「不動・愛染感見記」について

(1)「不動・愛染感見記」

 

 

日蓮は建長6(1254)11日に生身の愛染明王を、続いて月は不明ですが「ある月」の15日より17日に至る間に生身の不動明王を感見(見たものを観察しながらその意味を感動を以て理解するの意か)して、両明王感見を同年の625日に記録。両感見記に、大日如来を祖にした相承の23代目であると、自らを密教の系譜の中に位置付けています。それを記したものが「不動・愛染感見記」です。(P16)

 

 

定=昭和定本日蓮聖人遺文

 

【 愛染明王幅 】

 

31.0×50.0cm

生身愛染明王拝見

正月一日日蝕之時

( 愛染明王図像 真言陀羅尼1 )

自大日如来至日蓮廿三代

嫡々相承

(生身愛染明王拝見

正月一日日蝕之時

大日如来より日蓮にいたる二十三代

嫡々相承)

建長六年六月廿五日

日蓮授新仏

 

 

※1陀羅尼

吽(ウン)悉(シツ)地(チ)弱(ジャク)吽(ウン)鑁(バン)穀(コク)

 

・愛染明王の頭に宝冠、上部に五鈷鉤

・愛染本体は飛天疾走馬上八臂天衣条帛輪光

・顔には三眼

・上左手は握手

・上右手には蓮華

・中左手には弓

・中右手には矢

・中下左手は手綱

・中下右手には剣

・下左手には金剛鈴

・下右手には金剛杵

・胸の飾りは瓔珞、腕釧、足釧

・馬上鈴、神鏡、蓮座日輪宝珠光一、連座月輪宝珠一

・馬の尾に孔雀羽根二枚

 

・三重輪線上に太陽が九つ

・同じく剣が九つ

・愛染明王向背には太陽が七つ

・右上座に太陽が一つ

・右中座に獅子一匹

・左上座に獅子頭部

・左中座に黒い鳥一匹(日の象徴か)

・左中座に宝瓶と鳥の頭部

 

*愛染明王

梵名はラーガ・ラージャであり、愛情、愛着、情欲等を意味する。

 

忿怒身は衆生が本来具有する欲情、愛染をそのまま、金剛薩埵の清浄な愛染三昧を示す化身とするので、煩悩即菩提の理を示している。

 

 

【 不動明王幅 】

 

31.3×50.0cm

生身不動明王拝見

自十五日至十七日

( 不動明王図像 真言陀羅尼2 )

自大日如来至于日蓮廿

三代嫡々相承

(生身不動明王拝見

十五日より十七日にいたる

大日如来より日蓮にいたる

二十三代嫡々相承)

建長六年六月廿五日

日蓮授新仏

 

 

 ※2陀羅尼

南(ナウ)莫(マク)三(サン)満(マン)多(ダ)勃(ボ)陀(ダ)南(ナン)唵(オン)唅(カン)

 

・不動明王本体は立像四臂天衣

・左右第一手は剣索

・右第二手は開手施無畏

・左第二手には蓮華

・怒髪逆立ち

・腕釧、臂釧、足釧

・胸には瓔珞の飾り

 

・一輪に満月の月天

・上座虚空に瑞雲

・左座に笏を持った冠の官吏一人

・横に立木一本(月に生える桂の木)

・下座にうさぎ一匹(月にいる)

 

*不動明王

梵名はアチャラ・ナータであり、五大明王(中心・不動明王、東・降三世明王、南・軍荼利明王、西・大威徳明王、北・金剛夜叉明王[台密では鳥枢沙摩明王])の主尊、大日如来の教令輪身として忿相に変化、難化の衆生の煩悩を摧破するのが本誓願。右手の剣は仏智であり、貪欲、瞋恚、愚痴の三業・三毒を断つ意味がある。

 

 

※不動・愛染感見記の写真は立正安国会「御本尊集」より引用。保田妙本寺蔵

 

尚、「感見記」での愛染明王・不動明王の図像については、日蓮独創ものではなく、密教曼荼羅の図像との関連が指摘されています。

 

梅沢恵氏の論考「日蓮筆『不動愛染感見記』について」(『図録・鎌倉の日蓮聖人』2009年 神奈川県立歴史博物館・日蓮宗神奈川県第二部宗務所)

「さらに近年では、従来本図像については日蓮が感得し創出したものであると考えられてきたが、三室戸寺所蔵摩尼宝珠曼荼羅の画中にほぼ共通した図像が描かれていることが知られ、不動、愛染、如意宝珠を組み合わせた『三尊合行法』という醍醐寺三宝院流を中心に作られた密教儀礼との関連が指摘されている。」(P154)

 

⇒ただし、「三尊合行法」については阿部泰郎氏の論考「文観著作聖教の再発見―三尊合行法のテクスト布置とその位相―」によれば、律と真言を学び醍醐寺座主、天王寺別当、東寺長者を務めた僧・文観(もんかん・弘安元年[1278]~正平12年・延文2[1357])三尊合行法」を小野三宝院流に伝え、その体系的な聖教は延元2年・建武4(1337)から延元4年・暦応2(1339)にかけて成立した(趣意)、と指摘されています。一方では、日蓮晩年以降に成立したもの、との説もあります。故に、この場合、三尊合行法は日蓮青年期以前より成立していた」との確証が必要になると思います。

 

 

【 不動・愛染の両明王を日蓮が感得 】

 

「愛染明王幅」は右に「生身愛染明王拝見 正月一日日蝕之時」とあって左に「建長六年六月廿五日」と年月日を記録しているので、日蓮が愛染明王を感見したのは「建長六年正月一日」ということになるでしょう。

 

「不動明王幅」は右に「生身不動明王拝見 自十五日至十七日」の記載があって左は「建長六年六月廿五日」とあるので、不動明王の感見は「建長六年の『ある月』の十五日から十七日の三日間に亘った」ということになります。

