エミシとその時代 5 延暦5年(786)~延暦15年(796)

延暦5年(786)

正月7

 左京大夫(だいぶ)・従三位で右衛士督(うえじのかみ)・下総守の坂上大宿禰苅田麻呂(さかのうえのおおすくねかりたまろ)59歳で死去しました。

 

88

 天皇は従五位下の佐伯宿禰葛城(さえきのすくねかずらぎ)を東海道に、従五位下の紀朝臣楫長(きのあそみかじなが)を東山道に遣わし、道ごとに判官(じよう)一人、主典(さかん)一人を任じました。また蝦夷征伐のため軍士を選んで閲兵し、武具の点検を行いました。

 

918

 出羽国が言上します。

「渤海国の使節、大使・李元泰(りげんたい)以下65人が船一隻で漂着しました。その際、蝦夷に襲われ連れ去られた者が12人で、現存者は41人です」

 

・「続日本紀」巻第三十九・延暦5(786) 桓武天皇

春正月・・・左京大夫従三位兼右衛士督下総守坂上大宿禰苅田麻呂薨。

 

八月・・・使従五位下佐伯宿禰葛城於東海道。従五位下紀朝臣楫長於東山道。道別判官一人。主典一人。

簡閲軍士。兼検戎具。為征蝦夷也。

 

九月甲辰。出羽国言。

渤海国使大使李元泰已下六十五人。乗船一隻漂着部下。被蝦夷略十二人。見存四十一人。 

 

延暦6年(787)

25

 天皇は従五位下の佐伯宿禰葛城(さえきのすくねかずらぎ)を陸奥介に任じ、鎮守副将軍を兼任させました。

 

225

 天皇は従五位下の藤原朝臣葛野麻呂(ふじわらのあそみかどのまろ)を陸奥介に任じ、従五位下の池田朝臣真枚(いけだのあそみまひら)を鎮守副将軍に任じました。

 

55

 陸奥鎮守将軍で正五位上の百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)が「ある事件」に連座して日向権介(ひむかのごんのすけ)に左遷されました。

 

121

 陸奥国に軍糧を進上した功により、天皇は外正七位下の朝倉公家長(あさくらのきみいえなが)に外従五位下の位を授けました。

 

・「続日本紀」巻第三十九・延暦6(787) 桓武天皇

二月・・・従五位下佐伯宿禰葛城為陸奥介。・・・陸奥介従五位下佐伯宿禰葛城為兼鎮守副将軍。

 

・・・従五位下藤原朝臣葛野麻呂為陸奥介。・・・従五位下池田朝臣真枚為鎮守副将軍。

 

閏五月丁巳。陸奥鎮守将軍正五位上百済王俊哲坐事左降日向権介。

 

十二月庚辰朔。授外正七位下朝倉公家長外従五位下。以進軍糧於陸奥国也。 

 

延暦7年(788)

228

 天皇は陸奥按察使・陸奥守・正五位下の多治比真人宇美(たじひのまひとうみ)に鎮守将軍を兼任させ、外従五位下の安倍猿嶋臣墨縄(あべのさしまのおみすみただ)を鎮守副将軍に任じました。

 

32

 来年の蝦夷征討のため、天皇は陸奥国に命じて軍糧35000余石を多賀城に運び収めさせました。また糒(ほしいい)23000余石と塩について、東海道、東山道、北陸道などの諸国に命じ、7月を期限として陸奥国に運ばせました。

 

33

 天皇は勅を下しました。

「東海道、東山道、坂東の諸国の歩兵と騎兵52800余人を徴発して、来年3月を期限として陸奥国の多賀城に集めよ。兵士を選び出すにおいては、戦闘経験がある者、叙勲された者や常陸国の神賤(しんせん)を徴発し、その後に弓、乗馬に堪能な者を選ぶべきである」

 天皇は更に勅を下します。

「近年、国司らは公務を行うに心なく、怠け、手を抜くのが常となっている。しかも蝦夷征討の計画に誤りもあった。いやしくも官人の仕事がこのようなものでよいのであろうか。若し、このようなことを繰り返すならば、『軍興乏しきは斬』の条文により必ずや処罰する」

 

321

 天皇は従五位上の多治比真人浜成(たじひのまひとはまなり)、従五位下の紀朝臣真人(きのあそみまひと)、佐伯宿禰葛城(さえきのすくねかずらぎ)、外従五位下の入間宿禰広成(いるまのすくねひろなり)をそれぞれ征東副使に任じました。

 

127

 征夷大将軍の紀朝臣古佐美(きのあそみこさみ)が天皇に別れの挨拶をします。天皇は詔して、古佐美を殿上に昇らせ召し、節刀を授けます。続いて古佐美は勅書を賜りました。

「日を選び将軍を任命するのは詔によるものである。将軍として任命し征討をなすからには、一切は将軍に任せられている。聞くところでは、副将軍らは軍令を守ることなく滞留することがこれまで相当あったという。その理由を聞けば法を軽減してきたことによるものだった。以後は副将軍らに死罪に相当する罪があれば、身柄を拘束して朕に奏上するように。軍監以下の者が法を守らなかったならば斬るべきである。坂東の安危はこの一戦にある。将軍らは宜しく勉め励むように」

 続いて、天皇は夜具2領、彩色した絹30疋、綿300屯を与えました。

 

・「続日本紀」巻第三十九・延暦7(788) 桓武天皇

二月・・・陸奥按察使守正五位下多治比真人宇美為兼鎮守将軍。外従五位下安倍猿嶋臣墨縄為副将軍。

 

三月庚戌。軍糧三万五千余斛仰下陸奥国。運収多賀城。又糒二万三千余斛并塩。仰東海。東山。北陸等国。限七月以前。転運陸奥国。並為来年征蝦夷也。

 

辛亥。下勅。

調発東海。東山。坂東諸国歩騎五万二千八百余人。限来年三月。会於陸奥国多賀城。其点兵者。先尽前般入軍経戦叙勲者。及常陸国神賤。然後簡点余人堪弓馬者。

仍勅。

比年国司等無心奉公。毎事闕怠。屡沮成謀。苟曰司存。豈応如此。若有更然。必以乏軍興従事矣。

 

