滅びと再生の物語

1.文永の役を経て・亡国への予感

「曾谷入道殿御書」(文永11年・1274年、1120日、真蹟断片)文中の「自界叛逆の難、他方侵逼の難すで()にあ()ひ候ひ了んぬ。(中略)当時壱岐・対馬の土民の如くに成り候はんずるなり」(P838)との記述により、日蓮のもとに蒙古(元軍)に攻め込まれた壱岐対馬の惨状を知らせる書状が届いていたことがうかがえます。その模様は翌建治元年(1275)58日の「一谷入道御書」(真蹟断片)に記されています。

 

去ぬる文永十一年太歳甲戌(たいさい・きのえいぬ)十月に蒙古国より筑紫(つくし)によせて有りしに、対馬の者かためて有りしに宗(そう)の総馬尉(そうまのじょう)逃げければ、百姓等は男をば或は殺し、或は生け取りにし、女をば或は取り集めて手をとを()して船に結()ひ付け、或は生け取りにす。一人も助かる者なし。壱岐(いき)によせても又是くの如し。船おしよせて有りけるには、奉行入道豊前(ぶぜん)の前司(ぜんじ)は逃げて落ちぬ。松浦党(まつらとう)は数百人打たれ、或は生け取りにせられしかば、寄せたりける浦々の百姓ども壱岐・対馬の如し。(P995)

 

蒙古に蹂躙された壱岐・対馬では男は生け捕り殺され、女性は紐を手に通して船に結びつけられる等惨状を呈し、凄惨な現場が書状に描写されています。

 

文永11(1274)1111日の「上野殿御返事(土餅供養の事)(P836 日興本)には、「抑(そもそも)日蓮は日本国をたすけんとふかくおもへども、日本国の上下万人一同に、国のほろぶべきゆへにや用ひられざる上、度々あだ()をなさるれば力をよばず山林にまじ()はり候ひぬ。大蒙古国よりよ()せて候と申せば、申せし事を御用ひあらばいかになんどあはれなり。皆人の当時のゆき(壱岐)つしま(対島)のやうにならせ給はん事、おもひやり候へばなみだもとまらず」と記しています。

 

「一谷入道御書」にも上記に続けて、「又今度は如何が有るらん。彼の国の百千万億の兵、日本国を引き回らして寄せて有るならば如何に成るべきぞ。北の手は先づ佐渡の島に付きて、地頭・守護をば須臾(しゅゆ)に打ち殺し、百姓等は北山へにげん程に、或は殺され、或は生け取られ、或は山にして死しぬべし。抑そも是れ程の事は如何として起るべきぞと推すべし。前に申しつるが如く、此の国の者は一人もなく三逆罪の者也。是れは梵王・帝釈・日月・四天の、彼の蒙古国の大王の身に入らせ給ひて責め給ふ也。日蓮は愚かなれども釈迦仏の御使・法華経の行者となのり候を、用ひざらんだにも不思議なるべし。其の失に依て国破れなんとす」とあります。

 

このように、この頃の日蓮は、蒙古襲来により日本国の本土や佐渡においても壱岐、対馬の如く惨劇に見舞われることは必定と考えていたようで、「曾谷入道殿御書」の文末は「最後なれば申すなり。恨み給ふべからず」と「もはや最後の時なり」との覚悟、切迫した緊張感がうかがえるものとなっています。

 

日蓮は近い内に日本の本土も元軍により蹂躙されて、「皆人の当時のゆき(壱岐)つしま(対島)のやうにならせ給はん」「当時壱岐・対馬の土民の如くに」なって、一旦は「国破れなん」と亡国となることは間違いないと見るのですが、その理由は「釈迦仏(久遠仏)の御使・法華経の行者」である日蓮が「日本国をたす()けんとふか()くおも()」い「立正安国論」を進呈したものの、「申せし事を御用ひ」なかった故、とするのです。

 

そのことはまた、文永9(1272)2月に著した「開目抄」の心であるとして、建治元年(1275)の「種種御振舞御書」(身延曽存)に「此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし。譬へば宅に柱なければたもたず、人に魂なければ死人なり。日蓮は日本の人の魂なり、平左衛門既に日本の柱をたをしぬ。只今世乱れてそれともなくゆめの如くに妄語出来して此の御一門どしうちして、後には他国よりせめらるべし。例せば立正安国論に委しきが如し」(P975)と日蓮は日本国の柱、日本の人の魂であり、為政者が日蓮の「立正安国論」を用いるか否かにより日本国が存続するか滅亡するかが決まるのですが、平左衛門尉が日蓮を亡きものにしようと既に日本の柱を倒した以上、北条一門の自界叛逆難、他国より攻められることは間違いない、と熱き心情を記述しています。

 

 

2.亡国後の仏国土化

実際には、文永の役の段階では日本が壊滅的打撃を受けることはなく、蒙古の攻めは局地的なものにとどまり、全国が日蓮のいう壱岐・対馬の如き惨状となることはありませんでした。しかし、蒙古の次なる侵攻は十分に予想されるところでもあり、この頃の日蓮には「日本亡国による法華経の国としての再生」との思考があったようで、次なる蒙古襲来に多くの人が不安を覚えていたであろう文永12(1275)216日に著された「新尼御前御返事」(真蹟断片)では、以下のように記しています。

 

末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃(かんばつ)・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉(ききん)・大兵乱(ひょうらん)等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人々各々甲冑(かっちゅう)をきて弓杖(きゅうじょう)を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給はざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶(たす)け万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱(のが)るべしと仏記しをかせ給ひぬ。

而るに日蓮上行菩薩にはあらねども、ほゞ兼ねてこれをしれるは、彼の菩薩の御計らひかと存じて此の二十余年が間此を申す。(P867)

 

 

同年、建治元年(1275)610日の「撰時抄」には、

文の心は第五の五百歳の時、悪鬼の身に入れる大僧等国中に充満せん。其の時に智人一人出現せん。

彼の悪鬼の入れる大僧等、時の王臣・万民等を語らひて、悪口罵詈、杖木瓦礫、流罪死罪に行なはん時、釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌の大菩薩らに仰せつけ、大菩薩は梵・帝・日月・四天等に申しくだされ、其の時天変地夭盛んなるべし。

国主等其のいさめを用ひずば、隣国にをほせつけて彼々の国々の悪王悪比丘等をせめらるゝならば、前代未聞の大闘諍一閻浮提に起こるべし。

其の時日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ、或は身ををしむゆへに、一切の仏菩薩にいの()りをか()くともしるし()なくば、彼のにく()みつる一(ひとり)の小僧を信じて、無量の大僧等、八万の大王等、一切の万民、皆頭を地につけ掌を合はせて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし。

例せば神力品の十神力の時、十方世界の一切衆生一人もなく娑婆世界に向かって大音声をはな()ちて、南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と一同にさけびしがごとし。(P1007)

中略

是をもつて案ずるに、大集経の白法隠没の時に次いで、法華経の大白法日本国竝びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑ふべからざるか。(P1017)

中略

此の事一定ならば、闘諍堅固の時、日本国の王臣と竝びに万民等が、仏の御使として南無妙法蓮華経と流布せんとするを、或は罵詈し、或は悪口し、或は流罪し、或は打擲し、弟子眷属等を種々の難にあわする人々いかでか安穏にては候べき。これをば愚痴の者は呪詛すとをもひぬべし。法華経をひろむる者は日本の一切衆生の父母なり。章安大師云く「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」等云云。されば日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、又主君なり。而るを上一人より下万民にいたるまであだをなすをば日月いかでか彼等が頂を照らし給ふべき。地神いかでか彼等の足を載せ給ふべき。()

中略

蒙古のせめも又かくのごとくなるべし。設ひ五天のつわものをあつめて、鉄圍山を城とせりともかなうべからず。必ず日本国の一切の衆生兵難に値ふべし。されば日蓮が法華経の行者にてあるなきかはこれにて見るべし。教主釈尊記して云く末代悪世に法華経を弘通するものを罵詈せん人は、我を一劫が間あだせん者の罪にも百千万億倍すぎたるべしととかせ給へり。(P1018)

と記します。

 

 

「撰時抄」は明白に蒙古襲来を予期しての記述であり、「新尼御前御返事」では仏説引用中に「一閻浮提の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時」と記すところから、これも次なる他国侵逼の意を含めて書かれたものと思われ、その時にこそ万民は日蓮の教えに帰伏せねばならず、必死の祈りを捧げるであろうことを「一同に南無妙法蓮華経ととなうべし」と表現しています。日蓮は「他国侵逼による亡国から立ち上がっての日本国の再生・仏国土化」を構想していたといえるでしょうか。

 

「新尼御前御返事」より二ヶ月後、412日の「 こう入道殿御返事」(真蹟)では佐渡の国府入道夫妻に「蒙古国の日本にみだれ入る時はこれへ御わたりあるべし。」(P914)と、蒙古襲来の時は身延山に避難するよう促しています。

 

一方、建治元年(1275)97日、幕府は蒙古の使者・杜世忠を竜口にて斬首してしまいます。

 

翌建治2(1276)327日の「富木尼御前御書」(真蹟)では、異国警護番役で西国に出動する御家人、その妻子の思いを心情豊かに綴っています。

 

かまくら(鎌倉)の人々の天の楽のごと(如)にありしが、当時つくし(筑紫)へむかへば、とど()まる女こ()、ゆ()くをとこ()、はな()るるときはかわ(皮)をは()ぐがごとく、かを(顔)とかを()とをと()りあ()わせ、目と目とをあ()わせてなげ()きしが、次第にはな()れて、ゆいのはま(由比の浜)・いなぶら(稲村)・こしごへ(腰越)・さかわ(酒匂)・はこねさか(箱根坂)。一日二日す()ぐるほどに、あゆ()みあゆ()みとを()ざかるあゆ()みも、かわ()も山もへだ()て、雲もへだ()つれば、うちそ()うものはなみだ()なり、ともなうものはなげ()きなり、いかにかな()しかるらん。(P1148)

 

妻子に別れるつらさは皮を剥がされる如く、顔を合わせ、目を合わせて涙を流しても背を向け進まねばならず、由比が浜、稲村、腰越、酒匂そして箱根坂へと日を重ねて歩むほどに、妻子のいる地は遥かに遠くなり、やがて筑紫が近づいて川を山を、そして雲を隔てた彼方ともなれば、残してきた妻子とこれよりの我が運命を思い涙も止まらず、嘆きも尽きることなく、悲しんでもあまりあるものがある。

