1273年・文永10年 癸酉(みずのととり) 52歳

亀山天皇

 

北条時宗

 

128

書を最蓮房に与う

「祈禱経送状(きとうきょうおくりじょう)

(1-115P688、創新279P1785、校1-119P745、全P1356、新P641)

佐渡一谷・最蓮房日浄

創価学会新版・最蓮房

 

日像「祈祷経之事」(抄写)

日朝本 平16 真蹟なし

録内38-19 遺14-20 縮914

 

*録内「最蓮房御返事=祈祷経送状」

昭和定本「祈祷経送状」

平成校定「最蓮房御返事(祈祷経送状)

 

 

法華経の功力、釈尊の金言広宣流布の大願

一、仰せを蒙りて候末法の行者息災延命の祈(きとう)の事。別紙に一巻註し進(まい)らせ候。毎日一返欠如無く読誦せらるべく候。日蓮も信じ始め候ひし日より毎日此等の勘文を誦し候ひて、仏天に祈誓し候によりて、種々の大難に遇ふと雖も法華経の功力、釈尊の金言深重なる故に今まで相違無く候なり。

其れに付けても法華経の行者は信心に退転無く身に詐親(さしん)無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥(たし)かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり。

 

 

215

書を著すと伝う

法華宗内証仏法血脈」

(1-116P691、校3真偽未決書10P2853)

佐渡一谷

日朝本 満下291 真蹟なし

1-1 録外18-10 遺14-23 縮917

*平成校定「法華宗内証仏法血脈(法華血脈書内証御書) 

 

 

313

佐渡妙円尼(世尊寺2代下江房日増室) 寂と伝う(佐渡世尊寺過去帳)

 

 

3

趙良弼(元使) 太宰府に至るも入京できずに帰国(東国通鑑)

 

                
                

425

法門書を著す

「如来滅後五五百歳始観心本尊抄

(にょらいのめつごごのごひゃくさいにはじむかんじんのほんぞんしょう)(観心本尊抄)

(1-118P702、創新6P122、校1-121P749、全P238、新P644)

佐渡一谷

 

真蹟171帖完(但し表裏記載)・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

日興本・京都府京都市左京区新高倉通孫橋上ル法皇寺町 要法寺(ようぼうじ)

日高本38紙、日祐本・京都府京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町 本法寺蔵

日朝本 平8

録内8-1 遺14-32 縮928

 

*平成校定・全集「如来滅後五五百歳始観心本尊抄(観心本尊抄)

 

*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(19131914年 神保弁静編)

如来滅後五五百歳始観心本尊抄

 

*日蓮宗新聞2011820

中尾堯氏「ご真蹟に触れる」313

平成23(2011)83日、4日、中山法華経寺聖教殿の大掃除が文化庁の指導のもと行われる。その際、「観心本尊抄」を詳細に確認。同抄は全体で17紙を綴じた「帖」に染筆されている。そのうち、第13紙からの五紙は一回り小さく光沢のある料紙が用いられている。これは、従来は強靭で光沢のある「雁皮紙(がんぴし)」であると判断されてきたが、紙の繊維を顕微鏡で詳細に観察したところ「楮紙(ちょし)」であることが判明した。(要旨)

 

*冒頭、「本朝沙門 日蓮撰す」

 

*本門釈尊為脇士について

「観心本尊抄」の「本門の釈尊、脇士」をめぐって

 

・「法華仏教研究」14号 花野充道氏の論考「日蓮の本尊論と『日女御前御返事』」

・「法華仏教研究」21号 四方弘道氏の論考「『観心本尊抄』の本門釈尊為脇士について」

・「法華仏教研究」30号 藤本坦孝氏の論考「『諸法実相抄』に於ける凡夫について」

 

*「法華仏教研究」21号 田村完爾氏の論考「日蓮聖人の本迹論とその展開」よりP13

日蓮聖人は最初から最後まで均衡や調和、統一のとれた完全に論理一貫した教学を示したわけではありません。日蓮聖人遺文を通覧すれば、真蹟遺文の中にでさえ、一見して主張的矛盾や論理的飛躍や多面的な発想が含まれています。たとえば遺文の中には、教主論としては釈迦仏中心論の要素が頻出する一方で、日蓮本仏論の根拠として採用される説示も見いだせます。 

 

 

426

「観心本尊抄」を富木常忍・大田入道・教信御房に送る

「観心本尊抄送状(かんじんのほんぞんしょうおくりじょう)

(1-119P721、創新7P147、校1-122P769、全P255、新P662)

佐渡一谷・富木常忍

 

