19 「名ばかり」の別当

【 別当御房御返事 】

 

清澄寺の別当職とはどのようなものだったのでしょうか。

ここで「別当御房御返事」(文永後期)を確認してみましょう。

 

 

本文

聖密房のふみにくはしくかきて候。よりあいてきかせ給ひ候へ。なに事も二間清澄の事をば聖密房に申しあわせさせ給ふべく候か。世間のり(理)をしりたる物に候へばかう申すに候。これへの別当なんどの事はゆめゆめをもはず候。いくらほどの事に候べき。但な(名)ばかりにてこそ候はめ。

又わせいつをの事、をそれ入って候。いくほどなき事に御心ぐるしく候らんと、かへりてなげき入って候へども、我恩をばしりたりけりと、しらせまいらせんために候。

大名を計るものは小耻にはぢずと申して、南無妙法蓮華経の七字を日本国にひろめ、震旦・高麗までも及ぶべきよしの大願をはらみ(懐)て、其願の満すべきしるしにや。大蒙古国の牒状しきりにありて、此国の人ごとの大なる歎きとみへ候。日蓮又先よりこの事をかんがへたり。閻浮第一の高名なり。

先きよりにくみぬるゆへに、まゝこ(継子)のかうみやう(功名)のやうにせん心とは用ひ候はねども、終に身のなげき極まり候時は辺執のものどもも一定とかへぬとみへて候。これほどの大事をはらみて候ものの、少事をあながちに申し候べきか。

但し東条、日蓮心ざす事は生処なり。日本国よりも大切にをもひ候。例せば漢王の沛郡ををもくをぼしめししがごとし。かれ生処なるゆへなり。聖智が跡の主となるをもんてしろしめせ。日本国の山寺の主ともなるべし。日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり。天のあたへ給ふべきことわりなるべし。

米一斗六升、あはの米二升、やき米はふくろへ。それのみならず人人の御心ざし申しつくしがたく候。これはいたみをもひ候。これより後は心ぐるしくをぼしめすべからず候。よく人人にしめすべからず候。よく人人にもつたへさせ給ひ候へ。

 

意訳

聖密房の文に詳しく書いておいた。寄り合って聞かれなさい。二間寺、清澄寺の事については、なに事も聖密房に相談していきなさい。聖密房は世間の道理を弁えた人物であるから、このようにいうのである。私が二間寺、清澄寺別当になるということは、夢にも思わないことだ。二間寺、清澄寺の別当など、どれほどのものだというのか。ただ名ばかりのものにすぎないではないか。

又、「わせいつを」の事については恐れ入っている(わせいつを=別当御房は「何か」を日蓮に授けたか、供養したか、渡したのではないか)。あなたが「わずかばかりの事で」と心苦しくされているのではないかと心配しているのだが、これも、私はあなたに恩があることを忘れてはいないので、そのことをあなたに知らせるためである。

大きな名声を期すものは小恥にとらわれたり、一憂することはないもので、南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘め、震旦(中国)・高麗(朝鮮)までも弘法しようとの大願を抱いているが、その願いが満たされるべき兆候であろうか。蒙古から日本に対し、属国となるよう強く求めた牒状があって、日本国の人は皆、大いに嘆くような有り様となってしまった。

日蓮は立正安国論を以て国主を諌めて以来、他国侵逼難が起きることを考え続けていたのであり、実際にその難が起きようとしていることは閻浮第一の高名である。だが世の人々は日蓮を憎み続けてきたのだから、継子が功を遂げ名を挙げても継父や継母が無視するように、日本国の人々は用いようとはしないだろうが、ついに身の嘆きが極まる時には誤った教えに執着している者達も、必ずや心変わりをすることであろう。

今は蒙古襲来・他国侵逼難という日本の存亡がかかった重大事を抱えているのに、二間寺・清澄寺に関することなど、小さなことを云々している時ではない。

ただし東条郡は日蓮の生地であり、心に願うことは生まれた地のことで、日本国よりも大切に思っている。例えば、漢王の劉邦が沛郡(はいぐん)を手厚く保護し、大事にしたようなものである。沛郡は劉邦の生地であったからだ。

