親鸞の聖徳太子信仰について

1 「本願寺聖人伝絵」と「恵信尼消息」

 親鸞(承安3年・1173~弘長2年・1262)の「本願」への回心は、六角堂における救世観音の示現と女犯・愛欲の肯定から始まる、との理解の元になった史料の一つに、親鸞の曾孫である覚如(文永7年・1270~正平6年、観応2年・1351)が書いた「本願寺聖人伝絵」(康永本・東本願寺蔵 ※1)がある。

 

「建仁三年辛酉四月五日夜寅時、上人夢想の告げましましき。彼の記に云く、六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖僧の形を示現して、白衲の袈裟を着服せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信(親鸞)に告命してのたまわく『行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生楽』文。救世菩薩、善信にのたまわく『これはこれ我が誓願なり。善信この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむべし』と云云。その時善信、夢中にありながら御堂の正面にして東方を見れば、峨々たる岳山あり。その高山に数千万億の有情群集せりとみゆ。その時告命の如く、此の文の心を彼の山に集まれる有情に対して、説きかしめ畢(おわる)とおぼえて、夢覚め畢(おわ)りぬ云云。倩(つらつら)、この記録を披(ひらき)てかの夢想を案ずるに、ひとへに真宗繁昌の奇瑞、念仏弘興の表示也。」

 

 ここから「親鸞は女性に対する欲望に思い悩みそれを解決すべく六角堂に参籠した」との認識が一般的になったようだが、武田鏡村氏は「決定版 親鸞」(2011 東洋経済新報社)にて覚如の「本願寺聖人伝絵」は「聖徳太子の示現を無視している」(p.50)と指摘、六角堂参籠は当時、民衆の間に広まっていた聖徳太子信仰が親鸞にも内在していたことによるもの、とされている。

 

 弘長2(1262)1128日、親鸞は90歳で亡くなり、その臨終を看取った末娘の覚信尼(かくしんに、元仁元年・1224~弘安6年・1283)は父の死を書簡で母(親鸞の妻)恵信尼(えしんに、寿永元年・1182~文永5年・1268以降)に知らせている。それに対して恵信尼も返信しているが、冒頭、次のように書いている。

 

恵信尼消息 ※2

「こそ(去年)の十二月一日の御ふみ()、同はつか(二十日)あまりにたし()かにみ()候ぬ。なによりも殿の御わうしやう(往生)、中ゝ(なかなか)はし()めて申(もうす)におよはす(及ばず)候。やま()をいてゝ(出でて)、六かくたう(六角堂)に百日こも()らせ給(たまい)て、こせ(後世)をいの()らせ給けるに、九十五日のあか月、しやうとくたいし(聖徳太子)のもん()をむすひ()て、しけん(示現)にあつ()からせ給て候(そうらい)けれは()、やか()てそのあか月、いてさせ(出でさせ)給て、こせ(後世)のたす()からんす()るえん()にあいまいらせんと、たつ()ねまい()らせて、ほうねん(法然)上人にあいまいらせて、又、六かくたう(六角堂)に百日こも()らせ給て候けるや()うに、又、百か日、ふ()るにもて()るにも、いかなるたい()事にも、まい()りてありしに」

 

同書の裏端書

「このもんそ(文書)、殿ゝ(とのの)ひへ(比叡)のやま()にたうそう(堂僧)つとめておわしましけるか、やま()をいてゝ(出でて)、六かくたう(六角堂)に百日こも()らせ給(たまい)て、こせ(後世)の事いのり申させ給ける九十五日のあか月の、御しけん(御示現)のもん()なり。こらん(御覧)候へとて、か()きしる()してまい()らせ候」

 

 「恵信尼消息」から、以下のことが理解される。

・昨年(弘長2)121日の覚信尼からの手紙は、同月の20日すぎに拝見した。

・殿=親鸞が浄土へ往生したことは確かなことで、改めて申すまでもない。

・比叡山を下りた親鸞は六角堂に参籠して後世を祈っていた。

95日目の明け方に聖徳太子の文を結んで、示現にあずかった。

・示現をさずかった親鸞は六角堂を出て、後世を助ける縁に遇おうと訪ねて、法然に会うことができた。

・以来、六角堂に百日参籠したように、また百か日、雨の日も太陽が照りつける日も、どんな大事なことがあっても、法然のもとへ参じた。

・この文は、殿=親鸞が比叡山で堂僧としてつとめ、山を出て、六角堂に百日籠って後世のことを祈り申し、95日目の明け方に聖徳太子の御示現にさずかった時に得た「御示現の文」です。(娘・覚信尼が)ご覧になるように書き記して送ります。

 

