日蓮法華教・日蓮的摂入、包摂思想とその展開~妙法曼荼羅の形相の起源をめぐって 2 明恵房高弁と日蓮

1. 明恵房高弁と日蓮の認識

日蓮の妙法曼荼羅の起源を考える時、密教曼荼羅と共に参考にしたいのが明恵房高弁の「三宝礼の名号本尊」であることを、佐藤弘夫氏の著「日本中世の国家と仏教」(2010 吉川弘文館)と「鎌倉旧仏教・日本思想体系15(1971 岩波書店)での田中久夫氏の解説「著作者略伝・高弁」により認識しました。ここでは佐藤氏、田中氏の教示に学びながら、高弁の教説を確認してみましょう。

 

鎌倉時代前期の顕密仏教を代表する論者で、華厳宗の僧である明恵房高弁(みょうえぼうこうべん・明恵上人・栂尾上人、承安3[1173]~寛喜4[1232])40歳の時、建暦2(1212)に「於一向専修宗選択集中摧邪輪=摧邪輪」を著し、法然房源空の「選択本願念仏集=選択集」の中に「菩提心を撥去(除きさる)する過失」「聖道門を以て群賊に譬ふる過失」ありとして徹底した批判を展開。続く建暦3(1213)には「摧邪輪荘厳記」を著し再び源空の義を批判しています。

 

日蓮はそのことを「浄土九品之事」(文永6年 真蹟)に簡潔に記します。

 

華厳宗

トガノオ(栂尾)

明恵房(高弁のこと)―摧邪輪三巻を造る随機諸行往生(P2310)

 

建久9(1198)に源空が「選択本願念仏集」を著した後、園城寺の公胤(こういん)が「浄土決疑抄」(元久元年頃・1204)を書いて源空の義を批判し、続いて華厳宗の高弁は「摧邪輪」(建暦2年・1212)を、比叡山の定照(じょうしょう)は「弾選択」(嘉禄元年・1225)を著して源空の教説を批判しましたが、日蓮は「守護国家論」(正元元年 真蹟曽存)の中で、三師の批判は「選択集謗法の根源を顕さ」なかった故、「還って悪法の流布を増」してしまったと記しています。

 

此の悪義(法然の選択集のこと)を破らんが為に亦多くの書有り。所謂、浄土決義抄・弾選択・摧邪輪等也。此の書を造る人、皆碩徳の名一天に弥ると雖も、恐らくは未だ選択集謗法の根源を顕さず。故に還って悪法の流布を増す。譬えば盛んなる旱魃の時に小雨を降らせば草木弥枯れ、兵者を打つ刻、弱き兵を先にすれば強敵倍の力を得るが如し焉。(P89)

 

 

2. 明恵房高弁 「三宝礼の名号本尊」への信仰

高弁は「摧邪輪」「摧邪輪荘厳記」を著した後、紙の中央に「南無同相別相住持仏法僧三宝」と文字を書き、左右に八十華厳(巻二十七)十廻向品にある菩提心の異名二十種より「万相荘厳金剛界心、大勇猛幢智慧蔵心、如那羅延堅固幢心、如衆生海不可尽心」を選んで書き入れた「三宝礼の名号本尊」を作り、それを栂尾の練若台の草庵にかけて、自行として日に三回、三返ずつの礼拝を行っています。

本尊の図様は中央に「南無同相別相住持仏法僧三宝」と認め、拝して右上より「万相荘厳金剛界心、大勇猛幢智慧蔵心」、左上より「如那羅延堅固幢心、如衆生海不可尽心」と配列し、上部には横一列に三宝を梵字で並べます。

 

三宝と菩提心を文字に顕しそれを本尊として礼拝するのは密教の思考ではないかと思え、自らに厳しい戒律を課し、華厳教学と真言密教を習い極めてその復興に尽力した高弁の顕密兼学の思考と源空の専修念仏に触発された教理的結実が「三宝礼の名号本尊」といえるのではないでしょうか。