聖人・智人の跡は、主となることを以て知るべきである。(日蓮の学んだ)清澄寺が日本国の山寺の主となることだろう。日蓮は閻浮第一の法華経の行者である。これは天の与えられた理(ことわり)であろう。

米一斗()六升(しょう)、粟の米二升、焼き米は袋へ頂いた。それだけではなく、人々の御志は申し尽くし難いものがある。これには痛み入る思いである。これより後は、心苦しく思うことがあってはならない。人々にはお話されないように。(日蓮と別当御房の関係について、軽々に口外するな、という意味か)

よく人々には伝えていただきたい。(こちらは、清澄大衆、故郷の人々への挨拶の意か)

 

 

文永後期とされる「別当御房御返事」で、日蓮は「これへの別当なんどの事はゆめゆめをもはず候。いくらほどの事に候べき。但な()ばかりにてこそ候はめ。」と二間寺・清澄寺の別当に就くことを断わっており、それは「南無妙法蓮華経の七字を日本国にひろめ、震旦・高麗までも及ぶべきよしの大願」に生き、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」との境地からすれば当然のことだったでしょうが、二間寺・清澄寺別当について「いくらほどの事に候べき。但な()ばかりにてこそ候はめ」としていることに日蓮の時代、「二間寺・清澄寺別当の存在は名目上のものにすぎない」と認識されていたことがうかがわれます。

 

この時の日蓮の二間寺・清澄寺別当に対する認識には、法難を生き抜き配流地の佐渡からも生きて帰り、自らを一閻浮提第一の法華経の行者と位置付けた、大いなる内面世界・宗教的達成感と比較した時には、「二間寺・清澄寺別当など名ばかりのものにすぎない」とした側面もあると思われます。

 

しかし、当書の「但し東条、日蓮心ざす事は生処なり。日本国よりも大切にをもひ候」や後年の故郷を思う述懐からして(※1)、少年・青年時代に学び、師僧と法兄のいる寺院の別当職を、自己の内面世界と比較相対して「一時的に過小に表現」したとも思えず、当書の記述には日蓮の時代の二間寺・清澄寺別当に対する「大方の認識」が含まれている、と理解してよいと考えるのです。

 

よって、天台・台密と真言・東密の大衆が同居した清澄寺の別当は「いかほどのこともない、ただ名ばかり」の存在で、「名ばかりの」別当であれば、別当職にある人物の宗旨がそのまま寺院の宗旨になったとは考えづらいのではないでしょうか。

 

二間寺・清澄寺別当職とは、いわば、名目上の別当がいればいいというだけの存在にすぎなかった、ということになるでしょう。故に日蓮の時代からしばらくは、清澄寺別当個人の法脈=台密系か、東密系かを以て、清澄寺の宗旨を決することは難しいのではないかと考えられるのです。それよりも、清澄寺の別当が「いくらほどの事に候べき。但な()ばかりにてこそ候はめ」の存在にすぎなかったところから、宗派にとらわれない官寺として位置付けた方がより実態に近いのではないでしょうか。

 

台東両系では、「いくらほどの事に候べき。但な()ばかりにてこそ候はめ」にすぎない二間寺・清澄寺別当と位置付けていく=権限のない名目的な存在にする、という約束・ルールのようなものが存在したものか、または時を重ねゆく過程で、自然とそのような扱いとなったものでしょうか。異なる法脈・法系が共存するには、共存を前提としての新たなルール作りが必要になったのではないかと思うのです。

 

 