 

鎌倉時代初期の歴史論書「愚管抄」を著し、天台座主を三回(65・69・71代)務めた慈円(1155年~1225年)が口伝したものを、弟子の慈賢が記した「四帖秘決」(「続天台宗全書」収載)という書があります。文中の「日愛染月不動事」には、日輪中に愛染明王がおり、凡夫の肉眼で快晴の日にしばらく日輪を見ていると、その中に愛染明王像が顕現すると説かれています。次に、月が極めて明るい十五夜に凡夫の肉眼で数刻、月輪を臨んでいると、その中に必ず不動明王の形像が現れるとしています。

 

問云。先日所被申和尚御房日月中所在者。真言教心申様在之云々。其趣承之はや

珍作答云。非別事。以凡夫肉眼奉見生身仏也。日愛染。月不動申。日輪中愛染王現御座也。

能日晴閑久見日輪。即日中彼像顕現給云々。

月極明夜。十五日円満無碍なるに。数刻臨天見月輪。其中必不動明王形像現給也。日愛染。

月不動云事大集経見承云々

 

日蓮は17歳の時、清澄寺で「授決円多羅義集唐決上」を書写し、30歳には京都で「五輪九字明秘密義釈」の書写を許されるほどに密教を摂取しています。そのような日蓮に比叡山での修学中、「四帖秘決」を拝見する機会もあったことでしょう。また京畿を歩く途次に「摩尼宝珠曼荼羅」などを礼拝したでしょうか。ともかくも、日蓮は建長5年に「法華経最第一」を主張し、法華勧奨を開始するのですが、この当時は、法華経を始め禅・念仏・密を併せ包摂している「四宗兼学の道場・比叡山・台密信仰圏」の僧・日蓮でもあり、その法脈に連なる僧として、「日愛染月不動事」の説示と同じく肉眼で生身仏を感見。日輪の中に生身愛染明王を、月輪の中に生身不動明王を見たのではないでしょうか。

 

 

 

【 不動明王幅の「月」は不明 】

 

「不動明王幅」の「ある月」については、「吾妻鏡」の建長6616日の項に「今夕月蝕。左大臣法印厳恵祈祷を修す。陰雲の気有りと雖も度々出現すと」と、鎌倉での月蝕の祈祷が記録されているところから、「ある月」は6月ではないかとの説があります。ただ、「生身愛染明王拝見」は「正月一日日蝕之時」ですが、記録したのは半年後の「六月廿五日」になります。「生身不動明王拝見」の記録も「六月廿五日」となっており、「愛染明王」の例よりすれば、半年前の1月15日から17日にかけて不動明王を感見、同年の6月に記録したとしてもおかしくはないでしょう。

 

 

 

【 愛染・不動の両明王を感見した場所は不明 】

 

建長6年1月、日蓮がどこにいたのかについては、従来の一般的な伝記等では「建長5428日の立宗後、清澄寺を追われた日蓮はすぐに鎌倉に向かった」としているものが多くあります。これによれば建長61月、日蓮は鎌倉にいたことになります。しかし、現在の他の考察はそれとは異なっています。

 

「日蓮聖人のご真蹟」(P43)等での中尾堯氏の考察によれば、建長61月、日蓮は下総の国八幡庄(千葉県市川市)にいたことになるでしょうか。「日蓮攷」(P102)などでの高木豊氏の考察では、日蓮は建長693日まで清澄寺を退出しなかったことになります。また、寺尾英智氏も同様です(「鎌倉の日蓮をめぐる三つの日付」『図録・鎌倉の日蓮聖人』P146)

 

建長61月の日蓮は鎌倉、下総の国八幡庄、安房の国清澄寺、これらのどこにいたのでしょうか。故に日蓮がどこで両明王を感見したものか?現段階では場所の特定はできていない、としておきましょう。

 

 

 

【 不動愛染感見記の初出 】

 

この「感見記」については、1560年・永禄3(日蓮滅後279)に京都要法寺・日辰が著した「祖師伝・駿州富士山大石寺釈日目の伝」(富要5巻P33)に記録されているものが初見でしょうか。

 

 

生身愛染明王拝見正月一日日蝕の時  日形。大日如来より日蓮に至る廿三代、嫡々相承。建長六年六月廿五日、日蓮新仏に授く。生身不動明王拝見十五日より十七日に至る、月形。大日如来より日蓮に至る廿三代、嫡々相承。建長六年六月廿五日日蓮新仏に授く。右の一紙日興日目に付属し玉ふ今房州妙本寺に在るなり。

 

 

(2)真偽について

 

 

「不動・愛染感見記」を偽作とする見方もあり、現在まで甲論乙駁状態が続いています。筆者としては日蓮真蹟であると考えており、以下、私見をお伝えします。

(○は偽作説)

 

 

【 無量義経・方便品の経文 】

 

〇無量義経には「四十余年 未顕真実」、法華経方便品第二には「正直捨方便 但説無上道」とある。その法華経=妙法蓮華経に帰命・南無すべきことを前年の建長5年に唱え始め、立宗宣言したばかりの日蓮が大日如来から相承を受けるなどということは、法義上あり得ないことである。

 

   文永年間以前の日蓮は天台系の立場であった

しかしながら、建長5428日に何もかもが全て切り替わったわけではなく、この頃の日蓮は「中世の天台僧」「台密の僧・日蓮」であり、「他経典を排撃する法然浄土教・専修念仏」に対する批判を開始したばかり。立宗云々というのも後世の宗派的思考による「物語」であって、日蓮は法華経最第一を唱えつつ、天台宗・台密の諸経併存世界に包まれた天台僧でした。

 

