日蓮滅後の門下の動向をめぐって2

1346年・正平元年・貞和2年(滅後65年 大石寺5世日行)

 

128日 身延山3代・大進阿闍梨日進寂 76歳(延譜)

 

 

 

1347年・正平2年・貞和3年(滅後66年 大石寺5世日行)

 

718日 日郷は成願後家尼より鳥辺野の地を求める。(日目墓地第3次買得)(富要8-71)

 

同年 豪海は「蔵田抄」を著す。

 

 

1349年・正平4年・貞和5年(滅後68年 大石寺5世日行)

 

5月中旬  三位日順は甲斐下山大沢の草庵にて「本門心底抄」を著す。

 

◆伏して惟るに正像稍過き已て末法太だ今に有り、権迹倶に停止して本門宜しく信受すべし、所謂る従地涌出の下方の大士・神力別付の上行応化の日蓮聖人・宣示顕説の妙法蓮華経の五字是れなり。(富要 2-29 )

⇒日蓮を「上行応化の日蓮聖人」と。

 

◆又云はく・仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内未曽有の大漫荼羅なり、朝には低頭合掌し・夕には端坐思惟し・謹んで末法弘通の大御本尊の功徳を勘ふるに、竪に十界互具現前し・横に三諦相続明白なり、(-31)

⇒本門戒壇の大御本尊の讃文は「二千二百二十余年」。

 

◆行者既に出現し久成の定慧広宣流布せば本門の戒壇・其れ豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し・戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼日の治定・後難を招くあり寸尺高下注記するに能へず(-34)

⇒広宣流布の時の本門戒壇に「仏像」を安置と。

しかしながら、後年の著作「摧邪立正抄」では、「師匠日興は謗法を対治して法華本門戒壇を建て、本門の大漫茶羅を安置し奉って一同に南無妙法蓮華経と唱えることを願い、公家武家に奏聞を捧げて道俗男女に教訓したのである」と記述しており、師匠日興は広宣流布の時に本門戒壇に安置する本尊は曼荼羅本尊であるとしていたことを理解しており、日順が弟子として師匠に違背する思考をしていたとは考えづらいものがあります。

 

「摧邪立正抄」

法華は諸経中の第一・富士は諸山中の第一なり、故に日興上人独り彼の山をトして居し、爾前迹門の謗法を対治して法華本門の戒壇を建てんと欲し、本門の大漫茶羅を安置し奉つて当に南無妙法蓮華経と唱ふべしと、公家武家に奏聞を捧げて道俗男女に教訓せしむ

 

613日 日叡は「類聚記」を録する。(富要8-261)

 

1115日 日郷と日叡は京都にて日目17回忌を修する。(富要8-373)

 

同年  等海は「等海口伝抄(宗大事口伝抄)」を著す。

等海が「二帖抄」について、康永2年から正平4年まで6年かけて詳釈をしたものです。

 

◆「等海口伝抄」第四 
今師トハ者指ス二天台大師ヲ一也。今ノ釋ハ金口今師共ニ。釋スルナリ二經巻相承ノ方ヲ一。今師ノ相承ニハ。知識經巻ノ二ノ相承共ニ有ルレ之也。而ルニ知識經巻ノ相承共ニ天台ノ今師ト。此ノ今師ヲ爲シテレ本ト作ル二相承ヲ一事ハ。今師ノ内證ノ止觀ノ外ニハ。無キ二三世ノ諸佛ノ師ハ一也。止觀ハ是三世ノ諸佛ノ師。本佛行因ノ相也。故ニ今師ヲ爲ソ二元祖ト一。列ヌト二〔知識〕經巻相承ヲ一習也云

⇒ 金口相承は従前向後の相承であるのに対して、今師相承は従後向前の相承であり、今師たる天台を本とした相承であって、今師の内証の止観は三世諸仏の師であり、本佛行因の相であるとしています。

 

◆第二

一紙口決云
諸法融妙ニソ 二法未ダレ生ゼ 住ソレ一ニ顯スレ一ヲ
三諦無シレ形 倶ニ不ヲレ可カラレ見ル 名ク二境ノ一心ト一
此ノ一心ハ即チ 天眞獨朗ナリ 三千法爾ナルヲ
名ク二智ノ一心ト一 此ノ智ハ三千ナリ 本有長壽ナリ
此ノ壽作用ナリ 四安樂行ナリ 是名ク二観心ト一
以テ二此ノ妙法ヲ一 付属スル而巳

⇒中古天台の切り紙です。

 

◆第十一
嫡流一人ノ外ニ更ニ無シ二口外一。當流深秘ノ口傳也。

⇒唯授一人、秘密の口伝です。

 