彼は自ら礼拝するだけでなく、信奉する人々にも礼拝することを勧めています。建保3(1215)1125日には「三時三宝礼釈」を著して「三宝礼の名号本尊」への礼拝に意味合いを持たせ、源空の専修念仏に走った人々を呼び戻すかのように「三宝礼の名号本尊」への信仰が易行であることを強調します。(高山寺蔵明恵自筆消息断簡には、「三宝礼の名号本尊」を15枚書いて授けたことが記されている)

 

「三時三宝礼釈」~部分

以下の現代語訳は高橋秀栄氏の「三時三宝礼釈」訳文(「大乗仏典〈中国・日本編〉第二十巻」1988 中央公論社)より引用

 

「 礼拝の仕方は、合掌し、身体をまっすぐに伸ばしてお唱えするものです。

南無同相別相住持仏法僧三宝(なむどうそうべっそうじゅうじぶっぽうそうさんぽう)

生生世世値遇頂戴(しょうじょうせぜちぐうちょうだい)

万相荘厳金剛界心(まんそうしょうごんこんごうかいしん)

大勇猛幢智慧蔵心(だいゆうもうとうちえぞうしん)

如那羅延堅固幢心(にょならえんけんごとうしん)

というところまでは立ったままで唱え、このあとの句の『如衆生海(にょしゅじょうかい)』と唱え始めるのと同時に身体を地面につけて礼拝(五体投地)しますと、『生生世世皆悉具足(しょうじょうせぜかいしつぐそく)』というのと同じに礼拝が終わります。(礼拝を)始めるなり、すぐに立ち上るようなことはしてはいけません。(そのようなのは)礼拝とはいえません。仏教の経典に説かれている礼拝の仕方は、すべて端身正立(たんしんしょうりゅう)ということです。

中略

愚僧は、練若台と名づけた草庵の学文処に、(仏法僧の)三宝と菩提心の名号(の掛軸)をかけ、三時(早朝・日中・日没)における念誦のときとか、お堂を出たあとなどに、かならずこの名号を唱え、一度につき三返の礼拝をおこなっています。合わせると三時(一日)で、九返の礼拝になります。

その礼拝のことばは、次の通りです。

 

南無同相別相住持仏法僧三宝

生生世世値遇頂戴

万相荘厳金剛界心

大勇猛幢智慧蔵心

如那羅延堅固幢心

如衆生海不可尽心

生生世世皆悉具足   」

 

「 男の人が問うていう。

私どものような在家の者は、清浄であるとか不浄であるとかえりわけをしないで、この名号にむかって、まごころこめた礼拝や供養をすべきでしょうか。

答えていう。

まことにそのとおりです。前に引用した『起信論大意記』にも、朝夕に『敬礼常住三宝』と唱えることが示されています。それは四部の弟子が朝夕に礼拝し恭敬する仕方なのです。ただ手を洗い清め、口をすすいで、朝夕に礼拝供養して、何度生まれかわろうとも、いつでも仏の教えにめぐりあいたいものだ、という願いを発すがいいでしょう。たとえ、ほかの修行のつとめがないとしても、この一行に励むと、二つの利益がもたらされるはずです。ただし、この名号を掛けようとするときに、室内が狭すぎて、魚や鳥を焼く煙がもうもうとたちこめるようなところでしたら、あえて文字を開かなくとも、ただ口の中で(名号を)唱えて礼拝するだけでも十分です。また財宝にめぐまれず、仏画(図絵ノ仏像)を手に入れることができない人は、この名号にむかって、わずか一体の仏や一体の菩薩の姿を心に思い浮かべるだけでもいいのです。それだからといって、(仏の救済に)漏れるというようなことはありません。

男の人が問うていう。

その行儀は、法師がなさっておられるように、必ず三時につとめるべきでしょうか。

答えていう。

たしかに愚僧の場合は、三時に道場に入って、顕密の行法をつとめるついでに修しておりますが、なにがなんでも同じようにつとめなさいというのではありません。一日に三返も礼拝することもあれば、あるいはただ名号だけを唱えたり、あるいはただ香花だけを供えたり、あるいは飲食の際に供養するだけでもよいのです。

後略 」

 

 

引用文中、注目すべきは男の人(俗人)が、

「我等ガ如キノ在家ノ人等。浄不浄ヲキラハズ。此名号ニ向ヒ奉テ礼供ヲナスベシヤ。」()

