日蓮の宗教的使命の自覚と新たなる展開・「国中の棟梁たる比叡山」から日蓮の「第三の法門」へ

1 帰着点の竜口、新展開の佐渡

 

久遠仏への直参を原点とし、法華勧奨・題目流布に身命を賭する日蓮の内面世界の大きな転換点はやはり、文永8(1271)9月の法難・竜口の首の座から同年11月の佐渡配流にかけての時期であると考えられる。竜口での「死罪」が建長5(1253)の法華勧奨開始以来の一つの帰着点であり、佐渡への配流が新たなる出発点となったのではないだろうか。

 

佐渡配流期の始まりに自界叛逆の難・二月騒動(文永9[1272]2)を耳にし、次なる他国侵逼の難・蒙古襲来による亡国が眼前に迫るにも関わらず、自身は何時、次なる「死罪」に直面するかもしれない状態という「限られた時間との戦い」となってしまった。日本を他国侵逼による亡国から救わんとする時に、我が身は次の瞬間、死と隣り合わせなのである。

一方では、文永5(1268)118日に蒙古の国書が鎌倉に到着して以降、4月には幕府は諸社寺に蒙古調伏の祈祷を命じており(元寇記略)、諸宗教は幕府に協力して共に蒙古調伏を祈祷する態勢にあった。

 

ここにおいて、以前の「叡山を除きて日本国には但一人なり」(P423 安国論御勘由来 真蹟)との「比叡山・台密への評価・期待」というものが日蓮の思考から薄くなり、妙法弘通による衆生成仏、即ち広宣流布への主体的当事者としては日蓮、ただ一人のみへとなっていくのである。

日蓮自身も後に「法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ」(P1446 三沢抄 建治4[1278]223日 日興本)と記しているように、次に成すべきは新境地による独自の法門展開だった。

 

 

2 開目抄・一念三千

 

但し仏教に入って五十余年の経々、八万法蔵を勘たるに、小乗あり大乗あり、権経あり実経あり、顕教・密教、軟語・麁語、実語・妄語、正見・邪見等の種々の差別あり。但法華経計り教主釈尊の正言也。三世十方の諸仏の真言也。大覚世尊は四十余年の年限を指して、其の内の恒河の諸経を未顕真実、八年の法華は要当説真実と定め給ひしかば、多宝仏大地より出現して皆是真実と証明す。分身の諸仏来集して長舌を梵天に付く。此の言赫々たり、明々たり。晴天の日よりもあきらかに、夜中の満月のごとし。仰いで信ぜよ、伏して懐ふべし。

但し此の経に二十(「十」は昭和定本、縮刷遺文は「箇」とする)の大事あり。倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗等は名をもしらず。華厳宗と真言宗との二宗は偸かに盗んで自宗の骨目とせり。一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。竜樹天親知って、しかもいまだひろいいださず。但我が天台智者のみこれをいだけり。一念三千は十界互具よりことはじまれり。(P539)

 

日蓮は佐渡期以前において台密への一定の期待、配慮、評価をしていた時代、即ち天台僧として自己が在った時(もっとも佐後暫くはその意識は完全に消えてはいないが)の法門を「仏の爾前の経」とした後、文永9(1272)2月「開目抄」(真蹟曽存)を執筆。

 

開目抄で日蓮はいう。

釈尊一代50年の説法には、「仏教に入って五十余年の経々、八万法蔵を勘たるに、小乗あり大乗あり、権経あり実経あり、顕教・密教、軟語・麁語、実語・妄語、正見・邪見等の種々の差別あり」と、小乗教・大乗教そして権経・実経の教えがある。続いて顕教・密教、軟語・麁語、実語・妄語、正見・邪見等の種々の違いというものがある。

