最澄と道忠一門 ~山上多重塔のかなたに~ 1

 山上多重塔
 山上多重塔

【 山上多重塔 】

 

 「如法経」とは法の如く書写した経典のことで、多くは法華経を如法清浄に書写することをいいます。一般的な説では天長10(833)に円仁が比叡山横川で始めたとされますが、如法経との表現自体は天平勝宝4(752)516日の「自所々請来経帳」をはじめ古文献に散見され、近年の研究により「山上多重塔」が紹介されています。

 

 

 山上多重塔は赤城山南麓の舌状台地にあり、周囲は広大な草原、畑で赤城山の悠々たる姿を一望に収めます。所在は群馬県勢多郡新里村でしたが、現在は合併により群馬県桐生市新里町山上2555となりました。国指定の重要文化財として正式には「塔婆〈石造三重塔〉」ですが、通称の山上多重塔と呼ばれることが多いようです。多重塔は明治時代後半の開墾により近くで発見、その後現在地に移されて覆屋に納められ、礎石はコンクリートで固められました。最初に造り立てられた場所も、現在の所在地周辺ではないかと推測されています。材質は多孔質の安山岩を加工したもので、上から相輪、屋蓋、塔身、礎石で構成され、塔身上部に穿たれた円形状の穴には銘文にある「如法経」を納めたと考えられます。

 

 

 銘文は塔身の上層、中層、下層に分けて南面から西面、北面、東面へと横に刻まれ、上層に「如法経坐 奉為朝庭 神祇父母 衆生含霊」、中層に「小師道 輪延暦 廿年七 月十七日」、下層には「為兪无間 受苦衆生 永得安楽 令登彼岸」と書かれています。

 読み下せば「如法経の坐である。朝庭()、神祇、父母、衆生、含霊の為に奉る。小師道輪、延暦二十年七月十七日。無限に苦を受ける衆生を兪し、永く安楽を得て彼岸に登らせんが為に。」となるでしょうか。

 この銘文により、朝廷、神祇、父母、衆生、含霊等あらゆるもののために、無間地獄の受苦にあう衆生が救われ安楽を得て彼岸へ往けるように願い、僧道輪が関わって延暦20(801)717日に如法経を納める経塔が造立されたことが分かります。これは最澄の入唐2年前のことで、円仁の如法経からは30年以上も前になります。また、朝廷から征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が蝦夷を平定すべく第三次(3)征討軍を率いて現地に向かい、蝦夷の討伏を奏上した延暦20(801)927日と同年のことでもあります。(特に宝亀5[774]以降、弘仁2(811)までの蝦夷征討は1期から4期に分けられる)

 

 教育委員会の説明板より
 教育委員会の説明板より

【 山上多重塔のかなたに 】

 

 僧・道輪がどのような人物であったかは不明なようですが、山上多重塔が造られた延暦20(801)以前、(11年かけて6回の試みの末、天平勝宝5[753]に来日した唐の)鑑真の弟子である道忠(日本人 生没年不詳)とその弟子が下野・上野の両毛一帯で人々への教化を展開していました。東国の道忠一門と比叡山寺の最澄には深い関わりがあり、その発端について菅原征子氏の論考「日本古代の民間宗教・Ⅰ東国古代の民間宗教・第三章 両毛地方の仏教と最澄」(2002年 吉川弘文館)では、以下のように解説されています。

 

 

 「最澄と道忠との出会いは『伝』(※叡山大師伝)によれば、延暦十六年(797)最澄が叡山にて『一切経論章疏記』等の書写を思い立ったとき、叡勝、光仁、経豊、聞寂、といった南都の学僧がこれを助けたのであるが、そのとき道忠もこの写経事業に加わって大小経律論二千余巻を助写したのが最初のようである。また円澄(第二代天台座主)は、このとき助写のために道忠から最澄に送られた弟子であるらしい。道忠について、『伝』は次のように記している。

 

(前略)又東国化主道忠禅師者、是此大唐鑑真和上持戒第一弟子也。伝法利生、常自為事。知識遠志、助写大小経律論二千余巻。(後略)(p.69)

 

 

 「『伝』に言う彼ら道忠の弟子たちは、いずれもその名の上に一乗仏子を冠しており、最澄と志を同じくする法華一乗を受持する菩薩僧であった。」(p.74)

 

 

 山上多重塔に刻まれた「為兪无間 受苦衆生 永得安楽 令登彼岸」と僧・道輪。その背景に見える法華一乗の菩薩僧である道忠一門と最澄のつながり。この小さな石塔のかなたには、大いなる歴史の舞台があるように思えてきます。山上多重塔を入り口として、歴史空間をめぐる旅に出てみましょう。まず僧・道輪と同時代に菩薩行を展開した道忠一門と最澄の関係を概観し、次に当時の東国の人々の暮らしに多大なる影響を与えた歴代朝廷による蝦夷征討(えみしせいとう)を見ていきたいと思います。

 

 

 

※「叡山大師伝」

 

最澄の伝記で、ほかに「山家伝」「伝教大師伝」「比叡山大師伝」「大師一生記」等と称されます。撰者については、平安時代末期の石山寺蔵写本に「一乗忠」、仁平二年(1152)410日の奥書がある宝永3(1706)書写本に「釈一乗忠撰」とあり、従来は「一乗忠」とは最澄の門弟の一人である「仁忠」とされてきました。

 

これに対し、福井康順氏(「新修伝教大師伝考」『伝教大師研究別巻』所収 1980年 天台学会・早稲田大学出版部)佐伯有清氏(「慈覚大師伝の研究」1986年 吉川弘文館)は弘仁10(819)125日の「内証仏法相承血脈譜」末尾の「一乗仏子。真忠筆受」と、弘仁9(818)727日の義真真蹟とされる「比叡山寺諸院別当三綱」に「少別当真忠」とある「真忠」が「一乗忠」である、即ち真忠が「叡山大師伝」の撰者であろう、と推定されています。

 

 しかし、寺尾英智氏が論考「中山法華経寺蔵『叡山大師伝』及び紙背文書」(「古文書研究」第26号 1986)にて、中山法華経寺所蔵の「叡山大師伝」には冒頭「釈一乗仁忠」とあることを指摘され、「仁忠」である可能性も残されていて、撰者の特定には至らないのが現状のようです。

 

 

※ここまでの参考文献 

 

前沢和之氏「古代東国の石碑をめぐる二、三の問題」(ぐんま史料研究第26号 2009年 群馬県立文書館)

 

柏瀬和彦氏「山上多重塔の基礎的研究」(群馬県史研究第27号 1988年 群馬県史編さん委員会事務局)

 

              山上多重塔より赤城山を望む
              山上多重塔より赤城山を望む

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