エミシとその時代 3 天平勝宝4年(752)~宝亀5年(774)

天平勝宝4年(752)

46代・孝謙天皇(女帝)の天平勝宝4(752)49

 東大寺の盧舍那仏像の開眼供養会が盛大に営まれました。

 

・「続日本紀」巻第十八・天平勝宝4(752) 孝謙天皇

夏四月乙酉。盧舍那大仏像成。始開眼。」是日行幸東大寺。天皇親率文武百官。設斎大会。其儀一同元日。(後略)

 

天平宝字元年(757)

44

 天皇は「不孝、不恭、不友、不順なる者については、陸奥国の桃生や出羽国の小勝(雄勝)に移してその考えを改めさせ、辺境を守る任に着かせる」旨、勅しました。

 

628

 山背王(やましろおう・後の藤原弟貞・ふじわらのおとさだ)が「橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)らが謀反を計画し武具を準備していること」「大伴古麻呂(おおとものこまろ)が関知していること」を孝謙天皇に密告し、「橘奈良麻呂の乱」は実行前に関係者が処罰されて未遂で終わります。

 天皇は謀反の関係者が都の土の上を歩くのは汚らわしいとして、出羽国小勝(雄勝)村の柵戸に移配することを命じました。

 

・「続日本紀」巻第廿・天平宝字元年(757) 孝謙天皇

夏四月・・・其有不孝・不恭・不友・不順者。宜配陸奥国桃生。出羽国小勝。以清風俗。亦捍辺防。

 

六月・・・至是、従四位上山背王復告。橘奈良麻呂備兵器。謀囲田村宮。正四位下大伴宿禰古麻呂亦知其情。・・・・

 

秋七月・・・久奈多夫礼良爾所詿誤百姓波京土履牟事穢弥、出羽国小勝村乃柵戸爾移賜久止宣天皇大命乎、衆聞食宣。

 

天平宝字2年(758)

611

 陸奥国が「前年の8月以来、朝廷側に帰順し降った蝦夷、男女合計1690余人は賊心なく天皇を崇敬している。そこで蝦夷に対し種籾(もみ)を給付し水田を耕作させて、王民として長期の生活の安定を図り、辺境防衛の任に充てたい」旨を天皇に奏上し、許可されました。

 

・「続日本紀」巻第廿・天平宝字2(758) 孝謙天皇

六月・・・辛亥。陸奥国言。去年八月以来。帰降夷俘。男女惣一千六百九十余人。或去離本土。帰慕皇化。或身渉戦場。与賊結怨。惣是新来。良未安堵。亦夷性狼心。猶予多疑。望請。准天平十年閏七月十四日勅。量給種子。令得佃田。永為王民。以充辺軍。許之。

 

47代・淳仁(じゅんにん)天皇の天平宝字2(758)10

 朝廷は陸奥国の浮浪人を使い桃生城を造り始めます。作業にあたった者は現地に定住させ、浮浪の徒は柵戸に編入されることになりました。

 同年128日、坂東の騎兵、鎮兵、役夫と蝦夷を使い、五道の諸国も参加して桃生城と小勝柵(雄勝城)を造っている記述があります。

 

・「続日本紀」巻第廿一・天平宝字2(758) 淳仁天皇

冬十月・・・発陸奥国浮浪人。造桃生城。既而復其調庸。便即占着。又浮宕之徒、貫為柵戸。

 

十二月丙午。徴発坂東騎兵。鎮兵。役夫。及夷俘等。造桃生城・小勝柵。五道倶入。並就功役。 

 

天平宝字3年(759)

926

 この日の勅によれば、陸奥国の桃生城と出羽国の雄勝城は造営中であることが分かります。

 同日、出羽国の雄勝、平鹿(ひらか)の二郡に玉野、避翼(さるはね)、平戈(ひらほこ)、横河(よこかわ)、雄勝、助河(すけかわ)に駅家(うまや・五畿七道の駅路沿いに30里ごとに設置された施設)が置かれました。陸奥国の嶺基(みねもと)等にも駅家が置かれます。

 

927

 坂東8ヵ国と越前、越中、能登、越後等の4国の浮浪人2000人を雄勝の柵戸としました。また相模、上総、下総、常陸、上野、武蔵、下野等の7ヵ国から送られた軍士の武器を、雄勝・桃生の2城に貯えます。

 