そのような中で「法華経計り教主釈尊の正言」「三世十方の諸仏の真言」なのである。大覚世尊=釈尊は「四十余年の年限」を指し示して、その中の「恒河の諸経を未顕真実」とし、「八年の法華は要当説真実」と定めたのである。「多宝仏」は「大地より出現して皆是真実と証明」した。「分身の諸仏」は「来集して長舌を梵天」につけたのである。「此の言赫々たり、明々たり。晴天の日よりもあきらかに、夜中の満月のごとし」なのであるから法華経を「仰いで信ぜよ、伏して懐ふべし」なのだ。

だが「此の経(法華経)に二十の大事」というものがある。「倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗等」などは「名をも」知らない。「華厳宗と真言宗との二宗」に至っては「偸かに盗んで自宗の骨目(教義の肝要)」としている。

「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづ()めたり。竜樹天親は知って、しかもいまだひろいいださず。但我が天台智者のみこれ(一念三千)をいだけり」なのである。その「一念三千」は「十界互具よりこと」始まるのである。

 

このように、法華経と他経の決定的な相違点でもあり、法華経が他経に勝れる所以として「一念三千」が寿量品の文底に沈められていることを説くのである。

筆者の観想だが、「寿量品の文の底」とは見事なる発想、着眼であり、これは法難を重ねる過程で「法華経身読」から「法華経との一体化」へと高まった日蓮の法華経信仰と内面世界の昇華を示すものだと思う。我が身と法華経と各別ではあるが、二つにして一つという境地を確立したことによって法華経を文字として見るのみならず、そこに込められたる釈尊=久遠仏の真意を汲み取るまでに至ったことを意味しているものか。いわば、法華経に向かい合い、そこに説かれている世界に近づかんという段階から、受難の連続、そして最終的には竜口という「法華経故の死」によって、我が身が=日蓮の身は、法華経と化したともいえるだろう。

 

ここにおいて「日蓮法華教」が誕生した、といえるのではないだろうか。

 

ただしこれは日蓮と彼の信仰圏にある者にのみ通用する捉え方であり、他宗の信奉者からすれば「一念三千が『寿量品の文の底』とは随分と勝手な・・・」ということになる。客観的に見れば確かにその通りだろうが、しかし、宗教というものは部外者から見れば「手前勝手な論理で構成されている」ということはいつの時代でも変わらない「常なるもの」ではないだろうか。

 

この時の日蓮はいわば「一旦死んで新しく生まれた人」となっており、独特の境地である故に従来のもの、既存のものからも「新思考」の視点で捉えなおすことにより「新説を創出」し、「新展開」したものなのだろう。言葉を変えれば、教理的新展開を期す日蓮には、法華経が最勝・最第一であることを証するものとして、法華経の経文以外にも何かしらが必要だった。それを天台の「一念三千」に見出した、その根拠を彼独自の思考として寿量品の文底に位置付けたようだ。

 

天台の一念三千を日蓮の法華経信仰世界に摂り入れたことに見られるように、既存のものを摂り入れ包みこみ、独自の思考で教理として説示していくのが日蓮の常であったと思え、これは「日蓮的摂入・包摂思想」ともいえるだろうか。

 

日蓮は「開目抄」で法華経の文にはない「一念三千の法門」の根拠を「法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」と「定義」して、次は「観心本尊抄」(文永10[1273]425日 真蹟)で「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたもう」(P720)とすることにより、事実の上で「一念三千の珠を包んだ妙法蓮華経」を授与する自己を、久遠仏に連なりその慈悲の振舞を体現する「仏教正系にある者」として位置付け、それを「顕仏未来記」(文永10[1273]511日 真蹟曽存)で「安州の日蓮は恐らくは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通す。三に一を加へて三国四師と号づく」(P743)とするのである。

 

 

このような展開に関して、「日本思想大系 月報8 日蓮」(197012月 岩波書店)での横超慧日氏の論考「日蓮の三国四師論」には、学ぶところが多々あると思う。

以下、引用

 