1「光日房御書」 建治23

同じき四月八日に平左衛門尉に見参す。本よりごせし事なれば、日本国のほろびんを助けんがために、三度いさめんに御用ひなくば、山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ。但し本国にいたりて今一度、父母のはかをもみんとをもへども、にしきをきて故郷へはかへれといふ事は内外のをきてなり。させる面目もなくして本国へいたりなば、不孝の者にてやあらんずらん。これほどのかた(難)かりし事だにもやぶれて、かまくらへかへり入る身なれば、又にしきをきるへんもやあらんずらん。其時、父母のはかをもみよかしと、ふかくをもうゆへにいまに生国へはいたらねども、さすがこひしくて、吹く風、立つくもまでも、東のかたと申せば、庵をいでて身にふれ、庭に立ちてみるなり。

 

 

【 東条景信による清澄・二間の寺領侵犯 】

 

清澄寺が特定の宗派ではなかったことの参考になると思われるのが、先に見た「清澄寺大衆中」の「故いかんとなれば、東条左衛門景信が悪人として清澄のか()いしゝ(鹿)等をか()りとり、房々の法師等を念仏者の所従にしなんとせしに、日蓮敵をなして領家のかたうど(方人)となり、清澄・二間の二箇の寺、東条が方につくならば日蓮法華経をすてんとせいじょう(精誠)の起請(きしょう)をかいて、日蓮が御本尊の手にゆ()いつけていの()りて、一年が内に両寺は東条が手をはなれ候ひしなり。此の事は虚空蔵菩薩もいかでかすてさせ給ふべき」との記述です。

 

東条景信の清澄・二間の寺領侵犯等、領家方への行為は傍若無人なものとはいえ当事者同士による話し合いで解決できるものではなく、領家方は地頭による不正侵犯事件として鎌倉の問注所に持ち込んだと考えられます。

 

文中、「せいじょう(精誠)の起請をかいて、日蓮が御本尊の手にゆ()いつけていの()りて」とあり、日蓮は領家の味方をして起請文を書いて祈り、後年門下の法廷闘争のアドバイスをしていることからも(※2)、この時も裁判において種々の指南をしたことでしょう。

 

私としては建長5年に「法門申しはじめ」て以降、鎌倉に居住していた時に日蓮は裁判に関わり、この頃、故郷の清澄寺と二間の寺は一年近く念仏者の地頭・東条景信の手の内にあったものと考えています。「念仏者の所従にし」「東條が手」の意味するところは、清澄・二間の寺が直ちに浄土教の寺院になったということではなく、表向きは念仏者・東條景信の意向に逆らえない状態となっていた、強い影響下にあったということだと思われるですが、清澄寺の東密の法脈は法鑁、寂澄の事跡に見られるように覚鑁の新義系であったと考えられ、仮に念仏を迫られたとしても違和感はなかったでしょうし、台密系の僧もまた同じことでしょう。

 

ただ東条景信のやり方は強圧的で、「清澄のかいしゝ(飼鹿)等をかり(狩)とり、房々の法師等を念仏者の所従にしなんとせし」()等と乱暴をなした背景には、日蓮と同時代の清澄・二間の寺は比叡山や東寺など強大な寺社勢力とのつながりを感じさせるものに欠けていた、「天台」または「真言」という「特定の宗派色」が薄かったということがあるのではないでしょうか。

 

尚、文中の起請文を書いて「御本尊の手にゆ()いつけて」の「御本尊」とは何か?は気になるところです。

 

まず地頭・景信による侵犯事件に対して、日蓮が裁判に関わることになった時期をもう少し考えてみましょう。これは、日蓮が鎌倉の問注所での処理に関わることが可能だった時のことと考えられるので、その身が鎌倉にあった時のことになり、建長8(1256)8(参照)から伊豆へ配流される前の弘長元年(1261)前半、または赦免された弘長3(1263)2月から文永元年(1264)秋に故郷の安房国を訪れる以前の、二つのどちらかということになります。

 

このうち前者は、鎌倉における法華勧奨初期なので、法華経の弘法、題目の宣布が中心だったことは容易に想像されます。また鎌倉進出翌年の正嘉元年(1257)には8月、11月と続けて大地震が起き社寺は一宇も残さず倒壊、正元元年(1259)春には大飢饉となり大疫病が発生しています。この惨状を受けて、日蓮は文応元年(1260)716日に「立正安国論」を北条時頼に提出。このような時期に、故郷の寺院等をめぐる訴訟に関わる余裕がどの程度あったでしょうか。