119

 天皇は坂東8ヵ国に勅を下し、「陸奥国に緊急事態が起き援軍派遣要請があったならば、国毎に2000人以下の兵を徴発し国司の中でも精悍なる者を一人選び部隊を指揮させて、速やかに救援に向かわせよ」と命じました。

 

・「続日本紀」巻第廿二・天平宝字3(759) 淳仁天皇

九月・・・己丑。勅。造陸奥国桃生城。出羽国雄勝城。所役郡司。軍毅。鎮兵。馬子。合八千一百八十人。従去春月至于秋季。既離郷土。不顧産業。朕毎念茲。情深矜憫。宜免今年所負人身挙税。始置出羽国雄勝。平鹿二郡。及玉野。避翼。平戈。横河。雄勝。助河。并陸奥国嶺基等駅家。

 

庚寅。遷坂東八国。并越前。越中。能登。越後等四国浮浪人二千人。以為雄勝柵戸。及割留相模。上総。下総。常陸。上野。武蔵。下野等七国所送軍士器仗。以貯雄勝・桃生二城。

 

十一月・・・辛未。勅坂東八国。陸奥国若有急速、索援軍者。国別差発二千已下兵。択国司精幹者一人。押領速相救援。 

 

天平宝字4年(760)

正月4

 淳仁(じゅんにん)天皇の勅により、陸奥国の按察使で鎮守将軍・正五位下の藤原恵美朝臣朝獦(ふじわらえみのあそみあさかり)等が荒夷(あらえみし)を教導して皇化に馴れ従わせ、一回も戦うことなく雄勝城を完成させたこと。また、陸奥国牡鹿郡では大河(北上川)を跨ぎ、急峻なる山を越えて、桃生柵(もものうのき)をつくり、賊の拠点を奪ったことが分かります。

 天皇は褒美として彼らを昇進させ、軍士や蝦夷の俘囚についても軍功のある者については按察使が選び定めて奏聞するように命じました。

 

310

 官職を没収された奴(男の賤民)233人、婢(女の賤民)277人を雄勝柵に移配し、奴婢の身分を改めて良民としました。

 

326

 上野国が飢饉となり、天皇は物を恵み与えました。一方、諸国に疫病がはやり、伊勢、近江、美濃、若狭、伯耆、石見、播磨、備中、備後、安芸、周防、紀伊、淡路、讃岐、伊予等の15ヶ国に天皇は物を恵み与えました。

 

1017

 陸奥の柵戸の人民らが天皇に「故郷を遠く離れた我々には家族の情もなく、吉凶を問う相手もおらず、事が起きた時に助け合うこともできません。伏して願います。故郷にいる父母、兄弟、妻子を同じ柵戸として籍に入れ、安心して仕事にあたれるようにして頂きたい」と言上します。天皇は要請を受け入れました。

 

1222

 薬師寺の僧・華達(けたつ、俗名は山村臣伎婆都・やまむらのおみきばつ)は、同寺の僧である範曜(はんよう)と博打をやって喧嘩となり、遂に範曜を殺害してしまいます。華達は還俗させられて陸奥国・桃生の柵戸に配されました。

 

・「続日本紀」巻第廿二・天平宝字4(760) 淳仁天皇

春正月・・・勅曰。尽命事君。忠臣至節。随労酬賞。聖主格言。昔先帝数降明詔。造雄勝城。其事難成。前将既困。然今陸奥国按察使兼鎮守将軍正五位下藤原恵美朝臣朝獦等。教導荒夷。馴従皇化。不労一戦。造成既畢。又於陸奥国牡鹿郡。跨大河凌峻嶺。作桃生柵。奪賊肝胆。眷言惟績。理応褒昇。宜擢朝獦。特授従四位下。陸奥介兼鎮守副将軍従五位上百済朝臣足人。出羽守従五位下小野朝臣竹良。出羽介正六位上百済王三忠。並進一階。鎮守軍監正六位上葛井連立足。出羽掾正六位上玉作金弓並授外従五位下。鎮守軍監従六位上大伴宿禰益立。不辞艱苦。自有再征之労。鎮守軍曹従八位上韓袁哲、弗難殺身。已有先入之勇。並進三階。自余従軍国郡司・軍毅、並進二階。但正六位上別給正税弐仟束。其軍士・蝦夷俘囚有功者。按察使簡定奏聞。

 

