「本尊問答抄」 法勝人劣思想の確立~日蓮法華教の誕生

1 「本尊問答抄」法勝人劣思想の確立

 

弘安元年9月「本尊問答抄」(日興本断片・北山本門寺蔵)P1573P1586

 

本文

問うて云はく、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答へて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし。問うて云はく、何れの経文、何れの人師の釈にか出でたるや。答へて云はく、法華経の第四法師品に云はく「薬王、在々処々に若しは説き若しは読み、若しは誦(じゅ)し若しは書き、若しは経巻所住の処には皆応(まさ)に七宝の塔を起()てゝ極めて高広厳飾(こうこうごんじき)ならしむべし。復舎利を安(やす)んずることを須(もち)ひず。所以(ゆえん)は何(いかん)。此の中には已に如来の全身有(ましま)す」等云云。

涅槃経の第四如来性品に云はく「復次に迦葉、諸仏の師とする所は所謂(いわゆる)法也。是の故に如来恭敬(くぎょう)供養す。法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり」云云。

天台大師の法華三昧に云はく「道場の中に於て好き高座を敷き、法華経一部を安置し、亦必ずしも形像(ぎょうぞう)舎利並びに余の経典を安んずべからず。唯法華経一部を置け」等云云。

 

◇日蓮は末代悪世の凡夫は「法華経の題目を以て本尊」とすべきことを示す。「妙法蓮華経法師品第十」「涅槃経第四如来性品」と智顗の「法華三昧懺儀」を文証とする。

 

 

本文

疑って云はく、天台大師の摩訶止観の第二、四種三昧の御本尊は阿弥陀仏なり、不空三蔵の法華経の観智の儀軌は釈迦・多宝を以て法華経の本尊とせり、汝何ぞ此等の義に相違するや。答へて云はく、是私の義にあらず。上に出だすところの経文並びに天台大師の御釈なり。但し摩訶止観の四種三昧の本尊は阿弥陀仏とは、彼は常坐・常行・非行非坐の三種の本尊は阿弥陀仏なり。文殊問経・般舟三昧経・請観音経等による。是は爾前の諸経の内未顕真実の経なり。半行半坐三昧には二あり。一には方等経の七仏・八菩薩等を本尊とす、彼の経による。二には法華経の釈迦・多宝等を引き奉れども、法華三昧を以て案ずるに法華経を本尊とすべし。不空三蔵の法華儀軌は宝塔品の文によれり。此は法華経の教主を本尊とす、法華経の正意にはあらず。上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊、法華経の行者の正意なり。

 

◇続いて、智顗の「摩訶止観」の第二、四種三昧の本尊は阿弥陀仏だが、常坐・常行・非行非坐の三種の本尊は文殊問経・般舟三昧経・請観音経等に依って阿弥陀仏とされており、それら経典は爾前の諸経の内未顕真実の経であるとする。半行半坐三昧には二つあって、一つは方等経の七仏・八菩薩等を本尊としている。もう一つは法華経の釈迦・多宝等を引いているが、智顗の「法華三昧懺儀」を以て案ずれば、法華経が本尊である、と定める。不空三蔵の「法華経の観智の儀軌」(成就妙法蓮華経王瑜伽論観智儀軌=法華儀軌)では、宝塔品の文によって「法華経の教主」釈尊を本尊とするが、寿量品の久遠実成の釈尊ではない故、宝塔品の文に依って「法華経の教主」釈尊を本尊とするのは法華経の正意ではないと教示する。

 

法華経の教主を本尊とす、法華経の正意にはあらず」だけを見れば、「釈迦仏本尊=仏()本尊の否定」との印象を受けるが、それは不空三蔵が「法華儀軌」内で『宝塔品の文に依って釈迦を本尊としている』ことを指摘した文であることに注意すべきだろう。法華経本門寿量品の本仏・久遠実成の釈尊=久遠仏を本尊とせず、とはしていないのである。

しかしながら一転して、文末に「上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊、法華経の行者の正意なり」とあるように、冒頭の「法華経の題目を以て本尊」とすることにつき、それは「釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊、法華経の行者の正意」である、として「題目本尊・法本尊」の立場であることを示す。

