少年時代の誓願から法華経の行者・一閻浮提第一の聖人へ

少年時代の日蓮には「日本第一の智者になりたい」との願いがあった。

 

「清澄寺大衆中」( 定P1132 真蹟曽存)

日本第一の智者となし給へ

 

「善無畏三蔵抄」(P471 真蹟推定断簡)

日本第一の智者となし給へ

 

「佐渡御勘気抄」(P510)

本より学文し候ひし事は、仏教をきは()めて仏になり、恩ある人をもたす()けんと思ふ。

 

「破良観等御書」(P1283 延山録外)

日本第一の智者となし給へ

 

 

 

当時、安房の国の「賎民が子」(善無畏三蔵抄)、「海人が子」(本尊問答抄)、「民の家」(妙法比丘尼御返事)、「海辺の旃陀羅が子」(佐渡御勘気抄)、「旃陀羅が家」(佐渡御書)、「遠国の者民が子」(中興入道御消息)という一人の子供が、「日本第一の智者に」と願ったのは随分と「大いなる願い」ではあったが、この願いが即ち日蓮の出家の動機を意味するものであろうし、それはまた修学の動機となったものでもあるのだろう。

 

日蓮は「知的な向上心」「学問的情熱」「真理への探究心」から出家、修学に至り、目指すべきは「日本第一の智者」だったのである。それは即ち、当時の諸宗全てを研鑽し教理を究めねばならないことを意味し、その先に向かうべきは当時の仏教界の総本山ともいえる比叡山であり、青年となった彼は京畿へと旅だった。

 

日蓮は志を抱いて比叡山に上がったのだが、その様相はどのようなものだったのだろうか。

 

平安中期以降、比叡山には良源(中興の祖)、源信(「往生要集」「一乗要決」などを著す)、良忍(融通念仏宗の祖)、源空(浄土宗の祖)、栄西(臨済宗の祖)、慈円(天台座主、「愚管抄」[史論書]を著す)、道元(曹洞宗の祖)、親鸞(浄土真宗の祖)等、仏教史に名を残す名僧が出現したが、日蓮が入山した当時、東塔、西塔、横川の三地域に分かれ居住していた三千人ともいわれる住僧は、学生(がくしょう)と大衆(だいしゅ)の二つに分かれており、学生は貴族出身者などで占められその将来は学匠、天台宗の要職が待っていた。一方、大衆は宗団を運営すると共に、山徒・僧兵としての一面もあったようだ。(「日蓮攷」P76参照 高木豊氏 2008年 山喜房仏書林)

 

日蓮の文書に、比叡山における師弟関係を窺わせる記述等はなく、またその事跡を伝える関連文書も少ない。「日大直兼十番問答記」にの学匠・俊範に就学したと伝えている。

 

日蓮はこの時、どのような日々を過ごしたのだろうか。

 

 

貴族出身者等、上流階級が要職を独占し厚い門閥の壁を作っていた比叡山、僧兵が跋扈していた比叡山、反面、諸国からの修学、求法の青年が集った比叡山。その地で青年日蓮に与えられたものは、膨大なる経論釈の蔵書、諸国より集った学僧の息吹等、他に抜きんでた学的環境だったと思うのである。そして、彼は経論釈の世界に没頭し、「学ぶ」ことに専念したようだ。それは後年の、書簡や法門書の随所に引用される膨大なる文献資料によって知ることができる。

 

建長5年春の「法門申しはじめ」以降、各宗派を順に選択し批判を加え続けた日蓮の教示に、彼の修学期の求法の姿勢、勉強量の一端が窺える。主だったものを見てみよう。

 

初期の文献である「唱法華題目抄」には、

天台大師の文句第三の巻に云く

疏記第十に五種法師を釈するには

妙楽大師五十展転の人を釈して云く

法華経勧持品に云く

経に云く

文文の心は

文経並に釈の心は

涅槃経二十二に云く

仁王経に云く

とある。

 

