1269年・文永6年 己巳(つちのとみ) 48歳

亀山天皇

 

北条時宗

 

110

延暦寺衆徒 神輿を奉じて強訴、六波羅兵と衝突す

 

 

31

書を三位房に報ず

「御輿振御書(みこしぶりごしょ)

(1-64P437、創新236P1652、校1-120P748、全P1264、新P643)

三位公日行

創価学会新版・三位房(さんみぼう)

真蹟末尾1紙断簡・高知県高知市筆山町 要法寺蔵

満上34・下225

録外25-3 遺8-18 縮477

< 系年 >

昭和定本「文永631日或は文永元年()

創価学会新版「文永631日」

平成校定「文永1031日」

全集「文永元年31日」

*本満寺本「御輿振御書=義浄房御返事」

 

 

山門繁昌の為

中堂炎上の事其の義に候か。

中略

但恃(たの)む所は妙法蓮華経第七の巻の「後五百歳閻浮提に於て広宣流布せん」の文か。伝教大師の「正像稍(やや)過ぎ已()はって末法太(はなは)だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是其の時なり」の釈なり。滅するは生ぜんが為、下るは登らんが為なり。山門繁昌の為是くの如き留難(るなん)を起こすか。

 

⇒中堂が炎上してしまった比叡山ではあるが、叡山こそが法華経広宣流布の経文、伝教大師の指南を現実に成し遂げるべきなのであり、今回の中堂炎上という災難は、比叡山が滅から生を、下った状態から登るため、山門繁昌の為に起きたことなのだ、としている。

 

 

37

蒙古使者・黒的(こくてき) 対馬に渡り返書を要求、島民を掠奪して帰る

 

 

427

幕府 問注所を廃し五方引付衆を設置する(関東評定伝)

 

 

4

法皇 円照に従い東大寺に受戒する(一代要記・続史愚抄・円照上人行状記)

 

 

59

書を富木常忍ら3人に報ず

「問注得意抄(もんちゅうとくいしょう)

(1-66P439、創新114P1271、校1-68P476、全P178、新P417)

富木入道他二人

創価学会新版・富木常忍ら3

真蹟5紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

「土木入道殿 日蓮」17字 別紙上封(真蹟)+「問注時可存知由事」8字 上封端書()

日朝本

録内31-16 遺10-32 縮618

*平成校定「問注得意抄(与三子書)

国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(19131914年 神保弁静編)

問注得意抄

 

 

526

書を著す

「安国論正本の事(あんこくろんしょうほんのこと)

(1-108P648、創新424P2145、校1-111P700、全P35、新P607)

佐渡一谷

真蹟15行完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

縮二続130

*昭和定本「安国論送状」

創価学会新版「安国論正本の事」

平成校定「安国論送状(安国論別状)

全集「安国論別状」

< 系年 >

昭和定本「文永9526日」

創価学会新版・系年なし

・中尾堯氏・文永9年ではなく佐渡配流以前の書であると指摘。

・山中喜八氏・文永65月の御消息であるが、宛名が欠けているので対告は不明である。

「日蓮聖人真蹟の世界・下」P113

・「日蓮自伝考」は「文永5年」

 

*本文

立正安国論の正本、土木殿に候。かきて給び候はん。ときどのか又

五月廿六日

 

天台大師智顗 Wikipediaより引用
天台大師智顗 Wikipediaより引用

 

67

書を富木常忍に報ず

「富木殿御消息」

(1-67P440、創新115P1272、校1-69P477、全P949、新P418)

富木常忍

真蹟2紙完・京都府京都市上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町 立本寺蔵

満下394

続中8 遺10-33 縮619

*平成校定「富木殿御消息(大師講事)

 

 

 

 

*大師講

大師講の事。

今月は明性房にて候が、此の月はさしあい候。余人の中せんと候人候はゞ申させ給へと候。貴辺如何仰せを蒙り候はん。

 

⇒今月の天台大師講の当番・明性房が所用の為、富木常忍に交代を依頼する。

 

 