三月・・・辛未。没官奴二百卅三人。婢二百七十七人。配雄勝柵。並従良人。

・・・丁亥。上野国飢。賑給之。伊勢。近江。美濃。若狭。伯耆。石見。播磨。備中。備後。安芸。周防。紀伊。淡路。讃岐。伊予等一十五国疫。賑給之。

 

・「続日本紀」巻第廿三・天平宝字4(760) 淳仁天皇

冬十月癸酉。陸奥柵戸百姓等言。遠離郷関。傍無親情。吉凶不相問。緩急不相救。伏乞。本居父母・兄弟・妻子。同貫柵戸。庶蒙安堵。許之。

 

十二月・・・戊寅。薬師寺僧華達。俗名山村臣伎婆都。与同寺僧範曜。博戯争道。遂殺範曜。還俗配陸奥国桃生柵戸。

 

天平宝字6年(762)

 陸奥国で疫病がはやり、819日、天皇は物を恵み与えました。

 

1213

 乞索児(ほがいびと、乞食のこと・寿[ほがい]の言葉を唱えて門に立ち、物を乞う人)100人を陸奥国に配属して土地を与え、現地に定住させました。

⇒疫病の流行によって多くの人が亡くなり、生産労働人口が減少したことに対応するためでしょうか。

 

・「続日本紀」巻第廿四・天平宝字6(762) 淳仁天皇

八月・・・乙丑。陸奥国疫。賑給之。

 

十二月・・・丁亥。配乞索児一百人於陸奥国。便即占着。 

 

天平宝字7年(763)

2

 出羽国で飢饉があり229日、天皇は物を恵み与えました。

 

4

 陸奥国で飢饉があり、413日、天皇は物を恵み与えました。

 

・「続日本紀」巻第廿四・天平宝字7(763) 淳仁天皇

二月・・・壬寅。出羽国飢。賑給之。

 

夏四月・・・丙戌。陸奥国飢。賑給之。 

 

天平神護元年(765)

48代・称徳天皇(退位した46代・孝謙天皇が再び即位=重祚[ちょうそ]した)の天平神護元年(765)3

 三河、下総、常陸、上野、下野等の5ヵ国では旱魃となり、34日、天皇は詔してこれら5ヵ国では今年の調と庸の7乃至8割を免除するよう命じます。

 

3

 上野国が飢饉となり、天皇は物を恵み与えました。

 

・「続日本紀」巻第廿六・天平神護元年(765)  称徳天皇

三月・・・乙未。三河。下総。常陸。上野。下野等五国旱。詔、復今年調庸十分之七八。

・・・上野国飢。賑給之。 

 

天平神護2年(766)

117

 天皇は陸奥国の磐城(いわき)・宮城二郡の籾米穀16400余石を貧民に与え救済しました。

 

1230

 陸奥国の人、正六位上の名取公竜麻呂(なとりのきみたつまろ)が天皇より名取朝臣の姓を賜りました。

 

・「続日本紀」巻第廿七・天平神護2(766)  称徳天皇

十一月・・・己未。以陸奥国磐城。宮城二郡稲穀一万六千四百余斛。賑給貧民。

 

十二月・・・辛亥。陸奥国人正六位上名取公竜麻呂賜姓名取朝臣。 

 

神護景雲元年(767)

 伊治城(これはるのき、宮城県栗原市)が一箇月ほどで築城されました。

 

1015

 天皇は勅を下して短期間の築城を褒め、関係者を昇進させました。

 

11

 陸奥国に栗原郡が設置されました。元は伊治城の支配地域にあたります。

 

118

 出羽国、雄勝城下の俘囚400人余りが城に服属することを願い、許されました。

 

・「続日本紀」巻第廿八・神護景雲元年(767) 称徳天皇

冬十月辛卯。勅。見陸奥国所奏。即知伊治城作了。自始至畢。不満三旬。朕甚嘉焉。(後略)

 

十一月乙巳。置陸奥国栗原郡。本是伊治城也。

甲寅。出羽国雄勝城下俘囚四百余人。款塞乞内属。許之。 

 

神護景雲2年(768)

922

 陸奥国が「諸国より徴発した鎮兵2500人を停止し、自国から4000人を徴発して鎮兵に加えたい。人民の出した調・庸は国司のもとに収め置き、10年に1度の割りで都の倉庫に進納したい」旨を言上し、天皇はこれを許しました。

 

1216

 天皇は勅を下し、「陸奥国の管内や他国の人民で、伊治(これはる)・桃生(もものう)への移住を願う者にはそれを許し、現地に安住させて法により租税を免除する」ことを命じました。

