6 熊野と大峯の斗藪 「法華験記」「諸山縁起」

 

(1) 法華験記

 

 

平安時代中期の長久年間(10401044)、比叡山・首楞厳院の鎮源(生没年不詳)が撰した「大日本国法華験記」(法華験記)には、法華経と熊野にまつわる霊験譚が多く記されている。(各項ともに意訳)

 

 

 

「巻上・第九 奈智山の応照法師」

 

熊野奈智山(那智山)の住僧・応照は、法華経読誦をその業としていた。応照は人間と交雑することなく山林樹下を住みかとし、仏道に精進、懈怠することがなかった。法華経を転誦する時、薬王品に至る度に骨髄に銘じ肝胆に徹して、喜見菩薩が身を焼き、肘を燃やしたことを恋慕随喜した。彼は遂に念願を発し、薬王菩薩の如く身を焼いて諸々の仏に供養しようと思い立った。応照は穀を断ち、塩を離れて甘味を食せず、松葉を膳とし風水を服し、内外の不浄を清めて焼身の方便とした。その時に臨んで新しい紙の法服を着し、手には香炉を執り、薪の上に結跏趺座して西方に向かい諸仏を勧請し発願して言った。

 

「我はこの身心をもって法華経に供養し、頂きをもって上方の諸仏を供養し、足をもって下方の世尊に奉献する。背は東方の薄伽梵(有徳・仏の通号)納受したまへ。前は西方の正遍知(仏の十号の一つ)哀愍したまへ。乃至胸をもって釈迦大師に供養し、左右の脇をもって多宝世尊に施し、咽喉をもって阿弥陀如来に奉上する。乃至五臓は五智如来(大日如来、阿閦如来、宝生如来、観自在王[阿弥陀]如来、不空成就如来)に供養し、六府をもって六道の衆生に施与する」

 

応照は定印を結び口に妙法を誦し、心に三宝を信じ火定した。身体は灰となっても法華経を誦する声は絶えず、体が散乱することもなかった。火が消えた後、余光が残り虚空に照曜して山谷は明朗であった。見たこともない奇妙な鳥が数百も集まり、鈴の声の如くに和鳴飛遊していた。これは日本国最初の焼身であり、見た人、伝え聞いた人は皆、随喜したという。

 

 

 

那智山の一角、妙法山の阿弥陀寺に応照法師の火定三昧跡がある。寺伝では、唐より渡来した僧・蓮寂がこの地で法華三昧を修して、山頂に法華経を埋経、釈迦如来を安置したのが始まりとされている。妙法山の坊舎は釈迦如来像を本尊としていたが、弘安3(1280)に真言と念仏を兼修する臨済宗の僧・心地覚心(12071298)により再興され()、阿弥陀如来を本尊とする浄土信仰の寺になったという。

 

以来、妙法山は納骨と、死者を供養する霊場としての観念が在地に定着した。山麓で人が亡くなると、枕飯が炊かれる間に亡者の霊魂が枕元の櫁を持ち妙法山に登り、阿弥陀寺の無間の鐘を打ち鳴らすとされ、これは「亡者の熊野参り」として伝承されている。妙法山への納骨、納髪と死者供養は今日まで続いており、「死後、肉体から離れた霊魂・荒魂は子孫・遺族が供養することによって清浄なものとなり、山の高みに登る。山中は清められた死者の霊魂が集まる世界(他界)になる」という「山中他界」()の観念による祖先崇拝、死者供養の習俗の霊場として、熊野の一面である「死者の国・熊野」を象徴する地となっている。

 

 

 

「巻上・第十一 吉野奥山の持経者某」

 

諸山を巡行し仏法を修行していた沙門・義睿は、熊野山より大峯を通り吉野の金峰山へと向かう。しかし深山幽谷で道に迷ってしまい、さまようこと十数日に及んだ。その間、本尊を祈念し三宝を頂礼して、ようやく平正という林に着く。

 