 

 

ここでは今も昔も変わらない出征兵士と家族の悲哀というものを、見事なまでに繊細に描写しており、日蓮の感受性の豊かさを物語る文章ではないでしょうか。

 

続けて「かくなげ()かんほどに、もうこ(蒙古)のつわもの()()めきたらば、山か海もい()けど()りか、ふね()の内かかうらい(高麗)かにてう()きめ()にあ()はん」()と押し寄せる蒙古軍に国土は蹂躙され、武士や民は船へ、高麗へと連行されて悲惨な目にあうと記すのですが、これは「次の蒙古との戦いには日本の敗戦は必定。故に滅亡・亡国も免れない」と日蓮は予期していたことを示すものでしょう。

 

そのわけはひとえに「失もなくて日本国の一切衆生の父母たる法華経の行者日蓮を、ゆへもなく、或はの()り、或は打ち、或はこうじ(街路)をわたし、ものにくる()いしが、十羅刹のせめをかほ()りてなれる事なり。又々これより百千万億倍たへがたき事どもいで来るべし」(富木尼御前御書・定P1149)とやはり、日蓮を迫害したことにより諸天が治罰を加える故なのだとしています。

 

特に「一切衆生の父母たる法華経の行者日蓮」との自称は、次なる他国侵逼に当たり当時の日蓮の内面世界がいかに高揚していたものかを示すもので、「撰時抄」にも「法華経をひろむる者は日本の一切衆生の父母なり」とあります。

 

しかしながら、日蓮の、この他国侵逼後の広宣流布願望ともいうべきものは、弘安の役を通しても実現することはなく、「滅びと再生の物語」は日蓮一人の胸中に留まり終わることになります。

 

 

3.弘安4年秋の日蓮

弘安4(1281)の夏、日本が蒙古との戦いを終えた当時の、日蓮と一門の思いはどのようなものだったでしょうか。国敵たる蒙古軍を撃退した幕府、異国調伏の祈祷を重ねた比叡山、園城寺、東寺等の寺社勢力は喜び、ひとまずは安堵したことでしょう。それに対し、他国侵逼による亡国、日本国の法華経の国としての再生を予見し、それらを弟子檀越への書状の随所に書きとどめた日蓮と、その教示を受けて身構えていた門下には、落胆に近いものがあったのではないでしょうか。

 

建治3(1277)6月の「下山御消息」では、

教大師の云く「竊(ひそ)かに以みれば菩薩は国の宝なること法華経に載せ、大乗の利他は摩訶衍(まかえん)の説なり。弥天(みてん)の七難は大乗経に非ずんば、何を以てか除くことをえん。未然の大災は菩薩僧に非ずんば、豈に冥滅することを得んや」等云云。

而るを今大蒙古国を調伏する公家・武家の日記を見るに、或は五大尊、或は七仏薬師、或は仏眼、或は金輪等云云。此れ等の小法は大災を消すべしや。還著於本人と成りて国忽ちに亡びなんとす。或は日吉の社にして法華の護摩を行ふといへども、不空三蔵が誤れる法を本として行ふ間、祈祷の儀にあらず。又今の高僧等は或は当時の真言、或は天台の真言也。東寺は弘法大師、天台は慈覚・智証也。此の三人は上に申すが如く大謗法の人々也。其れより已外の諸僧等は或は東大寺の戒壇の小乗の者也。叡山の円頓戒は又慈覚の謗法に曲げられぬ。彼の円頓戒も迹門の大戒なれば今の時の機にはあらず。旁(かたがた)叶ふべき事にはあらず。(P1343)

と記しています。

 

日蓮は蒙古調伏の法「五大尊、七仏薬師、仏眼、金輪等」は「還著於本人と成りて国忽ちに亡びなんとす」として、真言・天台の高僧等の祈祷は成就しないことを明言しているのですが、弘安4(1281)の夏、蒙古軍は敗退し日本の本土は無事安泰だったのです。

 

 

 

4.諸寺院における異国調伏の祈祷

文永5年、蒙古の国書到来により国中が騒然とする中、朝廷、幕府の命により諸社寺は異国調伏の祈祷を始めます。京畿を中心とした記録となりますが、神仏に敵国降伏を祈請した当時の様相の一端を知るために、相田二郎氏の著「蒙古襲来の研究」(1958年 吉川弘文館)をめくってみましょう。

 

第三章 敵国降伏の祈願

一、朝廷を中心とせる京都に於ける御祈願(P59P63)

諸社の奉幣(ほうへい)

文永五年二月、鎌倉幕府から異国の国書に関して奏上し、その十五日に、院の御所に於いて評定が行われた。この後二十二日に、二十二社即ち伊勢大神宮、石清水八幡宮(山城)、賀茂下上社(同上)、松尾社(同上)、稲荷社(同上)、春日社(大和)、大原野社(山城)、大神社(大和)、石上社(同上)、大和社(同上)、広瀬社(同上)、竜田社(同上)、住吉社(摂津)、日吉社(近江)、梅宮社(山城)、吉田社(同上)、広田社(摂津)、祇園社(山城)、北野社(同上)、丹生社(大和)、貴布禰社(山城)に奉幣せられ、異国の事を祈請あらせられた。これが朝廷に於ける御祈願の初見である。

 

公卿勅使初度発遣

次いで四月十三日に大神宮に公卿勅使を差遣せられた。この勅使は使として特に公卿を選び、神前に於いて勅使の宣読し奉る宣命は、畏くも宸筆を染めさせられるものであった。特に国家の重事に関して御祈請あらせられる時に発遣せられる例となっている。今蒙古の国書到来は容易ならぬ大事件であるに依って、かく公卿勅使を発遣あらせられたものである。

 

七陵の奉幣

更に六月二十二日には、七陵に山陵使を発遣せられ、異国の事に関して御祈請あらせられた。この山陵使も特に国家の重事の起こった時に発遣せられるものであった。

(比叡山延暦寺の記録門葉記によると、文永五年七月十七日から異国の事に関して山門に於いて七仏薬師法を行ったように記録してあるが、その基く根本の資料である吉田経長の日記吉続記を熟読すると、これは異国の事には関係がなく、祈雨の為の御祈願に過ぎなかったことが判った)

 

後深草上皇石清水八幡宮御幸

この後暫く御祈請の事が見えないが、文永八年十月廿五日、後深草上皇には、親しく石清水八幡宮に御幸せられ、異国の事を御祈願あらせられた。

 

延暦寺に於ける祈祷

これより先九月十九日元の使者趙良弼の一行が筑前今津に来たり国書を捧呈したので、これに関し、十一月二十二日、院の御所に於いて評定が行われ、それと同時に延暦寺座主澄覚をして熾盛光法を修せしめた。澄覚は総持院の真言堂でこれを始め、十七箇日厳修して二十八日結願となり、この日蔵人平棟望が勅使として登山した。

 

公卿勅使再度の発遣

更に十二月十一日には、大神宮に第二度の公卿勅使を発遣せられ、異国の降伏を御祈願あらせられた。この時の勅使は権中納言洞院公守であった。かくの如く異賊の襲来を見ない頃に於いても時々御所願を籠めさせられたのである。

 

文永初度の異賊襲来、亀山上皇八陵に奉幣せらる

いよいよ文永十一年十月初度の蒙古襲来があり、十月二十八日、鎮西から京都にこれに関する報知があった。よって翌十八日院の御所に於いて評定を行わせられ、翌月二日、神功皇后の御陵以下八陵に勅使を立てられ、亀山上皇は諸山陵に御告文を奉られ、異賊の降伏を御祈請あらせられた。次いで十一月七日には、十六社に奉幣、又異賊の降伏を御祈願あらせられた。

 

亀山上皇異賊の艦船漂没御報賽の為石清水八幡宮御幸

これより先十月二十日異賊の艦船は、この夜大颶風にあって悉く漂没したが、これに関する報知が京都に達したのは、十一月六日のことであった。従って前記七日の奉幣はこの捷報に依る御祈請ではなかった。この我が軍の大勝利の報知があった後、その御報賽の為に、八日亀山上皇は親しく石清水八幡宮に御幸あらせられ、我が軍の勝利を御祈請あらせられた。翌九日に又賀茂北野の両社に御幸あらせられたが、これも恐らく御報賽の為であろう。

 

文永度襲来合戦後の御祈願、第三度の公卿勅使発遣

翌建治元年正月二十二日亀山上皇は、石清水八幡宮に御幸、十七箇日御参籠あらせられたが、異国降伏の為か否か明らかでない。翌二月十七日十六社に奉幣、異国の降伏を御祈願あらせられた。この年四月十五日には、元使杜世忠の一行が長門国の室津に到り、又国書を捧呈せんとした。たまたまこの日大神宮に内大臣花山院師継を勅使として発遣せられたが、これ又異国御祈の為と思われる。これが異国御祈の公卿勅使の第三度目の発遣である。

 

諸社寺一箇年の各月を分担して祈祷を修す

前述の如く、異国御祈の為に十六社若しくは二十二社に度々奉幣せられたが、建治三年の頃には、地頭御家人が博多湾の沿岸等に於いて幾箇月か交替して、異賊の襲来を警備する為に警固番役と称する課役を勤仕していたように、諸社が一年中の各月を分担して、その月に御祈祷の精誡を抽んずべき定であった。この事は興福寺略年代記に見えている。そしてなおこれに依ると、春日社の勤仕すべき分は六月であり、門葉記に依ると、日吉社の分は十月であった。かように毎年その月々を各社の分担としていたのである。右の如く十二社に春日、日吉両社が入っているが、他の十社は何社であろうか。切に知りたい事実であるが、遺憾ながらこれに関する史料が伝わっていない。恐らくその十社の中には、石清水、賀茂下上、松尾、平野、稲荷等の諸社が加わっていたことであろう。

 