真蹟2紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

満上62 宝5

録外3-11 受2-22 遺14-52 縮957

 

*本満寺本「観心本尊抄送状」

昭和定本「観心本尊抄副状」

創新「観心本尊抄送状」

平成校定「観心本尊抄副状(観心本尊抄送状)

全集「観心本尊抄送状」

*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(19131914年 神保弁静編)

本尊抄御副状

 

 

日蓮当身の大事

(かたびら)一つ、墨三長、筆五管給()び候ひ了(おわ)んぬ。観心の法門少々之(これ)を註し、太田殿・教信御房等に奉る。此の事日蓮当身の大事なり。之を秘して無二の志を見ば之を開拓せらるべきか。此の書は難多く答へ少なし、未聞の事なれば人の耳目(じもく)之を驚動すべきか。設ひ他見に及ぶとも、三人四人座を並べて之を読むこと勿(なか)れ。仏滅後二千二百二十余年、未だ此の書の心有らず、国難を顧みず五五百歳を期して之を演説す。乞()ひ願はくば一見を歴()()たるの輩、師弟共に霊山浄土に詣でて、三仏の顔貌(げんみょう)を拝見したてまつらん。

 

⇒意訳

(富木常忍から送られた)一重の着物、墨三丁、筆五本を受領致しました。「観心の法門」について少々、「観心本尊抄」に記しました。貴殿(富木)、大田(乗明)殿・(曾谷)教信御房等に奉ります。

「此の事」観心本尊抄が「日蓮」の「当身の大事」なのであり、「之」を「秘して」ください。「無二の志を」有する者だけに、「之を開拓」公開してもよろしいでしょう。「此の書は」「難」問が「多く答へ」は「少な」いのです。前代「未聞の事」を記しているので、読む「人」は「耳目」を「驚動」させることでしょう。たとえ「他」人に「見」せることがあったとしても、「三人、四人」と「座を並べて」「之」観心本尊抄を「読むこと」があってはいけません。

釈尊滅後二千二百二十余年の間、未だかつてなき曼荼羅の法義を「観心本尊抄」に記しましたが、このような法門は説き顕されたことはありません。国難を顧みずに、五五百歳(末法の始めの五百年)の時を期して説き顕したのです。こい願わくば、「観心本尊抄」を読了した者達は、師弟共に霊山浄土に詣でて三仏「釈迦如来・多宝如来・十方分身の諸仏」の顔貌を拝見し奉ることにいたしましょう。  

 

 

426

書を妙一尼に報ず

妙一尼御返事」

(1-120P722、創新243P1693、校1-123P770、新P663)

佐渡一谷・さじき妙一尼

創価学会新版・妙一尼

 

真蹟2紙完・滋賀県近江八幡市(おうみはちまんし)宮内町 瑞龍寺蔵

縮続190 

*平成校定「さじき殿御返事(妙一尼御返事)

 

 

*衆生を教化する歟

滝王丸之を遣使さる。

昔国王は自身を以て床座(しょうざ)と為し、千才の間阿私仙(あしせん)に仕(つか)へ奉り妙法蓮華経の五字を習ひ持つ、今の釈尊是なり。今の施主妙一比丘尼は貧道の身を扶(たす)けんとて小童に命じ、之を使はして法華経の行者に仕へ奉らしむ。彼は国王此は卑賎。彼は国に畏(おそ)れなし、此は勅勘の身。此は末代の凡女、彼は上代の聖人なり。志(こころざし)既に彼に超過す。来果何ぞ斉等ならざらんや。

弁殿は今年は鎌倉に住し衆生を教化する歟。

 

⇒妙一尼は佐渡の日蓮のもとに滝王を遣わして、給仕の任に当たらせる。

日蓮は、今年は日昭が鎌倉に住み続けて、衆生を教化する=弟子檀越を教導することを妙一尼に伝える。

 

 

4月頃

書を著す

「正当此時御書(しょうとうしじごしょ)

(1-121P723、校1-124P771、新P664)

佐渡一谷

 

真蹟111行断簡・京都府京都市上京区新町通鞍馬口下ル下清蔵口町 妙覚寺蔵

< 系年 >

昭和定本「文永104月頃()

*「観心本尊抄」の送り状ではないか。

「法華仏教研究」13号 土屋浩三氏の論考「重要法門の添え状について」

 

 

*本文

(まさ)しく此の時に当たる。而(しか)も随分(ずいぶん)()弟子等に之を語るべしと雖(いえど)も、国難・王難・数度の難等重々来る之()間、外聞之(がいぶんの)(はばか)り之を存じ、今に正義を宣()べず。我が弟子等定めて遺恨(いこん)有らんか。又、抑(そも)そも時之失(ときのとが)、之(これ)有る故、今(いま)(ほぼ)(これ)を註(しる)す。志有らん者度々之を聞き、其れを終えて後に之を送れ。咸(ことごと)く三度を以て限りと為()して聴聞(ちょうもん)を為すべし。其の後

 

⇒正義、即ち重要法門をいよいよ明かすときにいたり、その法門書を志ある門下が三度まではくり返し学び、次の者へ送るように指示。

正義」が何を指すのか?