そこには新造の浄潔なる僧房があり、禅室では二十歳位の聖人が法華経を誦し、童子が給仕をしていた。義睿の問いに、「元は比叡山東塔の三昧座主(康保元年[964]に第17代天台座主となった喜慶)の弟子であったが、勘当されてしまい各地を流浪していた。老境に入ってからはこの地に居を定めて八十余年、法華経を読み、死を期している」と聖人はいう。更に童子が給仕をしていることは「安楽行品第十四」の「天諸童子 以為給使」のとおりであり、若年のごとくは「薬王菩薩本事品第二十三」の「得聞是経。病即消滅。不老不死」が妄語ではなく真実であるからだという。その晩、僧房に泊まった義睿は、異類衆形の鬼神・禽獣が数千集会し、聖人が法華経を読むところを目撃する。    

 

翌朝、「奇異希有の異類の千形はいずこより来たのか」とたずねる義睿に、聖人は「法師品第十」の「若人在空閑 我遣天龍王 夜叉鬼神等 為作聴法衆」はかくの如しである、と告げる。その後、義睿は水瓶の導きで山頂に至り、里に出ることができた。義睿は深山の持経者・聖人の作法徳行を伝え語り、聞く人は随喜して涙を流し多くの者が発心したという。

 

 

 

「巻上・第十三 紀伊国宍背山に法華経を誦する死骸」

 

長年にわたり法華経を受持してきた壱睿は、熊野へ向かう道中、宍背山(鹿ヶ背峠・和歌山県日高郡と有田郡の境)で一泊した。夜半、法華経読誦の声が聞えてきたが、自らも法華経を誦し三宝を礼拝、罪を懺悔した。

 

朝になり周囲を見ると死骸の骨があり、舌だけが赤く鮮やかであった。感悦した壱睿はその晩も法華経を誦し、明け方、骸骨と語り合う。死骸は比叡山東塔の住僧・円善で、六万部の法華転読を志したが半分ほどで死んでしまい、生前の立願を果たすためにこの地で法華経を唱え続けてきた。今、願いは既に満ち、残りの経は幾ほどのものでもない。今年はここに住し、その後は都率の内院に生まれ弥勒菩薩に値遇して引摂を蒙りたい、という。

 

聞き終わった壱睿は骸骨に礼拝し、熊野に参詣した。後年、骸骨をたずねたがどこにも見えず、壱睿は随喜の涙を流した。

 

 

 

「巻上・第十四 志摩国の岩洞に宿す雲浄法師」

 

雲浄は初発心の時より専ら法華経を持し、常に世の務めを厭い、静閑の所を求め修行する沙門だった。ある時、霊験所に巡礼することを思い立ち熊野へと向かった。志摩の国を過ぎ、人家がなくなり海岸に至ったところで、岩洞に泊まった。岩洞の上には樹木が生い茂り、崖は海に切れ落ち、狭隘にして幽窟ともいうべきところである。ましてや岩洞内には異様な生臭さが立ち込め、恐怖もあり、身も心も休まることがなかった。雲浄は一心に法華経を誦し、早く夜が明けないものかと待ち望んだ。

 

深夜、大変な風雨となり、温かく生臭いものが身に迫ってきた。気がつくと、大きな毒蛇が口を開き、今まさに雲浄を飲み込もうとしている。彼はここにおいて死を定め、いよいよの信心を発して法華経を読誦した。願わくは経の力によって命終決定し、浄土に往生して悪趣に堕ちないことを、と。それを聞いた大蛇は、口を閉じ毒を収めてたちまちにして慈悲の心を起こし、害を加えることなく去っていった。その時、暴雨となって雷が日の光のように輝き、山の水はあふれ岩石が流れるほどだった。久しくして雨はやんだ。そこに朝服の人が現れ、雲浄を敬いかがみこんで礼をして言った。

 

「私は岩洞の主です。暴悪の身を受けて衆生を害し、人々を喰らったこと数万となります。今、聖人の法華経を誦する声を聞き、悪業転滅して善心が眼前のものとなりました。今宵の大雨は実の雨ではありません。私の両眼より流れ出づる涙なのです。悪業を滅したが故に、発露の涙を流しました。今より以後は、悪心を生じさせることはありません。(後略)」と、言い終わった人は、いずこかへと去ってしまった。

 

雲浄法師は大蛇の害毒を免れて奇特の念を生じ、ますます道心を発して、念を法華経につなぎ、休息することなく修行に励んだという。毒蛇すら法華経を聞いて、善心を発起したのである。後の人が法華経で善心を起こさないということがあろうか。