 

1350年・正平5年・観応元年(滅後69年 大石寺5世日行)

 

3月中旬   三位日順は「摧邪立正抄」を著す。

 

◆日蓮を「上行菩薩の後身、応化」と

末法万年の時には・本化上行を召して本門の秘要を嘱し・仏付違はず経説に符合す、日蓮聖人出現して結要付嘱を弘通す、宣示の相貌即ち是れ上行菩薩の後身なり (富要 2-41 )

 

夫れ日蓮聖人は忝くも上行菩薩の応化・末法流布の導師なり、未了者の為めに事を以て理を顕はすの昔は虚空会に出現して以要言の付嘱を受け、後五百歳必応流伝の今は扶桑国に降臨して広宣流布の実語を表す (同―46)

 

次に富士の義に云はく・日蓮聖人は上行菩薩にて御座す (同―47)

 

今日蓮聖人は妙法の五字を一切の順逆に授け玉へり・豈に上行に非ずや、故に金吾抄に云はく・而るに予地涌の一分に非ざるも兼ねて此の事を知り地涌の大士に先つて粗ぼ五字を示す云云、或る抄に云はく日蓮は其の人には候はねどもと侍る・是れ等こそ証拠にて候へ。(同―47)

 

 

日蓮は広畧を捨てて肝要を好む・所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字是れなり云云、経釈の説相・御抄の自証・聖人は寧ろ上行に非ずや (同―49)

 

◆本門の大漫茶羅

日蓮聖人は柳営を遠離して身延に処在し玉ふ、加之・上代の大人は皆深洞に坐し倭漢の明匠は多く山林に籠る、是等をば勅勘を怖れ辺域に候すと云ふべきや、何に況んや中古の唐僧は閻浮無双の富士山・言ふ莫れ扶桑第一峯と称美讃歎す云云、法華は諸経中の第一・富士は諸山中の第一なり、故に日興上人独り彼の山をトして居し、爾前迹門の謗法を対治して法華本門の戒壇を建てんと欲し、本門の大漫茶羅を安置し奉つて当に南無妙法蓮華経と唱ふべしと、公家武家に奏聞を捧げて道俗男女に教訓せしむ、是れ即ち大聖の本懐御抄に分明なり (同―43)

 

◆日興上人に授くる遺札には白蓮阿闍梨と云云

第八に挙ぐる所の日蔵書筆の本尊・題目の下の判形等の事・是非の問答又枝葉たり、其の故は先づ書する所の本尊・率都婆を見聞するに敢て聖人御筆の漫荼羅に似ず、其の体異類にして物狂逆態なり、何ぞ大都の違背を閣いて徒に愚判の所在を論ぜんや、抑も大聖忝くも真筆に載する本尊・日興上人に授くる遺札には白蓮阿闍梨と云云、而るに或は白蓮御房と書き・或は白癩病を感得す云云、尾籠の至り悪口の科直ちに口を割き舌を抜くも猶ほ足らずと謂ふべし、中ん就く彼等の祖師日朗上人は富山に帰伏して両度下向す  (同ー50)

 

⇒「日興上人に授くる遺札には白蓮阿闍梨と云云」を二箇相承書と解釈する向きもあります。

 

 

◆参考 1300(鎌倉末期)から1350(南北朝期)にかけての中古天台恵心流の文書。

 

1329年・元徳元年(滅後48年・日興入滅4年前) 比叡山の俊範から静明・心賀を経て心聡によって記述され、花園天皇に提出した「一帖抄」。

 

尊海(12531332)が心賀から相伝を受け、同学の一海が筆録した「二帖抄(相伝法門見聞)」。

 

 

1351年・正平6年・観応2年 (滅後70年 大石寺5世日行)

 

同年 中山門流の3代・日祐はその著「一期所修善根記録」中で、この年に身延山久遠寺・塔頭(※)の板本尊を拝したことを記しています。

「一、観応二年~身延山久遠寺同御影堂、大聖人御塔頭、塔頭板本尊  金箔 造営修造結縁」

(日蓮宗宗学全書1-446)

 

※塔頭(たっちゅう)・・・「日本大百科全書」より

 

本寺の境内にある末寺院。塔中とも書く。塔は墓の意で、もとは高僧が寂すると、弟子がその塔の頭(ほとり)に小庵(しょうあん)を建て、墓を守ったことに始まる。のちには、大寺院の高僧が隠退したときなどに、寺の近くや境内に小院を建てて住し、没後も門下の人々が、この小院に住して墓塔を守り、祖師が生けるがごとく奉仕するに至り、それらをも塔頭と称する。次々と小院が建てられたために、しだいにその数も増え、たとえば鎌倉の円覚寺(えんがくじ)は一時、32庵二院を数え、いまでも12庵一院を擁している。元来、塔頭は大寺院に従属したが、明治以後では独立した寺院として扱われることが多い。

