身延草庵の本尊に関する一考          1 御書に見える身延草庵の本尊

文永8(1271)10月から始まり佐渡期から身延期にかけて、曼荼羅を書き顕して弟子檀越に授与した日蓮。この間、居所に安置して拝したことが明確に分かるものは「小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし」(神国王御書)、「教主釈尊の御宝前」(忘持経事)とあるように、釈尊像と法華経、他の経典群などです。

 

天台大師講の時は「大師講を、をこ()なうべし。大師とてまいらせて候」(弁殿尼御前御書)と、智顗(天台大師)の像が置かれていました。弘安3(1280)1129日の「富木殿御返事」には「鵞目一結、天台大師の御宝前を荘厳し候ひ了んぬ。」とあるので、身延の草庵でも智顗像を安置していることがうかがわれます。日蓮が『自ら書いた曼荼羅を居所に奉掲した』との直接的な記述は、意外なことに御書には管見の限り見当たらず、「鵞目(がもく)一貫送り給びて法華経の御宝前に申し上げ候ひ了んぬ」(智妙房御返事)と、身延入山以降の御書によく見られる「法華経の御宝前」との記述に関して、「法華経は曼荼羅を意味するのではないか」との解釈により曼荼羅奉掲説が唱えられていたりします。

 

「いたりする」というのは、反対説=仏像説が根強くあるからで、大要としては「日蓮の身延入山以降、曼荼羅を奉安した明確な記述はなく、御書に見えるのは『教主釈尊の御宝前』『法華経の御宝前』との表現であり、これ即ち身延草庵における本尊は釈尊と法華経であることを示しており、曼荼羅は何らかの仏事、法事等で一時的に奉掲されたにすぎないことを物語っているといえよう」というものです。

 

さて、どうなのでしょう?

身延草庵で本尊として拝されたのは仏像と法華経だけだったのでしょうか。

 

視点を変えて、日蓮が「法華経の肝心を題目・妙法・妙法蓮華経・妙法五字・南無妙法蓮華経」と説示している書を確認してみましょう。

 

*其の上法華経の肝心たる方便寿量の一念三千久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり。

唱法華題目抄

 

*此の本門の肝心・南無妙法蓮華経の五字に於ては仏・猶文殊薬王等にも之を付属し給わず、何に況や其の已外をや。但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う。

観心本尊抄

 

*所詮迹化他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず。末法の初は謗法の国にして悪機なる故に之を止めて、地涌千界の大菩薩を召して、寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う。

 

*但し彼の白法隠没の次には、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の一閻浮提の内・八万の国あり。其の国国に八万の王あり。王王ごとに臣下並びに万民までも、今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり。

報恩抄

 

*問うて云く、汝が心如何。答う、南無妙法蓮華経肝心なり

 

*これは又地涌の大菩薩末法の初めに出現せさせ給いて、本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給うべき先序のためなり。

下山御消息

 

*法王の宣旨背きがたければ経文に任せて権実二教のいくさを起し、忍辱の鎧を著て妙教の剣を提げ、一部八巻の肝心・妙法五字の旗を指上て未顕真実の弓をはり

如説修行抄

 

*日蓮が法華経の肝心たる題目を日本国に弘通し候は諸天世間の眼にあらずや。

諌暁八幡抄

 

*法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字

新尼御前御返事

 

*此の法華経の肝心題目の五字

 

*法華経の肝心諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字 

種種御振舞御書

 

*一経の内の肝心は題目におさまれり

曾谷入道殿御返事

 

*所詮寿量品の肝心南無妙法蓮華経こそ十方三世の諸仏の母にて御坐し候へ。

寿量品得意抄

 

*本門の肝心たる南無妙法蓮華経

妙一女御返事

 

*肝心たる南無妙法蓮華経の五字

松野殿後家尼御前御返事

 

*八万聖教の肝心法華経の眼目たる妙法蓮華経の五字

高橋入道殿御返事

 

*一切の事につけて所詮肝要と申す事あり。法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目にて候。

妙法尼御前御返事

 

このように日蓮は「法華経の肝心は南無妙法蓮華経である」と幾度も教示しており、その南無妙法蓮華経という「法華経の題目を以て本尊とすべし」(本尊問答抄 弘安元[1278]9)とするのですから、「法華経の御宝前」という時、それは「南無妙法蓮華経の御宝前」即ち「法華経(の題目)の御宝前=南無妙法蓮華経の本尊の御宝前」と理解するのは可能ではないでしょうか。

 

一般的に「御宝前」とは「神仏の御前」と解釈され、日蓮法華の信仰世界で御宝前の「奥にある神仏」、即ち本尊は「本門の教主釈尊」(報恩抄)であり、それは曼荼羅であることは先に確認しました(報恩抄の『本門の教主釈尊を本尊とすべし』について」「『報恩抄』の本門の教主釈尊とは」参照)

平安から鎌倉時代、世間一般、信仰者が認識する本尊は仏像ですが、日蓮はそのような「仏教的常識」の中で自らが書顕した曼荼羅を本尊としました。本尊たる曼荼羅に、世間通途(つうず=一般的)の概念をそのまま用いて「教主釈尊」「仏像」と呼称したと考えられるのです。一方で、日蓮が「法華経の御宝前」と書くとき、そこには「法華経の(肝心たる南無妙法蓮華経の題目を本尊とした曼荼羅の)御宝前」という意が込められていたのではないでしょうか。

 

「本尊問答抄」の別の箇所では「問うて云く、然らば汝・云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや。答う、上に挙ぐるところの経釈を見給へ、私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代、今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり」とあります。

『なぜ日蓮は釈迦を以て本尊とせずに、法華経の題目を本尊とするのだろうか。

答えよう、先に挙げた経釈をよく見るべきです。法華経の題目を本尊とするのは私の義ではなく釈尊と天台が法華経を本尊と定めているのです。末法当今の日蓮も、仏と天台との如く法華経を以て本尊とするのです』

というものですが、日蓮が「法華経の題目を本尊とする理由は」と問いを設けたのに対して、答えでは「日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とする」と、法華経に続く「の題目」が省略されていることは注目すべきでしょう。答えの中での法華経は法華経の題目と理解され、これは『日蓮が法華経と記述した時、前後の文脈からは法華経の題目=本尊が含意されることがあることを示すもの』といえるでしょう。

 

 

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