 

 

 

「巻中・第六十 蓮長法師」

 

沙門蓮長は一心に妙法華経を誦し、懈怠なく精進を重ねる法師であった。帯を解くのは沐浴の時だけ。横になり枕を用いて睡眠をすることなく、ひとえに起きて坐するのみだった。読経の時は、心は勇猛にして怠る思いなく、常に妙法華経を誦したが、懈怠の心が生じた時は休息もした。それ以外は常に、経を読み続けたのである。

 

蓮長は金峰、熊野等の諸々の名山、志賀(志賀寺=崇福寺)、長谷等の霊験所に参詣。一々の霊験名山に住しては、千部の妙法経を読誦した。日本国中の一切の霊験所に巡礼して、千部の法華経を読誦したのである。

 

 

 

「巻下・第九十二 長円法師」

 

天台の山僧・長円は法華経を読誦、不動明王に奉仕し、修行徳を重ね験力は顕燃たるものがあった。ある時、長円は熊野山より大峯に入り金峰山へと向かうが、深山の道に迷い前後不明の状態となってしまった。一心に妙法を誦したところ、夢に一人の童子があらわれ「天諸童子 以為給使 勿得憂愁 示其正路」と告げられる。夢から覚めた長円は正しき道を得て、金峰山に詣でることができた。

 

 

 

「巻下・第一二八 紀伊国美奈倍郡の道祖神」

 

法華経読誦の修行僧・天王寺の道公は常に熊野に参詣し、安居を勤めていた。熊野からの帰り道、美奈倍の郷(和歌山県日高郡みなべ町)の海辺の大木のもとに泊まった。

 

夜半、馬に乗った人が二、三十騎ほど現れて、木の下に集まってきた。一人が「木の下の翁だろうか」と問うと、下方より「翁である」と答えがあった。「速やかに出てきて共をせよ」との呼びかけに、翁の声は「荷負い馬の足が折れ損じて乗ることができず、役に立たない。明日には治療するか、他の馬を調達するかして共に参ろう。私は老境となり足腰が衰えていて、とても歩いていくことはできない」という。それを聞いた乗馬の人々は分散していった。

 

明朝、夜中のできごとを怪しんだ道公が大木の下をめぐり見ると、道祖神の像がある。像は古く朽ちており、長年月を経ているようだ。男の形はあったが女の形はない。像の前には板の絵馬があったが前足が破損しており、それを見た道公は糸で綴り補いもとの所に置いた。彼はことの縁を知るために、その夜も大木の下に宿った。やはり夜半になると多くの馬が集まり、今度は翁は馬に乗り、いずこかへと出ていった。

 

明け方、翁が帰ってきて道公に向かって言う。

 

「数十の馬は行疫神で、私は道祖神です。国の内を巡る時は、必ず翁が先触の役を務めます。もし共奉しなければ笞で打ち攻められ、言葉で罵詈されます。上人が馬の足を治してくれたので、この公事を務めることができました。 

 

今、私は下劣なる神の形を捨てて、上品の功徳の身を得ようと思う。我が身に受ける苦しみは無量無辺であり、聖人の力によって成就していただきたい」

 

道公は「そのようなことは私の力の及ぶところではない」と答えたが、道祖神は「この木の下で三日三夜、法華経を読んでください。さすれば、経の威力によって我が身の苦を転じて、浄妙の身を受けることができるでしょう」と言った。

 

そこで道公は言われたとおりに三日三夜、一心に妙法華経を読誦した。四日目に道祖神が現れ、持経者を礼拝して言う。

 

「聖人の慈悲によって今、この卑賎受苦の身を免れ、勝妙清浄の功徳の身を得て、補陀落世界に往生し観音の眷族となって菩薩の位に昇ろう。これは妙法を聴聞した神力です。ことの虚実を知ろうと思うなら、草木の枝で柴の船を造り私の木像を乗せて海上に放ち、その作法を見てみなさい」

 