  

1352年・正平7年・文和元年(滅後71年 大石寺5世日行)

 

31日 妙源長子・石川実忠卒(重須過去帳)

 

同年 讃岐の日仙は大弐阿闍梨日壽に「本尊聖教等」を附属。(富要 8-128 )

 

 

1353年・正平8年・分和2年(滅後72年 大石寺5世日行)

 

48日 日郷は本尊聖教類を吉浜宝蔵に安置して衆徒を戒めます。(富要 8-72 )

 

48日 日郷は吉浜法華堂(妙本寺)を南条時綱の子牛王丸(日伝)に附属。(富要 8-72 )

 

48日 日郷は牛王丸出家まで吉浜法華堂を山城房日明に附属。(富要 8-73 )

 

425日 宰相阿闍梨日郷寂 61

 

 

1354年・正平9年・文和3年(滅後73年 大石寺5世日行)

 

118日 保田妙本寺の河崎大輔阿闍梨日賢により板本尊が造立されます。

 

板本尊~「願主 藤原国安(日賢の俗名) 僧日賢」

元の本尊は、1344年・康永381日付け、日郷が書写して龍王丸に授与した紙本曼荼羅本尊で、それを日賢が模刻しました。

 

この日賢とは、宰相阿闍梨日郷の「十二人大衆」と呼ばれた弟子集団の中でも中核であった日明、日賢、日忍、日円、日叡の日賢で、後に保田妙本寺貫主となった「南条牛王丸=中納言律師(阿闍梨)日賢=中納言阿闍梨日伝」とは別の人物です。板本尊を造立した日賢は保田妙本寺の開基檀那である佐々宇左衛門尉の弟で、日郷、牛王丸を支えた有力な弟子でした。

龍王丸については「日賢の有縁者・佐々宇左衛門尉の子か孫ではなかろうか」(中世東国日蓮宗寺院の研究P446)とされています。

 

板本尊は保田妙本寺に蔵されています。

「この大部なⅠ(日賢板本尊)は、御影像の裏に立て掛けられていたという」(同・研究P446)とされていますが、この文中の記述はおそらく現保田妙本寺関係者より聞いたものと思われますが、その発言内容を裏付ける直接的な証拠は不明です。ただ、板本尊ですから、貫主の居室にしまっておくということはないでしょう。当然、本堂や御影堂など、寺院の中心となる所に安置されたことと推察します。

 

日郷一門が房総一体で布教展開をするに当たり、接する機会の多かったのが「中山門流」であり、その「本妙寺における板本尊」を伝聞したことも、保田妙本寺における板本尊造立の動機の一つとしてあるのではないかと考えます。

 

「中世東国日蓮宗寺院の研究」P20より

もちろん、そうした日郷の弘通活動が順風満帆に展開したわけではなかった。その佐々宇氏(保田妙本寺開基檀那・佐々宇左衛門尉のこと)さえ、元は「摩々門徒」(真間門徒=弘法寺〔市川氏真間〕門徒)であったという(「申状見聞」)

年代はやや下るが、応永24(1417)8月付日英譲状(「法泉院文書」)に「房州下佐久間法花堂等」の存在が確認される。下佐久間(鋸南町下佐久間)という吉浜周辺にも、法宣院(市川市中山)の教線が14世紀初頭には伸張していたのであった。様々な門流がそれこそ法華再建の使命を担って弘通活動を行なっていた証拠である。佐々宇氏は、おそらく様々な門流の標的であったに違いない。それが富士門流に宗旨替えされたのである。その転変に宗門・門流間の激しい対立と緊張が集約されていたのであった。

以上、引用。

 

そして、日郷一門と競うように布教展開したであろう中山門流には、既に板本尊が存在しています。

 

同書P448

中山門流寺院では、康永3(1344)28日付日祐「本尊聖教録」には、「本妙寺」分のなかに「板本尊 一体」と「形木本尊 二鋪 三枚」が記載されている。

 

日郷一門は保田妙本寺を中心に房総、関東、日向より九州一円と教線の拡大が進みましたが、大石寺の東坊地については、南条家の上野郷退出と共に、支援檀越が弱まっていきました。