諸社寺に祈祷を命じたる宣旨下る

更に朝廷から諸社寺に向かって、異国の事に関して祈願を行わしめた。この時宣旨が下されたのであるが、何日の事であったか記録が欠けている。この宣旨によって、諸寺に於いて、如何なる経文を読誦すべきか、その本尊は何に定むべきか、明瞭でなかった為に、僧綱所から太政官の官務に向かって、文永七年三月十五日付の書状を以て尋ねている。これは異国の事に関する御祈祷は、度々あることではなく、先例が乏しかった為によるのであろう。これによって見るも、この異国の事が、当時如何に臨時の重大事として、上下の人々に大きい衝動を与えていたかが想像せられる。僧綱所に於いては諸寺を取り締まっている関係上、諸寺から如何なる経文を読み又呪文を誦すべきかの質問のあることを慮って、かくの如き書状を送って尋ねたわけである。なお、その中に経文は仁王経を転読し、本尊は不動明王を造立図書してよろしきや否やと意見を述べている。これに対して太政官から如何に処置をしたかは、記録古文書が伝わらないので明らかでない。

 

弘安四年再度蒙古襲来の時に於ける祈祷

弘安四年再度の蒙古襲来のあった年になると、諸社寺殊に僧侶が熱誠こめて異国降伏を祈請している。朝廷に於いては、五月八日に又二十二社に奉幣せられた。翌六月一日、異賊襲来の報知が京都に達したが、翌々日、院の御所に於いて評定があって、異国の事について種々取り定めた。翌四日に又二十二社に異賊降伏の御祈を致すように命令を発している。

弘安四年日記抄に、同日亀山上皇の仰せを奉って、賀茂社神主に充てた院宣の案文が伝わっている。それには、「異国襲来の由其聞あり、早く社頭に参籠し、丹誠を抽んで祈請すべし」云々とあり、又追而書に、一社の祠官全部が参籠して、異敵を撃滅するまで懈怠することがあってはならぬと誡めている。又参籠中勤仕すべき条々は追って仰下さるべしと書いてある。先ず取り急ぎ祈請を始めさしたのである。他の二十一社の祠官にも勿論同様の院宣が下されたものと思われる。

又比叡山延暦寺に命じて、同じ六月四日、浄土寺の慈基(関白兼平の子息)をして山上四王院に於いて異国降伏の御祈として、大法楽を始行せしめられている。

更に六月九日には、大神宮に公卿勅使御差遣の事が議せられ、その日時は来月二十二日で、勅使には中御門経任卿が当たることに定められた。

 

中略

 

()京都東寺

京都の東寺に於いても、早くから異国降伏の為に祈願を行っている。先ず文永五年二月二十三日から、同寺の前の長者道勝が、講堂に於て仁王経法を一七箇日に亘って行っている。文永十一年初度の襲来のあった時には、十一月二日に、長者道融が西院に於て仏眼法を修して、異国の降伏を祈念している。

初度の襲来があってから三年後の建治三年正月十二日、長者道宝は、異国降伏の為、大神宮に三十箇日参籠して祈念した。

弘安二年正月には、長者斎助が、異国降伏祈願の為に、大神宮に進発し、同四年正月十九日には、同じく長者定済が、大神宮に参向して祈願を籠めた。又六月二日には、定済が同寺の西院に於いて不動法を修し、十日に結願を行い、次いで二十二日に仁王経法を行ひ、熱誠を尽して、異賊の調伏を祈請している。

 

()近江国延暦寺

延暦寺に於いても早くから異国の事に就いて祈願を行ったことは勿論である。文永八年十一月廿二日から、座主澄覚は熾盛光法を修して、異国の降伏を祈念し、二十九日に結願を行い、この日特に蔵人佐平棟望は、この結願の法会に臨む為に登山している。

文永十一年初度の襲来の時は、十一月二日前大僧正慈禅(関白鷹司兼平の子)は、金剛寿院に於いて、金輪法を修して、異国降伏を祈念し、翌三日には、座主道玄が異賊降伏の為に初めて尊勝法を修し、同十八日には、同じ祈願として、初めて四天王法を修し、十二月七日には、前大僧正澄覚が、根本中堂に於いて、七仏薬師法を行っている。

なお道玄は、この襲来の終わった翌々年即ち建治二年正月十六日、後深草上皇の押小路烏丸の御所に於いて、異国降伏の為に熾盛光法を行わせられた時、伴僧二十口を率いて、法性寺の座主として導師を勤めている。更に道玄は翌三年十月、前述した各社一箇月当番の祈祷に於いて日吉社の分を勤仕した。

弘安四年再度の襲来のあった年には、その四月八日、根本中堂に於いて、七仏薬師法を厳重に修している。又同日後妙香院僧正慈実は、大成就院に於いて如法金輪法を修して異国の降伏を祈請した。なお、延暦寺が勅願として異国調伏の御祈祷を修した事は、前項朝廷を中心にした京都に於ける御祈願について記したところにも挙げてある。

 

 

5.文永・弘安の役に至る日蓮の書簡より

文永・弘安の役に至る日蓮の記述を確認してみましょう。

 

    別当御房御返事

文永11(1274)の「別当御房御返事」(真蹟曽存)では、

大名を計るものは小耻にはぢずと申して、南無妙法蓮華経の七字を日本国にひろめ、震旦・高麗までも及ぶべきよしの大願をはらみ(懐)て、其の願の満すべきしるしにや。大蒙古国の牒状しきりにありて、此の国の人ごとの大なる歎きとみへ候。日蓮又先よりこの事をかんがへたり。閻浮第一の高名なり。(P827)

とあり、大きな名声を計るものは小さな恥にとらわれることはないといって、日蓮は南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘め、やがては中国、朝鮮へと弘めゆく大願を懐いている。その大願を満たすべき前兆だろうか、文永5(1268)より大蒙古国からの牒状・国書が度々届いたことは、日本国の全ての人の大きな嘆きのもとになっているようだ。日蓮は以前より他国侵逼難があると考えていたのだ。今回、予言が的中することは、閻浮第一の高名なのである、としています。これにより、蒙古襲来という事態は日蓮にとっては、震旦・高麗への妙法蓮華経の弘法、流布を意味するものとしていたことがうかがえます。

 

 

    法門申さるべき様の事

文永6(1269)の「法門申さるべき様の事」(真蹟)では、

今一国挙げて仏神の敵となれり。我が国に此の国を領すべき人なきかのゆえに大蒙古国は起るとみえたり。(P454)

と記し、一国を挙げて仏神の敵となった日本国は、日蓮の眼には既に「領すべき人」のいない国となっており、故に蒙古の襲来が近いとしています。この「領すべき人」即ち統治者とは制度上は公家・武家のことと思われますが、後の「久遠仏三界国主」思想よりすれば宗教的には久遠の仏と捉えられるでしょうか。ちなみにこの頃、日蓮が復興すべきとしていた比叡山の大講堂は放火により焼け落ちて、本尊の釈尊像も燃えてなくなっていました。

 

公家武家は山門(延暦寺・円仁の門流)と寺門(園城寺・円珍の門流)の対立抗争に振り回されて、右往左往を繰り返しました。文応元年(1260)14日、園城寺に三摩耶戒壇が勅許されたことに対して延暦寺僧徒が朝廷に強訴、勅許は停止されてしまいます。

 

文永元年(1264)3月には、朝廷は園城寺の戒壇勅許を停止した代償として、四天王寺(延暦寺末)別当職を園城寺に付します。これにも延暦寺僧徒は反発、再度強訴に及び、延暦寺大講堂に自ら火を放ち焼失させてしまう事態となります。そこに本尊として祀られていたのは釈尊像でした。5月になると延暦寺僧徒は山を降りて園城寺を襲い、弥勒菩薩を本尊として祀っていた中院の金堂を始め、諸堂を焼き払ってしまう武力行使に及びます。

 

日蓮はこのことを「法門申さるべき様の事」で記録、評しています。

「天台・真言等の学者、王臣等の檀那皆奪いとられて御帰依なければ、現身に餓鬼道に堕ちて友の肉をはみ、仏神にいかりをなし、檀那をすそ(呪咀)し、年々に災いを起こし、或は我が生身の本尊たる大講堂の教主釈尊をやきはらい、或は生身の弥勒菩薩をほろぼす」(P454)と、天台真言=台密の学者は浄土教や禅宗に王臣等の檀那を皆奪い取られて帰依もなくなり、現身には餓鬼道に堕ちて友の肉を食べ=もとは同じ最澄の流れを汲む山門と寺門とで争い、仏神に怒りをぶつけ、檀那を呪って、年々に災いを起こし、自らの生身の本尊たる大講堂の教主・釈尊を焼き払い、あるいは生身の弥勒菩薩を滅ぼしているのである、としています。

 

これらは「進んでは教主釈尊の怨敵となり、退いては当来弥勒の出世を過(あやま)たんとくる()い候か。この大罪は経論にいまだとかれず。又此の大罪は叡山三千人の失(とが)にあらず。公家・武家の失となるべし」()進んでは教主・釈尊の怨敵となるものであり、退いては弥勒菩薩の未来における出世を過とうとして狂っているのか。このような仏法上の大罪は経論には未だ説かれていない。また、この大罪は比叡山大衆三千人の過失ばかりではなく、僧徒狂乱の因を作った公家・武家の過失となることであろうとした後、他国侵逼に触れます。

 

「日本一州上下万民一人もなく謗法なれば、大梵天王・帝桓並びに天照大神等、隣国の聖人に仰せつけられて謗法をためさんとせらるるか。」()日本全国の上下万人が一人も漏れなく謗法なので、大梵天王、帝釈天王、天照太神等が隣国の聖人に仰せつけられて日本国の謗法を正そうとしているのだろうか、とするのです。

 

このように「法門申さるべき様の事」では、「謗法国日本を治罰するために護法善神が隣国の聖人に仰せつける」「日本は一国挙げて仏神の敵となり、領すべき人がいない故に大蒙古国は起る」を蒙古襲来の因として記述しています。「立正安国論」を以て国を救わんとした日蓮を伊豆に流した幕府であれば、正しき国主とはいえず。また、比叡山の釈尊(久遠仏の象徴としての釈尊・仏教上の国主)も焼失してしまっています。まさに「領すべき人」のいない国・日本なのです。

 

 

    法蓮抄・撰時抄

文永11(1274)3月、佐渡配流を赦免となり鎌倉に帰った日蓮は48日、平左衛門尉と面談。蒙古襲来は近いと諫めます。

 

建治元年(1275)「法蓮抄」(真蹟断片)

去年の四月八日に平左衛門尉に対面の時、蒙古国は何比(いつごろ)かよ()し候べきと問うに、答て云く 経文は日月をささず、但し天眼のいかり頻(しき)りなり、今年をばすぐべからずと申したりき。(P955)