法義上では「守護国家論」「災難対治抄」「立正安国論」などによると「法華真言並列」の立場、意として唱えるところは「比叡山・大乗仏教復興」だったのであり、日蓮の内面では当時の天台宗・台密の諸宗兼学の思想を多分に継承していました。法華経以外の諸経、特に密教系への批判が本格化するのは後の受難以降のことであり、建長6年に大日如来からの相承を受けたというのは、台密の僧であれば法義上からすればむしろ当然と考えられることではないでしょうか。

 

 

また、虚空蔵菩薩からの智慧宝珠授与は日蓮の書簡として残っていますが、当時、神仏からの啓示を多くの求法者が受けていたのと同じく、修学から建長5年に「此の法門を申し始め」(P990 一谷入道御書 真蹟断片)てより暫くの「一求法者たる日蓮」に様々な神仏との感応道交、啓示があったとしても、この時代の中世天台僧としてはごく自然なことだといえます。

 

 

 

② 神仏と感応道交する人間

周知のとおり、鎌倉時代は今日のような科学、文明というものは発達しておらず、朝廷・公家、幕府の高官から万民に至るまで、現代よりもはるかに宗教的な思考をする人間でした。「吾妻鏡」に記されているように、彗星が見えれば「変気の御祈り」「変災の御祈りに依って鶴岡に於いて臨時の神楽有り。将軍家御参宮。」そこでは「呪願文」を唱える。蒙古の国書が来れば、朝廷は「蒙古調伏祈願のため22社へ奉弊使を遣わす」。天変地異、災害が相次ぎ、戦乱も起きれば、なす術もない人間の心理というものは、宗教的な意味合いを作ることにより、そこに救いを見出さざるを得なかったことでしょう。

 

日蓮の「立正安国論」冒頭では、打ち続く自然災害、疫病を「天変・地夭・飢饉・疫癘(えきれい)遍く天下に満ち、広く地上に迸(はびこ)る」(P209)と記述し、被害の惨状を「牛馬巷に斃(たお)れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩既に大半に超え、之を悲しまざるの族敢へて一人も無し」と描写しています。

 

そして神仏に頼る様相を

或は利剣即是(りけんそくぜ)の文を専らにして西土教主の名を唱へ、

或は衆病悉除(しゅびょうしつじょ)の願を恃(たの)みて東方如来の経を誦し、

或は病即消滅不老不死の詞(ことば)を仰いで法華真実の妙文を崇め、

或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調へ、

有るは秘密真言の教に因って五瓶(ごびょう)の水を灑(そそ)ぎ、

有るは坐禅入定の儀を全うして空観の月を澄まし、

若しくは七鬼神の号を書して千門に押し、

若しくは五大力の形を図して万戸に懸け、

若しくは天神(ちぎ)を拝して四角四堺(しかい)の祭祀を企て

と記しているのです。

 

そのような時代です。

少年日蓮の願いに応じる如く、虚空蔵菩薩が眼前に高僧と現れて、明星の如き智慧の宝珠を授ける。少年は右の袖に受け取る、という宗教的体験はあったことでしょう。

 

今日の思考では「不可思議」とか「神秘的」「霊的」などと評され、「そんなバカな」と一笑に付されるかもしれません。もちろん、科学的にそれを証明することなどはできようもありませんが、誰あろう、日蓮自らが書簡に記していることなのです。今日の思考に日蓮を持ってくるのではなく、思考する者が日蓮の時代に立ち返らなければ、見方を過つことがあると考えるのです。もちろん、日蓮だけを通して鎌倉時代を見るのではなく、鎌倉時代とその前後を知りながら日蓮を見てもいかねばならないでしょう。

 

虚空蔵菩薩高僧示現智慧宝珠授与の宗教的原体験は、祈願している時であったかもしれないし、夢想であったかもしれない。その後の修学、修行に励む青年日蓮の思いの根底には、幼少の時に虚空蔵菩薩より宝珠を授かった原体験があり、青年時代の精進の意味も含んでの該表現ではなかったかと考えるのです。

 

 

 

③ 神仏の啓示による時代

 

ここで参考に記したいのが、日蓮が誕生する以前、1201年・建仁元年春頃の、京都・六角堂で親鸞が体験した夢の啓示です。

 

当時、比叡山を下山した29歳の親鸞は後生の大事に苦悩。思い悩んだ彼は、京都中心部にある聖徳太子建立と伝えられる六角堂にて百日間の参籠を行い、本尊の救世観音に必死に祈念。95日目となる45日の早暁、救世観音が白袈裟を着けた僧形となって示現し、親鸞に一つの言葉を授ける。

 

「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」

 

行者がこれまでの因縁・宿業により女性と関係をもつことになろうとも、私が美女となって行者との関係を受ける身となりましょう。一生の間、行者を守護して、行者の死に際しては引き導いて、極楽に生まれるようにいたしましょう。

 

この言葉を授けた救世観音は次に「私の誓願を一切衆生に説き聞かせるのです」と告げて、親鸞は幾千万の人々にこのお告げを伝えた、と思われた時に夢告より覚めるのです。

 

色と欲に振り回されながらも色と欲がありてこそ、生ずる人間。色と欲からは離れ切ることができない人間。この人間存在の根源にまつわる長年の苦悩について、人間とはあるがままの姿でも救済の道があることを、この夢告の中に親鸞は見出します。彼は直ちに六角堂を飛び出して東山吉水の草庵に住する法然のもとを訪ね、専修念仏の教えを聞いて入門するのです。

 

親鸞にはこれ以前にも1191年・建久2912日、河内の国磯長(しなが)にある聖徳太子廟(現在の叡福寺・真言宗系単立、大阪府南河内郡太子町太子)にて参籠した時の聖徳太子の夢告があります。更に1200年・正治212月、比叡山・無動寺の大乗院にて参籠した時の、如意輪観音の夢告というものがあります。そして、師の法然には「法然上人御夢想記」という自身の夢想を綴った記録が存在しています。