次に日蓮は、仏になる道は華厳・三論・法相・真言などそれぞれに説かれるが、ただ天台の一念三千こそ仏になるべき道だといい、これは法華経の中に説かれているが、天台がはじめてこれを見出したという。一念三千を力説する点で日蓮と天台の関係は根元的なもののように思われる。しかし天台が法華経の中から一念三千の説を見出したといっても、経文中に文字として説かれているというのでなく、天台が法華経の開会思想を体得してそれを自分の哲学として形成したのが一念三千の説であった。だから現今の原典学者や、経典成立史の研究者がどんなに緻密な科学的検証を加えても、そういう方法で法華経の中から一念三千説が出てくる根拠を見出し得るというものではないのである。

 

同様のことが日蓮についても云われる。日蓮をして云わしめれば、南岳・天台は法華経の中の迹門を表とし本門を裏としていたから、一念三千を説くことは説いたが、理具の論に止まっていた。これはまだ像法の時であって、円の時に至っていなかったためである。しかるに今や時は末法で正しく円教の弘められるべき時に及んだ。それゆえ事行の一念三千たる南無妙法蓮華経の五字はここに純円一実の教として流布すべきであるという(観心本尊抄・如説修行抄)

この事行の一念三千ということ、またそれが本門寿量品の文の底にしずめられているということ(開目抄)など、こうしたことは一念三千という語こそ天台に負うものであっても、かような展開は天台の所詮全く関知せぬところであった。

 

そうしてみると、日蓮は天台を相承す、といいながら天台に忠実であったといえるかどうか。日蓮にしてみれば、忠実だとか相承するとかいうのは、彼があったから我があるというのでなく、我の所見が根底において彼に一致するという信念の表明に過ぎないのである。

では我の所見が根底において彼に一致するという信念は、いったいどんな意味を持つものか。我の所見が正しいと確信できるならば、天台であろうと伝教であろうと、そんな他の人々の所見と一致しようがするまいがどうでもよいではないかとも考えられる。

私はここに自身はともかく他人を説伏する上の無意識裡における依憑心がひそんでいたと考えたい。或は権威思想といってよいかも知れぬ。自分自身にとってもそれが実は支えとなるのであり、宗教というものは本質的にそういうものだと思う。

天台は博い学問と遠大な識見と深い思索を備えた人であった。そして弟子から自解仏乗の人と讃えられている(法華玄義)。しかし一方でその天台は金口相承と称して釈迦仏以後嫡々相承したということがいわれているだけでなく(摩訶止観)、むかし霊鷲山で法華経が説かれた時の聴衆の一人であったという伝説が、早くも直弟子によって記録されている(智者別伝)。特にこの霊山聴衆という言い伝えは古来中国でも日本でも非常にひろく浸透したもので、伝教大師最澄も自分がひろめる天台法華宗は霊山親承の天台を通して釈迦仏に基づくものであると言っている(内証仏法相承血脈譜)

 

このようなことを考えてくると、三国祖師の伝統ということは、それを説く者自身の信念の問題であって、客観的判断によって論ぜられ確かめられるべき事柄ではないことが知られるであろう。

日蓮は文証・理証・現証をしきりに主張する。こういう証拠というものは、それがあることによって日蓮の信仰がおこったというべきではなく、彼の信仰・信念が先ずあってその上に他への説得力として要求せられたものと解すべきであろう。そういうように考えるならば、文証はその強引にしてかつ一面的な引用により却ってその領解の特殊性を反面から示す好資料とみられ、理証は論理の飛躍を証明し、現証は説得力のたくましさを反映するものと言うことができようか。

 

最後に私がこうした見方をなす傍証として、天台が摩訶止観の中で一心三観を説くにあたり率直に言明した次の一文を引いてこの稿を了ることにする。

 

かくの如きの解釈は観心に本づくものにして、実に経を読んで安置次比するに非ず。人の嫌疑を避けんがために、信を増長せしめんがために、幸に修多羅(注、経のこと)と合わせるをことさらに引きて証となせるのみ。

以上、引用。

 

 

3 転重軽受法門・経文のごとく振る舞う

 