私どものような在家の者は、清浄であるとか不浄であるとかえりわけをしないで、この名号にむかって、まごころこめた礼拝や供養をすべきでしょうか。

 

と問いを発したのに対し高弁が、

 

「縦ヒ余行ナクトモ。此一行ニ二利ヲ円満セム。」

たとえ、ほかの修行のつとめがないとしても、この一行に励むと、二つの利益がもたらされるはずです。

 

と他の経教によらなくても、「南無同相別相住持仏法僧三宝」の一行に功徳があると答えていること。また、

 

「又財宝ニ貧キヤカラ。図絵ノ仏像ヲマウケ難カランニ。此名字ニ向ヒ奉リテ、一仏一菩薩ヲ念シ奉ランニモ。更ニモレ給ヘルハ有ベカラズ。」

また財宝にめぐまれず、仏画(図絵ノ仏像)を手に入れることができない人は、この名号にむかって、わずか一体の仏や一体の菩薩の姿を心に思い浮かべるだけでもいいのです。それだからといって、(仏の救済に)漏れるというようなことはありません。

 

と経済的理由から図絵の仏像が入手できない(そこには「作れない」の意もあると思いますが)人は、「三宝礼の名号本尊」を礼拝して一仏一菩薩を念じるだけでも、一人も漏れなく救われるとしている、というところでしょうか。

 

同書では続けて、在家の男女は「南無三宝後生タスケサセ給ヘ」と唱えて、粗末な供物であっても三宝に捧げてから用いることが大事であることを説いています。翌建保4(1216)105日にも「自行三時礼功徳義」(三時三宝礼釈略本)を著して、三宝信敬による菩提心の大事、西方往生を求める者が三時三宝礼を修すれば上品上生の業にあたり、信心決定して行を成せば他行の必要はないことを説示しています。

 

※「三時三宝礼釈」の原文は佐藤弘夫氏の「日本中世の国家と仏教」P161より引用。

 

 

3. 源空・高弁・日蓮の三者に共通するもの「易行・選択・専修」

「三時三宝礼釈」「自行三時礼功徳義」での主張を見ると、高弁は「摧邪輪」で源空を激しく批判しながら、一方では貴族から民衆の間に広まった易行・選択・専修を特徴とする源空の教説より学び摂取して、自らの教理解釈を展開しているのではないでしょうか。批判しながら相手の修行法・実践手法を取り入れて結果、教理面の異質性に反して実践法の方向性が同質化してくるということは、先方の実践展開が世の大方に受け入れられていて、批判者もそれを認めざるを得なかったことになります。同時に自らの教説を世に問うに当たって、批判対象者の作った方軌を追随するしかなかったともいえるでしょう。

 

それは源空が仏教を大別して、華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃・大日等は時機不相応なものでありこれらは「聖道・難行・雑行」になるとし、浄土三部経(阿弥陀経・観無量寿経・無量寿経)と専修念仏は末法の世に相応しい「浄土・易行道・正行」であるとした教えが、時代性と衆生の機に合致し、社会の各層に遍く広まっていたことを意味します。

 

既存の顕密仏教も後発の日蓮等も、源空とその弟子によって耕された世の精神空間に合わせながら布教展開しなければなりませんでした。また源空以降の諸師はそのことを十分認識していたと思うのです。

 

源空に対抗する既成仏教、彼に続く諸師は教理的立場を異にしながらも、「易行・選択・専修」という「前提」条件をクリア―した故に批判・賛同されながら自らの教説は世に受け入れられ、広まったのではないでしょうか。源空がいわゆる鎌倉新仏教をリードした導師であることは、日蓮門下といえども素直に受け入れるべき史実でしょう。

 

4. 高弁の教説と本尊・日蓮の教説と本尊

ここまで確認して思い至ったのは、源空に対した当時の高弁の教説と本尊、高弁に倍して源空を批判した日蓮の教説と本尊に類似性があるのではないかということです。日蓮が高弁の本尊と「三時三宝礼釈」に接したという確証はないのですが、日蓮は「摧邪輪」の教説がかえって浄土教流布の手助けとなってしまったことを指摘しており、であれば「摧邪輪」を熟読してそこから高弁の様々な教説に接していたとの推測も可能ではないでしょうか。