 

 

鎌倉北条氏の始祖とされる北条時政も、神仏の啓示を受けた一人です。「太平記」巻五の「時政江ノ島に参籠の事」では、北条氏繁栄の因は北条時政の前世の善行にありとして、彼が江ノ島弁財天の啓示を受けたことを伝えています。

 

時政江ノ島に参籠の事

時已に澆季(げうき)に及んで、武家天下の権を執る事、源平両家の間に落ちて度々に及べり。然れども天道は必ず盈()てるを虧()く故に、或いは一代にして滅び、或いは一世をも不待して失せぬ。今相摸入道の一家、天下を保つ事已に九代に及ぶ。此の事故有るなり。昔鎌倉草創の始、北条四郎時政江ノ島に参籠して、子孫の繁昌を祈りけり。三七日(21日目)に当りける夜、赤き袴(はかま)に柳裏の衣着たる女房の、端厳美麗なるが、忽然として時政が前に来たって告げて曰く、「汝が前生は箱根法師也。六十六部の法華経を書写して、六十六箇国の霊地に奉納したりし善根に依って、再び此の土に生まる事を得たり。去れば子孫永く日本の主と成って、栄花を誇る可。但し其の挙動、違う所あらば、七代を過ぎざる可。吾が言う所不審あらば、国々に納めし所の霊地を見よ。」と云い捨てて帰り給う。其の姿を見ければ、さしも厳しかりつる女房、忽ちに伏長、二十丈許りの大蛇と成って、海中に入りにけり。其の迹を見るに、大きなる鱗を三つ落とせり。時政、所願成就しぬと喜びて、則彼の鱗を取って、旗の文にぞ押したりける。今の三鱗形の文是れ也。其の後、弁才天の御示現に任せて、国々の霊地へ人を遣はして、法華経奉納の所を見せけるに、俗名の時政を法師の名に替へて、奉納の筒の上に大法師時政と書きたるこそ不思議なれ。されば今相模入道七代に過ぎて一天下を保ちけるも、江ノ島の弁才天の御利生、又は過去の善因に感じてげる故也。今の高時禅門、已に七代を過ぎ、九代に及べり。されば可亡時刻到来して、斯かる不思議の振舞いをもせられける歟とぞ覚えける。

 

< 意訳 >

前略

鎌倉幕府草創の頃、時政は江ノ島に参籠して子孫繁栄を祈願した。21日目の夜、赤い袴(はかま)に青い裏の着物を着た、美しい女房が時政の前に現れて告げた。「お前の前世は箱根法師である。六十六部の法華経を書写して、六十六箇国の霊地に奉納した善根によって、再びこの伊豆の地に生まれることができたのだ。お前の前世の善根により子孫は永く日本の主となって、栄華を誇るであろう。ただし、正しい行いをしなければ、子孫の栄華は七代以上続くことはない。私が言うことに不審を持つならば、諸国の霊地を調べてみなさい」と言って帰り去った。

 

不思議に思った時政がその姿を追うと、女房はたちまち二十丈(1丈=約3.03m、20丈=約60)の大蛇となって海中へと姿を消してしまった。女房がいた跡を確認すると大きな鱗が三つ落ちていて、時政は「所願は成就した」と喜んでその鱗を取り自らの旗の紋とした。今の北条氏の三鱗紋の形が即ちそれである。

 

女房は江ノ島弁財天の御示現であったのだが、時政はそのお告げを確認するために、諸国の法華経奉納の霊場へ使者を派遣して調べたところ、俗名の時政を法師の名に変えた「大法師時政」と書かれた奉納筒が発見されたのは不思議なことである。今、北条氏は七代を過ぎても尚天下の権を握っているのは江ノ島弁財天の御利益である。または北条時政の過去の善根によるものであろうか。今の北条高時は七代を過ぎて九代目となったが、いよいよ亡ぶべき時が到来したので、様々な不思議な行いをしているのではないかと思われるのだ。

 

 

この時代、人は神仏と感応道交し、その啓示を求めて社寺に参籠することが身分の上下、僧俗問わず活発に行われ、各地の社寺仏閣や書物には参籠にまつわる夢想、お告げ、物語が残されていくことになります。神仏からの啓示というものが、「一つの新たなるものを創り上げる力の源泉」「無から有を生み出す根源」「現実を変革していく原動力」となっていた時代に日蓮は生きていたのです。

 

 

【 「諸宗問答抄」の文 】

 

○建長7(1255)に系年される「諸宗問答抄」には、「大日如来の説法と云はば大日如来の父母と生ぜし所と死せし所を委く沙汰し問うべし、一句一偈も大日の父母なし説所なし生死の所なし有名無実の大日如来なり」(P32)とある。

大日如来について「有名無実」の存在と断定する日蓮が、その前年に「大日如来より日蓮に至る廿三代嫡々相承」などと書くであろうか。やはり、「不動・愛染感見記」は偽書ではないか。

 

 

 

「諸宗問答抄」は三宝寺録外に初収録された御書で真蹟は存在しませんが、西山本門寺に日代本が蔵されています。「昭和定本」には「(前半部分の)如何まで西山本門寺蔵代師写本にて校了。」(P29)とあり、日代写本によって前半部を校合したことを記しています。また日代写本の奥書きには「応永廿二年(1415年)正月二十九日 日代上人御筆  治部阿闍梨授与之 日任 花押」(P29)とあります。

 