「開目抄」は前年に四条金吾に託して門下一同に送られている。

この時期の法門書は「観心本尊抄」であり、送状に書かれた「此の事日蓮当身の大事なり。之を秘して無二の志を見ば之を開拓せらるべきか。此の書は難多く答へ少なし、未聞の事なれば人の耳目(じもく)之を驚動すべきか。設ひ他見に及ぶとも、三人四人座を並べて之を読むこと勿(なか)」と、当書の「今(いま)(ほぼ)(これ)を註(しる)す。志有らん者度々之を聞き、其れを終えて後に之を送れ。咸(ことごと)く三度を以て限りと為()して聴聞(ちょうもん)を為すべし」とは、重要法門の取り扱いに慎重を期す方向性は一致しており、「正当此時御書」は「観心本尊抄送状」と同じ意味合いがあるのではないか。

「観心本尊抄」で示された法門の取り扱いに慎重を期すことを念押しするために、「観心本尊抄送状」と「正当此時御書」の二つが発せられたのではないだろうか。

 

 

51

唱題房日唱 寂88歳と伝う(本化別頭仏祖統記・日蓮宗年表)

 

 

517

書を最蓮房に与う

「諸法実相抄」

(1-122P723、創新280P1788、校1-125P771、全P1358、新P664)

佐渡一谷・最蓮房

 

日朝本 真蹟なし

2-11 遺14-53 縮958

*平成校定「諸法実相抄(与最蓮房書)

 

*真撰説~「法華仏教研究」27号 川﨑弘志氏の論考「『諸法実相抄』の考察」(趣意)

最古の写本である日朝本には、同書を偽書とする根拠の一つである「凡夫本仏論」や「俱体俱用の三身」の「三身」の語彙(ごい)がない。日朝本が諸法実相抄の本来の姿ではないか。諸法実相抄は真撰である可能性が高い。

 

「法華仏教研究」30号 藤本坦孝氏の論考「『諸法実相抄』に於ける凡夫について」

 

 

本仏

されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御坐(おわ)し候へ。

経に云はく「如来秘密神通之力」是なり。

如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。然れば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしにさにては候はず、返って仏に三徳をかぶ()らせ奉るは凡夫なり。

其の故は如来と云ふは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり。

此の釈に本仏と云ふは凡夫なり、迹仏と云ふは仏なり。然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依って、倶体倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり。さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ。

 

 

広宣流布の時

日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつた()ふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。剰(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。

 

 

*一閻浮提第一の御本尊

此の文には日蓮が大事の法門どもかきて候ぞ。よくよく見ほどかせ給へ、意得させ給ふべし。一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。あひかまへて、あひかまへて、信心つよく候ふて三仏の守護をかうむらせ給ふべし。行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし。

 

 

527

北条政村 卒69(関東評定伝)

 

 

528

書を義浄房に与う

「義浄房御書(ぎじょうぼうごしょ)

(1-123P730、創新99P1196、校1-126P778、全P892、新P668)

佐渡一谷・義浄房

 

日朝本 満上27 宝5 真蹟なし

録外25-2 遺14-60 縮965

*昭和定本「義浄房御書(己心仏界抄)

創価学会新版「義浄房御書」

 

 

唯仏与仏

法華経の功徳と申すは唯仏与仏の境界、十方分身の智慧も及ぶか及ばざるかの内証なり。

 

 

*寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる

次に寿量品の法門は日蓮が身に取ってたの()みあることぞかし。天台・伝教等も粗(ほぼ)しらせ給へども言に出だして宣べ給はず。竜樹・天親等も亦是くの如し。

寿量品の自我偈に云はく「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云。日蓮が己心の仏果を此の文に依って顕はすなり。其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事此の経文なり、秘すべし秘すべし。

 

 

5

書を著す

「如説修行抄」

(1-124P731、創新36P599、校1-127P780、全P501、新P670)

佐渡一谷・人々御中

創価学会新版・門下一同

 