 この文を紹介した武田氏は、恵信尼には、夫「親鸞の回心は最初には聖徳太子がおり、それに導かれるように法然のもとにいたったという認識があった。」(決定版 親鸞p.50)とし、「聖徳太子への信仰を踏まえた上で、法然門への参入があったと考えることができる。」()「これまで法然門の参入による『本願』への回心だけが取り上げられてきた感があるが、その間には聖徳太子への信仰があり、それが終生変わることがなかった親鸞の信仰基盤になっていた」()と指摘、著作の中で詳細に解明されている。

 

1 「本願寺聖人伝絵」

 親鸞の生涯を13段の絵巻物としたもので、詞を親鸞の曾孫で本願寺3世の覚如が撰述、絵を浄賀法眼が描いて永仁3(1295)に完成し、初稿本は本願寺に所蔵された。しかし建武3(1336)、南北朝の動乱により本願寺が焼失した時に共に燃えてしまい、康永2(1343)に次版本が描かれ、詞が「御伝鈔」、絵を「御絵伝」の別仕立てとされた。次版本も詞「御伝鈔」は覚如が書き、絵「御絵伝」は円寂と宗舜の二人で描き、真宗大谷派本山・東本願寺に所蔵されている。

 

国会図書館近代デジタルライブラリー「浄土真宗聖典・本願寺聖人親鸞伝絵(1912 東京・博文館)

 

2 「恵信尼消息」

 大正10(1921)、浄土真宗本願寺派本山・西本願寺の宝物庫において、本願寺派の僧侶・真宗史の学者である鷲尾教導氏が調査中に発見した書状10通が恵信尼のものとされ、鷲尾氏は大正12(1923)に「恵信尼文書の研究」を著し史料を公にした。恵信尼が居住地の越後から京都の末娘の覚信尼に送った8通は弘長3(1263)から文永5(1268)年の6年間にわたるもので、他は譲り状2通と「大無量寿経」の音読仮名書きがある。

 

2 「上宮太子御記」の太子廟窟偈

 他には、正嘉元年(1257)511付で親鸞が「上宮太子御記」(聖徳太子の伝記)の書写を終える際、巻末に「太子廟窟偈」(1)を書き入れたことも、彼の生涯に亘る聖徳太子信仰を示すものとされている。

 同書の奥書き部に「正嘉元歳丁已五月十一日書写之 愚禿親鸞 八十五歳  以彼真筆草本 弘安六年季八月三日 釈寂忍 二十五歳  徳治第二暦孟冬六日天、於造岡道場、拝見此書、於和田宿坊書写之了 釈覚如」とあるように、「上宮太子御記」を親鸞が書写したそのもの=自筆本は存在せず、親鸞が亡くなってから45年後の徳治2(1307)、曾孫の覚如が三河(2)の造岡道場で「上宮太子御記」を見て、和田の宿坊で書き写した書写本が西本願寺に伝来している。

 「上宮太子御記」(3)の親鸞書写本があったのか=本当に親鸞が書いたのか?ということについては、「親鸞以降に本願寺教団が形成されるにつれて、覚如もそうであるが親鸞が聖徳太子信仰を持っていたということを何故か、切り捨てようとする思惑があった」(決定版 親鸞p.60)「聖徳太子信仰は、親鸞の浄土真宗の教義にとっては、夾雑的な信仰とみなされたのであろう」()と指摘される覚如が敢えて親鸞の太子信仰を認識させるような文書を創作する必要はなく、親鸞が「上宮太子御記」を書写し、それを寂忍、次いで覚如が書き写したものとみてよいのではないかと思う。

 

 

1 「太子廟窟偈」

平安時代中期の天喜2(1054)、河内国磯長の聖徳太子廟付近からメノウ石が出土し、そこに「太子御記文」が彫られていた。続けて太子廟に刻まれていた「太子廟窟偈」も発見したとされる。「太子御記文」には「吾入滅以後及于四百参拾餘歳此記文出現哉」とあって、聖徳太子の予言通りに死後430年目に発見されて太子信仰が盛んとなったが、実際には、これらは聖徳太子に仮託して作成されたもの、と推定されている。

 

「大慈大悲本誓願 愍念衆生如一子

是故方便従西方 誕生片州興正法

我身救世観世音 定慧契女大勢至

生育我身大悲母 西方教主弥陀尊

真如真実本一体 一体現三同一身

片域化縁亦巳盡 還帰西方我浄土

為度末世諸有情 父母所生血肉身

遺留勝地此廟窟 三骨一廟三尊位

過去七仏法輪處 大乗相応功徳地

一度参詣離悪趣 決定往生極楽界

印度号勝鬘夫人 晨旦称恵思禅師」

 