天台・台密の僧である日蓮という宗教的立場からすれば、建長7年に「有名無実の大日如来なり」と書くこと、また同年に「天台僧の日蓮が自らの天台宗を批判」することも考えづらいものがあります。このような場合、後年の「法華真言並列」の明らかな「守護国家論」(真蹟曽存)、「災難対治抄」(真蹟)と、法然浄土教禁断と大乗仏教復興の「立正安国論」(真蹟)とは異なり、矛盾する内容となる「諸宗問答抄」(孫弟子写本)では、当然のことながら孫弟子写本は採用不可となるか、系年の再考を要されることとなるでしょう。「日蓮聖人遺文辞典」(P570)にも、「建長七年撰とされる本書に、真言宗批判のあるのは、この時期の他の遺文との違いであって、伝えられる撰述時期について、検討を必要とすることを提起している」とあります。

 

更に、冒頭には「問うて云はく、法華宗の法門は天台・妙楽・伝教等の釈をば御用ひ候か如何。答へて云はく、最も此の御釈共を明鏡の助証として立て申す法門にて候」(P22)とあり、天台宗が問いを発して法華宗が答え指摘していく展開となっていますが、この場合の法華宗とは文脈からして天台法華宗ではなく日蓮創立の法華宗と読めますが、果たして建長7年に、日蓮が天台宗と区別して独自の法華宗を名乗り、またそのような意識を持っていたのでしょうか。

 

・建長7年(1255年)より5年後の文応年間(1260年~1261)、または「建長の末(1255年~1256)に書かれたもの」(山中喜八氏「日蓮聖人真蹟の世界・下」P225)と推定される「三部経肝心要文」 (池上本門寺蔵)に「天台沙門日蓮」と記していること。

 

・日興書写「立正安国論」(玉沢妙法華寺蔵)に「天台沙門日蓮勘之」の署名があること。

 

・建長7(1255)より11年後の、文永3(1266)16日に著した「法華経題目抄」に「根本大師門人 日蓮 撰」と記し、最澄の門人であることを宣していること。

 

これら建長7年以降の「天台沙門」「根本大師門人」という日蓮自らによる「宗派の名乗り」を踏まえれば、「諸宗問答抄」冒頭の記述「法華宗」との矛盾が生じることとなり、このような場合、やはり真蹟・真蹟曽存遺文に基づく日蓮像構築が優先されるべきことになるでしょう。

 

当書の文中(P31以下)真言三部経を説示した者について、釈迦如来なのか大日如来なのかを尋ね、真言信奉者が「釈迦如来」と答えれば「大日経等は四教を含有しており純円一実の法華経に劣る」と責めるべきこと。「大日如来」と答えれば「大日如来の父母、生じた所、死せし所を詳しく詰めて、大日如来は有名無実であって実在しないことを責めよ」としています。

 

日蓮が「諸宗問答抄」を書いたとするならば、真言破折の明確な当書の系年は、真言批判初出の「法門申さるべき様の事」(真蹟)の文永6年以降、そして天台宗の「念仏・戒・真言・禅という別の名言を出す道理なしとする立場を批判」しながらも、後の台密批判のように円仁ら人師の名を挙げてその教理を破することはないので、台密批判の胎動期、即ち佐渡期頃になると考えられます。

 

「法華本門宗要抄」は西山の日代によって、「日蓮滅後79年後の延文5(1360)に本書は聖人御作と称し下野国より出たが、『文句においては当家の助成たりと雖も一向聖作に非ず、偽書也』『日代門徒は許用するに足らず』」(日蓮聖人遺文辞典歴史編・P1043)として偽作と断じられています。

 

「諸宗問答抄」についても、華厳、法相、三論、倶舎、成実、律の南都六宗、禅宗、念仏宗、更に真言宗を批判しながら、そこに天台法華宗も加えることによって「日蓮が法門」との相違を明らかにするために「法華本門宗要抄」と同様、日蓮入滅から程なくして作成された書である可能性もあるのではないでしょうか。

 

当書を手にすれば、門下が他宗との問答に臨む際の理論上の、また精神的支柱となったことでしょう。日蓮門下による文字通りの「諸宗問答用」の教本の一つとして、師日蓮に仮託して作成された可能性を有する書であると考えるのです。

 

 

 

【 日食の記録 】

 

○「愛染感見記」に「正月一日 日蝕之時」とあるが、同日の日蝕は記録にはない。

 

 

今日の天文学に分類される日蝕そのものの現象というよりも、日中にもかかわらず気象の変化により太陽が見えなくなった、薄暗くなった等をかく表現した可能性もあるのではないでしょうか。

 

「吾妻鏡」には、鎌倉の同日の天候について「朝雪聊(いささ)か散る」と記録されており、この時日蓮がどこにいたのか前述のように確定はできませんが、東京湾向かいの下総、安房にいたとしても一時的に曇り、雨、雪などの天候があったかもしれません。冬場の強い風です。雲の移動が早ければ、晴れ間も見えたり、雨、雪が急に降りだしたり、陽が陰ったりの不安定な天候も考えられるでしょう。

 

日蓮は文永12310日の「曾谷入道殿許御書」(真蹟)の文中、日本国に「法華経の大行者」がいるのではないか、それを謗る者には大罰、信じる者には大福があると力説しますが、行者存在の所以を経典に説かれる「日月の難」に見ています。

 

第一は日月の難なり。第一の内に又五の大難有り。所謂日月度を失ひ時節反逆し、或は赤日出で、或は黒日出で、二三四五の日出づ。或は日蝕して光無く、或は日輪一重二三四五重輪現ぜん。又経に云はく『二の月並び出でん』と。今此の国土に有らざるは二の日、二の月等の大難なり。余の難は大体之有り。今此の亀鏡を以て日本国を浮かべ見るに、必ず法華経の大行者有らんか。既に之を謗る者に大罰有り。之を信ずる者何ぞ大福無からん」(P911)と日月の難の内に五つの大難が有るとし、その一つに「日蝕して光無く」を挙げています。

 

