10 佐渡始顕本尊讃文に関連して

 

それでは、文永1078日の佐渡始顕本尊の讃文 

此法花経大曼陀羅 仏滅後二千二百二十余年一閻浮提之内未曾有之 日蓮始図之 

如来現在 猶多怨嫉 況滅度後 法花経弘通之故 有留難事 仏語不虚也 

を念頭に置きながら、いくつかの角度から検討していきましょう。

 

     佐渡始顕本尊讃文「本満寺宝物目録」身延21代・日乾模本より
     佐渡始顕本尊讃文「本満寺宝物目録」身延21代・日乾模本より

 

(1) 相貌座配中の勧請諸尊などには他の曼荼羅にはない、その曼荼羅のみのただ一つだけのもの・表現もあり、佐渡始顕本尊の讃文も同様に考えればよいのではないでしょうか。

 

 

No10曼荼羅・系年不明

通称「楊子御本尊、船中御本尊」

*相貌

首題 自署花押 四天大王 日月衆星

 

伝承では「文永十一年三月十五日、佐渡真浦より越後柏崎に渡られる船中に於て、楊子を以て認めたまうところ」と伝えられます。この御本尊の「日月衆星」は、他の曼荼羅本尊にはありません。

 

 

No13曼荼羅・文永11725

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無分身等諸仏 南無善徳等諸仏

南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 文殊師利弥勒薬王等諸菩薩 舎利弗迦葉等諸大声聞 不動明王 愛染明王 無量世界大梵天王等 無量世界帝釈天王等 東方持国天王 南方増長天王 西方広目天王 北方毘沙門天王 無量世界大日天王等 無量世界大月天王等 大日本国天照太神八旛大菩薩等 無量世界四輪王等 龍樹菩薩 天親菩薩 天台大師 伝教大師 無量世界阿修羅王等 無量世界龍神王等 天熱提婆達多 鬼子母神 一名藍婆二名毘藍婆三名曲歯四名華歯五名黒歯 六名多髪七名無厭足八名持瓔珞九名皇諦十名奪一切衆生精気 未生怨阿闍世大王

 

・諸天・龍王・阿修羅王に「無量世界」を冠している曼荼羅は、他にはありません。

・天照太神・八幡大菩薩に「大日本国」を冠している曼荼羅は、他にはありません。

・「東方持国天王 南方増長天王 西方広目天王 北方毘沙門天王」と四天王に東西南北の方位を冠している曼荼羅は、他にはありません。

・「天熱」提婆達多・「未生怨」阿闍世大王と表記する曼荼羅は、他にはありません。

・文永年間の曼荼羅(現存27幅、身延曽存6)については、この一幅以外は全て総帰命式であるのに、当曼荼羅のみが釈迦・多宝等の諸仏と四菩薩に「南無」を冠し、迹化菩薩・諸大声聞・先師には「南無」を冠していません。

・「大覚世尊入滅後二千二百二十余年之間 雖有経文一閻浮提之内未有大曼 陀羅也得意之人察之」との讃文も特異なものです。

・参考ですが、山川智応氏は「蒙古調伏の意を存したまう」と解説しています。

 

 

No16曼荼羅・万年救護本尊・文永1112

*讃文

大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢 日三ヶ国之 間未有此 大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智 隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無十方分身諸仏 南無善徳仏 

南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩

南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無迦葉尊者 南無舎利弗尊者 不動明王

愛染明王 南無大梵王 南無天帝釈 南無日月天等 南無天照八幡等諸仏 南無天台大師

南無伝教大師 

 

・讃文中「大本尊」と称したのはこの曼荼羅のみです。他は「大漫荼羅」「大曼陀羅」と表記しています。

 

 

No17曼荼羅・朗尊加判御本尊・系年不明

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無浄行菩薩

南無無辺行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王

 

・分身諸仏を略しており、四菩薩の位次が通例と異なっています。

通例では右方「南無上行菩薩 南無無辺行菩薩」、左方「南無浄行菩薩 南無安立行菩薩」と配されるのが、当曼荼羅は右方「南無上行菩薩 南無浄行菩薩」、左方「南無無辺行菩薩 南無安立行菩薩」となっています。