・・・従五位上多治比真人浜成。従五位下紀朝臣真人。佐伯宿禰葛城。外従五位下入間宿禰広成並為征東副使。

 

十二月庚辰。征東大将軍紀朝臣古佐美辞見。詔召昇殿上賜節刀。因賜勅書曰。夫択日拝将。良由綸言。推轂分閫専任将軍。如聞。承前別将等。不慎軍令。逗闕猶多。尋其所由。方在軽法。宜副将軍有犯死罪。禁身奏上。軍監以下依法斬決。坂東安危在此一挙。将軍宜勉之。因賜御被二領。采帛卅疋。綿三百屯。 

 

延暦8年(789)

39

 諸国から徴発された兵士が陸奥の多賀城に集結し、軍勢は分散して賊地へ攻め入りました。

 

310

 蝦夷征討を告げるため、天皇は使者を伊勢神宮に遣わして幣帛(へいはく、みてぐら)を奉納しました。

 

512

 天皇は征東将軍に勅を発しました。

「最近の奏状によれば、官軍は前進することなく衣川に停滞している。去る46の奏状では『328日、官軍は渡河して三か所に軍営を設置しました。その態勢は鼎の足の如くです』と報告している。しかるに、その時から30余日も経過しているのに未だ進軍しないとはどういうことなのか。朕にはその理由を見つけることはできない。用兵は拙速が大事であるのに、巧遅でよしとするのは聞いたことがない。これからくる67月は極めて暑くなる。今、賊地に攻め込まなければ恐らくは時機を失してしまうことになるであろう。その時を逸してしまったならば、悔やんでも何も及ぶところがない。将軍らは機に応じてある時は進み、ある時は退き、間断なく作戦を続けるべきである。現状は一か所に留まって、いたずらに日を重ね兵糧を費やしているが、朕は訝しく思う。官軍が停滞している理由と賊軍の実態を詳しく書き、駅使に託して奏上せよ」

 

526

 征討の途上、征東副将軍・民部少輔・下野守で従五位下・勲八等の佐伯宿禰葛城(さえきのすくねかずらぎ)が死去し、天皇は正五位下を贈りました。

 

63

 征東将軍の紀朝臣古佐美(きのあそみこさみ)が奏上します。

「副将軍で外従五位下の入間宿禰広成(いるまのすくねひろなり)と左中軍別将で従五位下の池田朝臣真枚(いけだのあそみまひら)は前軍別将で外従五位下の安倍猿嶋臣墨縄(あべのさしまのおみすみただ)らと作戦会議を行い、三軍(前・中・後)が同じ戦術で力を発揮して渡河の後、賊を討伐することとし、期日を約しました。中軍と後軍からそれぞれ2000人を選び出し共同で渡河を決行。賊の総帥である阿弖流為(あてるい)の居所に至った時、賊徒300人ばかりがおり交戦しましたが、官軍の勢いが強く賊徒は逃げ散りました。

官軍(中軍・後軍)は戦いを進め、村を焼き払いながら巣伏村(すぶせむら)に至り前軍と合流しようとしましたが、前軍は賊徒の攻撃にあい渡河も前進もできません。ここに賊徒800人ばかりが来て官軍に攻撃をしかけてきました。賊徒は強力で、官軍がやや後退すると直ちに追撃してきます。さらに賊徒が400人ばかり東の山から現れ、官軍の背後を断ち切ってしまいました。官軍は前後に敵を迎え撃つことになってしまい、賊徒は勇み立って攻撃してきました。結局、官軍は排撃されて別将の丈部善理(はせつかべのぜんり)、進士の高田道成、会津壮麻呂(あいづのおとこまろ)、安宿戸吉足(あすかべのよしたり)、大伴五百継(おおとものいおつぐ)らが戦死しました。焼き滅ぼした賊の村は14。家屋は800戸ばかり。武器類、雑物については別の報告の通りです。官軍の戦死者は25人。矢に当たった者は245人。河に飛び込んで溺死した者は1036人。裸身で泳ぎ着いた者は1257人でした。別将の出雲諸上(いずものもろかみ)、道嶋御楯(みちしまのみたて)らは生き残った兵と還ってきました」

 

 ここにおいて天皇は征東将軍に勅を発します。

「最近の奏状では、『胆沢の賊は河の東に集結しています。まずこの地を征して後に賊地に深く攻め込もうと作戦を練っています』としている。ならば軍監以上の者が兵士を率いて攻撃態勢を取り威容を厳として、前軍と後軍が相続いて賊徒を討伐すべきである。しかるに軍士は少なく将の身分は卑しいもので、攻撃するも敗北という結果となってしまった。これ即ち、その分野の副将らの作戦が失敗したものである。丈部善理ら戦死者と軍士の多数の溺死者にいたっては、その心情を思うに胸が痛むものがある」

 

69

 征東将軍の紀朝臣古佐美が奏上します。

「胆沢の地は賊徒の中心地です。今、官の大軍が征討し、敵の村々を潰滅させましたが、生き残った賊が鼠のように潜伏しており、現れては人を殺し略奪をしています。また子波(しわ=志波・盛岡市西南部)、和我(わが・岩手県和賀郡)のような僻地は遠く奥深い所にあります。我が官軍が遠征して討伐しようとしても、食糧の運搬は難しいものがあります。玉造塞(たまつくりのとりで)から衣川の軍営に至るまで四日、食糧・軍用品の受け渡しで二日、往復で十日もかかることになります。衣川から子波の地に至る行程を仮に六日とすれば、食糧・軍用品の受け渡しを含めて往復で十四日を要します。総計すると玉造塞から子波の地に至るまで、往復二十四日程の日数を要します。道中、賊に遭遇して戦闘となったり、雨により前進できない日はこの行程には入っていません。河と陸の両道から食糧・軍用品を運ぶ者は12440人で、一度に運ぶ糒(ほしいい)6215石です。我が征討軍は27470人、一日に食べる量は549石。これをもとに計算すると、一度に運べる食糧・軍用品で支えられるのはわずか11日間です。