716

少輔房 寂(法門申さるべき様の事・定P449)

 

 

810

竜華院日像 下総国平賀に誕生と伝う(本化別頭仏祖統記・日蓮宗年表・富士年表)

 

 

917

高麗使 蒙古の国書を持ち対馬に再来、島民2名を返す(関東評定伝)

 

 

9

書を波木井実長に報ず

「六郎実長御消息(ろくろうさねながごしょうそく)

(1-68P440、創新282P1804、校1-39P347、全P1368、新P319)

安房・南部六郎恒長

創価学会新版・波木井実長(はきいさねなが)

3 満下136 真蹟なし

続中5 遺8-53

*昭和定本「六郎恒長御消息」

創価学会新版「六郎実長御消息」

平成校定「念仏無間地獄事(六郎恒長御消息)(謗法堕獄抄)

全集「六郎恒長御消息(念仏無間二義)

< 系年 >

昭和定本「文永69()或は文永元年()

創価学会新版「文永69月」

平成校定・全集「文永元年9月」

 

 

1128

書を(大田乗明)に報ず

「金吾殿御返事(きんごどのごへんじ)

(1-73P458、創新149P1354、校1-70P477、全P999、新P418)

太田金吾

創価学会新版・(大田乗明)

真蹟4紙断・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

信伝本完・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵

満上236 宝1012

録外5-31 受2-20 遺10-48 縮634

*昭和定本「金吾殿御返事(大師講書)

創価学会新版「金吾殿御返事」

全集・平成校定「金吾殿御返事(大師講御書)

< 系年 >

昭和定本・全集「文永71128日」

創価学会新版・平成校定「文永61128日」

*国立国会図書館・・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(19131914年 神保弁静編)

太田金吾殿御返事

 

 

*大師講

大師講に鵞目(がもく)五連給()び候ひ了んぬ。此の大師講三・四年に始めて候が、今年は第一にて候ひつるに候。

 

 

*死罪

人身すでにうけぬ。邪師又まぬかれぬ。法華経のゆへに流罪に及びぬ。今死罪に行なはれぬこそ本意ならず候へ。あわれさる事の出来し候へかしとこそはげみ候ひて、方々に強言(ごうげん)をかきて挙げを()き候なり。すでに年五十に及びぬ。余命いくばくならず。

いたづらに曠野(こうや)にすてん身を、同じくは一乗法華のかたになげて、雪山童子・薬王菩薩の跡をお()ひ、仙予・有徳の名を後代に留めて、法華・涅槃経に説き入れられまいらせんと願ふところなり。

 

 

128

「立正安国論」を書写し奥書(おくがき)

「安国論奧書」

(1-69P442、創新3P46、校1-71P479、全P33、新P419)

真蹟1紙半15行・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

中山本安国論第35紙後半6

日朝本

録内29-24 遺10-33 縮391619

 

 

128

日興ら実相寺住僧等、幕府に訴状を呈す

「実相寺住僧等申状」(日興上人全集P109)

日興正本・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵

 

 

1222

書を富木常忍に報ず

「富木殿御返事(止観第五の事)

(1-74P459、創新116P1273、校1-72P480、全P1515、新P420)

鎌倉・上野殿母尼

創価学会新版・富木常忍

真蹟2紙完・熊本県熊本市花園 本妙寺蔵

20-1 縮1333

*昭和定本「上野殿母尼御前御書」

創価学会新版「富木殿御返事(止観第五の事)

平成校定「止観第五之事(上野殿母尼御前御返事)

< 系年 >

昭和定本「文永71222()或は建治元年()

創価学会新版・平成校定「文永61222日」

全集「1222日」

 

*山中喜八氏

「上野殿母尼御前御書」と題することは、大本遺文録(明治13年刊)が本書を真蹟新加した際、たまたま本文二紙の奥に上封一行が同装してあり、この上封に「上野殿母尼御前御返事 日蓮」とあるため、これを上野氏への賜書と誤認したものである。しかるに、同上封は弘安45年頃の筆蹟、本文は文永5年頃の筆蹟であって全く別時の筆とされる。しかもその文意を以て判ずれば、富木氏への消息と断ぜざるを得ない。