日尊本21紙・茨城県古河市新和田 富久成寺蔵

日朝本 平31

録内23-29 遺14-61 縮966

*平成校定「如説修行抄(随身不離抄)

 

*昭和定本

文末の「此の書御身を離さず常に御覧有るべく候」に続いて「永仁五年(1297)太才 五月 日 大夫日尊」と記す。

⇒本文と奥書部分は紙質が異なり、筆勢も別のものか。日尊と判ずるには問題があり要検討。

 

 

我等が本師釈迦如来

所詮仏法を修行せんには人の言を用ふべからず、只仰いで仏の金言をまぼ()るべきなり。我等が本師釈迦如来、初成道の始めより法華を説かんと思(おぼ)し食()ししかども、衆生の機根未熟なりしかば、先づ権教たる方便を四十余年が間説きて、後に真実たる法華経を説かせ給ひしなり。

 

 

本師釈迦如来

本師釈迦如来は在世八年の間折伏し給ひ、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年。今日蓮は二十余年の間権理を破るに其の間の大難数を知らず。仏の九横の大難に及ぶか及ばざるかは知らず、恐らくは天台・伝教も法華経の故に日蓮が如く大難に値ひ給ひし事なし。彼は只悪口怨嫉(あっくおんしつ)(ばか)りなり。

是は両度の御勘気、遠国の流罪、竜口の頸の座、頭の疵(きず)等、其の外悪口せられ、弟子等を流罪せられ、籠に入れられ、檀那の所領を取られ、御内を出だされし。是等の大難には竜樹・天台・伝教も争(いか)でか及び給ふべき。されば如説修行の法華経の行者には三類の強敵の杖(つえ)定んで有るべしと知り給へ。

 

 

511

書を著す

「顕仏未来記」

(1-125P738、創新37P606、校1-128P787、全P505、新P675)

佐渡一谷

昭和定本・創価学会新版・対告衆なし

 

真蹟12紙完・身延山久遠寺曽存(意・乾録等)

身延三世日進本完・身延山久遠寺蔵

日朝本 平14

録内27-27 遺14-68 縮973

 

 

*冒頭「沙門日蓮これを勘(かんが)う」

 

 

本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布

(しか)りと雖も仏の滅後に於て、四味三教等の邪執(じゃしゅう)を捨てゝ実大乗の法華経に帰せば、諸天善神並びに地涌千界等の菩薩法華の行者を守護せん。此の人は守護の力を得て本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか。

例せば威音王仏の像法の時、不軽菩薩「我深敬」等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し、一国の杖木等の大難を招きしが如し。彼の二十四字と此の五字と其の語殊(こと)なりと雖も其の意之同じ。彼の像法の末と是の末法の初めと全く同じ。彼の不軽菩薩は初随喜の人、日蓮は名字の凡夫なり。

⇒広宣流布する実体は「本門の本尊、妙法蓮華経の五字」と教示

 

 

日本より出づ

問うて曰く、仏記既に此くの如し、汝が未来記は如何。答へて曰く、仏記に順じて之を勘ふるに既に後五百歳の始めに相当たれり。仏法必ず東土の日本より出づべきなり。其の前相必ず正像に超過せる天変地夭之有るか。所謂仏生の時、転法輪の時、入涅槃の時、吉瑞凶瑞共に前後に絶えたる大瑞なり。

 

 

*教主釈尊に侍へ奉らん

日蓮此の道理を存じて既に二十一年なり。日来(ひごろ)の災、月来(つきごろ)の難、此の両三年の間の事、既に死罪に及ばんとす。今年今月万が一も身命を脱れ難きなり。世の人疑ひ有らば委細の事は弟子に之を問へ。

幸ひなるかな一生の内に無始の謗法を消滅せんことよ、悦ばしいかな未だ見聞せざる教主釈尊に侍(つか)へ奉らんことよ。願はくは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん。我を扶(たす)くる弟子等をば釈尊に之を申さん。我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進(まい)らせん。

 

 

*三国四師

 

伝教大師云はく「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり、浅きを去って深きに就()くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦(しんだん)に敷揚(ふよう)し、叡山の一家()は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す」等。安州の日蓮は恐らくは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通せん。三に一を加へて三国四師と号()づく。~   

 

桑門 日蓮 之を記す

 

 

5

四条金吾 鎌倉より佐渡に赴くと伝う

 

 

76

書を富木常忍に報ず

「土木殿御返事(経文符号の事)

(1-126P743、創新125P1298、校1-129P792、全P963、新P679)