 

 

本文

問うて云はく、日本国に十宗あり。所謂倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・真言・浄土・禅・法華宗なり。此の宗は皆本尊まちまちなり。所謂倶舎・成実・律の三宗は劣応身の小釈迦なり。法相・三論の二宗は大釈迦仏を本尊とす。華厳宗は台上の盧遮那報身の釈迦如来、真言宗は大日如来、浄土宗は阿弥陀仏、禅宗にも釈迦を用ひたり。何ぞ天台宗に法華経を本尊とするや。答ふ、彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす、其の義あるべし。

問ふ、其の義如何。仏と経と何れか勝れたるや。答へて云はく、本尊とは勝れたるを用ふべし。例せば儒家には三皇五帝を用ひて本尊とするが如く、仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし。

 

◇倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・真言・浄土・禅等の本尊を破折しながら、「本尊とは勝れたるを用」いるべきとして、「仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし」と、仏本尊・釈迦を本尊とするべきことを示す。一見、先の「題目本尊・法本尊」とあわせて、ここまでの記述では「題目本尊・法本尊」「釈迦本尊・仏()本尊」並列となるように見えるが、この箇所での「仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし」とは爾前権教の本尊を列挙して法華経信仰に立ち還るべきことを主眼としながらの釈尊引用であることに注意を要する。即ち、爾前権教の本尊・阿弥陀仏や大日如来などから法華経の教主釈尊に還ることを促すものであり、法華経と釈尊の関係は次の段で詳細に語られている。

 

 

本文

問うて云はく、然らば汝云何(いかん)ぞ釈迦を以て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。答ふ、上に挙ぐるところの経釈を見給へ、私のぎ()にはあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とするなり。

其の故は法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以て本尊とするなり。

問ふ、其の証拠如何。

答ふ、普賢経に云はく「此の大乗経典は諸仏の宝蔵也、十方三世の諸仏の眼目なり、三世の諸の如来を出生する種なり」等云云。

又云はく「此の方等経は是諸仏の眼なり。諸仏は是に因って五眼を具することを得たまへり。仏の三種の身は方等より生ず。是大法印にして涅槃海(ねはんかい)を印す。此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。此の三種の身は人天の福田(ふくでん)、応供(おうぐ)の中の最なり」等云云。

此等の経文、仏は所生、法華経は能生、仏は身なり、法華経は神(たましい)なり。然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし。而るに今木画の二像をまう()けて、大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすは、尤(もっと)も逆なり。

 

◇ここでは問いが発せられ、冒頭の「法華経の題目を以て本尊」と前の「仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし」の矛盾が指摘される。問いの文面では、答者は既にして、「法華経の題目を本尊とする」者に設定されている。即ち、日蓮は答えを通して「題目本尊・法本尊」の立場であることを示すのである。その理由は、法華経は釈尊・諸仏を出生する父母、能生であり、仏は所生の立場であるから、としている。これにより日蓮は「本尊問答抄」の該文では、法華経・妙法蓮華経・法=能生、仏・釈尊=所生という「法勝人劣」的記述をしているといえるだろう。

 

 

このような「本尊問答抄」の記述によって、日蓮は建治年間から弘安元年9月頃までには「法勝人劣」思想を確立したということが理解できる。

 

2 「法勝人劣」思想を確立した日蓮

 

上記「本尊問答抄」以外に、日蓮が「法勝人劣」思想を確立していた文証として挙げられる遺文には、以下のようなものがある。

 

建治2511(或は弘安2)の「宝軽法重事」(真蹟)では、「人軽しと申すは仏を人と申す。法重しと申すは法華経なり。夫(それ)法華已前の諸経並びに諸論は仏の功徳をほめて候、仏のごとし。此の法華経は経の功徳をほめたり、仏の父母のごとし。」(P1179)と「法華経は仏の父母」としており、「本尊問答抄」の「法華経は釈尊の父母」と同様の教示となっている。

