7 増基法師の紀行文「いほぬし・熊野紀行」

 

増基法師は「世を逃れて、心のままにあらむ」と思い、「世の中に聞きと聞く所々、をかしき」をたずねて、また「尊き所どころ拝み奉り、わが身の罪をも滅ぼさむ」として、諸国の名所・旧跡をたずね歩いた。彼はある年の冬、一人の童子を伴って熊野に参詣し、その模様を歌集であり紀行文でもある「いほぬし」(庵主日記)の「熊野紀行」に記している。   

 

「いほぬし」()11世紀中頃には成立していて、平安後期の熊野を知ることのできる史料の一つだ。それによると、本宮には庵室が200から300も作られ、止住する修行者は礼堂に出仕して例時作法の勤行を行い、額ずきながら陀羅尼を誦していた。霜月には天台の法華八講を行っていたという。

 

 

 

「いほぬし・熊野紀行」の熊野参詣分

 

それより三日という日、御山に着きぬ。ここかしこ巡りて見れば、庵室ども二、三百ばかりをのが、思い思いにしたる様もいとおかし。親しう知りたる人のもとに行きたれば、蓑を腰に衾(ふすま)のように引きかけて、榾杙(ほたくい・燃え残った木)というものを枕にして、まろねに寝(ごろ寝)たり。ややと言えば、驚きて、とく入り給えと言いて入れつ、おほんあるじせんとて、碁石筍(ごいしけ・碁石の入れもの)の大きさなる芋の頭を取り出して焼かす。これぞ芋の母と言えば、さは乳の甘さやあらんと言えば、人の子にこそ食わせめと言いて、けいめいすれば、さて鐘打てば御堂へ参りぬ。頭引き包みて、蓑うち着つつ、ここかしこに数知らず詣で集まりて、例時果ててまかり出るに、或は僧正の御前に止まるもあり。礼堂の中の柱のもとに、蓑うち着つつ忍びやかに顔引き入れつつあるもあり。額づき陀羅尼読むもあり。様々に聞きにくく、あらはにそと聞くもあり。かくてさぶらうほどに、霜月の御八講になりぬ。その有り様常ならずあわれに尊し。八講果てての明日に、ある人こう言いおこせたり。

 

おろかなる心の暗にまどいつつ 浮世にめくる我身つらしな

 

いほぬしもこの事を真心にたう心を仏のごとしと思う。

 

白妙の月また出て照らさなむ かさなる山の遠(おく)にいるとも

 

また年ごろ家に尽くせることを悔いて

 

玉の緒も結ぶ心のうらもなく 打とけてのみ過しけるかな

 

さてさぶらうほどに、霜月廿日のほどの明日まか出なんとて、音無河のつらに遊べば、人暫しさぶらい給えかし。神も許し聞え給わじなど言うほどに、頭白き鴉ありて、

 

山からすかしらも白く成にけり 我が帰るべき時や来ぬらん

 

さて人の室(むろ)に行きたれば、檜を人の焚くか、はしりはためくをとりて侍れば、室の主、この山は榾杙(ほたくい)験ありて、はたはたとぞ申すと言えば、焚き声ならんと言いて発ちぬ。

 

 

 

意訳

 

休息地で「万代の神という手向けの神にお供えをし、深く祈念したからには 願う事は悉く成就するであろう」と詠んでから三日後、熊野の本宮に着いた。あちらこちらと巡って見れば、庵室が二、三〇〇ばかり、思い思いに建てられている様は実に趣深いものがある。親しい知りあいのもとに行ってみると、蓑を腰に夜具()のようにかけて、燃え残った木材(榾杙)を枕にして、ごろ寝をしている。挨拶すると驚き起きて、「どうぞお入りなさい」と言われ、中に招かれた。庵室の主はもてなそうと、碁石入れ(碁石筍)ほどの大きさの芋の頭を取り出して、弟子に焼かせてくれる。皆で芋を食べていると、知人が「これこそ芋の母ではないか」と言うので、私が「さては乳の甘さだろうか」と応じると、知人は「ならば子供にこそ食わせたいものだ」と返したりして、和やかに談笑していた。そのうちに鐘が打ち鳴らされたので、皆で御堂へと向かった。

 

