日蓮が教示する「一閻浮提第一の御本尊」とは

 

日蓮は文永8(1271)9月の法難の後、同年10月に佐渡に流されます。

翌年の文永9(1272)2月に人本尊開顕の書とされる「開目抄」を著し、文永10(1273)425日には法本尊開顕の書たる「観心本尊抄」を著し、「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」と、自界叛逆難と他国侵逼難の二つの難が起きるときに、一閻浮提第一の本尊が顕されることを宣言します。

 

続いて同年517日には、弟子の最蓮房に宛てて「諸法実相抄」を著します。

この「諸法実相抄」の文中にある、「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ」に、特に注目したいと思います。

 

 

諸法実相抄 文永10517

一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへてあひかまへて信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし、行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし

 

意訳

一閻浮提第一の御本尊を信じ拝していきなさい。あいかまえてあいかまえて、強き信心で釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏(じっぽうふんじんのしょぶつ)の三仏の守護を受けていきなさい。行学の二道を励んでまいりましょう。行学が絶えてしまえば仏法はないのです。我も信仰に励み、人にも教化していきなさい。行学は信心から起きるものです。力があるならば、一文一句でも人に語っていきなさい。

 

 

日蓮は、最蓮房に強き「信行学」の確立を促す際に、自らが顕して授与した妙法曼荼羅本尊を「一閻浮提第一の御本尊」と表現しています。

 

文永105月頃の曼荼羅本尊といえば、虚空会の相貌は顕されておらず、さらに四天王や天照太神・八幡大菩薩、四菩薩等が無かったりと、いわゆる完成形といわれる弘安年間の曼荼羅と比べれば、相貌座配が少なく、大いに異なっているのですが、それでも日蓮は、佐渡にいた時に顕した曼荼羅本尊を「一閻浮提第一の御本尊」と呼称しているのです。

 

通称・佐渡百幅本尊と言われるほどに、日蓮は佐渡において多くの妙法曼荼羅本尊を顕していますが、最蓮房に「一閻浮提第一の御本尊」と語ったということは、他の多くの門下にも同様の呼称表現で、強き信行学を促したということがいえるのではないでしょうか。

 

 

ここで、日蓮が佐渡にいた頃に顕されたと推測される妙法曼荼羅本尊のうち、いくつかの相貌座配を確認してみましょう。

()内のNOは、立正安国会で発行している「御本尊集」での番号になります。

 

 

文永9616日の曼荼羅(2)ですが、この本尊には顕示年月日があり、「文永九年六月十六日」と記されています。

首題・南無妙法蓮華経と自署花押・日蓮花押、他に二仏、南無釈迦牟尼仏、南無多宝如来、不動明王、愛染明王となっています。

 

曼荼羅(31)は系年、顕された年は文永9年と推測され、相貌は「首題・自署花押・南無釈迦牟尼仏・南無多宝如来・不動明王・愛染明王」が認められています。

 

曼荼羅(8)は文永9年と推測され、讃文に一念三千があることから通称「一念三千御本尊」と呼ばれており、相貌には上行菩薩や無辺行菩薩、浄行菩薩と安立行菩薩の四菩薩、四天王が記されていません。

 

曼荼羅(9)は文永10(または文永116)と推測され、「千日尼に授与された」との伝承から通称・女人成仏御本尊と呼ばれています。配列は増えていますが、四天王や天照大神、八幡大菩薩等がありません。

 

佐渡で著された妙法曼荼羅本尊のうち、ただ一つ、弘安年間の相貌座配に近いのが、「諸法実相抄」の二か月後に顕された文永1078日の通称・佐渡始顕本尊(Wikipedia)です。同年425日、日蓮は「観心本尊抄」で妙法曼荼羅の相貌を記しており、三か月後にそれに倣った妙法曼荼羅を顕されたといえるでしょう。この頃の他の妙法曼荼羅本尊の相貌座配と比べて、抜きんでているともいえる佐渡始顕本尊は、日蓮が居住する建物に安置され、門下が集まったときに皆で拝したものと推測されます。この佐渡始顕本尊についても、座配は整っておらず、首題(南無妙法蓮華経)・自署(日蓮)花押は離れており、天照太神と八幡大菩薩も省略して続けて書かれています。

 

くだって文永11年頃と推測されている曼荼羅本尊の相貌座配も、また少ないものとなっています。

 

曼荼羅(12)は文永11年と推測されますが、虚空会の儀式を認められるには至らず、少ない配列となっています。

 

曼荼羅(17)も文永11年と推測され、六老僧の一人、日朗の自署・花押が加えられていることから、通称・朗尊加判御本尊と呼ばれています。こちらも四天王が無く、虚空会の儀式を認めるには至っておりません。

 

 

以上、確認してきましたように、文永105月の「諸法実相抄」に「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ」と日蓮が記した頃の妙法曼荼羅本尊は、虚空会の様相を顕したものでもなければ、配列も甚だ少ないものばかりでした。

それでも、日蓮が「一閻浮提第一の御本尊」と表現したことには、どのような意味があるのでしょうか?

 

「南無妙法蓮華経 日蓮」、即ち人と法を中心に顕した妙法曼荼羅は「一閻浮提第一の御本尊である」との、日蓮の「末法の一切衆生救済の心」が「一閻浮提第一の御本尊」との呼称表現に込められているのではないでしょうか。

 

さらに、系年が文永9313日、または文永11年か建治2年とされる「阿仏房御書」で、日蓮は阿仏房に授与した妙法曼荼羅本尊を「出世の本懐とはこれなり」と教示しており、このことは自らが顕す妙法曼荼羅本尊は「出世の本懐」にして「一閻浮提第一の御本尊」であることを示しているといえるでしょう。

 

また、文永10815日の「経王殿御返事」では、「日蓮がたましひ()をすみ()にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」とあり、相貌座配の少ない妙法曼荼羅本尊でも、即日蓮の魂=生身の日蓮あることが示されていることにも注目したいと思います。

 

翻って現代の日蓮門下が拝する御本尊にも「仏滅後二千二百二()十余年之間 一閻浮提之内未曾有大漫荼羅也」との讃文があり、一閻浮提之内未曾有=一閻浮提第一、大漫荼羅=大御本尊、即ち「一閻浮提第一の大御本尊」であることが示されております。

「諸法実相抄」の「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ」との教示通りに、「私たちが拝する南無妙法蓮華経の御本尊は、一閻浮提第一の大御本尊でもある」との強き確信を持って信行学に励むことが肝要ではないでしょうか。

 

以上、「諸法実相抄」の「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ」をめぐって考えてまいりました。

私たちが日常的に御書(遺文)と接している中で、重要な言葉を読み流し、聞き流してしまっていることが多いのではないでしょうか。

 

御書(遺文)の一言一句に込められた日蓮の心に触れ、読み解きながら、研鑽を重ねてまいりたいと思います。

 

2023.10.21