ここで「開目抄」執筆の五ヶ月前、文永8(1271)105日に相模依智の本間邸にて大田左衛門尉、曾谷入道、金原法橋の三名に宛てた、転重軽受法門(与三子書)(真蹟)を想起したい。冒頭、日蓮自らが名付けた「転重軽受法門」というものを語っている。

 

涅槃経に転重軽受と申す法門あり。先業の重き今生につきずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかゝる重苦に値ひ候へば、地獄の苦しみぱっときへて、死に候へば人・天・三乗・一乗の益をうる事の候。不軽菩薩の悪口罵詈せられ、杖木瓦礫をかほるも、ゆへなきにはあらず。過去の誹謗正法のゆへかとみへて「其罪畢已」と説かれて候は、不軽菩薩の難に値ふゆへに、過去の罪の滅するかとみへはんべり是一。(P507)

 

日蓮は法華勧奨の故に竜口で死に直面する事態となったが、そこに「法華経」に加えて「涅槃経」による意味合いを見出す。それが涅槃経の「有智の人は智慧の力を以て能く地獄極重の業をして現世に軽く受けしめ、愚痴の人は現世に軽業を地獄に重く受く」との経文だ。

日蓮はこの経文をもとに「転重軽受の法門」と名付けて、法華経故の難は身読であり自らが法華経の行者たるの証となるのだが、そこには行者自身の過去謗法の重罪もあり、正法弘通による難を被ることにより重罪が消滅され未来地獄の責め苦も免れる。即ち今世の難は、実は未来の大苦を転じて軽く受けているものなのだ。来世には人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏と成るのである、としている。

 

日蓮は危機に当たっては、見事なまでに思考を回転させる人物だ。この時は「転重軽受と申す法門」を創出することにより、「文永8年の法難」という日蓮一門全体に降りかかった難を個々人の過去・現在・未来の三世という視点から捉え直させ、個人の信仰的観点に置き換え意味付けたといえるだろう。

 

それにより「一門の難に個が巻き込まれている」と弟子檀越が被害者的に認識すべきものではなく、「個の信仰上では今回の一門の難は実は喜ぶべきもの」と弟子檀越が「自らの成仏の機会である」と受けとめられるよう、その意味を大きく転じようとしたのである。これにより、日蓮は弟子檀越の信仰不退、更に一門の結束を図ろうとしたのではないか。

 

このような値難によって創出した転重軽受法門」は、「涅槃経」を用いての「日蓮的摂入・包摂思想」の展開といえるのではないかと思う。

 

当書では法華経身読の喜びも記している。

元々、天台系では「法華経は紙付に音(こえ)をあげてよめども」(P508)とあるように法華経読誦に励む持経者は多かった。しかし、「彼の経文のごとくふ()れま()う事わかた()く候か」と法華経通りの布教を行い、法華経通りの難を蒙った人はいなかった。

法華経には、「譬喩品に云く『経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賎憎嫉して結恨を懐かん』と。法師品に云く『如来の現在すら猶怨嫉多し、況んや滅度の後をや』と。勧持品に云く『刀杖を加へ乃至数々擯出せられん』と。安楽行品に云く『一切世間、怨多くして信じ難し』と」、このように法を弘める者が受ける迫害が予見されている。

だが、「此等は経文には候へども、何の世にかゝるべしともしられず」経文に記されているだけの状態で、いったい、いつの時代に経典の文字が現実に顕現するのか。

「過去の不軽菩薩・覚徳比丘なんどこそ、身にあ()たりてよ()みまいらせて候ひけるとみへはんべ()れ。現在には正像二千年はさてを()きぬ」遠い昔の不軽菩薩・覚徳比丘らこそ、身で読んだのだ。現在では正法・像法と釈尊滅後二千年も経過してしまったことはさて置く。

「末法に入っては、此の日本国には当時は日蓮一人み()へ候か」末法今時の日本国において、それら法華経通りの難を経験したのは日蓮、ただ一人だけと見えるのである、としている。