 

建治元年(1275)6月「撰時抄」(真蹟)

去年[文永十一年]四月八日左衛門尉に語て云く、王地に生まれたれば身をば随へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑ひなし。殊に真言宗が此の国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古国を調伏せん事・真言師には仰せ付けらるべからず。若し大事を真言師調伏するならば、いよいよいそ()いで此の国ほろ()ぶべしと申せしかば、頼綱問て云く、いつごろ(何頃)かよ()せ候べき。日蓮言く、経文にはいつとはみへ候はねども、天の御けしきいかりすくなからずきうに見へて候。よも今年はすごし候はじと語りたりき。(P1053)

 

 

    智慧亡国御書

建治元年(1275)の「智慧亡国御書」(真蹟)では、今の世において正嘉元年(1257)の大地震、文永元年(1264)の大彗星の時、知恵のある国主がいたならば、日蓮の主張を受け入れ用いたに違いない。それがなかったにしても、自界叛逆の難・文永9(1272)2月の「二月騒動」、他国侵逼難・文永11(1274)10月の「文永の役」が的中しているのであるから、その時にこそ、周の文王(西伯)が太公望を迎えたように、殷の高丁王(殷王朝22代・高宗)が傅悦(ふえつ・殷復興のため高宗を補佐した賢人)を七里先より招請した如くにすべきだったのである。日月は盲目の者には財に非ず、賢人を愚王が憎むとはこのことなのである、と記しています。

 

今の代には正嘉の大地震、文永大せひせひ(彗星)の時、智慧かしこき国主あらましかば、日蓮をば用ひつべかりしなり。それこそなからめ、文永九年のどしうち(同士打)、十一年の蒙古のせめの時は、周の文王の大公望をむかへしがごとく、殷の高丁王の傅悦を七里より請せしがごとくすべかりしぞかし。日月は生盲の者には財にあらず。賢人をば愚王のにくむとはこれなり。(P1131)

(智慧亡国御書の記述は、日蓮に「国家的な師僧として登用されよう」との意思があった。即ち東密、台密に替わり、真に日本を救済できるのは自己一人しかいない、との気概に満ちている表現といえるのではないでしょうか)

 

 

    撰時抄

文永の役を経た建治元年(1275)6月の「撰時抄」(真蹟)では、次なる蒙古襲来の時ともなれば必ずや広宣流布すべしとして、その期待が高まっていた記述が散見され、特に以下の文章は高揚感も沸騰点に達していたことを示すものといえるでしょう。

 

あわれなるかなや、なげかしきかなや、日本国の人皆無間大城に堕ちむ事よ。悦ばしきかなや、楽しいかなや、不肖の身として今度心田に仏種をうえたる。いまにしもみよ。大蒙古国数万艘の兵船をうかべて日本国をせめば、上一人より下万民にいたるまで、一切の仏寺一切の神寺をばなげすてて、各々声をつるべて南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へ、掌を合わせて、たすけ給へ日蓮の御房、日蓮の御房とさけび候はんずるにや。

中略

今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととな()えんとすとも、南無計りにてやあらんずらん。ふびんふびん。(P1052)

 

 

    清澄寺大衆中

建治2(1276、または文永12年・1275)111日の「清澄寺大衆中」(真蹟曽存)でも、日本国は壱岐、対馬の如く惨劇に見舞われ、安房の国に攻め込まれたときに「日蓮房の申せし事の合ひたり=日蓮房の言っていたことがあたった」と言いながら、「偏執の法師(邪法の法師)等が口すくめて無間地獄に堕ち」るのはかわいそうでならない、と記しています。

 

今はよし、後をごらんぜよ。日本国は当時のゆき(壱岐)対馬のやうになり候はんずるなり。其の後、安房の国にむこ(蒙古)が寄せて責め候はん時、日蓮房の申せし事の合ひたりと申すは、偏執の法師等が口すくめて無間地獄に堕ちん事、不便なり、不便なり(P1136)

 

 

    四十九院申状・滝泉寺申状

注意を要するのが、いわば、内向きと外向きでは日蓮の説示が異なっているということでしょう。日蓮は一方(弟子檀越)には「蒙古襲来による亡国・再生」を志向し説いていますが、他方(公への「申状」)には「正法による一国救済論」を展開しています。

 

四十九院申状(弘安元年[1278]3月 日蓮宗宗学全書・興尊全集P94)

駿河の国蒲原の庄四十九院の供僧等謹んで申す。

中略

且去る文応年中・師匠日蓮聖人仏法の廃れたるを見・未来の災を鑒み諸経の文を勘え一巻の書を造る[立正安国論と号す]。異国の来難果して以て符合し畢んぬ、未萠を知るを聖と謂つ可きか。大覚世尊霊山虚空二処三会二門八年の間三重の秘法を説き窮むと雖も、仏滅後二千二百二十余年の間月氏の迦葉・阿難・竜樹・天親等の大論師、漢土の天台・妙楽、日本の伝教大師等内には之を知ると雖も外に之を伝えず、第三の秘法今に残す所なり。是偏に末法闘諍の始・他国来難の刻・一閻浮提の中の大合戦起らんの時、国主此の法を用いて兵乱に勝つ可きの秘術なり。経文赫赫たり所説明明たり。彼れと云い、此れと云い、国の為世の為尤も尋ね聞し食さるべき者なり。仍て款状を勒して各言上件の如し。

承賢 賢秀 日持 日興

 

滝泉寺申状(弘安210月 真蹟)

此の条は日弁等の本師日蓮聖人、去ぬる正嘉以来の大仏星・大地動等を観見し一切経を勘へて云はく、当時日本国の為体(ていたらく)、権小に執著し実経を失没せるの故に、当に前代未有の二難起こるべし。所謂自界叛逆の難・他国侵逼の難なり。仍って治国の故を思ひ、兼日彼の大災難を対治せらるべきの由、去ぬる文応年中一巻の書を上表す[立正安国論と号す]勘へ申す所皆以て符合せり。既に金口の未来記に同じ、宛も声と響きとの如し。外書に云はく「未萠を知るは聖人なり」と。内典に云はく「智人は起を知り蛇は自ら蛇を知る」云云。之を以て之を思ふに、本師は豈聖人に非ずや。巧匠(こうしょう)内に在り、国宝外に求むべからず。外書に云はく「隣国に聖人有るは敵国の憂ひなり」云云。内経に云はく「国に聖人有れば天必ず守護す」云云。外書に云はく「世必ず聖智の君有り、而して復賢明の臣有り」云云。此の本文を見るに、聖人国に在るは日本国の大喜にして蒙古国の大憂なり。諸竜を駈り催して敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし。君既に賢人に在さば、豈聖人を用ゐずして徒に他国の逼めを憂へん。(P1677)

 

「国主此の法を用いて兵乱に勝つ可きの秘術なり」「諸竜を駈り催して敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし」との表現は、法華祈祷による異国調伏の効験の確かなることを明示するものといえるでしょう。

 

「四月八日に平左衛門尉に見参す、本よりごせし事なれば日本国のほろびんを助けんがために三度いさめんに御用いなくば山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに同五月十二日に鎌倉をいでぬ」(P1155 光日房御書 真蹟断片)と、文永11(1274)5月に身延山に入った日蓮でしたが、やはり法華勧奨・妙法弘通の実践の出発点は北条時頼に進呈した「立正安国論」であり、目指すところも為政者の正法帰依・法華経受持と広宣流布による「立正安国」の実現ですから、公の機関に対する時には「立正安国論」の趣旨に則ったもの、即ち内外の憂いを除去する「一国救済論」を表に出したのではないでしょうか。

 

日蓮は「幕府高官達が『法華一経尊崇』という信仰的良心に目覚める」という、万に一つの可能性を考えることもあったかもしれません。一方では、過去の経験に照らせば、最早、為政者が日蓮に帰依するという見込みはない、ということも承知していたことでしょう。故に「蒙古進攻による亡国と再生の救済論」は続いていきます。

 

 

    智妙房御返事

弘安3(1280)1218日の「智妙房御返事」(P1827 真蹟)では、日本国の民が他国より攻められて生き地獄を味わうことになるのは、日蓮と一門に仇をなしてきた報いであり、それを「天も悦び、仏もゆるし給はじ」とするに至ります。

 

あわれ他国よりせめ来りてたかのきじをとるやうに、ねこのねずみをかむやうにせられん時、あま(尼)や女房どものあわて候はんずらむ。日蓮が一るいを二十八年が間せめ候ひしむくいに、或はいころ(射殺)し、切りころし、或はいけどり、或は他方へわたされ、宗盛がなわつきてさらされしやうに、すせんまんの人々のなわつきて、せめられんふびんさよ。しかれども日本国の一切衆生は皆五逆罪の者なれば、かくせめられんをば天も悦び、仏もゆるし給はじ。

 

哀れなことだが、蒙古が攻め来るならば鷹が雉を捕るような、猫が鼠を噛むような事態となり、尼や女達が慌てふためくことであろう。それは、日蓮と一門を28年にも亘り迫害し続けてきた報いであり、射殺され、切り殺され、生け捕られ、他国へと連れ去られ、(寿永4[1185]324日、壇の浦の戦いで)平家軍の総大将・平宗盛が戦いに敗れて捕虜となり京都や鎌倉でさらされ、源頼朝の前に引き出されたように、日本国の数千万の人々が縄で絞められ晒される不憫さは申すばかりもない。しかし、日本国の一切衆生は皆五逆罪の者なのだから、かかる惨状となることも天の計らいであり、仏も許すことはないであろう、と記述しています。

 

 

6.隣国の聖人

我が国に侵攻してくる蒙古軍は世人の目には国敵ですが、日蓮的には仏教上では国敵に非ずとなります。

 

 

日蓮の眼には、

「一谷入道御書」(P996 真蹟)

梵王・帝釈・日月・四天の、彼の蒙古国の大王の身に入らせ給ひて責め給ふ也

 

 

「撰時抄」(P1047 真蹟)

天の御計いとして隣国の聖人にをほせつけられて此れをいましめ

 

 

「報恩抄」(P1224 真蹟)

大梵天王・帝釈・日月・四天等、隣国の賢王の身に入りかわりて其の国をせむべし

 

 

「下山御消息」(1325 真蹟断片)