佐渡一谷・富木常忍

 

真蹟4紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

続下5 遺15-1 縮979

 

*昭和定本「富木殿御返事」

創価学会新版「土木殿御返事(経文符号の事)

平成校定「富木殿御返事(伊与房器量物事)

全集「土木殿御返事」

*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(19131914年 神保弁静編)

富木殿御返事

 

 

伊与殿

伊与殿は器量物(きりょうもの)にて候ぞ。今年留め候ひ了んぬ。御勘気ゆりぬ事御歎(おんなげ)き候べからず候。当世(とうせい)日本国に子細(しさい)有るべきの由(よし)之を存す。定めて勘文(かんもん)の如く候べきか。設ひ日蓮死生不定なりと雖(いえど)も、妙法蓮華経の五字の流布は疑ひ無きものか。

⇒伊予房日頂は佐渡へ行き、そのまま留まる。

日蓮は厳しき現実の中でも、未来広宣流布への確信が漲る。

 

 

*寿量品の仏と肝要の五字

仏滅後二千二百二十余年、今に寿量品の仏と肝要の五字とは流布せず。当時果報を論ずれば、恐らくは伝教・天台にも超え竜樹・天親にも勝れたるか。文理(もんり)無くんば大慢豈(あに)之に過ぎんや。

 

 

*数々見擯出

幸ひなるかな我が身「数々見擯出(さくさくけんひんずい)」の文に当たること、悦ばしいかな悦ばしいかな。 

  

 

78

曼荼羅を図顕する

通称「佐渡始顕大曼荼羅」「佐渡始顕本尊」

「日亨本尊鑑」(P6) 「日蓮聖人真蹟の世界・上」(P60) 「宝剣 日蓮大聖人の教義」

*顕示年月日

文永十年七月八日

*身延山久遠寺曽存

*脇書

文永八年太才辛未九月十二日蒙御勘 遠流佐渡国同十年太才癸酉 七月八日図之

*讃文

此経則為閻浮提人 病之良薬 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死

( 薬王菩薩本事品第二十三 )

此法花経大曼陀羅 仏滅後二千二百二十余年 一閻浮提之内未曾有之 日蓮始図之

如来現在 猶多怨 嫉 況滅 度後 法花経弘通之故 有留難事 仏語不虚 也

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝仏 南無分身等諸仏 南無善徳等諸仏 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊弥勒等 南無舎利弗等声聞 不動明王 愛染明王 南無大梵天王等 南無釈提桓因等 南無持国天王 南無増長天王 南無広目天王 南無毘沙門天王 南無大日天等 南無大月天等 南無天照八幡等 南無四輪王 南無天台大師 南無伝教大師 南無阿修羅王等 南無鬼子母神 南無藍婆 南無毘藍婆 南無曲歯 南無花歯 南無黒歯 南無多髪 南無無厭足 南無持瓔珞 南無皇諦 南無奪一切精気

*寸法

176.3cm×79.0cm 絹本

 

 

*目録類

霊宝目録(朝師筆)

第一箱(四幅) 一、文永八年太才辛未九月十二日

 

乾師目録

一函四幅之内 文永十年太才癸酉七月八日絹地 総南無

 

(身延山久遠寺御霊宝記録)

宗祖御一代最初本尊也

 

亨師目録 

西土蔵宝物録

一、第一長持 黒塗 井桁橘 金紋

内宗祖曼荼羅ニ祖書入

文永十年太才癸酉七月八日 絹地 総南無 宗祖御一代最初本尊也

 

*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人の本尊論」(1925年 田辺善知著)

佐渡始顕の大曼陀羅の模写

 

*真偽論について

佐渡始顕本尊に関する一考

 

*佐渡の居所で安置された佐渡始顕本尊

身延草庵の本尊に関する一考

 

フリー百科事典Wikipedia 佐渡始顕本尊

 

 

713

幕府 御家人の質地の無償返却等を制定し、引付衆・奉行人に公正・迅速な訴訟を命ず

 

 

7

佐渡に石灰虫降り稲害

 

 

83

書を南部六郎三郎に報ず

「波木井三郎殿御返事(はきいさぶろうどのごへんじ)

(1-127P745、創新284P1808、校1-130P793、全P1369、新P680)

佐渡一谷・波木井三郎(甲斐国南部六郎三郎)

創価学会新版・南部六郎三郎(なんぶのろくろうさぶろう)

 