その後、大石寺5世日行は東坊地の占領に乗り出して、保田・日賢(=日伝)と日行の間で坊地争いが本格化していきます。権門をはさんで双方、激しい訴訟、文書のやり取りを行なった後、1405年・応永十二年413日に、沙弥法陽(興津美作入道)により、日時への去り状(安堵状)が出され、これ以後関連の文書が無いことから、東坊地・蓮蔵坊関係の係争は収束したとされています。

 

 

1355年・正平10年・文和4年(滅後74年 大石寺5世日行)

 

13日 三位日順は重須談所にて「開目抄」の講義を始めます。(富要 2-86 )

 

同年 三位日順は「開目抄上私見聞」を著す。(富要 2-86 )

 

 

1356年・正平11年・延文元年(滅後75年 大石寺5世日行)

 

35日 三位日順は重須談所にて「観心本尊抄」の講義を始めます。(富要 2-92 )

 

815日 三位日順は「念真摧破抄」を著す。(富要 2-67 )

 

 

1357年・正平12年・延文2年(滅後76年 大石寺5世日行)

 

17日 大石寺塔中上蓮坊(百貫坊)開基・讃岐大坊開基、上蓮房日仙寂 96

 

413日 日興より「北国の大導師」とされた阿仏日満が日蓮御影を造立。

 

◆台座裏に「造立し奉る施主啓白、真浄坊日満在り判、時に延文二太歳丁酉卯月十三日之を成就し畢ぬ」 佐渡妙満寺蔵  (富要 8-226 )

 

 

1358年・正平13年・延文3年(滅後77年 大石寺5世日行)

 

118日  日朗一門の日像伝大覚記「当宗相伝大曼荼羅事」。

 

 

1360年・正平15年・延文5年(滅後79年 大石寺5世日行)

 

321日 佐渡阿仏坊(妙宣寺)2代如寂房日満寂 53

 

630日 西山本門寺・日代は「法華宗要集」(法華本門宗要抄)を偽書と断じます。(富要8 -167 )

 

1213日 西山本門寺・日代は日蓮の本尊を由比阿闍梨日任に相伝。(富要 8-166 )

 

 

1362年・正平17年・貞治元年(滅後81年 大石寺5世日行)

 

この年、本覚法印日大は京都冷泉西洞院に法華堂を開創、後の住本寺となります。

日大は「一尊四士」を造立しました。(日蓮宗宗学全書2-431)

 

 

1363年・正平18年・貞治2年(滅後81年 大石寺5世日行)

 

1223日 本覚法印日大は天台宗円実坊直兼と台当の義を論じ合い、翌年、再度法談します。

(日蓮宗宗学全書2-422)

 

 

1365 年・正平20年・貞治4年(滅後84年 大石寺5世日行⇒6世日時)

 

215日 日時が大石寺6代目になりました。

 

315日 保田・日伝(日賢)は成音より京都鳥辺野の地を求めます。(日目墓地第4次買得)

(富要 8-71 )

 

81日 重須2代式部阿闍梨日妙寂 80

 

 

1367年・正平22年(滅後86年 大石寺6世日時)

 

同年  直海は「八帖抄見聞」を著す。
◆相承ノ口傳ト者ハ。今師金口ノ相承也。金口ノ相承ハ。佛ヨリ大迦葉乃至我等マデモ相傳ス。是レ教學ノ血脈也。次ニ今師ノ相承ト者ハ。天台ノ開悟ノ御内證ヲ爲ソレ本ト見レバ。南岳ノ内證ニモ不レ違ハ。南岳ノ内證ハ惠文ト同シ。乃至佛ノ内證マデモ不ルヲレ背カ今師ノ相承ト習フ也。此天台ノ内證ヲ爲ソレ本ト。直授ノ相承有リレ之。是ハ観學ノ血脈ノ次第也。

⇒ 金口・今師の二つの相承を立て、金口相承は釈迦佛より大迦葉等々を経て天台の末師に至るまでの教学の血脈とし、今師相承は天台の開悟の内証としての観学の血脈であるとしています。

 

◆同書

相承ト云フモ。一心所具ノ妙法カ修徳顯現ノ佛ト示ソ相承トスル也。此事ハ當流ノ嫡流カ白紙しらかみノ口決ト云事ヲ相傳スル時顯ル、事也云~當流ニハ第一ハ迹門。第九ハ本門ト云フ義勢如シレ上ノ。付シテレ之ヲ嫡流ノ相承ニ。第一第九ヲ書キ給ヘル一紙ノ脈符有レ之。深秘ノ口傳也

⇒中古天台の切紙相承です。

 

 

1369年・正平24年・応安2年(滅後88年 大石寺6世日時)

 

212日 住本寺開基・本覚法印日大、京都西洞院法華堂にて寂  61

 