「立正安国論」では、

金光明経に云く

大集経に云く

仁王経に云く

薬師経に云く

涅槃経に云く

法華経に云く

としている。

 

 

 

「観心本尊抄」では、

摩訶止観第五に云く

玄義第二に云く

文句第一に云く

観音玄に云く

弘決第五に云く

章安大師云く

金錍論に云く

法華経第一方便品に云く

寿量品に云く

法華経法師品に云く

宝塔品に云く

天台大師云く

伝教大師云く

涅槃経に云く

華厳経に云く

仁王経に云く

金剛般若経に云く

馬鳴菩薩の起信論に云く

天親菩薩の唯識論に云く

天親菩薩の法華論、堅慧菩薩の宝性論に

故に清涼国師の云く

慧苑法師の云く

了洪が云く

得一が云く

弘法大師の云く

無量義経に云く

竜樹菩薩云く

無依無得大乗四論玄義記に云く

吉蔵疏に云く

法師品に云く

涌出品に云く

宝塔品の末に云く

輔正記に云く

分別功徳品に云く

神力品に云く

道暹云く

嘱累品に云く

薬王品に云く

とある。

 

 

法華経八巻、無量義経一巻、仏説観普賢菩薩行法経一巻の本経行間、紙背に経釈の要文を注記した注法華経(大半は文永11[1274]から建治3[1277]に書き込まれたとされる)は、表裏に注記された経論釈は2107章という膨大なものである。

 

浄土教関係の典籍は大阿弥陀経一章、観無量寿経二章、観経義疏一章、同正観記一章、浄土群疑論一章、往生捨因一章の計七章であり、密教関係の経釈は「大日経五章、金剛頂経一章、蘇悉地経一章、瑜祇経一章、分別聖位経一章、不空羂索神変真言経一章、方等陀羅尼経一章、威儀形色経一章、観智儀軌一章、一字金輪時処儀軌一章、法華肝心陀羅尼一章、大日経義釈三章、大日経疏三章、金剛頂義訣一章、顕密二経論七章、秘蔵宝鑰一章、法華十不同一章、蘇悉地経疏二章、大日経指帰三章、講演法華儀一章、真言宗教時義七章、菩提心義八章等、計五十二章となっている。

 

また、文永12216日に著した「新尼御前御返事」(真蹟断片)には、新尼に曼荼羅を授与するに当たりその法義を説示する中で、日蓮図顕の曼荼羅はインド、中国、日本において未だ嘗てないものであり、日蓮は様々な経典、各寺院の記録も調べたと記述している。

 

此の御本尊は天竺より漢土へ渡り候ひしあまたの三蔵、漢土より月氏へ入り候ひし人々の中にもしるしをかせ給わず。西域等の書ども開き見候へば、五天竺の諸国寺々の本尊皆しるし尽くして渡す。又漢土より日本に渡る聖人、日域より漢土へ入りし賢者等のしるされて候寺々の御本尊皆かんがへ尽くし、日本国最初の寺元興寺・四天王寺等の無量の寺々の日記、日本紀と申すふみより始めて多くの日記にのこりなく註して候へば、其の寺々の御本尊又かくれなし。其の中に此の本尊はあへてましまさず。(P866)

 

*この御本尊はインドより中国へ渡った多くの三蔵(経・律・論を三蔵。経蔵、律蔵、論蔵の三蔵教に通達する法師を三蔵または三蔵法師とも呼称する)や、中国からインドに入った人々の記録にも書き残されていない。玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の見聞記である「大唐西域記(だいとう さいいきき)」などの書物を開いてみれば、五天竺(インドの古称、東天竺・西天竺・南天竺・北天竺・中天竺)の諸国の寺院の本尊は、皆記述されて伝えられている。

 