 

・「続日本紀」巻第廿九・神護景雲2(768) 称徳天皇

九月・・・壬辰。陸奥国言。兵士之設、機要是待。対敵臨難。不惜生命。習戦奮勇。必争先鋒。而比年。諸国発入鎮兵。路間逃亡。子之士。又当国舂運年糧料稲卅六万余束。徒費官物。弥致民困。今検旧例。前守従三位百済王敬福之時。停止他国鎮兵。点加当国兵士。望請。依此旧例、点加兵士四千人。以停他国鎮兵二千五百人。又此地祁寒。積雪難消。僅入初夏。運調上道。梯山帆海。艱辛備至。季秋之月。乃還本郷。妨民之産。莫過於此。望請。所輸調庸。収置於国。十年一度。進納京庫。

許之。

 

十二月・・・丙辰。勅。陸奥国管内及他国百姓。楽住伊治・桃生者。宜任情願。随到安置。依法給復。 

 

神護景雲3年(769)

130

 陸奥国の言上を受けて太政官が審議し、天皇に「生まれ育った地を思い、遠国へ移ることをためらうのは人として普通の感情である。現在、罪もない人民を配流同然に陸奥国に移して、辺境の城柵を守らせているのは物事のあり方として穏やかなものではなく、逃亡する者がいるのも仕方のないことである。もし、自ら進んで辺境の人民となり、伊治・桃生二城の肥沃な地で三農の利益を得たいと願う者があれば、当国人、他国人を問わず願う所に安住させて、法の定めは横に置いて租税を免除し、他者にも移住を願うようにさせて、辺境の守備にあたらせるべきである」旨を奏上し、天皇はこれを許しました。

 これにより、主に東国の民が徴発されて蝦夷地に赴いていたものの、それがいかに受け入れ難いものであったか。また多大なる負担となっていたことが分かります。

 

217

 天皇は勅を下し、「陸奥国の桃生・伊治二城の造営は終わっており、土地は肥え、実りは豊かである」として、坂東8ヶ国においては人民を募り、願う者があれば移住させて免税の措置を講じるように命じました。

 

313

 陸奥国白河郡の人で外正七位上の丈部子老(はせつかべのこおゆ)、加美郡の人・丈部国益(はせつかべのくにます)、標葉(しは)郡の人で正六位上の丈部賀例努(はせつかべのかれの)10人に阿倍陸奥臣の姓を賜ったのをはじめ、陸奥国の多くの人が天皇より姓を賜りました。これは大国造(おおくにのみやっこ)である道嶋宿禰嶋足(みちしまのすくねしまたり)の申請によるものでした。

 

47

 陸奥国行方郡の人で外正七位下の下毛野公田主(しもつけののきみたぬし)4人が、天皇より朝臣の姓を賜りました。

 

1125

 陸奥国牡鹿郡の俘囚で少初位上・勲七等の大伴部押人(おおともべのおしひと)が天皇に言上します。

「伝え聞くところでは、押人等の先祖はもと紀伊国名草郡片岡里の人であるということです。昔、先祖の大伴部直(おおともべのあたい)が蝦夷征討の時に小田郡嶋田村に至り定住しました。その後、子孫が蝦夷に捕らわれ捕虜となってしまい、歴代を重ねて俘囚となりました。幸いにして聖なる朝廷が世を治められその武威が辺境を平定されており、私は彼の地を出てから久しく天皇のもとにある民となっています。俘囚の名を除き、調・庸を納める公民になることを願います」天皇はこれを許可しました。

 

・「続日本紀」巻第廿九・神護景雲3(769) 称徳天皇

春正月・・・己亥。陸奥国言。他国鎮兵。今見在戍者三千余人。就中二千五百人。被官符。解却已訖。其所遺五百余人。伏乞、暫留鎮所。以守諸塞。又被天平宝字三年符。差浮浪一千人。以配桃生柵戸。本是情抱規避。萍漂蓬転。将至城下。復逃亡。如国司所見者。募比国三丁已上戸二百煙、安置城郭。永為辺戍。其安堵以後。稍省鎮兵。官議奏曰。夫懐土重遷。俗人常情。今徙無罪之民。配辺城之戍。則物情不穏。逃亡無已。若有進趨之人。自願就二城之沃壌。求三農之利益。伏乞。不論当国・他国。任便安置。法外給復、令人楽遷、以為辺守。