この「日蝕」はいつのことか定かではありませんが、「余の難は大体之有り」とそれは既に起きているとするのです。中世人は参籠した時など、深夜・明け方に神仏の啓示を受けているようですが、自然災害にまつわる現象を天変地異と恐怖して祈祷を行った当時の人々は、気象の変化にもただならぬものを感じていたようです。

 

「吾妻鏡」の嘉禎3(1237)121日の項には、

戊寅 雨降る

日蝕正現せず。昨日天晴、夜半以後陰雲、丑寅の刻より雨降る。蝕時分に愛染金剛如法仏(五指量)を造立せらる。主計の頭これを奉行す。

とあります。

 

続いて翌日122日には、

己卯

昨日蝕御祈り勤行の僧三人、今日御所に召され、各々銀劔一腰を賜う。伊勢の守定員これを奉行す。

となっており、祈祷により雲が出て雨が降ることを祈らせ、それが実現したことになれば、褒美を与えています。

 

1210日には、

丁亥

日月蝕及び天変重疊の御祈りの為、御所に於いて属星御祭を行わるべし。将軍家祭庭に出御有るべきに依って、今日晴賢これを奉仕せんが為参籠す。右大将家・右府将軍等の御時の例に任せ、重軽服の人々参入すべからざるの由仰せらると。

日蝕、月蝕、天変に関連して鎌倉御所で属星の御祭(属星祭)を行っています。

 

人間の手には負えない、眼には見えない「何かの力の支配下にこの世は存在している」かのような世界観といえるでしょう。中世の人々は自然現象そのものの中にも、様々な神仏を見出したのではないでしょうか。

 

参考ですが、登山でたまに見ることができる不思議なものにブロッケン現象があります。山頂に立った時、太陽の反対側、谷の方などを見ると霧の中に浮かぶ我が影。それは谷を覆い、向こうの山頂に届かんばかりの巨大なる影であり、その周りには虹の輪がかかっている。その光景は自身が神仏と化し後光を放っているかのようです。これは太陽光が見る人を通り越して、雲や霧によって散乱されて影の周囲に虹色の光輪となる現象なのですが、日本の山々が山岳修行僧等によって開かれると、この現象は御来迎(ごらいごう)と称されていました。後光射す阿弥陀如来像とイメージを重ねていたようです。

 

中世は自然災害、疫病が頻発し死が間近にあった時代です。

それらを科学的、医学的に分析、対処しようもなく、非力な人力も頼りにならず、事あるごとに神仏にすがりつきました。個人が病気にかかったら占い、「物の怪」ならば加持祈祷、「疫気=疫神」ならば加持はなさず逆に祭っていずこかへと退散させたという時代です。

今日と違い、人の五感の働きも活発であったでしょうし、一つの自然現象を見ても、感じ方が異なったことでしょう。現代とは違い照明のない夜は闇深く、星空は満点に輝き、星座の運行にも何ものかを感じ取っていました。そして、人は誰もが今日以上の宗教的な思考により日常生活を営んでおり、そのような時代に我が身を置くような思いで考えれば、私は日蓮にかかる体験があった即ち「不動・愛染感見記」は真蹟と考えるのです。

 

 

※宮川了篤氏は論考「日蓮聖人にみる虚空蔵菩薩求聞持法の一考察」(日蓮教学の源流と展開・小松邦彰先生古稀記念論文集 2009 山喜房仏書林)にて、虚空蔵菩薩、日蓮と求聞持法、不動・愛染感見記等について論じられています。「日食」についても上田霊城氏の「真言密教事相概説」を引用して考察されています。

 

 

 

【 「身」「拝」「見」の字体 】

 

○「不動感見記」「愛染感見記」の「身」「拝」「見」の字体は、他の日蓮真蹟の字体とは著しく異っており、これら字体を検証しただけでも偽書たること歴然である。

 

 

「虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために建長五年三月二十八日安房の国東条の郷清澄寺道善の房持仏堂の南面にして浄円房と申す者並びに少少の大衆にこれを申しはじめ」(P1134 清澄寺大衆中 真蹟曽存)た翌年、日蓮33歳という初期の字体と後年の字体の異なりを以て、偽書とするのはいかがなものでしょうか。

 

日蓮の曼荼羅を確認しましょう。

(立正安国会編)「御本尊集」NO234等の文永期の曼荼羅と、NO100以降となる弘安期の曼荼羅とは(相貌座配ということではなく)一見しただけでも筆使いが変化しています。また、NO11NO56ではどうでしょうか。わずか4年でひげ文字(光明点)の伸びも大きく異なっています。NO9NO83などでは、別人が書いたもののようにも見えます。

 

生身の不動明王、愛染明王を感見するということは常の精神状態と異なり、独特の境地でもあったことでしょう。半年後、愛染、不動の姿を思い浮かべながら(絵像は日蓮自身が書いたか、心得のある者に依頼したかは不明ですが)記録した時もまた、常の心持ではなかったのではないでしょうか。常の精神状態に非ざる時、常の字体と異なることもまた有り得ることだと思うのです。

 

 

(3)日蓮の内面世界に摂し入れられた不動・愛染明王はやがて曼荼羅へ

 

 

要点をまとめてみましょう。

 

*清澄寺には東密と台密の法脈があり、虚空蔵菩薩求聞持法を修する行者が集う霊場であった。

 

*日蓮は青年時代、虚空蔵菩薩求聞持法を修していた可能性がある。

 

*金沢文庫古文書・識語編には、日蓮と同時代の清澄寺における不動法修法の記録があります。

 

「不動法」識語

文永七年庚午二月廿二日 亥時書写了。寂澄春秋□二十九

 

「不動法」識語

文永七年八月十九日 寂澄春秋□二十九

 

*文応年間とされる「三部経肝心要文」では「天台沙門日蓮」と記し、文永3年の「法華題目抄」では「根本大師門人」、日興書写の「立正安国論」では「天台沙門日蓮勘之」と記しています。