そこで道公は柴の船を造り、道祖神の像を乗せて海上に放ち浮かべた。その時は風もなく波もなかったのに、船は南方の世界を目指し早々に走り去っていった。また、美奈倍の郷の老人が夢をみた。大木の下の道祖神が金色の菩薩形となり、光を放ち照らし輝かし、音楽を奏で舞いながら南方の世界を目指し、はるかに飛び上っていった。

 

道公はこの話を信受し、天王寺に帰って語り伝えた。聞く者は随喜して、皆道心を発したという。

 

 

 

「法華験記」では他に、法華経持経者が熊野をはじめ各地の霊場で神告を受けた話として法隆寺に住した明蓮「巻中・第八十 七巻の持経者明蓮法師」、熊野に参詣した持経者が女人変じた毒蛇に襲われるも法華経の功徳により天に昇るという「巻下・第一二九 紀伊国郡牟婁郡の悪しき女」が紹介されている。

 

 

 

これら「法華験記」の「物語」からは、多くの法華持経者が熊野に向かっていたことが確認される。沙門・義睿と出会った比叡山三昧座主の弟子である若き聖人と、死骸となって法華経を読誦し続けた比叡山東塔の住僧・円善、天台の山僧・長円の話しからは、そこに天台僧がいたことがわかる。また、沙門・義睿、若き聖人、長円の話からは「法華験記」が著される平安中期の長久年間(10401044)以前から、熊野と大峯を結ぶ山林斗藪が行われていたことが読み取れると思う。

 

 

(2)浄蔵

 

 

平安中期の公卿・三善清行の子である浄蔵(891964)も、熊野と大峯に縁ある天台僧の一人だ。

 

「大法師浄蔵伝」によると、浄蔵は12歳で熊野・金峰等の諸国の霊場で修行を積み、16歳で比叡山の玄照阿闍梨より金剛界・胎蔵界・蘇悉地の三部の大法を伝授され、18歳になると大慧法師に随って悉曇を学んだ。19の時には比叡山横川の苔洞に籠り、六道を輪廻する衆生の抜苦与楽のため毎日、法華経六部を読誦。閼伽水を供えて毎夜、六千反礼拝を行った。23歳、一人で大峯に入る。24歳の時、葛城山・金剛山で修行し、役行者ゆかりの窟で不動明王を感得。延喜15(915)25歳の時に那智山に入り、那智滝の草庵で日夜、法華経六部を誦し護法を使役・予兆する力を獲得したという。

 

「大法師浄蔵伝」については偉人伝的な話しや霊験譚が多く、その点についての受容には慎重にならざるをえないが、天台僧の浄蔵が熊野をはじめ諸国の霊場をめぐり修行していた、という事例としては引用できると思う。

 

(浄蔵の熊野・那智修行については、「14 聖地に向かう仏教者」の項でさらに検討する)

 

 

 

「大法師浄蔵伝」大峯・熊野関係分

 

・十二・・・・詣熊野金峰等諸霊地、精修苦節。

 

・満十六随玄照受両界三部之大法。

 

・十八歳随大慧大法師、五大院安然和尚入室之弟子也、習学悉曇。

 

・十九歳誓期三箇年、蟄居横川苔洞、為六趣群類抜苦与楽、毎日誦法花経六部、三時修行法、六時備閼伽、夜行六千反礼拝。

 

・廿三歳独入大峰、百日糧備三升。

 

・廿四歳正月廿八日入葛木山、以栗為其糧也。二月晦到金剛山大谷。・・・・三月十三日着于二上窟、此窟昔役行者之所住也。於此七日夜遂以不眠伏一心誦呪、見明王之影現。

 

・廿五歳隠居那智山、誓限三年、則瀧下結菴以果大願遂、則日読蓮経六部、六時修行法、又以縄曳瀧、毎宵立瀧口、満真言洛叉遍況、松葉為食、口無塩栖之味、蔦苔為衣、身無防風之計、如此苦行不可称計矣。第二年八月、本師律徳送書曰、魔風高扇心水不静、病痾屢侵餘喘不幾乎、爭遂会面蒙護持矣・・・・其後律師敢無悩気矣、瀧山三年訖已以出洛。

 

                       比叡山 峰道
                       比叡山 峰道

 

(3) 諸山縁起

 

 