臣らの考えでは、現状のまま子波に進軍すれば補給に事欠くことになります。そこで征討の兵士を割いて補給部隊とすれば、今度は戦う兵士が不足して賊の征討ができません。加えて賊地に進軍して以来、春から夏となって兵士や運搬用員は皆疲れ切っているのが実状です。こんな状態で進軍するのは危険ですし、持久戦に持ち込んでもこちらに利はありません。長期間賊地に駐屯し、食糧・軍用品を百里以上も運ぶのは良策とはいえません。虫のうごめくような小さな賊が天誅から逃れても、水田陸田は耕し種をまくことはできず農耕の時機は既に失しており、滅びるのを待つだけになってしまいます。臣らは合議して、今回の征討軍を解散し、非常用の食料を残しておくことにしました。また兵士の一日の食事量は2000石となります。若し、今回のことを上奏して裁定を待つことになると、更に多くの消費、出費となる恐れがあります。故に今月10日以前に、征討軍を解散して賊地より出るようにとの通牒を諸軍に送り知らせます。臣らの討議を上奏し、かつ征討軍解散を進めようと思います」

 

 天皇は勅を発して返答します。

「今、先の奏状と後の奏状を見ると『賊は河の東に集結し、官軍に抵抗して進軍を阻んでいます。まずこの地をおさえてから、後に賊地に深く入ろうと考えています』とあるのに、今度は『深入りすれば戦いが不利になるので、征討軍を解散すべき』と言っている。今回のことは詳細をまとめて奏上すべきことで、しかる後に解散して賊地を出ても遅くはないであろう。ところが、賊地に進軍することなく解散して兵を帰したい、という将軍らの策に道理というものがあるのだろうか。将軍らは凶悪な賊をはばかり恐れて、滞留していた、ということを朕は知った。将軍らは巧みに上辺だけの言葉で言い繕い、罪や過失から逃れようとしているのである。不忠なること、これ以上甚だしいものはない。

入間広成と安倍猿嶋墨縄は長く賊地にあって戦場経験も豊富なので、副将の任を委ね、その力を戦場で発揮してくれると期待した。ところが、彼らは軍営内で静かにして勝敗の成り行きを見守るだけで、戦地には部下を向かわせた挙句、大敗という結果となってしまった。君主に使える道がかくの如き有り様でよいのだろうか。そもそも戦場に出て功をあげられないのは、良将の恥とするところである。今、征討軍に損害を出し兵糧を費やし、国家に多大なる損失を与えてしまった。征討軍の将軍がこのようなことでよいのであろうか」

 

717

 天皇は持節征東大将軍の紀朝臣古佐美らに勅を発しました。

「今月10日の奏状で将軍らはいう。

『蝦夷の生活圏である胆沢というところは、水流豊かで原野は広大です。官軍が一挙に大兵で進攻しますと、たちまちのうちに大地は荒廃、集落は廃墟と化しました。たとえ生き残りが息を潜めていても、朝露のようにもろいものです。しかも軍船は互いの艫(とも)と舳(へさき)が触れ合うほどの多さで、これが百里に亘って連なりそこに天子の兵が加わっているのですから、官軍の先に強敵など存在しません。賊地の海辺の浦にある、窟(いわや)の住まいに再び煙が昇ることはなく、山谷の賊の巣穴もただ鬼火が見えるだけです。まことに喜ばしいことで、駅使を急がせて上奏いたします』

今、先の奏状と後の奏状を確認すると、賊の斬首は89級で官軍の死亡者は1000人余り、負傷した者は2000人に達する。そもそも賊の斬首は100級未満なのに対し、官軍の損亡は3000人に及んでいる。このような事態なのに、何を以て喜べというのだろうか。また大軍が賊地を出る際に、凶悪なる賊に追撃されたことは一度だけのことではない。なのに『官軍が一挙に大兵で進攻しますと、たちまちのうちに大地は荒廃しました』といっている。これまでの経緯からして、このような報告は虚飾というべきであろう。また池田真枚と安倍猿嶋墨縄らは部下の将を河の東に遣わしたが、官軍は敗北を喫して逃げ帰り、溺死した軍士は1000余人もいる。ところが奏状には『一時に渡河して戦闘を繰り返しては村々を焼き払い、賊の巣穴を一掃し、官軍の本営を維持しました』と言っている。ここには溺死した軍士のことが書かれていない。また多治比浜成らが賊を掃討し彼の地を攻略したことは、僅かとはいえ他の戦果よりは勝っているといえる。但し、『天子の兵が加わっているのですから、官軍の先に強敵など存在しません。山谷の賊の巣穴もただ鬼火が見えるだけです』とは、このような浮かれた言葉は現実離れした戯言というべきものである。およそ戦勝報告する者は、賊を平定し功を立てて然る後に奏上すべきだ。今、賊の奥地まで進軍することもなく、集落を攻め落としたといい、喜ばしいとして駅使を急ぎ遣わしている。恥ずかしいこと、この上もない」

 

830

 陸奥国の民で蝦夷と戦った者らの今年の田租を皆免除し、兼ねて二年間、租税の負担を免除する。牡鹿、小田、新田、長岡、志太、玉造、富田、色麻、賀美、黒川などの11郡については、賊の近接地であって陸奥国と同等にはできない。故に11郡は特に租税負担免除の年限を延ばすものである。

 

98

 持節征東大将軍の紀朝臣古佐美は陸奥国より到着、天皇に節刀を進上しました。

 

919

 天皇は勅を発し、大納言で従二位の藤原朝臣継縄(ふじわらのあそみつぐただ)と中納言で正三位の藤原朝臣小黒麻呂(ふじわらのあそみおぐろまろ)、更に従三位の紀朝臣船守(きのあそみふなもり)と左兵衛佐(さひょうえのすけ)で従五位上の津連真道(つのむらじまみち)、大外記(だいげき)で外従五位下の秋篠宿禰安人(あきしののすくねやすひと)らを太政官庁に遣わして、征東将軍らが滞留して蝦夷に敗れた状況を聞き取り、調査しました。

