが、安達泰盛から日蓮へなんらかの「祈り」の依頼があったことが理解でき、さらに大学三郎能本の強い信仰がうかがわれます。

 


は意訳部分

 



いのりなんどの仰せ、こうぼるべしとおぼえ候わざりつるに、おおせたびて候ことのかたじけなさ。


(安達泰盛からの)祈念等を仰せつけられるとは思っていませんでしたが、ご依頼を頂いたことは有り難く存じます。


鎌倉幕府の有力御家人にして、北条時宗を支えた安達泰盛。彼が大学三郎を介して日蓮に異国調伏、または何かの祈念を依頼したようです。日蓮は、一旦は感謝の意を表します。

 


かつはしなり、かつは弟子なり、かつはだんななり。御ためにはくびもきられ、遠流にもなり候え。かわることならば、いかでかかわらざるべき。されども、このことは叶うまじきにて候ぞ。


大学三郎殿と私とは師でもあり、弟子でもあり、檀那でもあります。日蓮のためには、「首を切られ、遠流(流罪)にでもなりましょう、身替わりになることができるなら何としてでも替わりたい」とまで訴えられた方です。ですが、安達泰盛殿からの祈念の依頼はお受けすることはできません。


文永8年の法難での、竜口の首の座。
「ただいまなり」と涙した四条金吾のお供は誰もが知るところですが、実は大学三郎も師匠の身代わりになる覚悟で助命に動いたことがうかがわれます。ことが起きた時に、「師が切られるなら私が、師が流罪になるなら私が」と訴えた大学三郎。
時代背景が異なるとはいえ、師弟というものの何たるかに襟を正す思いとなります。坂東第一の能書家と日蓮から讃えられた彼ですが、筆遣いだけではなく、師匠に殉ぜんとした坂東第一の強信者でもあったと思います。
そのような大学三郎を介しての依頼ではありますが、日蓮は安達泰盛からの祈念の依頼を明確に断っています。

 



大がくと申す人は、ふつうの人にはにず、日蓮が御かんきの時、身をすてて、かとうどして候いし人なり。この一代は城殿の御計らいなり。城殿と大がく殿は知音にておわし候。その故は、大がく殿は坂東第一の御てかき、城介殿は御てをこのまるる人なり。


大学三郎殿は普通の人とは異なり、日蓮が御勘気(文永8年の法難・竜口)を蒙った時、我が身を捨てて味方をしてくださった方です。今回の祈念の仰せは城殿(安達泰盛・官位は秋田城介、陸奥守)からの御依頼によるものです。城殿と大学殿は、親しい間柄(知音)であるからでしょう。
お二人が親しいのは、大学殿は坂東第一の能書家であり、秋田城介殿(安達泰盛)は能筆や能書を好まれる人だからでしょう。


ことが起きた時に渦中に飛び込み当事者となる人、傍観者となる人。職業、立場、肩書ではありません。大学三郎は鎌倉幕府に仕える身でしたから、竜口で殺されることが決まった一人の僧侶の肩を持った瞬間から、役職も立場も投げ打ち師弟の世界に生きる人となったのです。
ですが、この書簡の内容からすれば、安達泰盛との関係は維持されているので、文永8年以降も幕府に仕えていることがうかがわれます。

 


日蓮は大学三郎を立てながら、安達泰盛からの祈念の依頼を丁寧に断っています。

「数十年の間百千万の人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり、傍を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや円を捨てて偏を好む悪鬼便りを得ざらんや」(立正安国論)
「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」()
との立正安国の精神に生きる日蓮の姿勢からは、相容れない「祈り」の内容であったかと推測します。


「大学殿の事(大学三郎御書)」は、昭和定本日蓮聖人遺文では2-322P1619、大石寺の平成校定御書では2-342P1690、同じく平成新編御書ではP1324に掲載されています。

真蹟1紙断簡が石川県羽咋市の妙成寺に伝来しています。

 

 

 

(2022.12.3)