「法華験記」に見られる山林斗藪に関連する文献として、「諸山縁起」がある。同書によれば平安後期、熊野で修行して山林を斗藪、同じく山林修行の聖地・吉野の大峯山を目指す修行者がいたことがうかがわれる。今日の「大峯奥駆道」の開拓期といえるだろうか。尚、後の本山派(園城寺系聖護院)と当山派(醍醐寺三宝院)の時代になると、熊野本宮から吉野に向かうのを順峯、吉野から熊野本宮へは逆峯と呼ばれるようになり、順峯は本山派、逆峯は当山派が主導した。

 

 

 

「諸山縁起」

 

白鳳の年、禅洞始めて熊野権現の御宝前に参じて、行ふ事既に畢んぬ。大峯に入りて籠る。十二年の春、胎蔵界の後門を出でて、同十三年の庚寅の年に、同じく金剛界の初門に入る。諸尊の位即ち金剛薩埵の位、現じ顕はれ給ふ。仏菩薩その数御座(ましま)す。未来の行者のため所々に示し記す。仏菩薩の嶽の住所なり。仁宗知ること独りなり。弟子舎兄は知らず。尤も具に諸仏を供養し奉るべし、菩薩の位を持念すべし。嶺々の霊所、諸天大仙人の住む宿所、皆あり、と云々。

 

 

 

これが文章どおり、私年号の一つ白鳳時代で、7世紀のこととするには無理があるようだ。「熊野権現の御宝前」とあるが、権現と呼称されるのは、後にみる「熊野本宮別当三綱大衆等解」に「三所権現の護持」とある永保3(1083)の頃なので、7世紀に権現と呼ぶことはまずはない。熊野権現に参詣した禅洞という人物について、「日本思想大系二十 諸山縁起」の「補注」では、「熊野別当初代とされるが、詳伝は不明」としている。後半に出てくる、「仁宗の伝記も明らかでない」とする。

 

吉野と熊野を結ぶ大峯奥駆道の、釈迦ヶ岳より北に孔雀岳へ向かう途中の岩場に「両部分け」と呼ばれるところがあり、吉野側を金剛界、熊野側を胎蔵界として密教の曼荼羅世界に見立てている。文中の「胎蔵界の後門を出でて」「金剛界の初門」というのがそれにあたるのだろう。以下、本文は「成身会大日如来 弥勒の宿る金峯の洞、四所あり。一所は才身なり。下るに二所あり。篠の中に一所あり」等、実際の山々を金剛・胎蔵両界の曼荼羅に当てはめて具体的に解説している。

 

 

 

「諸山縁起」の文末には、

 

「已上、本の如く写し了んぬ。慶政本なり。

 

已上、行蓮公(源少納言真実の孫なり)を以てこれを書写せしめ了んぬ。

 

但し文字の尤も不審なるは、すべからく他本を請ひてこれを交勘すべきのみ

 

慶政本なり」とある。

 

桜井徳太郎氏は、「成立年次を確定するのはむつかしいけれども、巻末に慶政(九条良経の男、11891268)の奥書があり、また本文中に建久3(1192)の年次や、熊野別当湛快(承安4[1174])・湛増(寿永または文治の頃別当となる)の名がみえるので、もしも奥書のごとく慶政の所蔵であることが確かならば、鎌倉初期かそれ以前に編集されたとみてよい」()と成立年次を推定されている。たしかに、「熊野権現の御宝前」との本地垂迹説成立以降の表現と、吉野と熊野を結ぶ大峯奥駆の山々を金剛界・胎蔵界曼荼羅に当てはめていることからすれば、平安末から鎌倉初期の編纂ということになると思う。

 

先に見たように、熊野の永興禅師のもとで修行し、山中で捨身行をなした法華経持経者を描いた「日本霊異記」の成立の時、弘仁年間(810824)には、山林斗藪と過酷な修行が熊野と周辺の深山で行われていたことがうかがえる。次に見た「法華験記」からは、平安中期には熊野と大峯という二つの聖地を結ぶ山岳路が開かれ、法華経の持経者が往来していたことが確認される。そして「諸山縁起」により、平安末期には、その道程は詳細な宗教的意義付けがなされ、聖地往来自体が宗教的に聖なる修行と高められていたことが理解される。

 

                       奈良 吉野山
                       奈良 吉野山

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