 大将軍・正四位下の紀朝臣古佐美、副将軍・外従五位下の入間宿禰広成、鎮守副将軍・従五位下の池田朝臣真枚、外従五位下の安倍猿嶋臣墨縄らはそれぞれの理由を申し述べて、皆が敗戦の責任を承服しました。

 

 ここに天皇は詔を発します。

「陸奥国の荒々しい蝦夷を討伐すべく任命された大将軍・正四位下の紀古佐美朝臣らは、任を受け賜わった時の作戦を遂行せず、攻め入るべき奥地にも達しないで征討は失敗し、軍勢を消耗し兵糧を費やすばかりで還るにいたった。今回の事態は法に照らして罪を問い糺すべきことであるが、久しく仕えていることを鑑みてその罪を問わずに許すこととする。また鎮守副将軍・従五位下の池田朝臣真枚と外従五位下の安倍猿嶋臣墨縄らの戦いぶりは、愚かで頑ななものであり、賊を恐れて拙劣、進軍するのにも判断を違え、戦いの時機を逸してしまった。今、これを法に照らせば墨縄は斬刑、真枚は官職を解任、位階の剥奪にあたる。しかし、墨縄は長く辺境の守りに着き奉仕してきたので、その点を考慮すると、斬刑ではなく官職と位階を取り上げることにする。真枚は日上の港で溺れていた兵士を助けた功労があるので、位階は剥奪せず、官職を取り上げることにする。また大小に関わらず功労のある者は、その軽重により取り計らい、小罪人でも罪を免れることにする」

 この天皇の勅については、「天皇の仰せを皆の者はしかと承るように」と徹底されました。

 

1023

 天皇は従五位下の巨勢朝臣野足(こせのあそみのたり)を陸奥鎮守副将軍に任じました。

 

・「続日本紀」巻第四十・延暦8(789) 桓武天皇

 

三月・・・辛亥。諸国之軍会於陸奥多賀城。分道入賊地。

壬子。遣使奉幣帛於伊勢神宮。告征蝦夷之由也。

 

五月癸丑。勅征東将軍曰。

省比来奏状。知官軍不進。猶滞衣川。以去四月六日奏称。三月廿八日。官軍渡河置営三処。其勢如鼎足者。自爾以還。経卅余日。未審。縁何事故致此留連。居而不進。未見其理。夫兵貴拙速。未聞巧遅。又六七月者計応極熱。如今不入。恐失其時。已失其時。悔何所及。将軍等応機進退。更無間然。但久留一処。積日費糧。朕之所怪。唯在此耳。宜具滞由及賊軍消息。附駅奏来。

 

・・・丁卯。詔贈征東副将軍民部少輔兼下野守従五位下勲八等佐伯宿禰葛城正五位下。葛城率軍入征。中途而卒。故有此贈也。

 

六月甲戌。征東将軍奏。

副将軍外従五位下入間宿禰広成。左中軍別将従五位下池田朝臣真枚。与前軍別将外従五位下安倍猿嶋臣墨縄等議。三軍同謀并力。渡河討賊。約期已畢。由是抽出中後軍各二千人。同共凌渡。比至賊帥夷阿弖流為之居。有賊徒三百許人。迎逢相戦。官軍勢強。賊衆引遁。官軍且戦且焼至巣伏村。将与前軍合勢。而前軍為賊被拒不得進渡。於是。賊衆八百許人。更来拒戦。其力太強。官軍稍退。賊徒直衝。更有賊四百許人。出自東山絶官軍後。前後受敵。賊衆奮撃。官軍被排。別将丈部善理。進士高田道成。会津壮麻呂。安宿戸吉足。大伴五百継等並戦死。惣焼亡賊居。十四村。宅八百許煙。器械雑物如別。官軍戦死廿五人。中矢二百四十五人。投河溺死一千卅六人。裸身游来一千二百五十七人。別将出雲諸上。道嶋御楯等。引余衆還来。

於是勅征東将軍曰。

省比来奏云。胆沢之賊惣集河東。先征此地後謀深入者。然則軍監已上率兵。張其形勢。厳其威容。前後相続。可以薄伐。而軍少将卑。還致敗績。是則其道嶋副将等計策之所失也。至於善理等戦亡及士衆溺死者。惻怛之情。有切于懐。

 

庚辰。征東将軍奏称。

胆沢之地。賊奴奥区。方今大軍征討。剪除村邑。余党伏竄。殺略人物。又子波。和我。僻在深奥。臣等遠欲薄伐。糧運有艱。其従玉造塞。至衣川営四日。輜重受納二箇日。然則往還十日。従衣川至子波地。行程仮令六日。輜重往還十四日。惣従玉造塞至子波地。往還廿四日程廃。途中逢賊相戦。及妨雨不進之日不入程内。河陸両道輜重一万二千四百四十人。一度所運糒六千二百十五斛。征軍二万七千四百七十人。一日所食五百四十九斛。以此支度。一度所運。僅支十一日。臣等商量。指子波地。支度交闕。割征兵加輜重。則征軍数少不足征討。加以。軍入以来。経渉春夏。征軍輜重。並是疲弊。進之有危。持之則無利。久屯賊地。運糧百里之外。非良策也。雖蠢爾小冦。且逋天誅。而水陸之田。不得耕種。既失農時。不滅何待。臣等所議。莫若解軍遺糧。支擬非常。軍士所食。日二千斛。若上奏聴裁。恐更多糜費。故今月十日以前解出之状。牒知諸軍。臣等愚議。且奏且行。

勅報曰。

今省先後奏状曰。賊集河東。抗拒官軍。先征此地。後謀深入者。然則不利深入。応以解軍者。具状奏上。然後解出。未之晩也。而曾不進入。一旦罷兵。将軍等策。其理安在。的知。将軍等畏憚兇賊。逗留所為也。巧飾浮詞。規避罪過。不忠之甚。莫先於斯。又広成。墨縄。久在賊地。兼経戦場。故委以副将之任。佇其力戦之効。而静処営中。坐見成敗。差入裨将。還致敗績。事君之道。何其如此。夫師出無功。良将所恥。今損軍費糧。為国家大害。・外之寄。豈其然乎。」甲斐国山梨郡人外正八位下要部上麻呂等改本姓為田井。古爾等為玉井。鞠部等為大井。解礼等為中井。並以其情願也。