奏可。

 

二月・・・丙辰。勅。陸奥国桃生。伊治二城。営造已畢。厥土沃壌。其毛豊饒。宜令坂東八国。各募部下百姓。如有情好農桑、就彼地利者。則任願移徙。随便安置。法外優復。令民楽遷。

 

三月・・・辛巳。陸奥国白河郡人外正七位上丈部子老。加美郡人丈部国益。標葉郡人正六位上丈部賀例努等十人。賜姓阿倍陸奥臣。(中略)並是大国造道嶋宿禰嶋足之所請也。

 

夏四月・・・甲辰。陸奥国行方郡人外正七位下下毛野公田主等四人賜姓朝臣。

 

・「続日本紀」巻第三十・神護景雲3(769) 称徳天皇

十一月・・・己丑。陸奥国牡鹿郡俘囚外少初位上勲七等大伴部押人言。伝聞。押人等本是紀伊国名草郡片岡里人也。昔者、先祖大伴部直征夷之時。到於小田郡嶋田村而居焉。其後。子孫為夷被虜。歴代為俘。幸頼聖朝撫運神武威辺。抜彼虜庭、久為化民。望請。除俘囚名。為調庸民。

許之。 

 

宝亀元年(770)

41

 陸奥国の黒川・賀美等の11郡の俘囚3920人が言上します。

「我等の父祖はもとは天皇の民でしたが、蝦夷にからめとられて遂に蝦夷と同じ扱いとなってしまいました。今は既に敵である蝦夷を殺して帰順し、子孫も繁栄しています。我等の俘囚の名を除いて天皇の民として、調・庸を納める身分になれるよう願います」天皇はれを許可しました。

 

810

 蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇(うかめのきみうくはう)等が突如として徒党を組み、賊地に逃げ帰ってしまいます。使者を派遣して呼びかけましたが彼らは帰ろうとはせず、「一、二の同族を率いて必ずや城柵を攻撃しよう」と言いました。ことの経緯を調べるため、正四位上で近衛中将と相模守を兼ねる、勲二等の道嶋宿禰嶋足らを遣わし、虚実を検問させました。

 

823

 道鏡法師の姦計を告発した功により、従四位上の坂上大忌寸苅田麻呂(さかのうえのおおいみきかりたまろ)に正四位下の位が授けられました。坂上苅田麻呂は916日には陸奥鎮守将軍に任命されます。

 

・「続日本紀」巻第三十・宝亀元年(770) 称徳天皇

夏四月・・・陸奥国黒川。賀美等十一郡俘囚三千九百廿人言曰。己等父祖。本是王民。而為夷所略。遂成賤隷。今既殺敵帰降。子孫蕃息。伏願。除俘囚之名。輸調庸之貢。許之。

 

八月・・・己亥。蝦夷宇漢迷公宇屈波宇等。忽率徒族。逃還賊地。差使喚之。不肯来帰。言曰。率一二同族。必侵城柵。於是。差正四位上近衛中将兼相模守勲二等道嶋宿禰嶋足等。検問虚実。

・・・是日。授従四位上坂上大忌寸苅田麻呂正四位下。以告道鏡法師姦計也。

 

九月・・・正四位下坂上大忌寸苅田麻呂為陸奥鎮守将軍。 

 

宝亀2年(771)

49代・光仁天皇の宝亀2(771)627

 渤海国の使節で青綬大夫(せいじゅたいふ)の壱万福(いちまんぷく)325人が船17隻で出羽国の賊地、野代湊(秋田県能代市付近)に着きました。常陸国に移動して安全に住まわせ、生活物資を供給しました。

 

1111

 陸奥国・桃生郡の人で外従七位下の牡鹿連猪手(おじかのむらじいて)が、天皇より道嶋宿禰(みちしまのすくね)の氏姓を賜りました。

 

・「続日本紀」巻第三十一・宝亀2(771) 光仁天皇

六月・・・壬午。渤海国使青綬大夫壱万福等三百廿五人。駕船十七隻。着出羽国賊地野代湊。於常陸国安置供給。

 

十一月・・・癸巳。陸奥国桃生郡人外従七位下牡鹿連猪手賜姓道嶋宿禰。

 

宝亀3年(772)

正月1

 光仁天皇は大極殿(だいごくでん)に出御、朝賀を受けました。文武の百官、渤海の蕃客(ばんきゃく)、陸奥と出羽の蝦夷は各々儀礼により拝賀。次侍従(じじじゅう)以上の者と内裏で宴会を催し、地位ごとに分けて物を賜りました。