日興本8紙完(表裏記載)・日順本1紙・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵

満下348 宝19

録外(波木井三郎殿御返事)24-3423-20  録外(南部六郎三郎殿御返事)10-2

5-13 遺15-2 縮980

*平成校定「南部六郎三郎殿御返事(波木井三郎殿御返事)

 

 

*仏語を扶持・日蓮法師

但し法華経の行者有らば悪口・罵詈(めり)・刀杖・擯出(ひんずい)等せらるべし云云。此の経文を以て世間に配当するに一人も之無し、誰を以てか法華経の行者と為さん。敵人有りと雖も法華経の持者は無し。譬へば東有って西無く天有って地無きが如し、仏語妄説と成るべきか如何。予自讃に似たりと雖も之を勘へ出だして仏語を扶持(ふじ)す。所謂(いわゆる)日蓮法師是なり。

 

 

本門の教主妙法の五字

仏記して云はく「我が滅度の後、後五百歳の中に広宣流布し閻浮提に於て断絶せしむること無けん」等云云。

天台記して云はく「後五百歳遠く妙道に沾はん」等云云。

伝教大師記して云はく「正像稍(やや)過ぎ已()はって末法太(はなは)だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是其の時なり」等云云。

此等の経釈は末法の始を指し示すなり。

外道記して云はく「我が滅後一百年に当たって仏世に出でたまふ」云云。

儒家記して云はく「一千年の後仏法漢土に渡る」等云云。

是くの如き凡人の記文すら尚以て符契(ふけい)の如し。況んや伝教・天台をや。何に況んや釈迦・多宝の金口(こんく)の明記をや。当に知るべし、残る所の本門の教主妙法の五字、一閻浮提に流布せんこと疑ひ無き者か。

 

 

*罪業を捨てずして仏道を成ずる

(しか)るに貴辺は武士の家の仁(ひと)、昼夜殺生の悪人なり。家を捨てずして此所に至って何なる術(すべ)を以てか三悪道を脱るべきか。能()く能く私案有るべきか。法華経の心は当位即妙(とういそくみょう)・不改本位(ふがいほんい)と申して罪業を捨てずして仏道を成ずるなり。

 

 

*御談義有るべし

鎌倉に筑後房(ちくごぼう)・弁阿闍梨(べんあじゃり)・大進阿闍梨(だいしんあじゃり)と申す小僧等之有り。之を召して御尊び有るべし、御談義有るべし、大事の法門等粗申す。彼等は日本に未だ流布せざる大法少々之を有す。随って御学問に注(しる)し申すべきなり。

 

 

815

書を経王殿に報ず

「経王殿御返事」

(1-128P750、創新225P1632、校1-131P798、全P1124、新P685)

佐渡一谷

創価学会新版・四条金吾

 

真蹟なし

録外22-14 受7-4 遺15-7 縮985

*昭和定本「経王殿御返事(報四條氏書)

創価学会新版「経王殿御返事」

 

 

日蓮守護たる処の御本尊

(それ)について経王御前の事、二六時中に日月天に祈り申し候。先日のまぼ()り暫時も身をはなさずたもち給へ。其の御本尊は正法・像法二時には習へる人だにもなし。ましてかき顕はし奉る事たえたり。

師子王は前三後一と申して、あり()の子を取らんとするにも、又たけ()きものを取らんとする時も、いきを()ひを出だす事はたゞをな()じき事なり。日蓮守護たる処の御本尊をしたゝめ参らせ候事も師子王にをとるべからず。経に云はく「師子奮迅之力」とは是なり。

 

 

*鬼にかなぼう

又此の曼茶羅能く能く信じさせ給ふべし。南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかなる病さは()りをなすべきや。鬼子母神(きしもじん)・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さいは()いは愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし。いかなる処にて遊びたは()ぶるともつゝ()があるべからず。遊行(ゆぎょう)して畏れ無きこと師子王の如くなるべし。十羅刹女の中にも皐諦女(こうたいにょ)の守護ふかゝるべきなり。

但し御信心によるべし。つるぎ()なんども、すゝ()まざる人のためには用ふる事なし。法華経の剣は信心のけなげ(健気)なる人こそ用ふる事なれ。鬼にかなぼうたるべし。

 

 

*日蓮がたましひ

日蓮がたましひ()をすみ()にそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ。仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。妙楽云はく「顕本遠寿を以て其の命と為す」と釈し給ふ。

経王御前にはわざはひも転じて幸(さいわ)ひとなるべし。あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。「充満其願、如清涼池」「現世安穏、後生善処」疑ひなからん。

 

 

919

書を日昭ならびに尼御前に報ず

「弁殿並尼御前御書(べんどのならびにあまごぜんごしょ)