 

秋七月・・・丁巳。勅持節征東大将軍紀朝臣古佐美等曰。

得今月十日奏状称。所謂胆沢者。水陸万頃。蝦虜存生。大兵一挙。忽為荒墟。余燼縦息。危若朝露。至如軍船解纜。舳艫百里。天兵所加。前無強敵。海浦窟宅。非復人煙。山谷巣穴。唯見鬼火。不勝慶快。飛駅上奏者。今兼先後奏状。斬獲賊首八十九級。官軍死亡千有余人。其被傷害者。殆将二千。夫斬賊之首未満百級。官軍之損亡及三千。以此言之。何足慶快。又大軍還出之日。兇賊追侵。非唯一度。而云大兵一挙。忽為荒墟。准量事勢。欲似虚飾。又真枚墨縄等遣裨将於河東。則敗軍而逃還。溺死之軍一千余人。而云一時凌渡。且戦且焚。攫賊巣穴。還持本営。是溺死之軍棄而不論。又浜成等掃賊略地。差勝他道。但至於天兵所加前無強敵。山谷巣穴唯見鬼火。此之浮詞。良為過実。凡献凱表者。平賊立功。然後可奏。今不究其奥地。称其種落。馳駅称慶。不亦愧乎。

 

八月・・・己亥。

勅。

陸奥国入軍人等。今年田租。宜皆免之。兼給復二年。其牡鹿。小田。新田。長岡。志太。玉造。富田。色麻。賀美。黒川等一十箇郡。与賊接居。不可同等。故特延復年。

 

九月丁未。持節征東大将軍紀朝臣古佐美。至自陸奥。進節刀。

 

・・・戊午。勅遣大納言従二位藤原朝臣継縄。中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂。従三位紀朝臣船守。左兵衛佐従五位上津連真道。大外記外従五位下秋篠宿禰安人等於太政官曹司。勘問征東将軍等逗留敗軍之状。大将軍正四位下紀朝臣古佐美。副将軍外従五位下入間宿禰広成。鎮守副将軍従五位下池田朝臣真枚。外従五位下安倍猿嶋臣墨縄等。各申其由。並皆承伏。

於是。詔曰。

陸奧國荒備流蝦夷等乎討治尓任賜志大將軍正四位下紀古佐美朝臣等伊。任賜之元謀尓波不合順進入倍支奧地毛不究盡之弖敗軍費粮弖還參來。是乎任法尓問賜比支多米賜倍久在止母承前尓仕奉祁留事乎所念行弖奈母不勘賜免賜布。又鎭守副將軍從五位下池田朝臣眞枚。外從五位下安倍猿嶋臣墨繩等。愚頑畏拙之弖進退失度軍期乎毛闕怠利。今法乎兼尓墨繩者斬刑尓當里。眞枚者解官取冠倍久在。然墨繩者久歴邊戍弖仕奉留勞在尓縁弖奈母斬刑乎波免賜弖官冠乎乃未取賜比。眞枚者日上乃湊之弖溺軍乎扶拯閇留勞尓縁弖奈母取冠罪波免賜弖官乎乃未解賜比。又有小功人乎波隨其重輕弖治賜比。有小罪人乎波不勘賜免賜久止宣御命乎衆聞食止宣。

 

冬十月・・・辛卯。以従五位下巨勢朝臣野足為陸奥鎮守副将軍。 

 

延暦9年(790)

34

 天皇は日向権介・正五位上・勲四等の百済王俊哲の罪を許して入京させました。

 

310

 天皇は従五位上の多治比真人浜成を陸奥按察に任じ、陸奥守も兼任させました。

 

34

 天皇は勅を発し蝦夷征討の為、諸国に命じて革の甲2000領を作らせます。東海道では駿河国より東、東山道では信濃国より東の国々に数を割り当てて、3年以内に作らせることにしました。

 

329

 天皇は勅を発し蝦夷征討の為、東海道は相模国以東の諸国に、東山道は上野国以東の諸国に、兵糧の糒(ほしいい)14万石を乾かして準備させました。

 

55

 陸奥国が言上します。

「遠田郡の郡領で外正八位上・勲八等の遠田公押人(とおだのきみおしひと)がいうには『蝦夷の濁った風習については、私は既に洗い落としています。更に天皇の清浄なる化導を敬っております。志は内地の民とかわらず、習わしは天皇の国を仰ぎ学んでいます。ところが未だに田夷(にぎえみし)の姓は免除されず、これでは永く子孫の恥となることでしょう。他の民と同じように、夷の姓を改めて頂きますよう伏してお願いいたします』といっています」

 天皇は「遠田臣」(とおだのおみ)の氏姓を授けました。

 

1019

 天皇は蝦夷征討に功績のあった者4840余人に功の軽重にしたがい、勲位を授け位階を進めました。これらは天応元年の例に基づいて行われました。

 

1021

 太政官が奏上します。

「蝦夷は国家の規律に違反し、長い間天皇の誅罰が下されておりません。官の大軍が勇猛果敢に攻撃しましたが、未だに賊の根絶ができない状態です。対して今の坂東諸国は長戦に疲れ切っています。強壮なる者はその筋力を軍に捧げ、貧弱であってもそれらの者は食糧・軍用品の運搬で働いていました。ところが、富裕なる者はこのような苦労を免れて、前(宝亀)(延暦)の戦いでも苦労することはありませんでした。また坂東以外の諸国の民は、もともと軍役に着くことすらなく、兵士の挑発にあたっても地域が対象外ということもあり無関係な顔をしていました。坂東諸国の苦労と他の国々の安逸を比べても、とても同日に論じることはできません。天子の徳があまねく行きわたる下、同じ皇民であるからには国家が総力を挙げる時に共に苦労せずして、それでいいことがあるのでしょうか。