また、中国より日本に渡った聖人や日本より中国に入った賢者等が記述した、寺々の御本尊についても全て調べてみた。日本国初の寺院である元興寺(がんごうじ)・四天王寺等、数えきれないほどの寺々の日記や、日本紀という書を始めとして多くの日記に残りなく記されているものなので、その寺々の本尊もまた明らかなのである。その中に、この曼荼羅本尊についてはいっこうに記されていない。

このように日蓮は経論釈を縦横に使いこなし、古文献や諸記録を読みこなしており、これを「いつ」学んだかといえば真っ先に推測されるのは、やはり、建長5年、「法門申しはじめ」以前の修学期ということになる。「どこで」ということになれば、その時代における仏教の総合大学ともいえる比叡山、そして京畿の寺院において様々な経典、論書、釈書、各種文献を学んだことだろう。「なんのために」は、諸宗を兼学して仏教の真理を掴み幼少期の誓願「日本第一の智者となし給へ」を果たすためであっただろう。

 

更には仏教界で智者としてすべきこと、即ち為政者に仏教的観点から助言、指南をする等の「やがては日本国の国師・国僧たらん」との思いもあったのではないか。

これは日蓮に出世欲・野心があった云々という次元の議論とは別のもので、後年、「立正安国論」を先の執権・最明寺入道(北条時頼)に進呈するのだが、天災地変による国土と民の惨状を眼にして、止むにやまれぬ思いから災難退治、根本治術の書を一人の僧が最高権力者に呈するという行動に到る背景には、「法華経の真実を一人知った自己として成すべきこと」という、修学期に培った宗教的使命感があったと思うのだ。

 

比叡山を始め、各地で学習し、「法華経が諸経典で最第一である」ことを一人覚知し得た彼としては、余人が法華経の正義宣揚を成すということは期待、依存できるものではなく、やがては自己一人の身で法を弘宣せねばならない、という近い将来の展望を描き、それに臨む決意を胸中に培ったと思う。

 

法華経が他の経典に勝る「諸経の王」ならば、それを説示する導師も仏教界で然るべき「立場・法位」なのであり、その行きつくところは、やはり、国師・国僧ということになるだろう。深夜、静寂の比叡の草庵で、灯火のもと経典研鑽に励む青年日蓮は、一人、その自覚を深めていたのではないだろうか。

 

また、日蓮が進呈した「立正安国論」が直ちに受け入れられたとしたら、彼は仏教界のどの僧よりも最明寺入道の近くに位置することになったわけで、それは即ち実質的な国主に宗教的見地から指南・助言をする国師・国僧日蓮となったであろうことは、誰人にも容易に想像されるところだと思う。

 

 

いずれにしても、日蓮は修学時代に「教相判釈は経典を読みその相(内容)によって高低、浅深、勝劣を判定・解釈せねばならない」との「経証」「文証」中心主義ともいえる姿勢を確立する。その過程で「法華経最第一」の真理に至り、二千二百年以上前の仏教の開祖・釈尊(日蓮が尊信した実体は法華経世界の久遠の本仏)の元に直結、直参するようになるのである。現実世界に師なくして修学した者であればこそ、経典世界、精神世界に真の師を見出し得たといえようか。

そして、その姿勢が「法門申しはじめ」以降の、御書の随所に見られるようになるのである。

 

時の為政者に進呈した「立正安国論」では、

「倩ら微管を傾け聊か経文を披きたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す」

正と悪の判断基準には「経典」を開き、その経典に説かれるところにより判断せねばならないことを説く。

 

次に

「故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず」

と「神天上の法門」が示されるのである。

 

続いては、

「今蘭室に入って初めて芳詞を承るに神聖去り辞し災難並び起るとは何れの経に出でたるや其の証拠を聞かん」

と客の言葉として、主人の説教中の根拠を「経典」に求めさせる。

 

「主人の曰く其の文繁多にして其の証弘博なり」

と主人の言葉として応じ、やはり、自説には経典の裏付けがあること。経証によらねば「正論」とはならないことを教えている。

その後に「金光明経」「大集経」などの諸経典が引用されるのである。

 