 

717

 陸奥国安積郡の人で丈部継守(はせつかべのつぐもり)13人が、天皇より阿部安積臣(あべのあさかのおみ)の氏姓を賜りました。

 

929

 天皇は我が心に適っているとして、従四位下の大伴宿禰駿河麻呂(おおとものすくねするがまろ)を陸奥按察使(あぜち)に任じました。

 

1011

 下野国が「奸偽(かんぎ)の徒が課役を避ける為に陸奥国に逃げ入り、今や総数が870人になりました。国司はこれを禁じることができませんでした」と言上して、その対応を朝廷に願いました。太政官が判定を下し、陸奥国司が下野国の使者と共同で取り調べを行い、逃亡者をもとの郷里に帰らせました。

 

・「続日本紀」巻第三十二・宝亀3(772) 光仁天皇

春正月壬午朔。天皇御大極殿。受朝。文武百官。渤海蕃客。陸奥出羽蝦夷。各依儀拝賀。宴次侍従已上於内裏。賜物有差。

 

秋七月・・・丙申。陸奥国安積郡人丈部継守等十三人賜姓阿部安積臣。

 

九月・・・従四位下大伴宿禰駿河麻呂為陸奥按察使。仍勅。今聞。汝駿河麻呂宿禰辞。年老身衰。不堪仕奉。然此国者。元来択人。以授其任。汝駿河麻呂宿禰。唯称朕心。是以任為按察使。宜知之。即日授正四位下。

 

冬十月・・・下野国言。管内百姓。逃入陸奥国者。彼国被官符。随至随附。因茲。姦偽之徒。争避課役。前後逃入者惣八百七十人。国司禁之。終不能止。遣使令認。彼土近夷。民情険悪。逓相容隠。猶不肯出。於是官判。陸奥国司共下野国使。存意検括。還却本郷。

 

宝亀4年(773)

正月1

 光仁天皇は大極殿に出御、朝賀を受けました。文武の百官、及び陸奥と出羽の蝦夷は各々儀礼により拝賀。五位以上の者と内裏で宴を催し、物を賜りました。

 

正月14

 陸奥・出羽国の蝦夷と俘囚が郷里に帰る際、天皇は地位に応じて位を授け、物を与えました。

 

正月15

 出羽国の人で正六位上の吉弥侯部大町(きみこべのおおまち)が軍糧を援助し、天皇より外従五位下を授けられました。

 

3

 近江、飛騨、出羽の3国で大風が吹いて人民が飢餓状態となり、天皇は物を恵み与えました。

 

721

 天皇は正四位下の大伴宿禰駿河麻呂(おおとものすくねするがまろ)を陸奥国鎮守将軍に任命します。駿河麻呂の従来職である陸奥国の按察使と守(かみ)はそのままで、三つの役職を兼ねることになりました。

 

・「続日本紀」巻第三十二・宝亀4(773) 光仁天皇

春正月丁丑朔。御大極殿。受朝。文武百官。及陸奥出羽夷俘。各依儀拝賀。宴五位已上於内裏賜被。」

庚辰。陸奥出羽蝦夷俘囚帰郷。叙位賜禄有差。

辛卯。授出羽国人正六位上吉弥侯部大町外従五位下。以助軍糧也。

 

三月・・・近江。飛騨。出羽三国大風人飢。並賑給之。

 

秋七月・・・甲午。以正四位下大伴宿禰駿河麻呂為陸奥国鎮守将軍。按察使及守如故。 

 

宝亀5年(774)

正月16

 天皇は五位以上の官人と楊梅宮(やまもものみや)で宴を催しました。出羽の蝦夷と俘囚が朝堂で饗応され、位を叙し地位に応じて禄を賜りました。

 

正月20

 天皇は詔を発し、蝦夷と俘囚が朝廷に参内するのを停止します。

 

723

 天皇は河内守・従五位上の紀朝臣広純(きのあそみひろすみ)に鎮守副将軍を兼任させます。続いて、陸奥国按察使・兼鎮守将軍・正四位下の大伴宿禰駿河麻呂(おおとものすくねするがまろ)に勅を発しました。