そこで左右京、畿内5箇国、七道の諸国の国司らに命じて、土着の民、浮浪の民、王臣家の佃使(たつかい)も分け隔てなく、甲(よろい)を作れるほどの財力のある者を調べ記録し、各自が蓄えている物の種類、数量、郷里の姓名を添えて、本年中に報告させます。また甲の製造量については、各自の申告によるものとします。私達は天皇のもと政治の要に連なる者として、征討に関して各国に生じる不公平を黙って見過ごすことはできず、敢えて愚見を申し述べて天皇の耳を煩わせます」

 天皇は太政官の奏上を許可しました。

 

1125

 陸奥国黒川郡の石神山精社(いわかみのすだま)が官社(神祇官の幣帛を受ける)になりました。

 

1127

 坂東諸国は頻繁に軍役が課せられているところに疫病と旱魃が起きたため、天皇は詔を発して今年の田租を免除することにしました。

 

・「続日本紀」巻第四十・延暦9(790) 桓武天皇

 

三月・・・日向権介正五位上勲四等百済王俊哲免其罪令入京。

 

・・・従五位上多治比真人浜成為陸奥按察使兼守。

 

閏三月・・・庚午。勅為征蝦夷。仰下諸国令造革甲二千領。東海道駿河以東。東山道信濃以東。国別有数。限三箇年並令造訖。

 

・・・乙未。勅東海相摸以東。東山上野以東諸国。乾備軍糧糒十四万斛。為征蝦夷也。

 

五月・・・庚午。陸奥国言。

遠田郡領外正八位上勲八等遠田公押人款云。己既洗濁俗。更欽清化。志同内民。風仰華土。然猶未免田夷之姓。永貽子孫之恥。伏望。一同民例。欲改夷姓。

於是賜姓遠田臣。

 

冬十月・・・辛亥。征蝦夷有功者四千八百四十余人。随労軽重。授勲進階。並依天応元年例行之。

 

癸丑。太政官奏言。

蝦夷干紀久逋王誅。大軍奮撃。余孽未絶。当今坂東之国。久疲戎場。強壮者以筋力供軍。貧弱者以転餉赴役。而富饒之輩。頗免此苦。前後之戦。未見其労。又諸国百姓。元離軍役。徴発之時。一無所預。計其労逸。不可同日。普天之下。同曰皇民。至於挙事。何無倶労。請仰左右京。五畿内。七道諸国司等。不論土人浪人及王臣佃使。検録財堪造甲者。副其所蓄物数及郷里姓名。限今年内。令以申訖。又応造之数。各令親申。臣等職参樞要。不能默爾。敢陳愚管。以煩天聴。

奏可之。

 

十一月・・・丁亥。陸奥国黒川郡石神山精社並為官社。

 

己丑。授無位藤原朝臣家刀自従五位下。坂東諸国。頻属軍役。因以疫旱。詔免今年田租。 

 

延暦10年(791)

正月18

 天皇は次の蝦夷征討の準備を始めます。

 正五位上の百済王俊哲と従五位下の坂上大宿禰田村麻呂が東海道に、従五位下の藤原朝臣真鷲(ふじわらのあそみまわし)が東山道に派遣され、軍士を選んで検閲、武具の検査を行いました。

 

25

 延暦8年の蝦夷征討で軍功がありながらも戦死した外従七位下の丈部善理(はせつかべのぜんり)に、天皇は外従五位下を贈位しました。善理は陸奥国磐城郡の人で、延暦8年に官軍に従軍して胆沢に至り、官軍が不利になった時に奮戦空しく死亡した人物です。

 

221

 天皇は陸奥介・従五位下の文室真人大原(ふんやのまひとおおはら)に鎮守副将軍を兼任させました。

 

326

 天皇は京、畿内、七道諸国の国司・郡司に命じて甲(よろい)を作らせます。それぞれの国・郡の規模に応じて数量が定められました。

 

610

 天皇は諸国に命じて、鉄製の甲3000領を新しい仕様で修理させます。国毎に数が割り当てられました。

 

713

 天皇は従四位下の大伴宿禰弟麻呂(おおとものすくねおとまろ)を征夷大使に任じ、正五位上の百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)、従五位上の多治比真人浜成(たじひのまひとはまなり)、従五位下の坂上大宿禰田村麻呂(さかのうえのおおすくねたむらまろ)、従五位下の巨勢朝臣野足(こせのあそみのたり)を征夷副使に任じました。

 

95

 軍糧を進上した功により、天皇は陸奥国安積(あさか)郡の大領・外正八位上の阿倍安積朝臣継守(あべのあさかのあそみつぐもり)に外従五位下を授けました。

 

922

 天皇は下野守で正五位上の百済王俊哲に陸奥鎮守将軍を兼任させました。

 

1025

 天皇は東海道、東山道の諸国に命じて、征矢(そや)34500余具を作らせました。

 

113

 天皇は坂東諸国に命じて、軍糧の糒(ほしいい)12万余石をあらかじめ調べ準備させました。

 

・「続日本紀」巻第四十・延暦10(791) 桓武天皇

 

春正月・・・己卯。遣正五位上百済王俊哲。従五位下坂上大宿禰田村麻呂於東海道。従五位下藤原朝臣真鷲於東山道。簡閲軍士兼検戎具。為征蝦夷也。

 

二月・・・外従七位下丈部善理贈外従五位下。善理陸奥国磐城郡人也。八年従官軍至胆沢。率師渡河。官軍失利。奮而戦死。故有此贈焉。

 

・・・辛亥。陸奥介従五位下文室真人大原為兼鎮守副将軍。

 

三月・・・丙戌。仰京畿七道国郡司造甲。其数各有差。

 

六月・・・己亥。鉄甲三千領。仰下諸国。依新様修理。国別有数。

 

秋七月・・・壬申。従四位下大伴宿禰弟麻呂為征夷大使。正五位上百済王俊哲。従五位上多治比真人浜成。従五位下坂上大宿禰田村麻呂。従五位下巨勢朝臣野足並為副使。

 