なお、後文には「一閻浮提の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形像をかきつくれる堂塔いまだ候はず。いか()でかあら()われさせ給はざるべき。」(P1179)と、一閻浮提に未だ存在しない法華経本門寿量品・久遠実成の釈尊の形像をかきつくれる堂塔が、必ずや建立されるであろうことを予見しているが、法華経の寿量品の釈迦仏の形像は既に天台宗によって造立されているので、当該文は「報恩抄」の「本門の教主釈尊を本尊とすべし」のごとく妙法曼荼羅本尊と読み解くべきではないか。

 

建治4225日の「上野殿御返事」(日興本・大石寺蔵)には「仏はいみじしといゑども、法華経にたいしまいらせ候へば、蛍火と日月との勝劣、天と地との高下なり。仏を供養してかゝる功徳あり。いわうや法華経をや。」(P1450)とあって、これも「法勝人劣」思想を表すものといえるだろう。

「上野殿御返事」も後文に、届けられた供養の功徳は大であり「此をもってをも()ふに、釈迦仏・多宝仏・十羅刹女いかでかまぼ()らせ給はざるべき。」(P1451)と、釈迦仏・多宝仏・十羅刹女の守護を説示しており、これを以て「人と法の勝劣というものは感じられない」との指摘もあるが、前者で「法勝人劣」が明示されており、後者は「法華経に供養する信仰者への守護の働きとして引用されている次元」であり、後者が前者を打ち消すものではないといえるだろう。

 

弘安254日の「窪尼御前御返事」(真蹟断片・日興本 大石寺蔵)にも、「まして法華経は仏にまさらせ給ふ事、星と月と、ともしびと日とのごとし。(P1645)とあり、法に重きを置いていることがうかがえる。

 

「宝軽法重事」には「(たかんな)百本、芋一駄送り給び了んぬ。」(P1178)、「上野殿御返事」は「蹲鴟(いものかしら)、くしがき(串柿)、焼米、栗、たかんな()、すづつ(酢筒)給び候ひ了んぬ」(P1450)「窪尼御前御返事」は「御供養の物、数のまゝに慥(たし)かに給び候。」(P1645)とある。

特に「上野殿御返事」と「窪尼御前御返事」では、徳勝童子が釈迦仏に砂の餅を捧げた功徳により阿育大王と生まれた故事(雑阿含経)を引用しており、三つの書状は共に、信徒より供養を届けられた事に感謝してその功徳を説く書状となっている。

 

「法勝人劣」思想の文献としてはほかにも文永9年の「祈祷抄」(真蹟曽存)があり、文中で「仏此の法華経をさとりて仏に成り」(P670)と記し、法華経は能生、仏は所生という「本尊問答抄」と同じ関係を示すものといえるだろう。

 

 

3 日蓮への供養は法華経への供養=日蓮の法華経化・法華経の日蓮化=教主を日蓮とする日蓮法華教の誕生

 

供養に関しての二つの書簡を確認してみよう。

 

 

建治元年「白米和布御書」(真蹟)

白米五升・和布(わかめ)一連給び了んぬ。阿育大王は昔得勝童子なり。沙(すな)の餅を以て仏に供養し一閻浮提の王と為る。今施主は白米五升を以て法華経に供養す。是の故に成仏し候ひ了んぬ。何故に飢ゑを申すべき。(P1132)

 

 

建治元年928日「御衣並単衣(おんころもならびにひとえぎぬ)御書」(真蹟)

御衣の布、並びに御単衣給び候ひ了んぬ。

中略

衣かたびら(帷子)は一なれども、法華経にまいらせさせ給ひぬれば、法華経の文字は六万九千三百八十四字、一字は一仏なり。

中略

『応化は真仏に非ず』と申して、三十二相八十種好の仏よりも、法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給ひ候へ。仏の在世に仏を信ぜし人は仏にならざる人もあり。仏の滅後に法華経を信ずる人は『無一不成仏』とは如来の金言なり。この衣をつく()りて、かたびら(帷子)をきそ(着添)えて法華経をよみて候わば、日蓮は無戒の比丘なり、法華経は正直の金言なり、(P1111)

 

 

