日蓮法華信仰の周辺~安房国清澄寺に関する一考

1233年・貞永2年・天福元年春、少年日蓮が入山して学んだ安房の国・清澄寺の宗派については天台宗とされており、その見解が今日では定着している感があります。ですが、筆者としては「日蓮の時代の清澄寺は東密(真言密教)・台密(天台密教)が共にある山岳修行の霊場であった」と考えています。

 

これより清澄寺の成り立ちとその周辺を確認してみましょう。

 

1 清澄寺の古鐘の銘文

 

明徳3(1392 日蓮滅後111)の鐘銘に「房州千光山清澄寺者慈覚大師草創」(造顕・前大僧正法印大和尚弘賢)とあります。清澄寺は天台宗の慈覚大師()が「草創」したと伝える寺院でした。

 

※第3代天台座主・円仁(えんにん)のことを慈覚大師ともいう。平安時代始まりの延暦13(794)誕生、貞観6(864)寂。

 

鐘銘

房州千光山清澄寺者、慈覚大師草創。往昔有鐘、破壊久矣。何以驚睡眠止酸苦。行脚比丘惠闇、参礼虚空蔵大士次、欲発大心補此欠、遍募衆縁、成就其功。仍作銘曰

陶鋳金銅 成大治功 寅夕鯨吼 洪音湧空 響遍高低 啓昏導迷 礼楽既益 号令共斉

上窮碧天 下徹黄泉 赴斉出定 得句悟礼 梵字繁昌 國家安康 檀信有慶 聖寿無彊

明徳三季 壬申 八月 日 当寺主 前大僧正法印大和尚 弘賢

檀那 源朝臣 清貞 幹縁比丘 明了

勸縁比丘 惠闇 大工 武州塚田 道禪

 

(古鐘と山川智応氏の著「日蓮聖人研究 第一巻」P95を参照、以下山川氏の記述は同書による)

 

鐘銘に刻まれた寺主・弘賢について、山川智応氏は「天台宗の当時の僧綱の名を列せるあらゆる文献を捜索したが、遂にその名を見出せなかった」とし、「真言宗の僧綱名を列せる各文献を捜索」したところ「東寺長者補任」に弘賢の名を発見します。

 

※京都大学貴重資料デジタルアーカイブ 東寺長者補任

 

貞治五年(1366)丙午 

長者僧正 光済

僧正 弘賢 後七日法行之

(東寺長者は969年・安和2年以降、4名の定員となっている)

 

そして「貞治五年(1366)から明徳三年(1392)までは、二十六年あるから、その間に大僧正となり得る可能性がある」としながらも、「併し東寺の長者で、宮中の後七日法まで奉行した人物が、何故に房州清澄寺の寺主となっているか」と指摘します。

 

確かに、弘法大師空海開創の東寺長者の座にあった人物が、清澄寺のような安房の国の地方寺院の寺主に納まるというのはどうでしょうか。山川氏は「弘賢の隠居寺でもあったのか」と弘賢の法脈系統を知るために東密の関連文書(「仁和寺諸院家記」「諸嗣宗脈記」「秘密辞林」「真言宗法脈系図」)を捜すも見当たらず、しかし、意外なところに弘賢の名を発見します。

 

源頼朝によって建立された鶴岡八幡宮寺の社務職を記した「鶴岡八幡宮寺社務職次第」に弘賢の名がありました。それによると弘賢は鶴岡八幡宮寺第二十代の別当であり東寺流の出身。1355年・文和4年、31歳の時より1410年・応永17年、86歳に至るまで、56年間、関東管領足利基氏、氏満、満兼、持氏の四代を経て在職。

 

他に十数カ所の別当を兼務していて、相模箱根山・走湯山の二所権現、足利氏の菩提寺・下野足利の鑁阿寺、月輪寺、松岡八幡宮、大門寺、勝無量寺、赤御堂、鶏足寺、大岩寺、越後国国付寺、安房国清澄寺、平泉寺、雪下新宮、熊野堂、柳営六天宮等の別当職になっていたことが判明した、とされています。

(※注 山川氏は弘賢の兼務寺院に箱根山を含めたが、「箱根山別当・東福寺金剛王院・累世」等によると箱根山の歴代に「弘賢」の名はない)

 

続いて「聖人滅後百十一年の明徳三年(1392)当時には、清澄寺が正しく此の弘賢法印を寺主別当として、真言宗醍醐三宝院流親快方(或いは地蔵院流)の法脈に属していた事実は、頗る確実である」とされています。

 

 

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