御堂には、頭を袈裟などで引き包み蓑を着た道俗が、ここかしこにと数知れず集まっている。定刻の勤行(例時)が終わり退出となったが、ある者は僧正(熊野別当のことか)の御前にとどまり、ある者は証誠殿の礼堂の柱のもとで、蓑を着たまま忍びやかに顔を袈裟などに引き入れている。また額づいて陀羅尼を読んでいる者もいる。読経の声は様々であり聞きとれないほどの喧噪で、「声が大きすぎる」との荒い声も聞こえてくる。

 

御堂参りを重ねているうちに、十一月の法華八講の日となった。その有り様は常のものではなく、実にありがたく尊いものである。法華八講が終わった翌日、ある人がこう詠われた。

 

「愚かなる心の暗きに迷いながら 浮き世をめぐる我が身の辛きことよ」

 

いほぬし(増基法師)もこの歌に感動して、仏道に一途な真心こそ仏のごとしであると思う。

 

「白く妙なる月はまた昇り照らすであろう 重なる山の遠くへ入ろうとも」

 

また、年来、出家せずにいたことを悔いて

 

「玉の緒を結ぶように心を固めていたのに 俗世のことにどれだけの時を過ごしてしまったのだろう」

 

さて、そのような日々を過ごすうちに、十一月二十日頃には出発しようと思い、音無川の岸辺でのんびりしていると、ある人から「もう暫くいらっしゃい。今、出発なさるのは、熊野の神が許さないことでしょう」と言われたが、その時、頭の白い烏が飛んでいるのが見えた。

 

「山からすの頭も白くなったようだ 我が故郷へ帰るべき時も来たのであろう」

 

そうして、ある人の庵室へと行ってみたところ、檜(ひのき)を焚いているのであろう、火の粉がはぜるのを見ていると、庵室の主が「熊野の山では燃え残りの木材(榾杙)に験があり、『はたはた』というのだ」という。いほぬしは「薪が燃える声なのでしょう」と答え、熊野を発った。

 

 

 

以上、「いほぬし」の一部分だけの引用だが、当時の本宮の風景とともに増基法師の心中も描き出されたような味わい深い紀行文だと思う。尚、平安後期には本宮・新宮・那智の各山に常住する僧(大衆・衆徒)の中に三昧僧がいて、法華三昧に従事していたことが文献から確認される。

 

 

 

「本朝世紀」仁平3(1153)35日条()

 

僧事 院御熊野詣賞

 

本宮

 

権大僧都有観 一切経供養御導師

 

法橋湛実 別当湛快譲

 

権律師行政 御先達

 

長増 同譲 楽器修理功

 

新宮

 

法橋範智 権別当行範譲

 

那智

 

法橋尊誉 三昧堂修造功

 

阿闍梨尊済 客僧

 

 

 

「台記」仁平三年(一一五三)七月十五日条()

 

・・・・熊野新無三昧堂領事・・・・

 

 

 

「後鳥羽院庁下文」建暦二年(一二一二)二月日()

 

・・・・新宮陸拾斛祢宜給、本宮弐拾斛三昧僧給、那智弐拾斛社壇承仕等給・・・・

 

 

 

熊野・那智の各山には、常住僧以外にも諸国を行脚する多くの客僧が寄寓していて、本宮と新宮では、社殿前の礼殿(長床)に出仕して法会を行っていたことから長床衆と呼ばれた。長床衆は諸国をまわり熊野権現の霊験を説き、多くの修験者を統轄していた。後に見る、鎌倉時代の一遍の熊野成道を描写した「一遍聖絵」には、「本宮証誠殿の御前にして、願意を祈請し、目を閉ぢて未だ微睡(まどろ)まざるに、御殿の御戸を押し開きて、白髪なる山臥の長頭巾掛けて出で給ふ。長床には、山臥三百人許り、首を地につけて礼敬し奉る。」と、長床衆が登場する。

 

 

 

以上これまで見てきた「日本霊異記」「三宝絵詞」「法華験記」「大法師浄蔵伝」「いほぬし」等からは、熊野の霊場を訪れる法華経の持経者は奈良時代からあり、それは平安期に入り活発化したこと。熊野・那智は、古より法華経信仰有縁の地となっていたこと。熊野・那智では、天台僧により教理面が移植されていたこと等が読み取れるのではないかと思う。

 

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