 磯長の聖徳太子廟(叡福寺北古墳・磯長陵、大阪府南河内郡太子町)は太子と妃、太子の生母を祀っている「三骨一廟」で、「太子廟窟偈」は聖徳太子を救世観音菩薩とし、妃の膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)は勢至菩薩、生母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は阿弥陀如来としている。

 

 

2 三河

「上宮太子御記の研究」p.4(橋川正氏著 1921 京都・丁子屋書店)による。

国会図書館近代デジタルライブラリー「上宮太子御記の研究

 

 

3 「上宮太子御記」

 橋川正氏は「上宮太子御記の研究」にて、「三宝絵詞(さんぽうえことば)」の聖徳太子伝と「上宮太子御記」を対比しながら両書が酷似していることを指摘されている。親鸞が「三宝絵詞」の聖徳太子伝を書き出して「上宮太子御記」としたものか、それとも親鸞以前に成立していたものを書写したのか?現段階では「上宮太子御記」の撰者は不明、ということになるだろうか。

 

 

 「三宝絵詞(さんぽうえことば)

63代・冷泉(れいぜい)天皇(天暦4年・950~寛弘8年・1011)の第2皇女・尊子内親王(そんしないしんのう 康保3年・966~永観3年・985)が天元5(982)4月、髪を切り入道。10代中頃の内親王のために、源為憲(みなもとのためのり・詩や文章に優れた平安時代中期の学者 ?~寛弘8年・1011)が撰して永観2(984)11月に成立した仏教説話集。上中下の三巻からなり、聖徳太子以下18人の伝記が中巻に記されている。

 

3 「皇太子聖徳奉讃」「大日本国粟散王聖徳太子奉賛」

 親鸞が建長7(1255)11月晦日(83)に書いたとされる「皇太子聖徳奉讃」は、断簡が京都府・龍谷大学等に蔵され、親鸞より先に没した弟子の真仏(承元3年・1209~正嘉2年・1258)の写本も三重県・専修寺に伝来するのだが、遠藤美保子氏は論考「親鸞本人に聖徳太子信仰はあったか」(日本宗教文化史研究 第122号p.38~ 200811月 日本宗教文化史学会 岩田書院)にて、「皇太子聖徳奉讃」は「四天王寺御手印縁起」(寛弘4[1007]に発見されたと伝える)をもとに作成されたこと、文中の漢文の誤読が親鸞の漢文力からは考えにくいこと等、詳細に検討した後、親鸞真作は疑問であるとされている。

 

 同じく親鸞による聖徳太子奉賛の文として広く知られる、正嘉元年(1257)220(85)の「大日本国粟散王聖徳太子奉賛」は室町時代の古写本が愛知県岡崎市の満性寺に伝来するが、遠藤氏は「三宝絵をまるきりなぞるような内容である」()として文中の「和国の教主」などの用語の不自然さを挙げて親鸞真作ではないことを指摘されている。

 

 このような遠藤美保子氏の論考を踏まえれば、「皇太子聖徳奉讃」「大日本国粟散王聖徳太子奉賛」の二書については、親鸞に聖徳太子信仰のあったことを示す論拠としては二次的な史料になるのではないかと思う。

 

4 「尊号真像銘文」

 親鸞の真蹟である「尊号真像銘文」では、建長7(1255)62日付け(83)の「略本」(福井県福井市大味町 真宗大谷派・法雲寺蔵)には聖徳太子のことは書かれていないが、正嘉2(1258)628日付け(86)の「広本」(三重県津市 真宗高田派本山・専修寺蔵)では、

 

皇太子聖徳の御銘文

御縁起曰 百済国聖明王太子阿佐礼曰 敬礼救世大慈観音菩薩 妙教流通 東方日本国 四十九歳伝燈演説。

新羅国 聖人日羅礼曰 敬礼救世観音大菩薩 伝燈東方粟散王。

中略

また、新羅国より上宮太子をこい慕いまいらせて、日羅と申す聖人来りて、聖徳太子を礼し奉りてもうさく、「敬礼救世観音大菩薩」ともうすは、聖徳太子は救世観音にておわしますと礼しまいらせけり。「伝燈東方」ともうすは、仏法を燈にたとえて、東方ともうすは、この和国に仏教の燈を伝えおわしますと、日羅もうしけり。「粟散王」ともうすは、この国はきわめて小国なりという。粟散というは、粟粒を散らせるが如く小さき国の王と聖徳太子のならせたまいたるともうしけるなり。

 

 等と聖徳太子に関する記述が書き入れられている。

 