 

*正嘉3年・正元元年とされる「守護国家論」に見られるように、建長5年以降、文永中期頃までは「法華真言並列」の立場です。

 

*天台大師講は文永34年頃から始まり、身延後期にも続いていました。身延山に十間四面の堂宇が完成したことを記録した「地引御書」(弘安41125日  真蹟曽存)に「坊は十間四面に、またひさし()()してつくりあげ、二十四日に大師講並びに延年、心のごとくつかまつりて、二十四日の戌亥(いぬい)の時、御所にすゑ(集会)して、三十余人をもって一日経か()きまいらせ、並びに申酉(さるとり)の刻に御供養すこしも事ゆへなし」(P1894)とあって導師・日蓮のもと、弘安41124日に天台大師講を修したことがうかがわれます。

 

尚、このようなところが日蓮理解の難しいところといえ、一方では「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし」 (P559 文永92月 開目抄 真蹟曽存)と学は劣るが信行では智顗・最澄を越えたとし、「日蓮が法門は第三の法門なり。世間に粗夢の如く一・二をば申せども、第三をば申さず候。第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了へず。所詮末法の今に譲り与へしなり。五五百歳とは是なり。」(P1589 富木入道殿御返事[禀権出界抄] 真蹟)と智顗・最澄も概略しか説けなかった第三の法門を初めて説き出す自己であるとしながらも、他方では天台大師講を修して両師を拝する天台一門の弟子であることを示すのです。

 

日蓮は天台法脈の弟子であるのか?

智顗・最澄を超えた新しい導師、教主であるのか?

 

私として結論的に言えば「釈迦(実体は久遠仏)・智顗・最澄の法華経信仰の系譜に連なる仏弟子の立場を示しながらも、大難の連続を経てその内面世界は昇華され、独創の曼荼羅本尊を図顕して一切衆生を救わんとされた教主」と考えるのですが、このような一見したところの「両面性」「両義併存」ともいうべきものは、他にも「人本尊か法本尊か」という「本尊論」にも見られるように、「日蓮が法門」の特徴であるといえるでしょう。

 

いずれにしても、「一つの法門書、書簡だけで日蓮像を語ることはできない」ということで、日蓮の全体像を更に高所から俯瞰するような見方をしないと日蓮を捉えきれないのではないかと思いますし、そのような作業はまた困難なのは勿論ですが、「ただひたすらに日蓮に挑み続けるしかない」というのが気の遠くなるような、実は最短距離でもあるといえる答えなのでしょう。

 

横道にそれましたが、「地引御書」では鎌倉時代、寺院での祝賀・法要の際に一山興隆・無病息災・国土安穏などを祈念、神仏に奉納の意を込めて修された延年の舞い(芸能)を身延山でも開催したことが記されています。そして同じ日に法華経の書写行である一日経と供養を、「御所」(波木井実長邸か)で行っており、盛大な法要だったことがうかがわれるのです。

 

*日蓮の明確な東密批判は文永6年、台密批判は身延期から始まる。

 

*このように文永8年の法難以前までは、日蓮は天台沙門・根本大師門人として自らを位置付け自覚を持っていたのであり、一人の天台沙門が生身の愛染明王、不動明王を感見するのは当人ならではの宗教的感得であり、なんらおかしなところはないでしょう。

 

*少年日蓮は「虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給ひて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給ひき」との体験をしており、愛染明王、不動明王の感見と併せ、遺文による限りは、二度目の宗教的体験ということになるでしょうか。

 

また、後年(文永9)、佐渡に於いては蒙古襲来の夢想をしています。

 

文永91024

「夢想御書」(P660)

文永九年太才壬申十月廿四日夜夢想ニ云ク、来年正月九日

蒙古為治罰月相国大小可向等云云

 

*東密・台密では、大日如来から始まる相承が多様に記されており、日蓮が感得した際、どの相承によったのか文面には記されていませんが、大日如来を祖にした相承の23代目であると、自らを密教の系譜の中に位置付けています。

 

参考

真言宗の法流の正系を示すのが「付法の八祖」です。

大日如来―金剛薩埵―龍猛菩薩―龍智菩薩―金剛智三蔵―不空三蔵―恵果阿闍梨―弘法大師

 

真言宗、日本伝来の祖師8人が「伝持の八祖」です。

龍猛菩薩―龍智菩薩―金剛智三蔵―不空三蔵―善無意畏三蔵―一行禅師―恵果阿闍梨―弘法大師

 

「渓嵐捨葉集」巻第五十一には、円仁・慈覚大師の血脈を掲げています。

慈覚大師印信血脈相承次第

大日如来 金剛手 掬多 善無畏 玄超 恵果 義真 慈覚

 

蘇悉地血脈相承

大日如来 金剛薩埵 龍樹 龍智 金剛智 不空 一行 恵朗 恵則 義操 義真 法全 円仁

 

このような事例と同じく、大日如来より当時の比叡山に至るまでの密教の相承に「不動・愛染を感見した」自己が23代目として連なることを、「自大日如来至于日蓮廿三代嫡々相承」と記しているのではないでしょうか。

 

 

 

【 不動明王・愛染明王の曼荼羅への配列 】

 

文永8912日、竜口の虎穴を脱した日蓮は佐渡に発つ前日の109日、相州本間依智郷(現在の神奈川県厚木市北部)において、初の曼荼羅(楊子御本尊)を図顕しますが、以降の曼荼羅のほとんどに不動明王、愛染明王の梵字を欠かさないのは、日蓮が法華経と法華経の行者、更に信奉者守護の働きとして、両明王を法華経信仰世界に摂入し重要視していたことを意味するものでしょう。建治3823日とされる「日女御前御返事」(P1375、日朝本、三宝寺本)の不動・愛染は南北の二方に陣を取り」との表現は、悪魔降伏、戦勝、息災という両明王の力有を端的に顕しています。