「依法不依人」も日蓮一代の教説を通して強調される。

 

「守護国家論」

何に況んや、諸宗の末学偏執を先と為し、末代の愚者人師を本と為して経論を抛つる者に依憑すべき哉。故に法華の流通たる雙林最後の涅槃経に、仏、迦葉童子菩薩に遺言して言く「法に依て人に依らざれ 義に依て語に依らざれ 智に依て識に依らざれ 了義経に依て不了義経に依らざれ」云云。(P98)

 

涅槃経に云く「法に依て人に依らざれ、智に依て識に依らざれ」已上。依法と云うは法華・涅槃の常住の法也。不依人とは法華・涅槃に依らざる人也。設い仏菩薩為りと雖も法華・涅槃に依らざる仏菩薩は善知識に非ず。況んや法華・涅槃に依らざる論師・訳者・人師に於てを乎。(P124)

 

仏の遺言に不依不了義経と云うが故也。亦智儼・嘉祥・慈恩・善導等を引いて徳を立て難ずと雖も、法華・涅槃に違する人師に於ては用うべからず。依法不依人の金言を仰ぐが故なり。(P134)

 

「開目抄」

但し我等が慈父、雙林最後の御遺言に云く「法に依って人に依らざれ」等云云。不依人等とは、初依・二依・三依・第四依。普賢・文殊等の等覚の菩薩が法門を説き給うとも経を手ににぎらざらんをば用うべからず。「了義経に依って不了義経に依らざれ」と定めて、経の中にも了義・不了義経を糾明して信受すべきこそ候いぬれ。(P584)

 

「報恩抄」

而るに十宗七宗まで各々諍論して随はず。国に七人十人の大王ありて、万民をだやかならじ。いかんがせんと疑ふところに、一の願を立つ。我れ八宗十宗に随はじ。天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく、一切経を開きみるに、涅槃経と申す経に云く「法に依て人に依らざれ」等云云。依法と申すは一切経、不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり。此経に又云く「了義経に依て、不了義経に依らざれ」等云云。此経に指ところ了義経と申すは法華経、不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり。されば仏の遺言を信ずるならば、専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべきか。(P1194)

 

日蓮にとって「日本第一の智者となし給へ」との誓願は、修学期において「経証」「文証」による教相判釈と「依法不依人」の姿勢を確立し、「法華経最第一」(しばらくは真言も並列であった)を認識したところに一応の成就があっただろう。

 

文永7年の「善無畏三蔵抄」でそのことを回顧してか、日蓮は「此の諸経・諸論・諸宗の失を弁うる事は虚空蔵菩薩の御利生、本師・道善御房の御恩なるべし。亀魚すら恩を報ずる事あり、何に況や人倫をや。此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め、道善御房を導き奉らんと欲す」(P473)と記している。

 

「諸経・諸論・諸宗の失を弁うる事」仏教各宗派の勝劣を認識し得たのは、「日本第一の智者となし給へ」と祈願した時の本尊「虚空蔵菩薩の御利生」、清澄寺時代の教えの師である「本師道善御房の御恩」としているところに少年の時の、誓願成就が窺われるのである。

 

 

続いて、その後の四大法難を経ての「三つの法門」の宣言、曼荼羅の図顕、独自の宗教的社会観を説いた建治から弘安年間にかけては、現実世界の他者の認識によるのではなく、経典世界での自己と久遠の師匠との師弟関係に依って立ち、「日本国の導師」「国師」ともいえるべきものに日蓮の内面世界が拡大、教理的には「末法の教主」「久遠の本仏の体現者」として昇華されていったように思えるのだ。

 

文永11年「聖人知三世事」(P843 真蹟)

日蓮は一閻浮提第一の聖人也

 

 

文永1156月頃「別当御房御返事」(P828 真蹟曽存)

日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり

 

 

建治元年「撰時抄」(P1019 真蹟)

日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり。此れをそしり此れをあだむ人を結構せん人は閻浮第一の大難にあうべし