85日 日向定善寺開基・薩摩阿闍梨日叡寂 61

 

813日 大石寺5世日行寂

 

 

1370年・建徳元年・応安3年(滅後89年 大石寺6世日時)

 

2月  千葉県市川市の中山にある、本妙寺と法花経寺の両方の住持を兼ねていた3代・日祐は、「応安32月日付」の板本尊を造立しました。現在では、神奈川上行寺蔵とされています。

 

この中山門流の板本尊についても「本門戒壇の大御本尊⇒民部阿闍梨日向の板本尊⇒中山門流の板本尊」であり、「本門戒壇の大御本尊が影響したものであり、大御本尊の上代存在の一つの証」とする向きもあります。

しかし、「富士一跡門徒存知の事」にあるように、中山門流の祖・富木常忍=日常の子・日頂が「御筆の本尊を形木に刻んでいる」のですから、板本尊造立への源は、手本は、既に「日頂の下総真間弘法寺時代」にあるといえるでしょう。

ちなみに1302年・乾元元年38日、日頂は弘法寺を日揚に付して重須の日興上人のもとへ向かいますので、日頂が御筆の本尊を形木に刻んだのは1301年までのことになります。

そして、中山3代・日祐は1351年・正平6年・観応2(滅後70年・大石寺5世日行)の段階で、身延山久遠寺に安置されている民部日向の板本尊を拝しているのですから、それを模倣して板本尊を造立したとも推考されます。

 

 

1371年・建徳2年・応安4年(滅後90年 大石寺6世日時)

 

中山日祐は若宮法花寺、中山本妙寺、諸末寺を日尊に譲ります。(日蓮宗宗学全書1-440)

 

 

1374年・文中3年・応安7年(滅後93年 大石寺6世日時)

 

5月 中山日祐は、「一期所修善根記録」を著します。

 

◆中山門流の本尊相伝

・題目点画相伝  高祖伝日常記

・御本尊授与書証文相伝  日常直授

・曼荼羅正相伝  日祐記

・本尊相承之事  日親記

・本尊相承抄   日親記

・本尊相伝十五通  日源伝日実記

 

519日 中山3代浄行院日祐寂  77

 

 

1379年・天授5年・康暦元年(滅後98年 大石寺6世日時)

 

この年、天台宗の玄妙は改心して富士門流に帰伏、日什と改名します。

 

同年  熱原法難から100年。

 

 

1380年・天授6年・康暦2年(滅後99年 大石寺6世日時)

 

323日 日什は富士門流を出て下総真間弘法寺に帰伏。(日蓮宗宗学全書5-3)

 

64日  この日付で妙蓮寺の日眼が「五人所破抄見聞」を著したと一部では解説。

◆「日蓮聖人之御附属弘安五年九月十二日、同十月十三日の御入滅の時の御判形分明也」

(富要4-8)

⇒この箇所を以て「二箇相承書実在の文証」とする向きがありますが、「五人所破抄見聞」は、実際は西山8代の日眼(1486年・文明1848日寂)の記述ではないかとも推測され、日眼違いということではないでしょうか。

 

 

1381年・弘和元年・永徳元年 (滅後100年 大石寺6世日時)

 

日蓮100遠忌

 

 

1382年・弘和2年・永徳2年(滅後101年 大石寺6世日時)

 

日興、日目50遠忌。

 

 

1388年・元中5年・嘉慶2年(滅後107年 大石寺6世日時)

 

1013日 大石寺御影堂の御影像が造立されます。

 

5世日行、後を継いだ6世日時対保田・日賢との間の、東坊地の係争はあったものの、寺院経営の事始めの時期となる大石寺の、堂宇の建立整備が始まります。

御影像の裏書から、奥州法華衆ら有力檀越による本格的な財政支援が始まっていたことがうかがわれます。

 

 

桧彫刻大聖人 等身御影裏書

敬白大施主 奥州法華宗等僧俗男女

      野州法華宗等僧俗男女

      武州法華宗等僧俗男女

      駿州法華宗等

願主卿阿闍梨日時(花押)

嘉慶二年 太才戌辰 十月十三日

      仏師 越前法橋快恵(花押)   (富要8 –190 )

 

 

◆この時に大石寺は御影堂も建立しました。

 

「門徒古事」 (日蓮宗宗学全書5-44

然りと雖も或いは御影堂造立し候間、隙無しと云々。使者の云く、御影堂をうられ()候ても先ず奏聞を本とさるる可し云々。主人の云く、さにては候えどもと計り云々。さてはめづらしき沙汰なれ、是富士大石寺云々。