 

竜口の首の座という虎口を脱してからわずか20日、日蓮の法華経信仰の確信が深められていく過程をうかがわせる遺文が「転重軽受法門(与三子書)だと思うのである。

 

 

4 四条金吾殿御返事・生身の釈尊=久遠仏への直参

 

次に「開目抄」と同年に著された系年・文永9(1272)「四条金吾殿御返事(梵音声書)(日興本)を見てみよう。

 

但し法華経に云く「若し善男子善女人我が滅度の後に能く竊かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん、当に知るべし是の人は則ち如来の使如来の所遣として如来の事を行ずるなり」等云云、法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり、然れば日蓮賎身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来れり、此れを一言もそしらん人人は罪を無間に開き一字一句も供養せん人は無数の仏を供養するにもすぎたりと見えたり。(P664)

 

日蓮は自らの仏教上の立場を「然れば日蓮賎身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来れり」としており、それは教主釈尊、即ち久遠仏の使いとして末法に法華経を弘める立場であること即ち、如来使としての本分を明示している。

 

同様の文は他にもある。

一谷入道御書 真蹟断片(P996)

日蓮は愚かなれども、釈迦仏の御使ひ・法華経の行者なりとなのり候を

 

種種御振舞御書 真蹟曽存(P976)

日蓮は幼若の者なれども、法華経を弘むれば釈迦仏の御使ひぞかし

 

これらにより日蓮は「久遠仏の使い」という立場を明らかにしているのである。

先に見たように、日蓮は「仏と申すは三界の国主、大梵王・第六天の魔王・帝釈・日月・四天・転輪聖王・諸王の師なり、主なり、親なり。三界の諸王は皆此の釈迦仏より分かち給ひて、諸国の総領・別領等の主となし給へり。」(P881 神国王御書 真蹟)と「久遠仏三界国主観」を説示し、「娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領なり。大地・虚空・山海・草木一分も他仏の有ならず。又一切衆生は釈尊の御子なり」(P992 一谷入道御書 真蹟)と、久遠仏が娑婆世界を領有するとの説示をしている。

 

久遠仏は二千二百二十余年の過去に法華経を説き、現在も「我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」(法華経如来寿量品第十六)とその説法教化は絶えることなく、更には現実の「娑婆世界を領有」する三界の国主」と日蓮は位置付けるのである。

 

しかしながら、その久遠仏は可視的世界に存在するものではなく、であれば、久遠仏の教えを、特に出世の本懐たる法華経の功徳力を証明する「如来の使い」が存在しなければ、久遠仏の教えは滅してしまう。

逆に「如来の使い」が存在することによって、久遠仏の教えは末法今の時に流れ通うことになる。久遠仏は実在せずとも、その教えの実在により「教理的実在として尊信」されることとなるのだ。

 

日蓮は久遠仏の教え、慈悲を通わせる「如来の使い」即ち末法の導師を、法華経弘通故の大難に遭遇した自身のこととして、

日蓮だにも此の国に生まれずは、ほとをど(殆)世尊は大妄語の人、八十万億那由他の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし(P559 開目抄)

日蓮より外の諸僧、たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ、刀杖等を加えらるる者ある。日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ」()

「末法の始めのしるし、恐怖悪世中の金言のあうゆえに、但日蓮一人これをよめり」(P560 同抄)

「日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん」()

等と明言する。

 

日蓮によって久遠仏の教えは真実と証明され、肉身なき久遠仏も末法今の時、法華経信仰世界に実在することになる。そのような久遠仏の説いた法華経を日本国に於いて証明し、国土の民を法華経へと導く師である自己の仏教教理上の立場は、

 

一谷入道御書 真蹟断片(P996)

日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし。

 

下山御消息 真蹟断片(P1331)

余は日本国の人々には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり。一には父母也、二には師匠也、三には主君の御使也。

 

撰時抄 真蹟(P1018)