「日蓮聖人真蹟の世界・下」P66

 

 

*大師講

止観第五の事、正月一日辰の時此をよみはじめ候。明年は世間怱々(そうそう)なるべきよし皆人申すあひだ、一向後生のために十五日まで止観を談ぜんとして候が、文あまた候はず候、御計らひ候べきか。

  

 

この年

 

 

波木井実長 日興により入信と伝う(富士日興上人詳伝P810)

 

【 系年、文永6年と推定される書 】

 

 

書を三位房に与う

「法門申さるべき様の事(ほうもんもうさるべきようのこと)

(1-70P443、創新237P1653、校1-75P482、全P1265、新P427)

三位公日行

創価学会新版・三位房(さんみぼう)

真蹟35紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

日朝本 平11

録内31-1 遺10-33 縮620

*昭和定本「法門可被申様之事」

創価学会新版「法門申さるべき様の事」

平成校定「法門可被申様之事(法門可申事)

全集「法門申さるべき様の事(各宗教義事)

< 系年 >

昭和定本・創価学会新版・全集「文永6年」

平成校定「文永712月」

*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(19131914年 神保弁静編)

法門可被申様之事

 

 

仏は閻浮第一の賢王・聖師・賢父なり

法門申さるべきやう。選択(せんちゃく)をばうちを()きて、先づ法華経の第二の巻の今此三界(こんしさんがい)の文を開きて、釈尊は我等が親父なり等定め了(おわ)るべし。

中略

釈尊は我等が父母なり。一代の聖教は父母の子を教へたる教経なるべし。

中略

教と申すは師親のをしえ、詔と申すは主上(しゅじょう)の詔勅(みことのり)なるべし。仏は閻浮第一の賢王・聖師・賢父なり。されば四十余年の経々につきて法華経へうつ()らず、又うつれる人々も彼の経々をすてゝうつ()らざるは、三徳を備へたる親父の仰せを用ひざる人、天地の中にすむべき者にはあらず。

 

 

*一閻浮提にありがたき法門、日本秋津島

又、御持仏堂にて法門申したりしが面目なんどかゝれて候事、かへすがへす不思議にをぼへ候。そのゆへは僧となりぬ。其の上、一閻浮提にありがたき法門なるべし。設ひ等覚の菩薩なりともなに()とかをもうべき。まして梵天・帝釈等は我等が親父釈迦如来の御所領をあづかりて、正法の僧をやしなうべき者につけられて候。

毘沙門等は四天下の主、此等が門(かど)まぼ()り、又四州の王等は毘沙門天が所従なるべし。其の上、日本秋津島(あきつしま)は四州の輪王の所従にも及ばず、但(ただ)島の長(おさ)なるべし。長なんどにつかへん者どもに召されたり、上(かみ)なんどかく上(うえ)、面目なんど申すは、かたがたせん()ずるところ日蓮をいやしみてかけるか。

総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば、始めはわすれぬやうにて後には天魔つきて物にくるう、せう(少輔)房がごとし。わ()御房もそ()れてい()になりて天のにくまれかほ()るな。

 

 

*比叡山の密教化

真言宗の漢土に弘まる始めは、天台の一念三千を盗み取りて真言の教相と定めて理の本とし、枝葉たる印・真言を宗と立て、宗として天台宗を立て下す条謗法の根源たるか。

又華厳・法相・三論も天台宗日本になかりし時は謗法ともしられざりしが、伝教大師円宗を勘へいだし給ひて後、謗法の宗ともしられたりしなり。当世真言等の七宗の者しかしながら謗法なれば、大事の御いのり叶ふべしともをぼへず。天台宗の人々は我が宗は正なれども、邪なる他宗と同ずれば我が宗の正をもしらぬ者なるべし。譬へば東に迷ふ者は対当の西に迷ひ、東西に迷ふゆへに十方に迷ふなるべし。

 