法華経守護の梵帝等隣国の聖人に仰せ付けて日本国を治罰し

 

 

と護法善神が蒙古国の大王の身に入り、その「隣国の聖人」「隣国の賢王」が率いる軍勢であり、「日本一州上下万人一人もなく謗法」(法門申さるべき様の事・定P454)という国と、聖人に「あだをなす」(撰時抄・定P1047)国主を治罰する、待望すべき「天の御計い」でもありました。

 

文永11(1274)10月の蒙古襲来は国土の大事に至らずして終わったものの、今度こそは大軍を以て攻めてくる。それは近いのではないか。その時、我が身は、家族は果たして・・・・このような日本国一同の不安、嘆きを共有しながらも、上記書簡に見られるように万人の思いをも包摂する精神世界に生きていたのが日蓮でした。

「残念ながら日本国は、一旦は滅びることになるのだ」と。

 

その惨状の中で人々は「南無妙法蓮華経と唱へ、掌を合わせて、たすけ給へ日蓮の御房」と叫び、次には「法華経の大白法日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん」(P1017)という展開が予期されています。

 

弘安の役の前夜、日蓮の眼はその先に広がる世界・一閻浮提広宣流布の地平線を見据えていたのです。

 

 

7.弘安4年5月・「天の御計い」の時

弘安4(1281)5月、その「天の御計い」の時はきました。

「聖人・賢王」が率いる元軍は、東路軍(兵士約4万人、軍船900余)と江南軍(兵士約10万人、軍船3500余)の二手に分かれ日本への侵攻を開始します。

 

21日、東路軍・高麗の軍勢の一部が対馬に上陸。続いて66日には東路軍主力が博多の志賀島、能古島周辺に碇泊。以降、東路軍は志賀島に上陸を試みるも大友貞親軍がよく防ぎ、安達盛宗に率いられた武士達も参戦して東路軍は壱岐へと退きます。その後、日本勢は壱岐の東路軍を急襲して混乱させるも、江南軍と東路軍は九州本土への上陸のため6月下旬には平戸・鷹島付近に集結します。

 

ところが上陸を間近にした630日の夜、九州を通過した台風のために、元軍のほとんどの船は水没、兵士も多くが水死という事態に。生き残った兵士らは多くが宋へ引き返し、島部に残された者は日本勢と戦うも漢人、モンゴル人、高麗人は殺害され、日本と交流のあった南宋人は捕虜となり保護されたと伝えられます。

このように、630日の夜には元軍、即ち日蓮のいう「隣国の聖人」「隣国の賢王」の軍勢は水没し、去ってしまいました。これはいったいどうしたことなのでしょうか。

 

先に見た「智妙房御返事」(P1826)は智妙房より銭一貫文の供養が送られたこと、鎌倉の八幡宮炎上の報を受けたことに対する返状ですが、八幡宮焼失の報告をしているところから智妙房は鎌倉在住の弟子かと推測されます。一方、本書は真蹟七紙が中山法華経寺に伝来しているので、智妙房は下総在住だった可能性もあるようです。

 

日蓮より返状を受け取った智妙房は、本書に説かれるところを周囲の弟子檀越に語ったことでしょう。

 

「八幡大菩薩の本地は釈尊であるのに、日本国の人々は念仏の善導・恵心・永観・法然等の大天魔にたぼらかされて、教主釈尊を投げ捨てて阿弥陀仏を本尊とし、八幡大菩薩は阿弥陀仏の化身であると偽っており、これは八幡を敬うようでいて、実は八幡大菩薩の敵となっているのである」

知らずに『八幡大菩薩は阿弥陀の化身だ』と言っているだけならまだしも、日蓮はこの二十八年間、法華経譬喩品第三の『今此三界、皆是我有、其中衆生、悉是吾子』などの文を引いてこの迷いを晴らす説示をしてきたにも関わらず、日蓮と一門を射ち、切り、殺し、流罪し、居所より追い出した故に八幡大菩薩は鎌倉の八幡宮を焼いて天に昇ったのである。日蓮が考え進呈した立正安国論に説いた通りである」

そして五逆罪の日本国の一切衆生を待ち受ける、他国侵逼という苛烈なる運命というものも。

 

「清澄寺大衆中」(P1134)でも日蓮は力説します。

日本国の有智無智上下万民の云く 日蓮法師は古の論師・人師・大師・先徳にすぐべからずと。日蓮この不審をはらさんがために、正嘉・文永の大長星を見て勘へて云く 我が朝に二つの大難あるべし。所謂自界叛逆難・他国侵逼難也。自界は鎌倉に権の大夫殿御子孫どしうち(同士打)出来すべし。他国侵逼難は四方よりあるべし。其の中に西よりつよくせむべし。是れ偏に仏法が一国挙て邪まなるゆへに、梵天・帝釈の他国に仰せつけてせめらるるなるべし。日蓮をだに用ひぬ程ならば、将門・純友・貞任・利仁・田村のやうなる将軍百千万人ありとも叶ふべからず。これまことならずば真言と念仏等の僻見をば信ずべしと申しひろめ候ひき。

 

日本国の有智、無智、上下万民は言う。

「日蓮法師は昔の論師、人師、大師、先徳よりも優れるということはない」と。

日蓮はこのような不審を晴らすために、正嘉元年の大地震、文永元年の大彗星を見て考え言ったのである。「我が国に二つの大難があるであろう。それは自界叛逆難と他国侵逼難である。自界叛逆難は鎌倉に北条義時(権の大夫殿)の子孫の同士打ちが起こるであろう。他国侵逼難は四方から起こるであろう。その中でも西より強く攻めてくるであろう。これ偏に、仏法が一国挙げて邪であるために、大梵天王・帝釈天王が他国に言いつけて攻められるのである。日蓮を用いないならば、平将門、藤原純友、安倍貞任、藤原利仁、坂上田村麻呂のような名将が百千万人いたところで叶わないのである。これらが真でないならば、真言と念仏等の誤った考えを信じることにしよう」と言い広めてきたのである、と記しています。

そして、先に見たように「日本国は壱岐、対馬の如き惨状に見舞われること」「安房の国に蒙古が攻め込んでくること」「その時に『日蓮房の申せし事の合ひたり』と偏執の法師等が口すくめて無間地獄に堕ちるであろうこと」を記しているのです。

このように清澄寺大衆に告げたということは、大衆もまた信謗は別として、日蓮の言うところは認識したことでしょうし、少なからぬ人物が周囲に語りもしたことでしょう。

 

日蓮の「滅びと再生の物語」は、弟子檀越への書状から飛び出して、多くの人が知るところとなっていたのではないでしょうか。

 

日蓮の教説の一端は「日本国滅亡」の警告であり、第三者からすれば脅しともなります。しかし、「自界叛逆難と他国侵逼難」が起きたところまでは、事態は日蓮の言うとおりに展開しているのです。

日蓮は次に「亡国」を強調しますが、これまでの警告を的中させてきた日蓮の言うことです。次なる「亡国」への物語は既に始まっている、と日蓮一門の誰しもが思ったことでしょう。また、幕府要路にも、日蓮の言うところに緊張し、拳を握り締めながらも頷く人物がいたかもしれません。

 

 

元軍は国敵ではあるが、日蓮一門にとっては「隣国の聖人」「隣国の賢王」が率いる謗法国治罰の軍勢であり、彼らが進攻することは「天も悦」ぶところなのです。元軍は去ってはいけないし、負けてもいけない。ところが実際は水没なのです。このような展開になるとは、敵味方共に思いもよらなかったことでしょう。

 

8.曾谷二郎入道殿御報・一同修羅道に堕し後生には皆阿鼻大城

弘安4(1281)71日の「曾谷二郎入道殿御報」(P1871 日興本)は、下総の曾谷入道に宛てた返書となっています。

 

冒頭、719日付けの曾谷入道からの手紙が30日に届いたことを記した後、法華経譬喩品第三の「其の人命終して、阿鼻獄に入らん」の「其の人」とは「弘法、慈覚、智証等の三大師、並に三階、道綽、善導等」であり、それらの教えを信じる「日本国の一切衆生一同」も「入阿鼻地獄の者」なのであるとします。

 

次に「法師品第十」の、「我が所説の経典無量千万億にして、已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり」や「薬王の十喩」等により、三大師等の謗法を批判したが、末弟子らは「弥(いよいよ)瞋恚(しんに)を懐いて是非を糾明せず。唯だ大妄語を構へて国主、国人等を誑惑し、日蓮を損ぜんと欲す」と、瞋恚を抱いて妄語を構へ、国主や国人等を誑惑して日蓮を亡きものにしようとしてきたとし、「衆ケの難を蒙らしむるのみにあらず、両度の流罪、剰へ頸の座に及ぶ是也」と、小さな難はもとより、伊豆、佐渡へと配流し、竜口の首の座にまで及んだのである、と記します。

 

これによって「梵、釈日本国を捨て、同生同名も国中の人を離れ、天照大神、八幡大菩薩も争か此の国を守護せん」守護の梵天・帝釈も日本国を見捨て、同生同名天も国土の民より離れ、国神たる天照大神や八幡大菩薩もどうしてこの国を守護することがあるだろうか、として、「蒙古の牒状の已前に去る正嘉、文永等の大地震、大彗星の告に依つて、再三之を奏すと雖も国主敢て信用無し。然而(しかる)に日蓮が勘文粗仏意に叶ふ歟の故に此の合戦既に興盛也」勘文たる「立正安国論」を国主が信用せず、日蓮の他国侵逼難の警告が仏意に叶う故に元軍との戦闘が盛んとなったのである、としています。

 

「此の国の人人、今生には一同修羅道に堕し、後生には皆阿鼻大城に入らんこと疑ひ無き者也」と日本国の民、全てが生きては「一同修羅道」に堕ち、死しては「皆阿鼻地獄に入る」ことは疑いようのないことである、とします。

 

最後に「爰に貴辺と日蓮とは師檀の一分也。然りと雖も有漏の依身は国主に随ふ故に、此の難に値はんと欲する歟。感涙押へ難し。何の代にか対面を遂げん乎。唯だ一心に霊山浄土を期せらる可き歟。設ひ身は此の難に値ふとも心は仏心に同じ、今生は修羅道に交り、後生は必ず仏国に居せん」と、元軍迎撃のため九州の戦地へと向かう予定の曾谷入道に対し、日蓮と曾谷入道は師檀の一分なのだ。しかしながら、あなたは国主に仕える身である故に、元軍襲来という未曽有の国難に立ち向かうことになるのだろう。感涙は抑えがたいものがある。ただ一心に霊山浄土を期すべきである。そうであればあなたの身は、今生は元軍との戦いという修羅道に交わるのだが、心は仏心に同じく、後生は必ずや仏国に居住できる身となるであろう、と霊山浄土への往詣を勧めるのです。