 

「般舟三昧経」「十住毘婆沙論」「浄土論註」「安楽集」「観念法門」「往生礼賛」「般舟讃」「観無量寿経疏(観経疏)」「選択本願念仏集」「往生要集」「往生拾因」「往生講式」等、多くの浄土教関係の経論に接した日蓮であれば、専修念仏を批判するに当たって源空批判の先達の書の多くに目を通すことも、十分に考えられることでしょう。また次代の日蓮と先代の高弁に共通性があるということは、日蓮の常である摂入思考からすれば十分その可能性はあると思います。

 

専修念仏を主張する源空と弟子の前に立ち、「三宝礼の名号本尊」への信仰と「三時三宝礼釈」での自説(=易行)によって衆生済度を成さんとした高弁の教理展開と、日蓮の法華経信仰の功徳力説示と文字曼荼羅の展開を重ねてみましょう。

 

 

< 本尊礼拝・題目の功徳 >

 

高弁は「三宝礼の名号本尊」への礼拝について、仏法に相応しい文字でもって立派な一切経となりうる、南無同相別相住持仏法僧三宝の一行に功徳があると説きます。

 

「三時三宝礼釈」より

「まず初めに、(菩提心の名号を)文字に書いて、(それを礼拝用の)本尊とすることについてですが、経典の文字といいますのは、いうなれば、如来の海印三昧から現われ出たものです。あるいは、仏地の後得智から出てきたものです。およそ、(経、律、論の)三蔵の法文で、(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆空という仏法の)四印の意味をはっきりさせることができますと、仏法にふさわしい文字でもって、立派な一切経となりうるのです。そして、これによって、密教では、ある場合には、名号そのものを真言としたり、ある場合には、この名号を観想(の対象に)して、真実究極(実際)の悟りに到達するのです。」

「たとえ、ほかの修行の勤めがないとしても、南無同相別相住持仏法僧三宝への勤めに功徳があるのです。」

 

日蓮は妙法の二字に「法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門」がおさまっている、「妙法蓮華経の五字」を唱える功徳は莫大なることを力説。高弁・日蓮共に易行です。

 

「唱法華題目抄」(文応元年528日 「南条兵衛七郎殿御書」真蹟行間に日興筆の書写あり)

問て云く 只題目計りを唱ふる功徳如何。(P202)

中略

諸経の題目に是れを比ぶべからず。其の上、法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり。()

中略

故に妙法蓮華経の五字を唱ふる功徳莫大也。 (P203)

 

「四信五品抄」(建治3410日 真蹟)

問ふ、汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何。

答ふ、此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず、将又真言等の諸宗の元祖・畏()・厳(ごん)・恩(おん)・蔵(ぞう)・宣(せん)・摩()・導(どう)等に勝出すること百千万億倍なり。請ふ、国中の諸人我が末弟等を軽んずること勿れ。進んで過去を尋ぬれば八十万億劫供養せし大菩薩なり。豈煕連一恒の者に非ずや。退いて未来を論ずれば、八十年の布施に超過して五十の功徳を備ふべし。天子の襁褓(むつき)に纏(まと)はれ大竜の始めて生ぜるが如し。蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ。(P1298)

 

 

< 高弁の文字本尊・日蓮の文字曼荼羅 >

 

高弁が作成した「三宝礼の名号本尊」は、中央に「南無同相別相住持仏法僧三宝」と文字を書き、左右に八十華厳(巻二十七)十廻向品にある菩提心の異名二十種から「万相荘厳金剛界心、大勇猛幢智慧蔵心、如那羅延堅固幢心、如衆生海不可尽心」を選んで書き入れ、上部には横一列に三宝を梵字で並べています。

日蓮が文永8109日に「相州本間依智郷」において顕した曼荼羅=通称・楊子御本尊は、中央に「南無妙法蓮華経」の首題を書き、自署花押と左右に「不動明王・愛染明王」を書いています。

 