1387年・嘉慶元年、山門宗徒による京都妙顕寺破却を受け、玄妙日什が各日蓮門下へ使者を派遣し天奏を促した時の模様を日什の弟子・日運が記述したもの。大石寺の主人=日時は「御影堂を造立しているので余力がない」としています。

 

 

1389年・元中6年・康応元年(滅後108年 大石寺6世日時)

 

日什は京都に妙満寺を建立する。

日什は1392年に寂 79

 

 

1391年・元中8年・明徳2年(滅後110年 大石寺6世日時)

 

この年、保田系の中納言阿闍梨日伝は東坊地に御影堂を建立しました。

 

 

1394年・応永元年(滅後113年 大石寺6世日時)

 

418日 西山本門寺開基・伊予阿闍梨日代寂 98

 

 

1402年・応永9年(滅後121年 大石寺6世日時)

 

828日 中山門流の妙福寺(成田市)板本尊を造立。

 

同年  貞舜は「七帖見聞(天台名目類聚抄)」を著す。

 

 

1404年・応永11年(滅後123年 大石寺6世日時)

 

315日 日時は「大石記」にて「日代譲り状」を引き合いに出し、西山への対抗心を示します。

 

◆「大石記」

助に對して御物語に云く

應永十一(1404)、三月十五日早旦に於イて。
仰セに云く日興上人の常の御利口に仰セられけりとなん、予が老耄して念佛など申さば相構エて諫むべきなり、其レも叶はずんば捨つべきなり、而るに日代は数通の御譲リ状を持チたりと云へども・既に迹門得道の上は争テか言ふに足るべけんや、其ノ上付法の旨は其ノ證拠をば上々の御事なり・此ノ上付の旨は其ノ證拠をば上々の御事なり、此ノ方にも上の御筆を載せたるなり・其ノ支證は上々の御事なり、先ず迹門得道と云ひ多クの謗法之レ有ル上は沙汰の限リに非ず。

 

同年 日時は書写本尊に「法華講衆」と「現当二世」を同時に書きます。同時に書かれたのは初見でしょうか。

 

◆応永十一年甲申六月日 奥州柳目法華講衆達現当二世の為なり  陸前妙教寺蔵

「御本尊集・奉蔵於奥法寶」53   (富要 8-193 )

 

通称・本門戒壇の大御本尊の端書

「右為現當二世 造立 如件 本門戒旦之 願主 弥四郎国重 法華講衆等 敬白 弘安二年十月十二日」

 

◆戒壇板本尊端書の「現当二世」と「法華講衆」が、大石寺歴代の書写本尊の授与書に使われたのは、確認できる範囲では、日時書写の上記の「応永十一年甲申六月日」の御本尊が初めてでしょうか。

これ以前の本尊では「文和二(1353)年三月十二日 奥州一迫柳目法華()衆武庫掃部」(柳目妙教寺蔵「御本尊集・奉蔵於奥法寶」38)との日行書写の本尊があります。「現当二世」はありません。また、日行の本尊について、「御本尊集・奉蔵於奥法寶」では「法華講衆」と記していますが、一部からは「講は無いのでは?法華衆ではないか」との指摘もあります。

確実に「法華講衆」とあるのは日時の本尊以降ではないかと考えます。

 

 

1405年・応永12年(滅後124年 大石寺6世日時)

 

 513日 日時は小泉久遠寺・日周に対し、通称「大石寺御影」の返還を求めます。(富要 9- 49)

 

 

1408年・応永15年(滅後127年 大石寺8世日影)

 

64日 奥州題目板碑

當知是妙法 相當日時上人第三年忌

南無妙法蓮華経 應永十五年六月四日 日勢 敬白

諸仏之秘要 謹以奉造立処塔婆也

 

 

1412年・応永19年(滅後131年 大石寺8世日影)

 

1013日 栃木・平井の信行寺に通称・紫宸殿御本尊を模刻した板本尊が造立されました。

 

栃木平井・信行寺蔵 板本尊 

右下・右願主薗部 日重弟子小輔 阿闍梨日経造立

左下・遺弟日影代 応永十九年太才壬辰 十月十三日

 

造立時期が特定できるものとしては、大石寺門流内では最古の板本尊でしょうか。本門戒壇の大御本尊と同じく楠木板で、腰書きが下部余白に記されています。

大石寺蔵の「紫宸殿御本尊」と首題・名判・四大天王・不動・愛染等の太字部分は一致しており、籠抜きで写し取られたものか。列衆等の小文字はかなりのズレが見られ、臨模されたものと推定されます。彫刻は薬研彫り、板裏は一面布張りをした上に、漆で固めてあり、裏書きの存否、チョウナ削りか否か等は確認できません。