九月・・・癸亥。授陸奥国安積郡大領外正八位上阿倍安積朝臣継守外従五位下。以進軍糧也。

 

・・・庚辰。下野守正五位上百済王俊哲為兼陸奥鎮守将軍。

 

冬十月・・・壬子。仰東海。東山二道諸国。令作征箭三万四千五百余具。

 

十一月己未。更仰坂東諸国。弁備軍糧糒十二万余斛。 

 

延暦11年(792)

 陸奥国が言上します。

「斯波(しわ)(岩手県紫波郡)の夷(えみし)、胆沢公阿奴志己(いさわのきみあどしき)らの使者が来て言うのには『私達の、天子の徳に帰服して導きに従おうという思いは、いつの日も忘れたことはありません。しかし伊治(これはり)村の俘()が要路を遮断して自由に往来できず、朝廷方との連絡が思うようにできません。彼ら俘を征伐し通路が長く確保されることを願います』とのことでした」

 

 これに対し、朝恩を示すため物を下賜して帰らせました。

天皇は「夷狄(いてき)は虚言を吐き、不実なのが性分。帰服すると称して、ただ己らの利を求めるのがいつものことである。今後は夷の使者が来ても、通常の賜物を下賜するように」と指示しました。

 

725

 天皇は勅を下します。

「今、聞くところでは、夷(えみし)である尓散南公阿破蘇(にさなのきみあわそ)が遥か遠い地より天皇の徳化を慕い、帰服することを望んでいるという。その忠心は深く誉め称えるべきものである。彼の夷地より京までの路次となる国は、壮健なる軍士300騎を選んで国の境で京へのぼる阿破蘇を出迎え応対し、専ら威勢よきことを示すように」

 

101

 天皇は帰服してきた蝦夷を懐柔するため、陸奥国の俘囚である吉弥侯部真麻呂(きみこべのままろ)と大伴部宿奈麻呂(おおともべのすくなまろ)を外従五位下に叙しました。

 

113

 天皇は、陸奥国の帰服した夷俘である尓散南公阿破蘇(にさなのきみあわそ)、宇漢米公隠賀(うかめのきみおんが)、俘囚の吉弥侯部荒嶋(きみこべのあらしま)らを朝堂院で響応しました。阿波蘇と隠賀には蝦夷への爵位の第一等を授け、荒嶋には外従五位下を与えました。これらは朝廷にとっては、荒々しい者達を懐柔するために行われたものでした。

 

 天皇は詔を発します。

「天皇へ参上して仕え奉っていた蝦夷の尓散南公阿波蘇と宇漢米公隠賀、俘囚の吉弥侯部荒嶋らが『自国に戻り奉仕したい』と願い出たことを聞かれ、位を授け、天皇みずから御手をもって物を渡し賜る、と申し聞かせる。また宣せられるには、これより後も奉仕に励むならば、ますます物を賜ることになる」

 

1128

 天皇は今後長く出羽国の平鹿、最上、置賜の三郡に居住する狄(てき)に対し、田租を免除することにしました。

 

()=東北地方太平洋側の非服属民

(てき)=東北地方日本海側の非服属民

 

1128

 征東大使である大伴乙麻呂(おおとものおとまろ)が天皇に暇乞いをしました。

 

・「日本後紀」巻第一・延暦11(792) 桓武天皇

春正月・・・丙寅。陸奥国言。

斯波村夷胆沢公阿奴志等 遣使請曰己等思帰王化 何日忘之。而為伊治村俘等所遮 無由自達。願制彼遮闘 永開降路 即為示朝恩 賜物放還。

夷鏑之性 虚言不実 常称帰服 利是求。自今以後 有夷使者 勿加常賜。

 

秋七月・・・戊寅。勅。今聞。夷尓散南公阿破蘇 遠慕王化 情望入朝。言其忠款 深有可嘉。宜路次之国 撰壮健軍士三百騎 迎接国堺 専示威勢。

 

冬十月癸未朔。陸奥国俘囚吉弥侯部真麻呂 大伴部宿奈麻呂 叙外従五位下。懐外虜也。

 

十一月・・・甲寅。饗陸奥夷俘尓散南公阿波蘇 宇漢米公隠賀 俘囚吉弥侯部荒嶋等於朝堂院。阿波蘇 隠賀 並授爵第一等。荒嶋外従五位下。以懐荒也。詔曰。蝦夷尓散南公阿波蘇 宇漢米公隠賀 俘囚吉弥侯部荒嶋等 天皇朝尓参上仕奉弓 今者己国尓罷去天仕奉牟止白止聞食行弓 冠位上賜比 大御手物賜久止宣。又宣久。自今往前母伊佐乎之久仕奉波 益々須治賜物曾止宣大命乎聞食止宣。

 

・・・己卯。永免出羽国平鹿・最上・置賜三郡狄田租。

 

閏十一月・・・己酉。征東大使大伴乙麻呂辞見。 

 

延暦12年(793)

217

 天皇は征東使の名称を改めて征夷使としました。

 

221

 征夷副使である近衛少将の坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が天皇に暇乞いをしました。

 

・「日本後紀」巻第二・延暦12(793) 桓武天皇

 

二月・・・丙寅。改征東使 為征夷使。

 

・・・庚午。征夷副使近衛少将坂上田村麻呂辞見。 

 

延暦13年(794)

正月1

 征夷大将軍である大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)に、天皇より節刀が下賜されました。

 

正月16

 天皇は五位以上の者と宴を催し、身分に応じて禄を下賜しました。続いて蝦夷征討のことを山陵(山階=天智天皇、[]田原=光仁天皇)に報告しました。

 

正月17

 天皇は蝦夷征討を祈願するため、参議である大中臣諸魚(おおなかとみのもろうお)を伊勢大神宮に派遣して幣帛(へいはく)を捧げました。

 

56

 蝦夷征討に大軍を発動したことから、天皇は騎射をとりやめました。

 