・「遠沾亨師臨寫御本尊鑑」(P18)では、無記年の同型(寸法もほぼ等しい)曼荼羅の身延曽存を伝えます。

・建治元年10月の新曽妙顕寺蔵No26曼荼羅は、右方を「南無無辺行菩薩、南無上行菩薩」と次第しており通例の逆となっています。

 

 

以上、確認したように「ただ一つしかない勧請諸尊」「一つしかない表現」「一つしかない座配」という曼荼羅は、何も佐渡始顕本尊だけではなく他にもあり、同本尊を「偽作と言い切る根拠」としては弱いのではないでしょうか。

 

 

(2) ある時に認められたものが数年の隠没の後、再び認められる場合もある

 

文永11725日のNo13曼荼羅では、提婆達多と阿闍世大王が初めて列座するも、その後は全く認められず。文永・建治を越えて、弘安年間に至って再現します。阿闍世大王は弘安元年8月のNo53「日頂上人授与の曼荼羅」で明星天王の初出と共に再現、弘安22月のNo60「釈子日目授与の曼荼羅」では、龍王女の在座と共に提婆達多が再現しています。

 

佐渡始顕本尊を見ると、佐渡期の文永1078日という早い段階で「此法花経大曼陀羅 仏滅後二千二百二十余年 一閻浮提之内未曾有之 日蓮始図之」と、文永末から建治にかけて定形化していくような長文の讃文が認められています。次の長文の讃文は、一年後の文永11725日のNo13曼荼羅で、「大覚世尊入滅後二千二百二十余年之間 雖有経文一閻浮提之内未有大曼 陀羅也得意之人察之」となります。これを以て不審とするも、上記、「提婆達多」と「阿闍世大王」の隠没の例もあり、特別に不審点として挙げられることではないと考えます。

 

また、讃文のかような表現については確かに佐渡始顕本尊が初めてではありますが、二か月前の「観心本尊抄副状」を検討すれば、その時点で、その後に認められる讃文の意が含まれているのではないかと考えられ、佐渡期において始顕本尊の如き讃文があることについてなんらおかしくはないことが認識できると思います。

 

 

(3)  「観心本尊抄副状(観心本尊抄送状)」と佐渡始顕本尊讃文

 

文永10426日、「観心本尊抄」を富木常忍・大田入道・教信御房等に送付した際の「観心本尊抄副状(観心本尊抄送状)」と佐渡始顕本尊讃文を比較してみましょう。

 

・観心本尊抄副状(観心本尊抄送状)

帷一つ、墨三長、筆五管給び候ひ了んぬ。観心の法門少々之を註し、太田殿・教信御房等に奉る。此の事日蓮当身の大事也。之を秘して無二の志を見ば之を開拓せらるべきか。此の書は難多く答へ少なし、未聞の事なれば人の耳目之を驚動すべきか。設ひ他見に及ぶとも、三人四人座を並べて之を読むこと勿れ。仏滅後二千二百二十余年、未だ此の書の心有らず、国難を顧みず五五百歳を期して之を演説す。乞ひ願はくば一見を歴来たるの輩、師弟共に霊山浄土に詣でて、三仏の顔貌を拝見したてまつらん。

 

・佐渡始顕本尊

此法花経大曼陀羅 仏滅後二千二百二十余年 一閻浮提之内未曾有之 日蓮始図之

 

 

(副状) 此の事日蓮当身の大事也・此の書の心・之を演説す

(始顕本尊) 此法花経大曼陀羅

 

(副状) 仏滅後二千二百二十余年

(始顕本尊) 仏滅後二千二百二十余年

 

(副状) 此の書は難多く答へ少なし・未聞の事なれば人の耳目之を驚動すべきか・未だ此の書の心有らず

(始顕本尊) 一閻浮提之内未曾有之

 

(副状) 国難を顧みず五五百歳を期して之を演説す

(始顕本尊) 日蓮始図之

 

このように「観心本尊抄副状(観心本尊抄送状)」の文章表現を要約したものが佐渡始顕本尊讃文ともいえ、これは一つ佐渡始顕本尊のみならず、時を経て定形化していく他の讃文にも同じことが言えると思います。一面からすれば、日蓮は文永10425日の「観心本尊抄」で妙法曼荼羅を顕し、426日「観心本尊抄副状」で曼荼羅讃文を顕したともいえるでしょうか。

 

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