法華経をひろむる者は日本の一切衆生の父母なり。章安大師云く「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」等云云。されば日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、又主君なり。

 

と仏に備わる「主師親三徳」が自らにあることを表明するに至るのである。

これは法華経との同化は即ち久遠仏との同化、体現でもあり、その意識が日蓮に内在した故になされたものではないだろうか。

 

このような久遠仏の体現者である日蓮であればこそ、「此れを一言もそしらん人人は罪を無間に開き一字一句も供養せん人は無数の仏を供養するにもすぎたりと見えたり」(四条金吾殿御返事・梵音声書 定P664)と記し、自己(日蓮)に対して「供養」する徳、「謗る」罪を明示するのである。

 

続いて釈迦仏と法華経の文字とはかはれども、心は一つなり。然れば法華経の文字を拝見せさせ給ふは、生身の釈迦如来にあ()ひまい()らせたりとおぼしめすべし」(P666)と、「法華経の文字を拝見」に万感の思いを込めたのであろう、法華経を通しての生身の釈尊=久遠仏への直参を説示する。

 

もちろん、他宗からすれば「法華経を読んでの確信に過ぎない」ということになろうが、宗教的な悟達、達観というものは余人のうかがい知れない、法界にある当人一人にだけ許されたものではないだろうか。後はそれを信ずるか否か、聞法する側の捉え方になってくる、ということだろう。

 

 

5 開目抄・智顗、最澄を超えて

 

「開目抄」の「一念三千」に視点を戻そう。

同抄では「一念三千」について「但我が天台智者のみこれをいだけり」(P539)としているが、中国の天台大師智顗(538597)は「摩訶止観五の上」で一度説示しただけであり、妙楽大師湛然(711782・中国天台宗第6)が「止観輔行伝弘決五」にて展開するようになった。

 

中国天台宗・初祖の慧文が唱えた一心三観を前提に、智顗は十如是、十界互具、三世間により一念三千の法門を樹立して衆生成仏の根本となる原理を明らかにした。心に万法、宇宙の森羅万象がありとして、自己の生命・内面世界を観察(内観)、瞑想して解脱、悟りの境地に達しようという「観心」である。それを日蓮は教相ではなく「寿量品の文の底」にあり、と文字化されていない「目に見えないものを読みとった」とするのである。

 

そして中国の智顗・日本の最澄と日蓮との相違点は、

「されば日蓮が法華経の智解は天台伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし」(P559)

「『数々見擯出』等云云、日蓮法華経のゆへに度々ながされずば、数々の二字いかんがせん。此の二字は、天台・伝教もいまだよみ給はず。況んや余人をや。末法の始めのしるし、『恐怖悪世中』の金言のあふゆへに、但日蓮一人これをよめり」(P560)

と、二度の流罪、身命に及ぶ難を乗り越え、一切衆生を救うために法華経を身読してきたところにあるとし、久遠仏に連なる法華経の諸師の系譜の中では、日蓮が第一であると位置付ける。

 

文永3(1266)16日の「法華題目抄」(P395 真蹟断片)では「問うて云はく、妙法蓮華経の五字にはいくばくの功徳をおさめたるや。答へて云はく、大海は衆流を納め、大地は有情非情を持ち、如意宝珠は万宝を雨らし、梵王は三界を領す。妙法蓮華経の五字も亦復是くの如し。一切の九界の衆生並びに仏界を納めたり。十界を納むれば亦十界の依報の国土を収む」と、妙法蓮華経に十界と依報の国土を収めるとしていたものを、6年後の「開目抄」では「一念三千」と明示した。

 

日蓮はこれにより従来、法華経最第一・専修唱題を主張してきたことの、教理的な裏付けと自説の補強作業を行ったことになる。そして久遠仏の法華経の系譜に連なる先師たる智顗・最澄をも超えた、第一の立場であることを自己規定したのである。

 

 

6 観心本尊抄・妙法曼荼羅本尊の図顕と本門の三つの法門へ

 