「白米和布御書」は某氏より届けられた「白米五升」と「和布一連」の供養に対する返状、御衣並単衣御書」は富木氏より「帷子の衣布」と「単衣の着物」を送り届けられたことに対する返状なのだが、身延の山中に届けられた供養を日蓮は「法華経に供養」されたもの、「法華経にまいらせ」たもの、としている。即ち「法華経の行者日蓮」に届けられた供養は「法華経」への供養なのであり、このような記述からは「日蓮即法華経、法華経即日蓮」という境地が感じられ、法華経が日蓮的なものとなった、即ち日蓮の内面とその教えが(それは法然浄土教に対抗するものともいえる)日蓮法華教となっていること、日蓮が教え主・教主となっていることがうかがえるのではないだろうか。

 

 

4 妙法曼荼羅本尊は久遠仏

 

文永12216日に著された「新尼御前御返事(与東條新尼書)(真蹟曽存・真蹟断簡)では、久遠仏の心中にあった御本尊と日蓮の関係について、以下のように記している。

「此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめ」(P866)ていたのだが、釈尊が「世に出現せさせ給ひても四十余年」は説かれず、ようやく「法華経の中にも迹門はせすぎて」、「宝塔品(11)より事をこりて寿量品(16)に説き顕は」され、「神力品(21)嘱累品(22)に事極ま」った。「文殊師利」「弥勒菩薩」「観世音」「日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士」らが、御本尊の付属を「我も我もと望み給ひしかども叶は」なかった。その理由は「智慧いみじく、才学ある人々とはひゞ()」いていたのだが、「いまだ日あさし、学も始めたり、末代の大難忍びがたかる」故であった。そして釈尊は「我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり、此にゆづ()るべし」として、「上行菩薩等を涌出品に召し出ださせ」て、「法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづ」られ、「我が滅度の後正法一千年、像法一千年に弘通すべからず」と教戒されて末法における弘通を託されたのである。

 

このように、日蓮は自己と上行菩薩を重ねながら、久遠実成の釈尊=久遠仏から「御本尊=妙法蓮華経=法華経の題目」の付属を受けて末法に弘通することを宣しているのであり、即ち自らの宗教的達観としてそのように位置付けたわけであり、その御本尊は久遠仏が「五百塵点劫」という長遠の彼方より「心中にをさめ」ていた、と明示しているのである。

ここにおいて、久遠仏は即ち御本尊(妙法曼荼羅本尊)であり、御本尊(妙法曼荼羅本尊)とは久遠仏でもある、ということが読み解けるのではないだろうか。

 

 

5 文字に仏を見るということ

 

文字で顕された御本尊(妙法曼荼羅本尊)が久遠仏であるということ、即ち文字に仏を見るということは日蓮の常の思考であるともいえ、それは次の二つの遺文からうかがうことができるだろう。

 

文永9年の「祈祷抄」には、「而りといへども御悟りをば法華経と説きをかせ給へば、此の経の文字は即釈迦如来の御魂(みたま)なり。一々の文字は仏の御魂なれば、此の経を行ぜん人をば釈迦如来我が御眼の如くまぼ()り給ふべし。人の身に影のそ()へるがごとくそはせ給ふらん。いかでか祈りとならせ給はざるべき。」(P671)と、法華経の文字は釈尊の魂であること=法華経即釈尊と教示している。

 

それは同年の「四条金吾殿御返事(梵音声書)(文永9年・日興本 北山本門寺蔵) にも見えるところで、「其の中に法華経は釈迦如来の御志を書き顕はして此の音声を文字と成し給ふ。仏の御心はこの文字に備はれり。たとへば種子と苗と草と稲とはか()はれども心はたがはず。釈迦仏と法華経の文字とはかはれども、心は一つなり。然れば法華経の文字を拝見せさせ給ふは、生身の釈迦如来にあ()ひまい()らせたりとおぼしめすべし。」(P666)と、法華経の文字を拝見することは生身の釈尊への直参でもあるとするのである。

 

 

6 日蓮的両論並立思想について

 