「先日の将軍らの奏上によると、一人は蝦夷を討たないほうがいいと言い、一人は討つべきだと言う。朕は征討が民を疲弊させることを思い、しばらくは全てを包み込んでいた。だが今の将軍らの奏上では彼の蝦夷は蠢いており、野心を改めることもなく辺境を侵略し、王命を敢えて拒んでいるという。事ここに至ってはやむを得ず、我がもとに送られた奏上により、早く軍を発して時を選んで討ち滅ぼすべきである」

 

725

 陸奥国が言上します。

「海道の蝦夷が衆を発して橋を焼き道を塞ぎ、道路は通行不能で既に往来も絶えています。蝦夷は桃生城に侵攻し、西郭を破りました。鎮守兵は蝦夷の勢いに押されて、防ぎきれませんでした。国司は事の重大さに軍勢を動かして蝦夷を討ちました。但し、この戦いで何人殺傷されたかはいまだ分かりません」

 

82

 天皇は坂東8国に勅を発しました。

「陸奥国が緊急事態を告げてきたならば、国の大小に応じて援軍の兵士、2000以下500以上を発し陸奥国へ向かわせること。同時に奏上して機を逸せずに現地に赴き、務めを果たすこと」

 

824

 天皇は鎮守将軍らの要請により蝦夷の賊を征討させました。しかしこの時に至って、将軍らはさらに言上します。

「賊の動く様は犬や鼠が物を盗むようで、侵入しては掠め取る時もありますが、こちらに大損害を与えるものではありません。今、蝦夷の地は草深く、攻撃しても後悔する事態となる恐れがあります」

 天皇は、以前は戦いを起こすことを軽々しく論じていた将軍達が、今度は慎重な計画に転じるとは首尾一貫性を欠いているとして、勅を発しこれを深く譴責(けんせき)します。

 

104

 大伴宿禰駿河麻呂らは陸奥国遠山村に攻め込み、蝦夷は逃亡する者、降伏する者が相次ぎます。天皇は使者を遣わして勅を宣べて慰労、天皇の服、彩色の美しい絹を与えました。

 

1110

 陸奥国が「大宰府と陸奥国は不慮の事態を同じように警戒していますが、危急を知らせる早馬の奏上文には正確な時刻を記すべきです。大宰府には漏尅(ろうこく・水時計)が既に置かれていますが、陸奥国にはありません」と言上。

 天皇は使者を遣わして陸奥国に漏尅を置きました。

 

⇒光仁天皇による勅から本格的な蝦夷征討の戦いが展開され、それは弘仁2(811)まで続き、38年戦争と呼ばれる長期間のものとなりました。

 

・「続日本紀」巻第三十三・宝亀5(774) 光仁天皇

春正月・・・丙辰。宴五位已上於楊梅宮。饗出羽蝦夷俘囚於朝堂。叙位賜禄有差。

庚申。詔停蝦夷俘囚入朝。

 

秋七月・・・庚申。以河内守従五位上紀朝臣広純為兼鎮守副将軍。

勅陸奥国按察使兼守鎮守将軍正四位下大伴宿禰駿河麻呂等曰。

将軍等。前日奏征夷便宜。以為。一者不可伐。一者必当伐。朕為其労民。且事含弘。今得将軍等奏。蠢彼蝦狄。不悛野心。屡侵辺境。敢拒王命。事不獲已。一依来奏。宜早発軍応時討滅。

壬戌。陸奥国言。海道蝦夷。忽発徒衆。焚橋塞道。既絶往来。侵桃生城。敗其西郭。鎮守之兵。勢不能支。国司量事。興軍討之。但未知其相戦而所殺傷。

 

八月己巳。勅坂東八国曰。

陸奥国如有告急。随国大小。差発援兵二千已下五百已上。且行且奏。務赴機要。

辛卯。先是。天皇依鎮守将軍等所請。令征蝦賊。至是更言。臣等計。

賊所為。既是狗盗鼠窃。雖時有侵掠。而不致大害。今属茂草攻之。臣恐後悔無及。

天皇以其軽論軍興首尾異計。下勅深譴責之。

 

冬十月・・・庚午。陸奥国遠山村者。地之険阻。夷俘所憑。歴代諸将。未嘗進討。而按察使大伴宿禰駿河麻呂等。直進撃之。覆其巣穴。遂使窮寇奔亡。降者相望。於是。遣使宣慰。賜以御服綵帛。

 

十一月・・・陸奥国言。大宰。陸奥。同警不虞。飛騨之奏。当記時剋。而大宰既有漏剋。此国独無其器者。遣使置之。 

 

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