 

故に後者の方が可能性としては高いのですが、特に文永元年(1264)1111日の東条松原の襲撃事件の動機として、「日蓮が指導した法廷闘争に敗れた」というものは、気の荒い武士をして日蓮に害を加えることを決意させるに十分なものであったと思われ、「一年が内に両寺は東条が手をはなれ」と符合することからも、弘長3(1263)2月に伊豆より鎌倉に戻って以降、文永元年(1264)秋までの間に、日蓮は領家の味方をして裁判に関する種々の指導をしたのだと考えています。

 

この「侵犯事件」について、日蓮の「立教の年・建長5年より前」との説もあるようですが、どうでしょうか。そもそも日蓮が師匠・道善房より「捨てられ」たのは、「法華経最第一」を説示してから念仏者の地頭である景信が道善房や関係者を圧迫したことが背景にあり、清澄寺で弟子を持ち各地に修学生として派遣させられるだけの力量のある道善房が地頭を恐れ、容易に圧力に屈したことが、「清澄・二間は恐れるに足らず」との認識を東条景信に抱かせ、清澄・二間の寺への侵犯を強めたのではないかと考えるのです。

 

「報恩抄」建治2721

故道善房はいたう弟子なれば、日蓮をばにくしとはをぼせざりけるらめども、きわめて臆病なりし上、清澄をはな()れじと執せし人なり。地頭景信がをそ()ろしといゐ、提婆・瞿伽利(くぎゃり)にことならぬ円智・実城が上と下とに居てをど()せしを、あながち(強)にをそれて、いとをしとをもうとし(年)ごろの弟子等をだにも、す()てられし人なれば後生はいかんがと疑う。

 

「本尊問答抄」弘安元年9

故道善御房は師匠にておはしまししかども、法華経の故に地頭におそれ給ひて、心中には不便とおぼしつらめども、外にはかたきのやうににくみ給ひぬ。後にはすこし信じ給ひたるやうにきこへしかども、臨終にはいかにやおはしけむ。おぼつかなし。地獄まではよもおはせじ。又生死をはなるる事はあるべしともおぼへず。中有にやただよひましますらむとなげかし。貴辺は地頭のいかりし時、義城房とともに清澄寺を出でておはせし人なれば、何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめして、生死をはなれさせ給ふべし。

 

景信の侵犯事件が建長5年以前で、それまでに裁判の決着がついていれば、日蓮が「法門申しはじめ」て以降、景信は清澄・二間の寺院に関することに手を出せません。ところが日蓮の記述では、師匠・道善房は地頭を恐れて弟子である日蓮を「す()て」ています。ということは、清澄・二間の寺は地頭・東条景信の影響下にあったということになり、「立教の年・建長5年より前」との説には疑問を抱かざるを得ません。

 

随分と前置きが長くなってしまいましたが、本題の「御本尊の手にゆ()いつけて」の「御本尊」については、日蓮が裁判に関わったのが弘長3(1263)2月、鎌倉に戻ってから文永元年(1264)秋までの間と考えられるので、この時期の「御本尊」は伊豆期以来「随身仏」として側にあった「釈尊像」ということになります。

 

日蓮は「清澄・二間の二箇寺が東条方についてしまうならば法華経を捨てよう」と心より誓って起請文を書き、釈尊像の手に結び付けて祈り続けたということなのでしょう。

 

 

2「四條金吾殿御返事」 建治3

だいがくどの(大学殿)ゑもんのたいうどの(右衛門大夫殿)の事どもは申すままにて候あいだ、いのり叶いたるやうにみえて候。はきりどの(波木井殿)の事は法門は御信用あるやうに候へども、此の訴訟は申すままには御用いなかりしかば、いかんがと存じて候いしほどに、さりとてはと申して候いしゆへにや候けん、すこししるし候か。

 

前のページ                               次のページ