 

 

建治元年「種種御振舞御書」(P959 身延山曽存)

去る文永五年後の正月十八日、西戎大蒙古国より日本国ををそう(襲)べきよし牒状をわたす。日蓮が去る文応元年太歳庚申に勘へたりし立正安国論すこしもたがわ(違)ず普(符)合しぬ。此書は白楽天が楽府にも越へ仏の未来記にもをとらず。末代の不思議なに事かこれにすぎん。賢王聖主の御世ならば、日本第一の権状にもをこなわれ現身に大師号もあるべし。定んで御たづねありていくさ(軍事)の僉義をもいゐあわせ、調伏なんども申しつけられずらんとをもひしに、

 

鎌倉在住の門下から急報で、真言・禅宗等の諸宗と公場対決の風聞が起こっていることを知らされ、その喜びの気持ちを即刻認めた返書とされる、弘安元年321日の「諸人御返事」(P1479 真蹟)には、

三月十九日の和風(つかい)並びに飛鳥(ふみ)、同じく二十一日戌(いぬ)の時到来す。日蓮一生の間の祈請(きしょう)並びに所願忽(たちま)ちに成就せしむるか。将又(はたまた)五五百歳の仏記宛(あたか)も符契(ふけい)の如し。所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合はせ是非を決せしめば、日本国一同に日蓮が弟子檀那となり、我が弟子等、出家は主上・上皇の師となり、在家は左右の臣下に列ならん。将又一閻浮提皆此の法門を仰がん。幸甚(こうじん)幸甚。

とある。

 

これによれば、日蓮は公場対決を期していた、それは「一生の間の祈請」であった「所願忽(たちま)ちに成就せしむる」即ち「五五百歳の仏記宛(あたか)も符契(ふけい)の如し」=広宣流布に通じることを意味していた。

「真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合はせ是非を決せしめ」る、諸宗との公場対決を行うならば日蓮が一門は必ず勝つのであり、その結果「日本国一同に日蓮が弟子檀那」となる。その時には「我が弟子等、出家は主上・上皇の師」日蓮の弟子等は朝廷の師となり、「在家は左右の臣下」在家は臣下となることだろう。そして「一閻浮提皆此の法門を仰がん」全世界が日蓮の教説を仰ぐことになるだろう、としている。

 

 

しかし、その後、待望の公場対決が実現することはなく、春夏秋冬を繰り返す身延山の自然の中で、日蓮は繰り返される日常を、終わりなき日常を生き続けたのである。

 

ともかくも、日蓮の内面世界では「日本第一の智者となし給へ」は成就した。だが、現実は日蓮の意に反して、それを天下に認識せしめる機会は得られずに生涯を閉じたのだが、日蓮は経典身読により末法の教主・久遠仏の慈悲を体現、流れ通わせる導師として生き抜き、我がもとに末法の衆生を直参させる日蓮法華の信仰世界を創り上げた。故に日蓮亡き後も時空間を越えて、多くの人々が日蓮法華の信仰の功徳に浴することとなったのである。

 

日蓮の一生は語る。

「願えば叶うのではない、願いに応じて努力した分、人は相応の人と成り、法の真実に生きた道には多くの人が続くであろう」と。

 

今、彼はいない。しかし、彼をたずね、彼を求め、彼の創った世界に分け入って、彼を知れば知るほどに、彼は多くを語り教えてくれる。

 

日蓮こい()しくをはせば、常に出づる日、ゆう()べにい()づる月ををが()ませ給へ。いつとなく日月にかげ()をう()かぶる身なり。(P1064 国府尼御前御書)

 

まことに、永久に生き続ける導師にして末法の教主・久遠の本仏の体現者、それが日蓮なのである。

 

さあ、日蓮という魅力的な人間を、その人を知る作業を、一歩ずつ、ゆっくりと続けていこう。

 

前のページ                               次のページ

2022年 安房天津の初日の出