5 「建長二年文書・三夢記」

 また、建長2(1250)45(78)、親鸞が末娘の覚信尼に与えたとされる「建長二年文書・三夢記」には建久2(119119)914日夜の聖徳太子より善信=親鸞への夢告、正治2(120028)12月下旬の比叡山無動寺・大乗院での如意輪観音による夢告、建仁元年(1201年・29)45日の六角堂での救世大菩薩の夢告と、親鸞の三つの夢告が記録されている。

 

 だが、「三夢記」については研究者の間で真偽が活発に論じられている書ということもあり、現段階では参考資料にとどめておくべきではないだろうか。ただし「六角堂の夢告」は、前の「恵信尼消息」以外にも親鸞直弟「二十四輩」の第二番である真仏(承元3年・1209~正嘉2年・1258)の「経釈文聞書」と「六角堂夢想偈文」(断簡)にも記されている。

 

※「建長二年文書・三夢記」(三重県津市 真宗高田派本山・専修寺蔵)

 

親鸞夢記云

建久二歳辛亥暮秋仲旬第四日ノ夜、聖徳太子善信ニ告勅メ言ク

我三尊化塵沙界 日域大乗相応地 諦聴諦聴我教令

汝命根応十余歳 命終速入清浄土 善信善信真菩薩

 

正治第二庚申十二月上旬 睿南旡動寺在大乗院、同月下旬終日前夜四更ニ、如意輪観自在大士告命シテ言ク

善哉善哉汝ニヨク願将満足 善哉善哉我カ願亦満足

 

建仁元歳辛酉四月五日ノ夜寅時、六角堂ノ救世大菩薩告命シテ善信ニ言ク

行者宿報ニシテ設ヒ女犯ストモ

我レ成リテ玉女ノ身ト被レン犯セ

一生之間能ク荘厳シテ

臨終ニ引導シテ生セシメム極楽 文

 

干時建長二年庚戌四月五日

愚禿釈親鸞七十八歳

書之

釈覚信尼へ

 

6 親鸞の聖徳太子信仰を示すもの

 以上、諸氏の見解を踏まえながら親鸞の聖徳太子信仰を概観したが、遠藤氏美保子が指摘されるように「太子関連の著作のほとんどは(親鸞)真蹟が伝わらず」(日本宗教文化史研究 第122号p.36)、「真蹟ではない一部著作が太子への言及のほぼ全てである」()、即ち親鸞による「聖徳太子信仰を明確に示す確実な記述」はないのが現状であり、遠藤氏は「親鸞には若いときからの強い太子信仰があったとは言えず、晩年に高田派の太子信仰との接触から聖徳太子への関心を抱いた可能性はあるが、それは親鸞の思想的信仰的な中心からは遠いものであったと結論できる。親鸞に特筆すべきほどの太子信仰はなかったといえる」(同書p.49)と結論されている。

 

 しかしながら、「恵信尼消息」の「九十五日のあか月、しやうとくたいしのもんをむすひて、しけんにあつからせ給て候けれは、やかてそのあか月、いてさせ給て、こせのたすからんするえんにあいまいらせんと、たつねまいらせて、ほうねん上人にあいまいらせて、」によれば、六角堂に参籠して後世を祈っていた親鸞は95日目の明け方に聖徳太子の文を結んで聖徳太子の示現にあずかり、このような後世を助ける縁に遇おうとした末に法然のもとに至ったとしており、ここに彼の回心当初に聖徳太子信仰のあったことが読み取れるのではないだろうか。

 

 また、「このもんそ~九十五日のあか月の、御しけんのもんなり」からは、親鸞は聖徳太子の示現を示した「示現の文」(内容は不明)を書き、それを妻の恵信尼に渡していたこと、恵信尼は「示現の文」を晩年まで大切に保管していたことが窺え、これも親鸞の生涯に亘る聖徳太子信仰を物語る根拠となるのではないかと思う。

 

 写本である「上宮太子御記」(85)と真蹟の「尊号真像銘文・広本」(86)の聖徳太子の記事について、遠藤美保子氏は「親鸞自身の積極的な太子信仰の証として理解せずとも、高田派の太子信仰と太子伝の収集に興味を抱いてのものとしても説明可能である」(日本宗教文化史研究 第122号p.49)とされているが、であれば「上宮太子御記」に聖徳太子を救世観音菩薩、妃を勢至菩薩、生母を阿弥陀如来とする「太子廟窟偈」を書き入れたこと、「尊号真像銘文」を3年後に再び書いた時に「皇太子聖徳の御銘文・以下」を追記したところに、親鸞の晩年における聖徳太子信仰の一端が窺いみえる、との解釈も可となるのではないだろうか。

 

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