 

 

1413年・応永20年(滅後132年 大石寺8世日影)

 

420日 奥州題目板碑

乗此寶乗 迎過去妙点聖霊三年

南無妙法蓮華経 応永廿年四月廿日 敬白

直至道場 為成仏得道造立如件

 

75日 奥州題目板碑

為過去□行生□一周忌

若有聞法者 七月

南無妙法蓮華経 応永廿年 敬白

無一不成仏 五日

成仏得道謹造立如件

 

 

1419年・応永26年(滅後138年 大石寺8世日影)

 

2月 中山門流の円静寺(八日市場)、板本尊を造立。

 

 

1419年・応永26年(滅後138年 大石寺9世日有)

 

88日  保田妙本寺では日蓮真筆本尊を模刻し板本尊を造立しました。

「願主某が弘安3年卯月日付日蓮曼荼羅本尊を模刻したもの。~この小振りなⅡ(同板本尊)は、本尊堂に安置されてきたという」(中世東国日蓮宗寺院の研究P446)

 

 

1420年・応永27年(滅後139年 大石寺9世日有)

 

415日 福島県いわき黒須野・妙法寺(日時創建)、板本尊(同じく紫宸殿御本尊の模刻)を造立。

腰書き・・・大檀那大伴氏浄蓮  干時應永廿七年卯月十五日

 

・チョウナ削りであることを確認、諸記録「旧寺院板御本尊」の部。

・堀ノート「当寺ニテハ戒旦御本尊ト云ヒケルトノコト 裏書不明」

 

 

「家中抄」日影伝

釈の日影、俗姓は南条なり、日時に随順して法華を習修し又御書を聴聞す故に当家に於いて精きなり、殊に道心益深くして昼夜誦経、四威儀に題目を唱ふ、又門弟子供養作善をなす時は本尊を書写して弔ひたまふ、其の端書に云く「右妙経抄一卅三年菩薩の為に之を書写す、施主薗部阿闍利日経応永廿(癸巳)年三月十五日大石寺遺弟日影(在判)」(已上)。

又平井に於て弘通あり。

影公大衆に語つて云く血脈を伝ふべき機なり是我か悲嘆なり、終に応永廿六年己亥病気の時油野浄蓮に血脈を授けて云く、下山三位阿闍利日順は血脈を大抄に云ふ其の例なきに非す、公白衣たりと・も信心甚た深き故に之れを授く伝燈を絶えざらしめよと教示して、八月四日没したまふ。

 

 

 

◆日有以前の板本尊が末寺に現存し、日有自身が造立に関与したと考えられる板本尊は、現在では二体が確認できるでしょうか。

 

1445年・文安2116日 根方本広寺の前進とされる須津野鳥窪の住持日伝に授与された「紫宸殿御本尊」の模刻で、現在は大石寺宝蔵に安置されているもの。諸記録1-65

 

②栃木県小金井蓮行寺に所蔵する紫宸殿御本尊の模刻、時の住持・三河阿闍梨日満(蓮行寺8)が願主となって造立した板本尊。

表面右下に「日有(在判)

裏面「三位日恵奉彫刻之」とあり、日有が用意した紫宸殿御本尊の模写を以て末寺に彫刻造立したものでしょうか。①も同じか。

 

10世日鎮以降は、江戸期まで大石寺本末の板本尊造立は見られないようです。

 

1422年・応永29年(滅後141年 大石寺9世日有)

 

1227日、重須談所・日算は「富士一跡門徒存知事」を書写(富要 1-59 )

 

御本応永廿九(1422)年極月廿七日に書写せしめ畢ぬ 筆者・日算六十八歳

永正十八(1521)年六月四日に之を書き畢ぬ、此の抄は九州日向の国日知屋の定善寺より相伝す、同じく細島妙谷寺に堪忍の境節、北向の御堂の部屋にて之を書写し畢ぬ。駿河国重須本門寺衆大夫公日誉在判 

編者曰く 大石寺蔵日誉写本に依つて之を写し他の数本を以て校訂を加ふ。

 

 

1455年・康正元年(滅後174年)頃から1459年・長禄3年(滅後178年)頃

 

大石寺にて、阿闍梨号を冠する高僧による悪行。

具体的な行いは不明か。

結果、追放されたようです。

 

 

1457年・康正3年(滅後176年 大石寺9世日有)

 

夏頃  身延・日朝談日仁記「御本尊相伝事」。

 

813日  日昭系・玉沢日伝は「御本尊相伝抄」を著す。

「右此法門当流代々口伝也、於日伝代初載紙面也。~起請文如常其後可為唯授一人也」

 