613

 征夷副将軍である坂上大宿禰田村麻呂以下の者達が蝦夷を征討しました。

⇒はたしてどのような戦いが行われたのか?結論が記録されるのみで、その実態は不明なようです。

 

928

 天皇は新都(平安京)への遷都と蝦夷征討の成功を祈願して、諸国の名神に幣帛を捧げました。

 

1022

 天皇が新京(平安京)へ遷りました。

 

1028

 征夷大将軍・大伴弟麻呂が蝦夷征討の戦果について、「斬首457級、捕虜150人、馬の捕獲85疋、焼落した村75箇所」と奏上しました。

 

・「日本後紀」巻第二・延暦13(794) 桓武天皇

 

正月乙亥朔。・・・是日。賜征夷大将軍大伴弟麻呂節刀。

 

・・・庚寅。宴五位以上。賜禄有差。告征夷事於山陵。山階・田原。

 

辛卯。遣参議大中臣諸魚 奉幣伊勢大神宮。為征蝦夷也。

 

五月丁丑。停馬射。以発大軍也。

 

六月甲寅・・・副将軍坂上大宿禰田村麻呂已下征蝦夷。

 

・「日本後紀」巻第三・延暦13(794) 桓武天皇

 

九月・・・戊戌。奉幣帛於諸国名神。以遷于新都、欲征蝦夷也。

 

冬十月・・・辛酉。車駕遷于新京。

 

丁卯。征夷将軍大伴弟麻呂奏。

斬首四百五十七級 捕虜百五十人 獲馬八十五疋 焼落七十五処。 

 

延暦14年(795)

正月29

 征夷大将軍・大伴弟麻呂が参内して天皇に拝謁。節刀を返進しました。

 

27

 天皇は詔を発し、征夷大将軍以下の者達に加階を行いました。

 

510

 俘囚である外従五位下の吉弥侯部真麻呂(きみこべのままろ)と息子が同じ俘囚の大伴部阿弖良(おおともべのあてら)に殺害され、阿弖良と妻子ら親族66人が日向国に配流されました。

 

87

 陸奥鎮守将軍である百済王俊哲が死去しました。

 

113

 出羽国が言上します。

「渤海国使の呂定琳(りょていりん)68人が夷地・志理波(しりは)村に漂着し、襲撃を受け数名が死亡、持参品も失ってしまいました」

 天皇は勅を下し、生存者は越後国へ移し、規定により給養せよと命じました。

 

1226

 蝦夷征討中に逃亡した諸国の軍士340人について、天皇は死罪を赦し陸奥国に配置して長く柵戸とすることにしました。

 

・「日本後紀」巻第三・延暦14(795) 桓武天皇

 

春正月・・・戊戌。征夷大将軍大伴弟麻呂朝見、進節刀。

 

二月・・・乙巳。詔曰。云々。征夷大将軍以下加爵級。

 

五月・・・丙子。配俘囚大伴部阿弖良等妻子・親族六十六人於日向国。以殺俘囚外従五位下吉弥侯部真麻呂父子二人。

 

・「日本後紀」巻第四・延暦14(795) 桓武天皇

 

八月・・・辛未。陸奥鎮守将軍百済王俊哲卒。

 

十一月丙申。出羽国言。

渤海国使呂定琳等六十八人 漂着夷地志理波村。因被劫略 人物散亡。

勅。

宜遷越後国 依例供給。

 

十二月・・・己丑。逃軍諸国軍士三百四十人 特宥死罪 配陸奥国 永為柵戸。 

 

延暦15年(796)

1022

 天皇は陸奥国の博士と医師(くすし)の官位を少目(しょうさかん)なみとしました。また陸奥国の多賀神に従五位下を授けました。

 

1027

 天皇は近衛少将で従四位下の坂上大宿禰田村麻呂に鎮守将軍を兼任させました。

 

112

 陸奥国の伊治(これはり)城と玉造塞(たまつくりのせき)の間は35里ほど離れているので、中間に駅家(うまや)を置き、危急の事態に備えることになりました。

 

114

 天皇は陸奥国人で従五位下の道嶋宿禰赤竜(みちしまのすくねあかたつ)を右京に貫付しました。

 

115

 天皇は、蝦夷征討で功績をあげた外正六位上の上毛野朝臣益成(かみつけぬのあそみますなり)、吉弥侯部弓取(きみこべのゆみとり)、巨勢部楯分(こせべのたてわき)、大伴部広椅(おおともべのひろはし)、尾張連大食(おわりのむらじおおはみ)らに外従五位下を授けました。

 

118

 天皇は伊勢・三河・相模・近江・丹波・但馬等、諸国の婦女各二人を陸奥国に派遣し、養蚕を2年間教習させることを命じました。

 

1121

 天皇は相模・武蔵・上総・常陸・上野・下野・出羽・越後等の民9000人を、陸奥国の伊治城に移住させました。

 

1229

 天皇は陸奥国の人で外少初位下の吉弥侯部善麻呂(きみこべのよしまろ)12人に、姓・上毛野陸奥公(かみつけぬのむつのきみ)を与えました。

 

・「日本後紀」巻第五・延暦15(796) 桓武天皇

 

冬十月・・・己卯。陸奥国博士 医師官位准少目。奉授陸奧国多賀神従五位下。

 

・・・近衛少将従四位下坂上大宿禰田村麻呂為兼鎮守将軍。

 

十一月・・・陸奥国伊治城。玉造塞。相去卅五里。中間置駅。以備機急。

 

辛卯。陸奥国人従五位下道嶋宿禰赤竜貫于右京。

 

・・・外正六位上上毛野朝臣益成。吉弥侯部弓取。巨勢部楯分。大伴部広椅。尾張連大食。授外従五位下。以戦功也。

 

・・・遣伊勢・参河・相模・近江・丹波・但馬等国婦女各二人於陸奥国。教習養□□以二年。

 

・・・発相模・武蔵・上総・常陸・上野・下野・出羽・越後等国民九千人。遷置陸奥国伊治城。

 

十二月・・・陸奥国人外少初位下吉弥侯部善麻呂等十二人。賜姓上毛野陸奥公。 

 

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