これまで見てきたように身延期に入って日蓮は「法勝人劣」思想を確立しているのだが、かの四条金吾夫妻の釈尊像造立讃嘆に見られるように一方では「爾前権教から法華経信仰に立ち還った門下の法門信解の程度に応じての釈尊像造立は可」としている。いわば門下の機根を引き上げるための次第誘引の一過程での釈尊像讃嘆ともいえるのだが、その「文証」を以て人・仏(仏像)本尊を殊更に強調するのも、前期「法勝人劣」思想の確立を覆すことはできないといえるだろう。あくまで門下の法門信解の程度に応じての教導であると、理解すべきではないだろうか。

 

ただ、部分的な教導をいただいた、またそれらを知るところとなった者は素直に理解しただろうから、このようなところが「日蓮の法門」理解の難しいところであるといえ、真意は一つにあるのだが一見矛盾する説が並列することを筆者は「日蓮的両論並立思想」と呼称している。

 

そのような「日蓮的両論並立思想」の代表例ともいえる、法華経についての日蓮の教示「余経も法華経もせん()なし」⇔「経は法華経、顕密第一の大法なり」について見てみよう。

 

 

以下の遺文を引用して、「現在はただ、南無妙法蓮華経によって成仏を期すべき時であり、法華経は成仏の法にはならない」との解釈がある。

 

建治元年712日「高橋入道殿御返事(加島書)(真蹟)

末法に入りなば迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし。(P1084)

 

系年・建治元年「智慧亡国御書」(真蹟)

今の代は外経も、小乗経も、大乗経も、一乗法華経等も、かなわぬよ()となれり。ゆへいかんとなれば、衆生の貪・瞋・癡の心のかしこきこと、大覚世尊の大善にかしこきがごとし。

(P1129)

 

弘安元年41日「上野殿御返事(法要書)(日興本[要検討]大石寺蔵)

今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん()なし。但南無妙法蓮華経なるべし。かう申し出だして候もわたくし()の計らひにはあらず。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計らひなり。此の南無妙法蓮華経に余事をまじ()へば、ゆゝしきひが()事なり。

(P1492)

 

これら遺文を以て「末法には妙法蓮華経の五字が一閻浮提の一切衆生に授けられるべきものであり、法華経は衆生の病の薬とはならず。法華経はせん()なきものとなるのだ。今は但南無妙法蓮華経なるべし、であり、これは日蓮が明言しているのである。」との解釈は果たして妥当なものだろうか。実はこのようなところにこそ、日蓮遺文の随所にある矛盾表記の一端が示されていると思うのだ。日蓮は「余経も法華経もせん()なし」とした後にも、法華経の大事、その最第一たることを説き続けるのである。

 

当該文は、末法の衆生は妙法蓮華経によって成仏を期すべきことに重きを置いた「一表現」であって、日蓮が法を用いない、即ち法華経の行者が自らの教理的存在基盤である「法華経」を「末法に用なし」とすることはないのである。その代表例として挙げられるのが「新田殿御書」だろう。

 

弘安3年、日蓮は法華経を第一の大法とし、自らを法華経の行者に相似たり、としている。

 

弘安3529日「新田殿御書」(真蹟)

使ひの御志限り無き者か。経は法華経、顕密第一の大法なり。仏は釈迦仏、諸仏第一の上仏なり。行者は法華経の行者に相似たり。三事既に相応せり。檀那の一願必ず成就せんか。(P1752)

 

弘安31024日の「上野殿母尼御前御返事(中陰書)(真蹟断簡)では、「南条故七郎五郎殿の四十九日御菩提のために送り給ふ物の日記の事、鵞目(がもく)両ゆ()ひ・白米一駄(いちだ)・芋一駄・すりだうふ(摺豆腐)・こんにゃく・柿一籠(ひとこ)・ゆ()五十等云云。御菩提の御ために法華経一部・自我偈数度・題目百千返唱へ奉り候ひ畢(おわ)んぬ。」(P1810)とあって、南条家の亡き七郎五郎の菩提のために、法華経一部・自我偈数度・題目百千返を唱えている。

 

そして、法華経が諸経中において第一であることを法華経の経文から引証し、仏の誠言なのだから誤りはない、としている。

「法華経の第四法師品に云はく『薬王今汝に告ぐ、我が所説の諸経あり、而も此の経の中に於て、法華最も第一なり』等云云。第五の巻に云はく『文殊師利、此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て最も其の上に在り』等云云。第七の巻に云はく『此の法華経も亦復是くの如し。諸経の中に於て、最も為()れ其の上なり』と。又云はく『最も為れ照明なり。最も為れ其の尊なり』等云云。此等の経文、私の義にあらず、仏の誠言にて候へば定めてよもあや()まりは候はじ。」(P1810)