(1-129P752、創新227P1635、校1-132P800、全P1224、新P686)

佐渡一谷・日昭 尼御前(妙一尼か)

創価学会新版・日昭ならびに尼御前

 

真蹟2紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

満下380 宝12

録外5-22 遺15-9 縮987

 

*昭和定本「弁殿尼御前御書」

創価学会新版「弁殿並尼御前御書」

平成校定「弁殿尼御前御書(与日昭母書)

全集「弁殿尼御前御書(大兵興起御書)

*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(19131914年 神保弁静編)

貞当御書

 

 

一度もしりぞく心なし

第六天の魔王、十軍のいくさをを()こして、法華経の行者と生死海の海中にして、同居穢土(どうごえど)をと()られじ、うば()はんとあらそう。

日蓮其の身にあひあ()たりて、大兵をを()こして二十余年なり。日蓮一度もしり(退)ぞく心なし。しかりといえども弟子等・壇那等の中に臆病のもの、大体或はを()ち、或は退転の心あり。

 

*釈迦・多宝・十方分身の諸仏も御知見あるか

尼ごぜんの一文不通の小心に、いまゝでしり(退)ぞかせ給はぬ事申すばかりなし。其の上、自身のつか()うべきところに、下人を一人つけられて候事、定めて釈迦・多宝・十方分身の諸仏も御知見あるか。

 

*大師講

しげければとゞむ。弁殿に申す。大師講ををこ()なうべし。

大師とてまいらせて候。三郎左衛門尉殿に候文(ふみ)のなかに、涅槃経の後分(ごぶん)二巻、文句五の本末、授決集(じゅけつしゅう)の抄の上巻等、御随身あるべし。

 

 

927

朝廷 新制25ヶ条を宣下〔三代制符〕

 

 

9

書を四条金吾に報ず

「大果報御書」

(1-130P753、創新422P2144、校1-133P801、全P1298、新P687)

佐渡一谷・四条金吾

 

延山録外2 真蹟なし

縮続95

*昭和定本「文永109月頃」

創価学会新版・系年なし

 

 

*四条金吾の佐渡行

御かへりの後、七月十五日より已下いしばい(石灰)と申す虫ふりて、国大体三分のうへ()そん()じ候ひぬ。をほかた(大方)人のい()くべしともみへず候。

⇒文永107月以前に、四条金吾が佐渡の日蓮のもとを訪れていることがうかがわれる。

 

 

*釈迦如来の法華経

かうらい(高麗)・むこ(蒙古)の事うけ給はり候ひぬ。なにとなくとも釈迦如来の法華経を失ひ候ひつる上は、大果報ならば三年はよもとをも()ひ候ひつるに、いくさ・けかち(飢渇)つゞき候ひぬ。国はいかにも候へ、法華経のひろまらん事疑ひなかるべし。

⇒日本国がどうなろうとも法華経流布は必定と。

 

 

113

書を富木常忍に報ず

「土木殿(ときどの)御返事(越州嫡男[えっしゅうちゃくなん]ならびに妻尼[めあま]の事)

(1-131P754、創新126P1300、校1-134P802、全P964、新P688)

佐渡一谷・富木常忍

 

真蹟末尾1(13)断簡・京都府京都市山科区御陵大岩 本圀寺蔵

縮続152 

 

*創価学会新版では当書と昭和定本「越州嫡男並妻尼事(弘安41027)を一本化して、「土木殿御返事(越州嫡男ならびに妻尼の事)」とする。

*系年、弘安41027日とされる昭和定本「越州嫡男並妻尼事」が当書「土木殿御返事」の前半部分である。(興風談所平成15年のコラム「分蔵された一通の御書」坂井法曄氏)

 

 

*日本国一同に飢渇

白小袖一つ給()び候ひ了んぬ。今年、日本国一同に飢渇(けかち)の上、佐渡国には七月七日已下、天より忽(たちま)ちに石灰虫と申す虫の雨下()り一時に稲穀(とうこく)損失し了んぬ、其の上疫々(やくやく)処々に遍満す。方々(かたがた)死難脱れ難きか。事々(ことごと)紙上に之を尽くし難し。

 

 

113

書を日妙に報ず

「乙御前母御書(おとごぜんのははごしょ)

(1-132P754、創新241P1684、校1-135P803、全P1222、新P688)

佐渡一谷・乙御前母

創価学会新版・日妙

 

真蹟3紙完・兵庫県尼崎市寺町 長遠寺(じょうおんじ)

縮続144

 

 