 

日蓮が「大本尊」(万年救護本尊)として図顕し「上行菩薩出現於世 始弘宣之」()と初めて曼荼羅上に自らの内観を示し、後半生に心血を注いで顕した曼荼羅の多くに、何が故にかくまで不動・愛染を梵字で認め続けたのか

 

そこに若き日、比叡山で台密を学び(恵心流椙生の学匠俊範に就学したとの山川智応氏の考察もある)17歳で「授決円多羅義集唐決上」を写し、30歳で「五輪九字明秘密義釈」を写した日蓮の姿を見るのです。

 

密教系の書物の写本をしたということは、その後の日蓮の思想からするならば批判と言うよりも認識をなすと同時に、そこに、取り入れるべき何ものかを見出すという観点があったのではないでしょうか。日蓮は比叡山修学時代、諸宗兼学の台密の思考法に触れていたのです。

 

 

 

【 日蓮的摂入・包摂思想の集大成としての妙法曼荼羅 】

 

ここで想起されるのが「神仏習合」です。

538年または552年ともされる仏教公伝後、聖徳太子は蘇我・物部の戦いに臨んで四天王像を彫って戦勝を祈願。物部氏との戦いに勝利を収めて、国家の祭壇として593年・推古天皇元年に四天王寺を開創。仏教興隆の詔を発し、自らも「法華経」等の経典の解説を行い、仏像彫刻、仏教建築にも造詣を深くし、法隆寺を創建すると伝えますが、太子は日本古来の神を否定せず、607年・推古天皇15年には「敬神の詔」を出して神道にも理解を示し援助を行います。

聖徳太子は仏教の受持者ですが、天皇家の一員としては日本古来の神々を守らねばなりません。そのような矛盾を解決すべく考えだされたものでしょうか、「神仏儒習合思想」が発案され、時代が下るにつれ洗練され磨きをかけられて、奈良時代では思想として体系化されていくようになります。

 

このような、既存のものと新来のものを合わせて共に生かしていくという思想、また思考法は以来、日本人、特に知識層、仏教者などには骨身にまで染み込んだことでしょう。或る時は表に現れ、或る時は目に見えないところに沈み込みながらも思想は生き続け、継承されて、日蓮の時代には比叡山の台密・法華経と密教の共存、諸宗兼学、また「諸宗和合」「釈尊一代教説正法論」「有縁教法得道論」即ち「個々人は有縁の教法によって成仏できるのでありどの教えに対しても勝劣などこだわるべきではない」という思想が大勢となっていたのではないでしょうか。

 

日蓮は「法華経最第一」としながらも、台密の僧として上記のような信仰世界に身を置き、思想も継承していた。特に受難を経て曼荼羅を図顕する頃の日蓮には、包摂、摂し入れるという思想が顕著ではないでしょうか。

 

妙法曼荼羅にはインドより中国から日本にかけての諸仏、諸神、先師が配列され、それぞれが力有を備えています。従来の仏菩薩、神々が日蓮によって法華経、法華経の行者、信奉者守護の使命を課せられ再定義された、ともいえるのです。ここにおいて、曼荼羅の不動明王、愛染明王も同様ではないでしょうか。「日蓮的摂入・包摂思想」の集大成が妙法曼荼羅だと考えるのです。

 

建長61月に感見した不動明王、愛染明王は、修学僧時代に比叡山・京畿などで見た密教の明王と同じ姿だったかもしれません。しかし、建長5年より妙法蓮華経を弘法するという新たなる境地となった日蓮の眼より見れば、それは法華経と行者守護の働きを使命としたもの、魔を降す力を有した明王だったのではないでしょうか。

 

そして、その後の数々の法難を経ながらの日蓮の内面世界の変化と共に、明王の位置付けも昇華され、いわば法華経信仰世界に摂り入れられた明王、妙法蓮華経の眷族としての明王との定義がなされていった。日蓮は自己の内面世界に摂し入れた不動明王・愛染明王に新たなる教理的役割を与えたが故に、その姿を具体的に梵字として曼荼羅に顕すこととした。故に文永8年以降の曼荼羅に、ほぼ欠かすことなく配列したものと考えるのです。

 

(2022.12.3)

【 不動・愛染感見記の真偽をめぐって 】

 

以下の論考が参考になると思います。

 

 

*日蓮と密教について

「日蓮」 佐藤弘夫氏著 2003年 ミネルヴァ書房

「法華仏教研究」21号 石附敏幸氏の論考「日蓮と鎌倉幕府」

 

 

*真偽論

・「法華仏教研究」12号 山中講一郎氏の論考「日蓮の花押と梵字についての考察」

・「法華仏教研究」14号 川﨑弘志氏の論考「『不動・愛染感見記』考」

・「法華仏教研究」15号 山中講一郎氏の論考「不動・愛染および梵字について」

・「法華仏教研究」18号 川﨑弘志氏の論考「『不動・愛染感見記』再考 山中講一郎氏への再反論」

・「法華仏教研究」23号 花野充道氏の論考「『不動・愛染感見記』の真偽をめぐる諸問題」

・「法華仏教研究」26号 川﨑弘志氏の論考「『不動・愛染感見記』偽撰説への反論」

 

 

*「不動・愛染感見記」には大日如来から日蓮まで23代とあり、真言諸流の系譜を記載した「理性院血脈」では、日蓮は大日如来から25代となっていることについて。

「法華仏教研究」28号 川﨑弘志氏の論考「台密における日蓮の血脈相承の系譜 山中喜八氏の先行研究をめぐって」

 

 

*日蓮の花押について

・「法華仏教研究」12号 大島仲太郎氏の論考「本尊梵字考」

 

・「法華仏教研究」20号 三輪是法氏の論考「法華経と密教」