 

 

いよいよ、日蓮の警告通り日本は国の存亡を懸けた一大事に突入。曾谷入道に霊山往詣を勧め後生の仏国居住を約すところからも、日蓮は今度の蒙古襲来を相当深刻に受け止め、曾谷入道自身も戦死するかもしれない、また日本国の行く末も危ういとしていたことが読み取れます。

 

9.薬王の十喩 行者の内観を顕す時・行者の勝劣を決する時

法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれる十の譬えであり、諸経の中に於いて法華経が最勝であることを十の譬えを以て示しています。

 

1、一切の川流江河の諸水の中に、海為れ第一なるが如く、此の法華経も亦復是の如し。諸の如来の所説の経の中に於て最も為れ深大なり。

 

2、又土山・黒山・小鉄圍山・大鉄圍山及び十宝山の衆山の中に、須弥山為れ第一なるが如く、此の法華経も亦復是の如し。諸経の中に於て最も為れ其の上なり。

 

3、又衆星の中に月天子最も為れ第一なるが如く、此の法華経も亦復是の如し。千万億種の諸経法の中に於て最も為れ照明なり。

 

4、又日天子の能く諸の闇を除くが如く、此の経も亦復是の如し。能く一切不善の闇を破す。

 

5、又諸の小王の中に、転輪聖王最も為れ第一なるが如く、此の経も亦復是の如し。衆経の中に於て最も為れ其の尊なり。

 

6、又帝釈の三十三天の中に於て王なるが如く、此の経も亦復是の如し。諸経の中の王なり。

 

7、又大梵天王の一切衆生の父なるが如く、此の経も亦復是の如し。一切の賢・聖・学・無学及び菩薩の心を発す者の父なり。

 

8、又一切の凡夫人の中に須陀・斯陀含・阿那含・阿羅漢・辟支仏為れ第一なるが如く、此の経も亦復是の如し。一切の如来の所説、若しは菩薩の所説、若しは声聞の所説、諸の経法の中に最も為れ第一なり。能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり。

 

9、一切の声聞・辟支仏の中に菩薩為れ第一なり、此の経も亦復是の如し。一切の諸の経法の中に於て最も為れ第一なり。

 

10、仏は為れ諸法の王なるが如く、此の経も亦復是の如し。諸経の中の王なり。

 

日蓮は薬王品の十喩の内、特に第八番目を重く見ており、十喩では「法華勝・諸経劣」が説かれるがそれだけでは「詮とするに非ず」(P854)、「仏の御心はさには候はず」(P855)と仏の本意ではなく、「法華経の行者は一切之諸人に勝れたる」(P854)、「法華経の行者は日月等のごとし、諸経の行者は衆星燈炬のごとし」(P856)が仏の御心即ち「一経第一の肝心なり。一切衆生の目也」(P856)であるとして、「受持経典の違いによる行者の勝劣」が「最大事」なのであると教示します。

以下、関連の教示を確認してみましょう。

 

 

文永12(1275)124(建治2[1276]又は建治3[1277])「大田殿許御書」(P854 真蹟)

法華経の第七に云く「是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。此の経の薬王品に十喩を挙げて已今当の一切経に超過すと云云。第八の譬、兼ねて上の文に有り。所詮、仏意の如くならば経之勝劣を詮とするに非ず。法華経の行者は一切之諸人に勝れたる之由、之を説く。大日経等の行者は諸山・衆星・江河・諸民也。法華経の行者は須弥山・日月・大海等也。而るに今の世、法華経を軽蔑すること土の如く民の如く、真言の僻人を重崇して国師と為ること金の如く王の如し。之に依て増上慢の者、国中に充満す。青天瞋りを為し、黄地夭を至す。涓聚まりて墉塹を破るが如く、民の愁ひ積もりて国を亡ぼす等是れ也

 

 

文永12(1275)127日「四条金吾殿女房御返事」(P855 真蹟)

所詮日本国の一切衆生の目をぬき神をまどはかす邪法、真言師にはすぎず。是れは且く之を置く。十喩は一切経と法華経との勝劣を説かせ給ふと見えたれども、仏の御心はさには候はず。一切経の行者と法華経の行者とをならべて、法華経の行者は日月等のごとし、諸経の行者は衆星燈炬のごとしと申す事を、詮と思しめされて候。なにをもんてこれをしるとならば、第八の譬への下に一の最大事の文あり。所謂此の経文に云く「能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。此の二十二字は一経第一の肝心なり。一切衆生の目也。文の心は法華経の行者は日月・大梵王・仏のごとし、大日経の行者は、衆星・江河・凡夫のごとしととかれて候経文也。

されば此の世の中の男女僧尼は嫌ふべからず。法華経を持たせ給ふ人は一切衆生のしう(主)とこそ、仏は御らん候らめ、梵王・帝釈はあをがせ給ふらめとうれしさ申すばかりなし。

 

 

日蓮は文永12(1275)1月の時点で、「経典の勝劣」よりも「受持経典の違いによる行者の勝劣=人の勝劣」を「最大事」「一経第一の肝心」と強調していますが、それは何故でしょうか。

 

第一に考えられるのは、「法門申しはじめ」以来貫いてきた「法華経最第一」の主張、「法華受持・専修題目勧奨」の活動による大小の難を経て、日蓮は自身の仏教上の位置付け=末法の教え主、即ち教主であることを自覚し、それを鮮明化する段階に至ったとした、というものではないでしょうか。身命を賭して法を弘める時「法を顕す時」から、法を弘める人の本地を顕す時「日蓮(法華経の行者)という人物の内観を顕す時」になったといえるのではないでしょうか。その「内観を顕したかたち」がまた、曼荼羅本尊の相貌座配ではなかったかと考えるのです。

 

二つ目は、文中にも記されているように(異国調伏の祈祷をなす)「真言の僻人を重崇して国師と為ること金の如く王の如し」(P854)という情勢下で、諸経の勝劣を明確にする最終段階「法華勝・大日劣」の法の勝劣を決する時がきたということ。それは即ち「法華経の行者対大日経の行者」という「行者の勝劣」を決する時でもあった、ということになるかと思います。

 

このような日蓮の意とするところの経証として「薬王品の十喩の内、特に第八番目・能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり。」がクローズアップされてきたと考えるのです。

 

 

文永9(1272)55日「真言諸宗違目」(真蹟)に「薬王品の十喩の内、特に第八番目」が示されています。

法華経に云く「又大梵天王の一切衆生の父なるが如く」。又云く「此の経・諸の経法の中に最も為れ第一なり。是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。(P640)

 

 

文永11(1274)の「聖人知三世事」(P843 真蹟)には「日蓮は一閻浮提第一の聖人也」とあります。

 

 

同年12月の通称「万年救護本尊」の讃文には、「大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢 日三ヶ国之 間未有此 大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智 隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之」とあり、「釈尊が仏智を以て大本尊を隠し留め、末法の為にこれを残された。後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣するのである」と記した本尊を顕し、文の表では「日蓮は上行菩薩なり」ということを示します。

そして万年救護本尊を顕した翌月の、「薬王品の十喩」が示される「大田殿許御書」「四条金吾殿女房御返事」へと続きます。

 

 

続いては、建治元年(1275)610日の「撰時抄」(真蹟)

又云く「能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。(P1057)

 

 

建治2(1276)721日「報恩抄」(真蹟)

法華経の第七に云く「能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。此経文のごとくならば、法華経の行者は川流江河の中の大海、衆山の中の須弥山、衆星の中の月天、衆明の中の大日天、転輪王・帝釈・諸王の中の大梵王なり。(P1218)

 

 

建治2(1276)217日「松野殿御消息」(真蹟断片)

法華経の薬王品に云く「能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」。文の意は法華経を持つ人は男ならば何なる田夫にても候へ、三界の主たる大梵天王・釈提桓因・四大天王・転輪聖王・乃至漢土・日本の国主等にも勝れたり。何に況んや日本国の大臣・公卿・源平の侍・百姓等に勝れたる事申すに及ばず。女人ならば・尸迦女・吉祥天女・漢の李夫人・楊貴妃等の無量無辺の一切の女人に勝れたりと説かれて候。(P1139)

 

 

弘安3(1280 或は建治2[1276])1129日「富木殿御返事」(真蹟)

経に云く「能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」(P1818)

 

 

 

このように真言批判を展開した佐後は「行者の勝劣」を決する時、「行者の内観を顕す時」だったと考えられるでしょう。そして、行者の内観世界は曼荼羅と顕され、日蓮が創り上げた法華経信仰世界に多くの門下が潤うことになるのです。

 

10.富城入道殿御返事・承久書

弘安4(1281)1022日の「富城入道殿御返事(承久書)(門下代筆6紙・中山蔵)を確認してみましょう。

 

◇本文

今月十四日の御礼、同じき十七日到来す。又去る後の七月十五日の御消息。同じき二十日比到来せり。其の外度々の貴札を賜ふと雖も老病為る之上、又不食気に候間、未だ返報を奉らざる候條、其の恐れ少なからず候。(P1886)

 

意訳

今月十四日付けの書札(手紙)は同じく十七日に到着した。また、さる閏七月十五日付けの御手紙も同じく二十日頃に到着した。

その外、度々書札(手紙)を賜ったが、老病であり、また食欲も衰えているので、未だ返事ができないことを恐縮に思っている。

 

 

◇本文

何よりも去る後の七月御状之内に云く 鎮西には大風吹き候て、浦々島々に破損の船充満之間、乃至、京都には思円上人。又云く 理豈に然らん哉等云云。此の事別して此の一門の大事也。惣じて日本国の凶事也。仍て病を忍んで一端是れを申し候はん。

 

意訳

何よりも閏七月のお手紙の中に「鎮西(九州)には大風が吹き渡って、浦々・島々に破損の船が充満しています」また「京都で思円上人(叡尊)の異国調伏の祈祷により、元軍が敗北したと評判になっています。このような仏法上の道理というものはあるのでしょうか」とあった。この事は別しては日蓮と一門の大事である。総じては日本国の凶事である。そのため、病苦を忍んでお尋ねの件について一端を申し上げたい。