初期の曼荼羅には「首題、自署花押に釈迦・多宝の二仏と不動・愛染明王」という、簡略化された相貌のものが多く、その相貌・配列法は高弁の「三宝礼の名号本尊」と通じるものがあるのではないでしょうか。何よりも両者の共通点で特徴的なのは、「文字で顕した本尊」であるということです。

 

 

< 仏像(絵像・木像)と曼荼羅本尊 >

 

続いては仏像(絵像・木像)と曼荼羅本尊の関係です。

「三時三宝礼釈」に「財宝にめぐまれず、仏画(図絵ノ仏像)を手に入れることができない人は、この名号にむかって、わずか一体の仏や一体の菩薩の姿を心に思い浮かべるだけでもいいのです。それだからといって、(仏の救済に)漏れるというようなことはありません。」とあるところから、当時の高弁が布教対象とした人々の社会での階層が窺われ、それは財宝ニ貧キヤカラ=底辺の人々も含まれていたことを物語るものでしょう。

日蓮の檀越でも久遠の仏(釈迦仏像)を造立したのは一部の者だけで、門下に授与した紙本曼荼羅の多さ、弘安期に相貌座配を少なくした一紙の曼荼羅が多い(日蓮の病状もありますが)ことからも日蓮とその門弟の階層と財力がうかがえ、このことは高弁と日蓮の布教対象の階層に通じるものがあったことを意味していると思うのです。

 

朝廷や幕府関係者、社会的立場のある者は生まれて以来、仏教の本尊といえば仏師が精魂傾けて作り上げた仏像か、絵師がこれまた繊細なる技法で描き上げた絵像、密教などの信仰世界を絵で表した曼荼羅などであったことでしょう。

そのような壮麗なる仏像群を取り払って、「三宝礼の名号本尊」または妙法曼荼羅一紙だけを奉ったら彼らはどのように思うでしょうか。逆に、天災地変・飢饉が起き、疫病が発生すれば真っ先に犠牲となってしまう多くの庶民は、立派な仏像を造る余裕など当然ながら持ち合わせていません。

ですが、仏教者の精神として、高弁は「更ニモレ給ヘルハ有ベカラズ。」と一人も漏れなく救われるのだと説き、日蓮は「一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし」(P1487 諌暁八幡抄 真蹟)として社会的階層にとらわれず日本国の一切衆生を救済せんとしており、であれば、「本尊の基準」をどこに置くべきかは、自ずと明らかで、そこから両者共に紙の本尊・曼荼羅という形態に至ったのではないかと考えるのです。

 

順を言えば、高弁の先例に日蓮が習ったのではないでしょうか。

日蓮が高弁の教説と本尊の図様に接する可能性があるのは、やはり青年の時、京畿での修学時代です。それは、源空批判を始めるにあたって、関係書籍を読破する過程でのことでしょう。

 

文永810月以降、妙法蓮華経の文字を紙に書いて文字曼荼羅を顕し始めた日蓮の念頭には、先に見たような密教の曼荼羅以外に、高弁の「三宝礼の名号本尊」というものがあったのではないでしょうか。

 

 

5. 日本仏教の流れの中で

高弁は顕密仏教随一の論者で華厳宗の僧、日蓮も台密の僧でありいわば旧仏教側の僧でした。この両者が源空を批判しながら、その教説と実践法より大きな影響を受けているのです。源空の時代を読み解く力、洞察力そして表現力、布教力には優れたものがあり、「聖道・難行・雑行」とされた既存の仏教勢力は恐れをなして弾圧・迫害を加えながらも時代の動向は無視できず、自らの変革も促され、批判対象である源空の手法を取り入れ続いていった、というのが源空以降の展開だったと思います。

 

 

このように、日本仏教という大河の流れの中で、前代からの継承もあれば次の時代にはそぎ落とされるもの、また深化されるもの、新しく生まれるものもあり、鎌倉時代中期に生きた日蓮は天台はもとより南都諸宗や密教、念仏等から本尊、教説、実践法など多くのものを摂入して自らの法華経信仰世界のものとした、即ち日蓮化していった=日蓮法華教となったのではないでしょうか。

 

2023.4.23