96日  比企系日東は「御本尊相伝抄」を著す。

「本迹日昭本尊日朗殊更此門流渡本尊相伝也」

 

 

1468年・応仁2年(滅後187年 大石寺10世日乗)

 

1013日 重須にて京都・住本寺の日広が二箇相承の全文を書写。(とされています)

 

其の奥書には「日広云、於富士重須本門寺以御正筆奉書畢、応仁弐年十月十三日」

要山十八代日在云、先師日広上人詣富士之時如之直拝書之給也云々

(雪文三十大遠日是転写本。夏期講習録2-8富谷日震)

 

 

1469年・文明元年(滅後188年 大石寺10世日乗)

 

同年  日叶(左京日教)は日廣の名代として、室町幕府に諌状を提出しています。

 

富士年表

本是院日叶・出雲日輝等、京住本寺日広の代官として幕府へ諌状を呈す(8381・宗年)

 

 

1476年・文明8年(滅後195年 大石寺9世日有)

 

523日 「日興跡条々事」の原形らしきものが登場。

日有が語った内容を、四国土佐の連陽房が聞書した後、弟子の大円日顕に伝えた文書です。

 

「日興上人大石寺の御置文」 連陽房聞書 

一、日蓮聖人も武家に奏したまふ日興も只武家に訟へたまふ、爰に日目上人元めて国王に奏したまふ、去る間だ『日興上人大石寺の御置文に云く  天下崇敬の時は日目を座主として日本乃至一閻浮提の山寺半分は日目之を配領すべし、其の余分自余の大衆是れを配領すべし

と云へり、日興の遺跡は新田の宮内卿阿闍梨日目最前上奏の人たれば大石寺の別当と定む

異本に云く 寺と云ひ御本尊と云ひ墓所と云ひ(富要2-145                           

 

 

 

1477年・文明9(滅後196年・大石寺9世日有)頃から1519年・永正16(滅後238年・大石寺12世日鎮)の間に、「釈子日目授与本尊」が桑名の身延末・寿量寺に伝来。

 

1478年・文明10年 (滅後197年 大石寺9世日有)

 

1013日 身延山の行学院日朝は「元祖化導記」を著しました。

以下は文中の、日蓮身延下山時の一節です。

 

二十五、武州池上のこと
 或る記に云く、弘安五年壬午九月八日午の刻身延の沢を出御有って、其の日は下山兵庫四郎の所に一宿、九日大井庄司入道、十日曾祢の次郎、十一日黒駒、十二日河口、十三日くれじ、十四日竹下、十五日関下、十六日平塚、十七日瀬野、十八日の午の剋に武蔵の国荏原郡千束郷池上村に着き了んぬ

~御本に云く、文明十年(1478)戊戌十月十三日これを書しおわりぬ。 日朝在判

元祖化導記下巻 寛文六年版

 

 

1480年・文明12年(滅後199年 大石寺9世日有)

 

この年、京都・住本寺の本是院日叶は「百五十ヵ条」を著しました。 

ここで初めて「二箇相承書」の全文が記されます。

 

日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之を付属す本門弘通の大導師為るべきなり、国主此の法を立てられば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ・事の戒法と謂ふは是なり、中ん就く我門弟等此状を守るべきなり。弘安五年壬午九月十三日、血脈の次第・日蓮・日興、甲斐国波木井山中に於て之も写す。

 

 

釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当為るべし、背く在家出家共の輩は非法の衆為るべきなり。

弘安五年壬午十月十三日  日蓮御判。

武州池上

 

御譲与の趣き眼前なり、弘安五年九月十三日の御書には富士山本門寺の戒壇を建立すべし云云、之に依つて富士の郡、重須本門寺御建立、仍末寺西山は日代の寺~

 

1547年・天文十六年に要法寺・日在が日叶著の「富士立義記」を添削して前後を補接し、「百五十箇条」としたもの。

 

◆同書(-245 ) 

 

若末法弘通の志の行者・法華金口の明説に於ての事、金口の明説とは法華なり、金口に付ては台家には金師の祖承・金口の相承とて二筋の法門有ること常の如し、当宗の金師・金口共に伝たるなり、釈迦の金口を動かず塔中にて別付属せし上行菩薩なり、取りも直さず唱るは金口なり、金師は釈迦も三十二相・地涌の菩薩も身・皆金色にて請取玉ふなり金師なり

 

1482年・文明14年(滅後201年 大石寺貫主は9世日有から12世日鎮へ)

 

929日 大石寺9世日有寂 81

 

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