 

 

◇本文

是れ偏に日蓮を失はんとして無ろう事を造り出ださん事兼ねて知る。其の故は日本国の真言宗等の七宗八宗の人々の大科、今まで始めざる事也。然りと雖も、且く一を挙げて万を知らしめ奉らん。

 

意訳

思円上人による蒙古調伏の効験云云などは、前々から法の邪正と国の存亡について訴えていた日蓮を、元軍壊滅を契機に一気に葬り去ろうとして思いついた作り話であることは、兼ねてから知っているところだ。それは、日本国の真言宗を始めとした七宗・八宗の僧俗による大悪事は今に始まったことではない。しかしながら、ここで一例を挙げて全てを知らしめよう。

 

 

◇本文

去ぬる承久年中に隠岐の法皇義時を失はしめんがために調伏を山の座主・東寺・御室・七寺・薗城に仰せ付けらる。仍て同じき三年の五月十五日、鎌倉殿の御代官伊賀太郎判官光末を六波羅に於て失はしめ畢んぬ。然る間、同じき十九日、二十日鎌倉中に騒ぎて、同じき二十一日山道・海道・北陸道の三道より十九万騎の兵者を指し登す。

 

意訳

去る承久3(1221)、後鳥羽上皇(隠岐の法皇)が北条義時を討つために、義時調伏を天台座主・東寺・仁和寺(御室)・南都七大寺(七寺)・園城寺に命じられた。同じく承久3年の515日、上皇は朝廷方の軍勢に命じて、鎌倉幕府の京都守護職である伊賀太郎判官光末を京都の六波羅において殺させたのである。そうする間に同じ5月の、1920日の両日、京都での変事の一報が鎌倉に届き幕府を始め町中が大騒ぎとなったが幕府は反攻に打って出ることを決し、北条義時は521日、東山道・東海道・北陸道の三道から19万騎の軍勢を京都へと進ませた。

 

 

◇本文

同じき六月十三日、其の夜の戌亥の時より青天俄に陰りて震動雷電して、武士共首の上に鳴り懸かり、鳴り懸かりし上、車軸の如き雨は篠を立つるが如し。爰に十九万騎の兵者等、遠き道は登りたり。兵乱に米は尽きぬ。馬は疲れたり。在家の人は皆隠れ失せぬ。

 

意訳

同じく613日、その夜の戌亥の時(午後8時から10時の間)から青天がたちまちのうちに曇りとなり雷鳴が轟きわたって、武士達の頭上に鳴り懸った上に、車軸のような豪雨は篠を立てたかのようであった。北条の軍勢、19万騎の兵達は遠い道のりを進軍しており、各地での激戦によって米は尽き、馬も疲れ果てていた。その上、近在の人々は戦を恐れて皆一同に逃げ隠れてしまった。

 

 

◇本文

冑は雨に打たれ綿の如し。武士共宇治勢田に打ち寄せて見ければ、常には三丁四丁の河なれども既に六丁七丁十丁に及ぶ。然る間の一丈二丈の大石は枯葉の如く浮かび、五丈六丈の大木流れ塞がつ事間無し。

 

意訳

(かぶと)は雨に打たれて綿のようになっている。武士達が宇治・瀬田に押し寄せ宇治川を見ると、通常ならば三丁(一丁=六十間=三百六十尺=約109)・四丁の川幅なのが、大雨により六丁・七丁・十丁もの川幅となっている。しかも一丈(一丈=十尺=3.0303)・二丈もの巨岩が枯葉のように浮かび、五丈・六丈の大木により川の流れが塞がれること、間断のない有り様である。

 

 

◇本文

昔利綱・高綱等が度せし時には似るべくも無し。武士之を見て皆臆してこそ見えたりしが、然りと雖も今日を過ごさば皆心を飜し堕ちぬべし。去る故に馬筏を作りて之を度す。処、或は百騎或は千騎万騎。此の如く皆我も我もと度ると雖も、或は一丁或は二丁三丁度る様なりと雖も、彼岸に付く者は一人も無し。然る間、緋綴赤綴等の甲、其の外弓箭兵杖、白星の冑等の河中に流れ浮かぶ事は猶お長月・無神月の紅葉の吉野・立田河に浮かぶが如くなり。

 

意訳

その昔、足利俊綱と佐々木高綱らが渡った時とは、比べようもない流れである。武士共はこれを見て皆、臆したようにみえたが、しかし、今日という日をこのまま過ごしてしまうと、皆心を翻して朝廷側に堕ちてしまうだろう。そのような心配もあり、馬筏を作って或いは百騎、或いは千騎、万騎と対岸への渡河を試みた。このようにして皆、「我もわれも」と川を度ったのだが、或いは一丁、或いは二丁、三丁と渡ったところで、対岸に着く者は一人もいなかった。こうして緋綴(ひおどし)、赤綴(あかおどし)等の鎧、その外に弓や箭()や刀や薙刀、白星の冑などが川の中に流れ浮かぶ様は、九月(長月)十月(神無月)の頃の紅葉が吉野・立田の川に浮かぶようであった。

 

 

◇本文

爰に叡山・東寺・七寺・薗城等高僧等、之を聞くことを得て真言の秘法大法の験とこそ悦び給ひける。内裏の紫宸殿には山の座主・東寺・御室、五壇十五壇の法を弥いよ盛んに行はれければ、法皇の御叡感極まり無く玉の厳を地に付け、大法師等の御足を御手にて摩で給ひしかば、大臣公卿等は庭の上へ走り落ちて、五体を地に付け、高僧等を敬ひ奉る。

 

意訳

比叡山・東寺・南都七大寺・園城寺などの高僧達は幕府軍渡河失敗の報を聞いて、「真言密教の秘法・大法の効験である」と喜んだのである。宮中の紫宸殿(ししんでん)においては天台座主・東寺・仁和寺の高僧が真言密教の五壇法を修し、更に41人の高僧がそれぞれの寺院で鎌倉方調伏のため15の修法を盛んに行った(祈祷抄に記録されている)ので、後鳥羽上皇は感極まって玉の飾りを地に着け、祈祷を行う大法師等の足を御手でなでられた。その様子を周りで見ていた大臣・公卿らは慌てて庭の上に走り落ち、五体を地につけて高僧等を敬い奉った。

 

 

◇本文

又宇治勢田にむかへたる公卿殿上人は甲を震ひ挙げて大音声を放ちて云く 義時所従の毛人等慥かに奉れ。昔より今に至るまで、王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なる。狗犬が師子を吼へて其の腹破れざる事無く、修羅が日月を射るに其の箭()還りて其の眼に中らざること無し。遠き例しは且く之を置く。近くは我が朝に代始まりて人王八十余代之間、大山の皇子・大石の小丸を始めとして二十余人に、王法に敵をなし奉れども一人として素懐を遂げたる者はなし。皆頚を獄門に懸けられ骸を山野に曝す。

 

意訳

また、宇治・瀬田の攻防戦に出陣した公卿や殿上人は、甲を震いあげて大声で言い放った。

「北条義時の家来!田舎者どもよ!心して聞くがよい。昔より今に至るまで王法に敵対し奉った者で、誰人が安穏だったろうか。小さな犬が師子を吼えてその腹が破れなかったことがなく、修羅が日月を射て、かえってその箭が自らの眼に当たらなかったことはなかった。遠い異国の例はしばらく置いて、近くでは我が朝の代が始まって以来、人王八十余代の間の例を挙げれば、大山の皇子・大石の小丸を始めとして二十余人が王法に敵対し奉ったが、誰一人として反逆の目的を遂げた者はいない。反逆した者どもは皆獄門に首をかけられ、骸(かばね)を山野に曝すこととなったのだ。

 

 

◇本文

関東の武士等、或は源平、或は高家等、先祖相伝の君を捨て奉り、伊豆の国の民たる義時が下知に随ふ故にかゝる災難は出来也。王法に背き奉り、民の下知に随ふ者は、師子王が野狐に乗せられて東西南北へ馳走するが如し。今生の恥之を何如。急ぎ急ぎ甲を脱ぎ、弓弦をはづして、参れ参れと招きける程に、何に有りけん。申酉の時にも成りしかば、関東の武士等河を馳せ度り、勝ちかゝりて責めし間、京方の武者共一人も無く山林に逃げ隠るる之間、

 

意訳

関東の武士等、或いは源氏と平氏、或いは家格の高い家々が、先祖の代より相伝えた大君を捨て奉って、伊豆の国の民にすぎない北条義時の下知に従うために、このたびの災難が出来したのだ。王法に背き奉り一介の民の下知に従う者は、師子王が野狐に乗せられて東西南北へと駆け回っているようなものである。かかる様は今生の恥であり、これを如何とするのか。急ぎ急ぎ甲を脱ぎ、弓弦を外して降参せよ、降参せよ」と招いていたところ、どうしたことだろうか。申酉(さるとり・午後4時から6時頃)の時にもなると、関東の武士等は川をかけ渡り、勝ち誇って攻撃してきたのである。そのため、京都方の武士達は、一人も残らずに山林へと逃げ隠れてしまった。

 

 

◇本文

四王をば四の島へ放ちまいらせ、又高僧・御師・御房達は、或は住房を追はれ、或は恥辱に値ひ給ひて、今まで六十年之間、いまだそのはぢ(恥)をすゝがずとこそ見え候に、今亦彼の僧侶の御弟子達、御祈祷承はられて候げに候あひだ、

 

意訳

この戦は鎌倉方の勝利となり、4人の王を四つの島へ流罪とし、また、鎌倉方調伏の祈祷を行った高僧・御師・御房達は、或いは住房を追われ、或いは恥辱にあい、そのようなことから今に至るまでの60年の間、未だその恥をすすいでいないと思われるのに、今また、(60年前に祈祷をした)彼の僧侶の弟子達が祈祷を仰せつけられているようだ。

 

 

◇本文

いつもの事なれば、秋風に纔かの水に敵船賊船なんどの破損仕りて候を、大将軍生取たりなんど申し、祈り成就の由を申し候げに候也。又蒙古の大王の頚の参りて候かと問ひ給ふべし。其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず。御存知のためにあらあら申し候也。乃至此の一門の人々にも相触れ給ふべし。