 

日蓮は法華経について続ける。

「法華経と申すは三世十方の諸仏の父母なり、めのと(乳母)なり、主にてましましけるぞや。」(P1814)

「仏も亦かくの如く、法華経を命とし、食とし、すみか()とし給ふなり。」()

「仏は此の経にすみ給ふ。月は水にやどる、仏は此の経にやどり給ふ。此の経なき国には仏まします事なしと御心得あるべく候。」()

「仏も又かくの如く、多宝仏と申す仏は此の経にあひ給はざれば御入滅、此の経をよむ代には出現し給ふ。釈迦仏・十方の諸仏も亦復かくの如し。かゝる不思議の徳まします経なれば此の経を持つ人をば、いかでか天照太神・八幡大菩薩・富士千眼大菩薩すてさせ給ふべきとたのもしき事なり。」(P1816)

「又此の経にあだ()をなす国をばいかに正直に祈り候へども、必ず其の国に七難起こりて他国に破られて亡国となり候事、大海の中の大船の大風に値ふが如く、大旱魃(だいかんばつ)の草木を枯らすが如しとをぼしめせ。当時日本国のいかなるいの()り候とも、日蓮が一門法華経の行者をあなづ()らせ給へば、さまざまの御いの()り叶はずして、大蒙古国にせ()められてすでにほろ()びんとするが如し。今も御覧ぜよ。たゞかくては候まじきぞ。是皆法華経をあだませ給ふ故と御信用あるべし。」(P1816)

 

日蓮の晩年ともいえる弘安3年、このように法華経を主として日蓮の教示は成り立ち、日本国の浮沈もひとえに法華経の信謗による、とするのである。他にも、同様に法華経について説示した書状は多数ある。

 

以上、見てきたように日蓮は

「法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず」

一乗法華経等も、かなわぬよ()となれり

「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん()なし」

と説示しながら、その後にも、

「経は法華経、顕密第一の大法なり。仏は釈迦仏、諸仏第一の上仏なり」

「仏は此の経にやどり給ふ。此の経なき国には仏まします事なし」

「かゝる不思議の徳まします経」

と説いている。

 

このような矛盾表記については、どちらかが間違っているのではなく、日蓮にとってはどちらも正しいものであり、一方を説くに当たってその大事を重くするが故に、他方とは矛盾をきたしているといえよう。この日蓮の思考法は「法華経観」「本尊観」等、宗教を構成する根本的なものに見えるところから日蓮の思想ともいえるもので、それが「日蓮的両論並立思想」ではないかと考えるのである。

 

この項の「法華経」に関しては、「余経も法華経もせん()なし」等を確立してそれを固定化したとは言えず、後の「経は法華経、顕密第一の大法なり。」などに包摂されてしまっている、といえるだろう。

 

尚、「智慧亡国御書」について見ると、当該文は「今の代」の衆生の三毒がいかに深いかを示したものであり、同書の後文に「大悪は大善の来たるべき瑞相なり。一閻浮提うちみだすならば、閻浮提内広令流布はよも疑ひ候はじ。」(P1131)とあるように、一閻浮提に広宣流布するべき「妙法蓮華経の五字」によって一切衆生は救われていくことを主眼にした場合の、法華経を副次的なものとした一表現、と考えられよう。

 

同書の文末には、「此の大進阿闍梨を故六郎入道殿の御はかへつかわし候。~中略~そのほどまづ弟子をつかわして御はか()に自我偈をよませまいらせしなり。」(P1131)とある。故六郎入道殿については高橋六郎兵衛入道と解されているが、故人の墓に弟子の大進阿闍梨を派遣して自我偈を読ませ、「一乗法華経」によって追善回向をしているのであり、これによっても法華経が「末法に用なし」と外されたわけではないことが明らかといえるのである。

 

 

2023.7.24

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