⇒漢土(中国)における真言宗の「理同事勝」を謗法の根源として、日本の天台宗も「邪なる他宗教と与同していけば自宗の正をも知らぬ者となってしまう」と批判。

 

 

*仏法が滅するか否かは比叡山にかかっている

叡山の真言宗は天台円頓の戒をうく、全く真言宗の戒なし。されば天台宗の円頓戒にをちたる真言宗なり等申すべし。而るに座主等の高僧、名を天台宗にかりて、一向真言宗によて法華宗をさ()ぐるゆへに、叡山皆謗法になりて御いのりにしるし()なきか。

中略

仏法の滅不滅は叡山にあるべし。叡山の仏法滅せるかのゆえに異国我が朝をほろぼさんとす。叡山の正法の失するゆえに、大天魔日本国に出来して、法然大日等が身に入り、此等が身を橋として王臣等の御身にうつり住み、かへりて叡山三千人に入るゆえに師檀中不和にして御祈しるし()なし。御祈請しるし()なければ三千の大衆等檀那にすてはてられぬ。

 

⇒名は天台宗であるものの真言宗と化して法華経を下しているが故に、祈りの効験が失せてしまっている。比叡山の正法が滅した為に異国から滅ぼされようてしいると批判。

それでも、仏法が滅するか否かは比叡山にかかっているとする。

 

 

*聖人の一分

日蓮は聖人の一分にあたれり。此の法門のゆへに二十余所を()われ、結句(けっく)流罪に及び、身に多くのきずをかを()ほり、弟子をあまた殺させたり。比干にもこえ、伍しそ(子胥)にもをと()らず。提婆菩薩の外道に殺され、師子尊者の檀弥利(だんみり)王に頸(くび)をはねられしにもをと()るべきか。もししからば八幡大菩薩は日蓮が頂をはなれさせ給ひてはいづれの人の頂にかす()み給はん。日蓮を此の国に用ひずばいかんがすべきと、なげかれ候なりと申せ。

 

 

書を著す

「故最明寺入道見参御書(こさいみょうじのにゅうどうげんざんごしょ)

(1-71P456、創新420P2141、校1-73P481、新P421)

最明寺入道

真蹟5行断簡・石川県羽咋市滝谷町ヨ 妙成寺(みょうじょうじ)

*昭和定本「文永6年」

創価学会新版・系年なし

 

*最明寺入道(北条時頼)と日蓮がいつ会ったのか?について

「法華仏教研究」21号 川﨑弘志氏の論考「日蓮聖人の生涯と遺文の考察()(趣意)

日蓮の伊豆流罪赦免は弘長三(1263)年二月で、北条時頼は同年十一月に死去しているから、伊豆流罪赦免直後に日蓮が赦免を実行した北条時頼に直接会ったことは有り得ることで『故最明寺入道見参御書』はこういったことを指しているのであろうか。

 

故最明寺入道見参御書

寺々を挙げて、日本国中、旧寺への御帰依を捨てしめんが為に、天魔の所為たるの由、故最明寺入道殿に見参の時、之を申す。又立正安国論之を挙ぐ。総じて日本国中の禅宗・念仏宗 

 

 

図録を著す

「浄土九品の事(じょうどくほんのこと)

(3図録15P2306、創新87P933、校3図録14P2410、全695 新P421)

真蹟7紙完・静岡県富士郡芝川町西山 富士山本門寺蔵

縮続190

*平成校定「真蹟3紙完」

*昭和定本「浄土九品之事」

創価学会新版「浄土九品の事」

*昭和定本「文永6年」

創価学会新版・系年なし

 

 

要文抄録

「双紙要文」

真蹟143紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

 

 

書を写す

「顕戒論縁起巻上」

真蹟125紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

所々に他筆が混ざる

 

 

要文抄録

「天台肝要文」

真蹟147紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

末尾2紙は他

当書抄出の経釈は大部分が「注法華経」に注記中に加わる

紙背文書が建長5129日の「富木殿御返事」(P15、校P35、新P25)である

 

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