日蓮は文永10(1273)425日付けで著した法門書「観心本尊抄」(真蹟)において、直接の表現はなさずとも上行菩薩たることを暗示して「釈尊より付属を受けた」と自己の内観世界を顕し、妙法を具現化した文字による妙法曼荼羅の図顕を宣言する。

 

此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於いては仏猶文殊・薬王等にも之を付属し給わず。何に況んや其の已下をや。但地涌千界を召して、八品を説いて之を付属し給う。

其の本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔空に居()し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏。釈尊の脇士は上行等の四菩薩。文殊・弥勒等の四菩薩は眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月郷を見るが如し。十方の諸仏は、大地の上に処したまう。迹仏・迹土を表する故也。是の如き本尊は在世五十余年に之無し。八年の間、但、八品に限る。(P712)

 

この「観心本尊抄」以降において、日蓮の法門は一大転換を成し、それまでの「台密の流れを汲む」ものから脱却して「本尊抄」説示の相貌通りの、十界を初めて互具した佐渡始顕曼荼羅の図顕、そして「本門の三つの法門」説示という、「真の立教」ともいうべき展開が成されていく。

 

そのことは周知の通り、「御本尊集」(立正安国会)に収録されて確認することのできる曼荼羅の図顕数が佐渡より鎌倉に帰還の後、身延入山以降になると激増することからうかがえよう。

 

文永8(1271)

一幅 NO1

 

文永9(1272)

一幅 NO2

 

佐渡期と推測

九幅  NO33-23-34567825

 

文永10(1273)

三幅  佐渡始顕曼荼羅とNO912曼荼羅(この頃の図顕と推測される)

 

文永11(1274)

八幅 NO1011131415161718曼荼羅(年月日のないものはこの頃の図顕と推測される)

 

文永12年・建治元年(1275)

十一幅 NO19NO30

 

建治2(1276)

十一幅 NO31NO40(32-2あり)

 

建治3(1277)

六幅 NO41NO46

 

弘安元年(1278)

十二幅 NO47NO58

 

弘安2(1279)

十三幅 NO59NO70(68-2あり)

 

弘安3(1280)

三十一幅 NO71NO101

 

弘安4(1281)

十五幅 NO102NO116

 

弘安5(1282)

七幅 NO117NO123

 

 

7 富木入道殿御返事(禀権出界抄)・第三の法門

 

富木氏が天台僧の了性房と法論。その時の顛末を日蓮に報告したのを受けて、弘安元年(1278)101日、富木氏に報じた「富木入道殿御返事(禀権出界[ほんごんしゅっかい])(真蹟)

(同書の系年は昭和定本によるが、熱原法難に関連する記述が見られること、筆跡と花押が弘安2[1279]101日の『聖人御難事』に似通っていることから実際は弘安2[1279]とされる)

 

法華経と爾前と引き向けて勝劣浅深を判ずるに、当分跨節(とうぶんかせつ)の事に三つの様有り。日蓮が法門は第三の法門なり。世間に粗(ほぼ)夢の如く一・二をば申せども、第三をば申さず候。第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了()へず。所詮末法の今に譲り与へしなり。五五百歳とは是なり。(P1589)

 

日蓮所説の法門は「天台・妙楽・伝教」等の先師方も「粗之を示せども未だ事了へず」であった。それは「所詮末法の今に譲り与へ」られたものであり、「五五百歳」の時に当たって「日蓮が法門は第三の法門」として説いている、とする。

 

このように日蓮は先師・先達をも超える独自の法門を宣言しており、以前の「日蓮賎しき身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来たれり」(P664)との文、即ち久遠仏に直参し、久遠仏から末法今時の日本国に派遣されてきた如来の使いであるとの域から「日蓮が法門は第三の法門」として、その独自性を鮮明化しているのである。それは「久遠仏の教えと慈悲を末法に流れ通わす体現者・主体者」としての意識が、日蓮の胸にあった故ではないだろうか。

  

2024.1.29