 

意訳

(弘安の役で)いつもの秋風が吹き、わずかの波浪で多くの蒙古の軍船が破損しただけなのに、(祈祷をしていた僧侶らと世人は)「蒙古の大将軍を生け捕りにした」といい、「祈りが成就した」由を得意気に吹聴しているのである。彼の僧侶や世人の言うように祈りが叶ったということならば、「蒙古の大王の首は届いたのか」と訊ねてみなさい。そのほかの事については、いかに言われたとしても返事をしてはならない。(富木殿は)これらのことについて知っておくべきだと思う故、あらあらお伝えしたのである。以上については、あなただけではなく、一門の人々にも伝え徹底しておきなさい。

 

 

◇本文

又必ずしいぢの四郎が事は承り候ひ畢んぬ。

予既に六十に及び候へば、天台大師の御恩報じ奉らんと仕り候あひだ、みぐるしげに候房をひつつくろい候ときに、さくれう(作料)におろ(下)して候なり。銭四貫をもちて、一閻浮提第一の法華堂を造りたりと、霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給ふべし。

 

意訳

椎地四郎(しいぢの四郎)の事は承知した。

私も既に60に及ぶ歳となったので、天台大師の御恩に報じ奉ろうと思い、見苦しくなった房を改築修繕する費用に富木殿の御供養を下ろして使用させて頂いた。銭四貫を供養して、一閻浮提第一の法華堂を造ったのだと、霊山浄土に御参りになった時は申し上げなさい。

 

 

この頃、富木常忍は身延の日蓮のもとに度々、書状を送っていたようです。特に閏715日の書状では「元軍が大風により漂没、敗退したこと。それにより京都で蒙古調伏の祈祷をした思円上人(叡尊・真言律宗の高僧で、その弟子に忍性[良観]がいる)の法験であると評判が高まっていること」などを報告しています。

これに対して日蓮は「老病たる之上、又不食気に」と病体で弱っていたため中々返信できなかったのですが、かかる世評は「此の一門の大事也」日蓮一門にとって重大事であり、「惣じて日本国の凶事也」日本国にとっては凶事でもあるとして、「病を忍んで一端是れを申し候はん」そのまま放置していたら一門も、日本国も危機的な事態になると感ずるものがあったのでしょう、病をおして今回のことを解明しようとするのです。

 

「是れ偏に日蓮を失はんとして無ろう事を造り出ださん事兼ねて知る。其の故は日本国の真言宗等の七宗八宗の人々の大科、今に始めざる事也」と「真言の祈祷により元軍が敗退した」との世評は日蓮を貶める諸宗の策謀なのであり、ここで門下に代筆させて、「且く一を挙げて万を知らしめ奉らん」と密教批判以来度々引用する「承久の乱」を先例に挙げて真言批判を展開、今回の元軍敗退の見方について教示しています。

文中、密教による調伏・祈祷は我が身を損じ、国を滅ぼす例として挙げられる「承久の乱」における宇治川の合戦を中心とした描写は、流麗なる名文といえるでしょう。

 

そして「秋風に纔(わず)かの水に敵船賊船なんどの破損仕りて候を、大将軍生取たりなんど申し、祈り成就の由を申し候げに候也。又蒙古の大王の頚の参りて候かと問ひ給ふべし」として、いつもの秋風が吹いた波浪によって蒙古の軍船が破損しただけなのに、「蒙古の大将軍を生け捕りにした」「祈りが成就した」というならば「蒙古の大王の首は届いたのか」と問うべきである、「他のことは論じないように」と富木氏に指南しています。

 

「大王の首」云々は、対元軍の戦闘が「勝利であると宣言できる基準」となるべきものといえ、どのような事態となっても事象の本質を見抜き喝破する日蓮ならではの指摘ではないでしょうか。

 

しかし・・・・別の見方をすれば、自身の予見が外れたことに窮しての論点外し、と捉えられるかもしれません。この時、日蓮の弟子檀越をはじめ少なからずの人々が思い抱いていたのは「蒙古の軍勢が再び来たならば日本各地に攻め入り国が滅びる、と聖人は言っていたのに、何故、蒙古軍は水没、敗退したのか。また、諸宗の祈祷・調伏こそ国を滅ぼすとしていたのに、結果としては法験が示されたことになっているではないか」、言わば「聖人の言ってきたことは外れた、間違いだったのか、なんだったのか」というものではなかったでしょうか。

 

法華勧奨の第一線に位置する一門は、「或は殺され、或は生け取られ、或は山にして死しぬべし」(P995 建治元年[1275]58日 一谷入道御書 真蹟断片)、「もうこ(蒙古)のつわもの()()めきたらば、山か海もい()けど()りか、ふね()の内かかうらい(高麗)かにてう()きめ()にあ()はん」(P1148 建治2[1276]327日 富木尼御前御書 真蹟)等、何回となく書状に記した日蓮の教示を受け止め、「その時の到来」を覚悟していたことでしょう。このことはまた、周囲にも語ったことでしょう。

 

ところが実際には、「今度こそは日本は滅びる」という日蓮の予見がはずれたとなれば、一門は動揺し、周囲からも難じられたのではないでしょうか。そこに追い打ちをかけるように「6月に後宇多天皇の勅により蒙古調伏の祈祷を命じられた叡尊(思円)7月に山城国の男山八幡宮で祈祷したところ、雷雲がにわかに起こり西へと向かい、当日夜には西海に神風が吹き渡り元の軍船が水没した」との話しが流布されるのです。

 

そのような世間の評判に直に接していた富木常忍であればこそ、何回となく日蓮のもとに書状を発したものでしょう。同時にこのことは、当時の一門の動揺がいかなるものだったか、それは相当に動揺していたことを示すものであり、日蓮も危機感を持ち、病の身をおして弟子に口述筆記させたものと思われます。

 

何しろ日蓮は「日本国の人皆無間大城に堕ちむ」(P1052)と書簡に書き、蒙古軍は日本を一旦は滅ぼすのですが、彼らの仏教上の位置付けは「隣国の聖人」(P454)「隣国の賢王」(P1224)であり、その時こそ万民は「掌を合わせて、たすけ給へ日蓮の御房、日蓮の御房とさけび」(P1052)正法たる法華経に帰伏することになる。続いて「法華経の大白法日本国並びに一閻浮提に広宣流布」(P1017)と、日本より世界への一閻浮提広宣流布という構想を描いて弟子檀越に説示していたのです。

 

文応元年(1260)の「立正安国論」以来、差し迫る危機として訴えてきた「他国侵逼難」は的中したものの、謗法国を退治するという仏国顕現への使命を担った蒙古軍が敗退したということは、これまで見てきた日蓮の書簡からもうかがえる「法華経の国・仏国土顕現への滅びと再生の物語」ともいうべき晩年の構想が、夢と終わったことを意味するものでしょう。

弘安4(1281)のこの時、日蓮は60歳です。

 

文永8(1271)9月には侍所所司として日蓮を逮捕して一門弾圧の端緒を開き、弘安2(1279)には得宗領(北条本家の所領)の管轄をする得宗家公文所をつかさどる立場で熱原の農民信徒にあれだけの過酷な弾圧を行った北条得宗家の御内人、後に内管領(執事)となった平左衛門尉頼綱は健在。戦時体制の長期化により幕府権力が拡大するとともに、御内人の勢力も増し、筆頭格の頼綱は執権北条氏の外戚・外様御家人の安達泰盛と並ぶ権力の頂点に達しつつあります。

 

しかも、平頼綱が文永8(1271)に日蓮一門を「弾圧」したのは、当局からすれば近い将来に予想される異国襲来に当たって国内の防御体制を固めるための、体制秩序を乱す反社会的悪党を禁圧するものとしての「取り締まり行為」であったろうこと。

弘安2(1279)の熱原「法難」も、得宗領内の宗教的秩序の逸脱が政治的支配機構への挑戦にも等しいものと捉えられての、国内防御体制を脅かす反社会的勢力に対する「取り締まり」行為であったろうこと。

これに対し、蒙古軍こそが法華一経の正義を主張する日蓮と法華衆を弾圧した謗法国・日本に治罰を加え、彼ら抑圧者を一掃してくれる仏から派遣された聖人の軍勢であったのに、一夜にして水没。その謗法国と象徴的人物は健在、益々の権勢を振るっているのです。

 

諸宗の高僧らも「祈祷が効いた」と意気軒昂であったことでしょう。町の人々には祈祷の法験が吹聴され世に流布します。結果として日本国が侵略されなかったことは良かったものの、この時の日蓮と一門の思いは複雑極まるものがあったのではないでしょうか。人生最終章に至って、諸経退治、謗法者一掃に続く法華一経の宣揚、正法興隆と広宣流布という構想が頓挫したともいえます。それも我れ一人のみならず、多くの一門も意識を共有していたのですから、彼らの落胆もひとしおのものがあったに違いありません。

 

そのことは、「文永の役」以降の日蓮の書状では「次なる蒙古襲来では日本は危うい」との警告、論調を繰り返していたのと対照的に、「弘安の役」の後は同様の記述がなくなること、また、他国侵逼・亡国の根本原因としていた密教への批判も薄くなっていくことからもうかがえるのではないでしょうか。世人の目には、密教の祈祷が効験あることになり、日蓮の予見は外れたと認識されたわけですから、鎮静化させるための時間が必要ですし、また、悪化する病状もあいまって、これ以降の日蓮には蒙古、そして密教を云々する気力も衰えていったのではないでしょうか。

 

また、日蓮はこの件について立ち入っての議論は禁じるしかありませんでした。「其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず。御存知のためにあらあら申し候也。乃至此の一門の人々にも相触れ給ふべし」と、「世の人から『密教の高僧らの祈祷により蒙古は敗れた』と言われたならば『蒙古大王の首を取ったのか』と反論する以外は、相手にしないように。そのことは一人、富木常忍のみならず、一門の人々にも徹底するように」と促しているのです。

これより以降、日蓮の体調不良「やせ病」は進行し、書状の数も減っていきます。

 

それにしても富木常忍と日蓮の関係は長く、また日蓮にとっての重大局面では富木氏に書状を送っていることからも、両者の間には他にはない絆があったといえるでしょう。

このことはまた別の項目を設けて考えたいと思います。

 

2023.4.30