*道のとをきに心ざしのあらわるゝ

天台大師の御弟子に章安と申せし人は、万里をわけて法華経をきかせ給ひき。伝教大師は三千里をすぎて止観をならい、玄奘三蔵は二十万里をゆきて般若経を得給へり。道のとを()きに心ざしのあらわるゝにや。

 

 

127

良観弟子・道観等の訴えにより佐渡の領主武蔵前司・大仏宣時、私の御教書を発して日蓮を弾圧(法華行者値難事・定P798)

 

 

この年

 

遠藤四郎盛国 改衣して下江房日増と称すと伝う(佐渡世尊寺縁起)

 

曾谷教信 「観心本尊抄」を拝して迹門不読の義を唱うと伝う

 

【 系年、文永10年と推定される書・曼荼羅本尊 】

 

書を(千日尼)に報ず

「妙法曼陀羅供養事(みょうほうまんだらくようじ)

(1-117P698、創新261P1726、校1-136P805、全P1305、新P689)

佐渡一谷・(千日尼)

日朝本 平1829 真蹟なし

 

録内28-5 遺14-30 縮925

*平成校定「妙法曼陀羅供養事(本尊供養抄)

 

 

成仏得道の導師

妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師、一切の女人の成仏の印文なり。冥途(めいど)にはともしびとなり、死出(しで)の山にては良馬となり、天には日月の如し、地には須弥山(しゅみせん)の如し。生死海の船なり。成仏得道の導師なり。此の大曼陀羅は仏滅後二千二百二十余年の間、一閻浮提の内には未だひろまらせ給はず。

 

 

書を著す

「直垂(ひたたれ)御書」

(1-133P756、校2-249P1293)

佐渡一谷

 

真蹟1紙断簡・第1(端書4行・本文11)・京都府京都市上京区寺町通今出川上ル二丁目鶴山町 本満寺蔵

< 系年 >

昭和定本「文永10()

平成校定「建治2年」

 

 

*本文

この御ふみ人にきかせ給(たま)うべからず候。
もし人々志しなんどあるならば、この三人のわらわ(童)がひたたれ(直垂)・ぬのこそで(布小袖)なんどのしたく(支度)せさせ給うべし。事かけて候わば、かたびらてい(帷子体)のものなり。大進の阿闍梨等にいいあわせて、ひたたれ(直垂)よきものにはかたびら(帷子)・ぬのこそで(布小袖)、三人して計りあわせ給え。

 

⇒鎌倉、下総で日蓮門下の指導にあたっていた大進阿闍梨をとおして、三人の子供のために帷子、布小袖などを用意するよう指示している。

 

 

書を最蓮房に与う

「当体義抄」

(1-134P757、創新38P613、校1-137P808、全P510、新P692)

佐渡一谷

創価学会新版・最蓮房

 

金綱集7抄出(日善筆) 日朝本 真蹟なし

録内23-9 遺15-10 縮988

 

 

送状を著す

「当体義抄送状」

(1-135P768、創新39P628、校1-138P819、全P519、新P703)

佐渡一谷・最蓮房

満上73 宝5 真蹟なし

録外3-14 遺15-21 縮1000

 

 

釈迦如来の御本懐

此の法門は妙経所詮(しょせん)の理にして釈迦如来の御本懐、地涌の大士に付嘱せる末法に弘通せん経の肝心なり。国主信心あらんの後始めて之を申すべき秘蔵の法門なり。日蓮より最蓮房に伝へ畢(おわ)んぬ。

 

 

書を(富木常忍)に報ず

「小乗大乗分別抄(しょうじょうだいじょうふんべつしょう)

(14-136P769P3010P3039、創新40P629、校1-139P820、全P520、新P704)

佐渡一谷・(富木常忍)

 

真蹟断片23紙・千葉県鴨川市小湊 誕生寺他20箇所蔵

満上146 宝4

録外6-9 遺15-21 縮1001

 

< 断片所在 >

654行・千葉県鴨川市小湊 誕生寺

704行・山梨県南巨摩郡身延町大野 本遠寺

311行・鳥取県米子市淀江町淀江 吉祥院

131行、171行・兵庫県豊岡市但東町赤花 法華寺

282行・山梨県南巨摩郡身延町 某家

141行、131行・静岡県静岡市清水区村松 海長寺

141行・山梨県南巨摩郡身延町下山 本国寺

392行・東京都大田区池上 池上本門寺

121行、906行・神奈川県鎌倉市大町 比企谷妙本寺

161行・千葉県千葉市中央区長洲 随喜文庫

413行・山梨県南巨摩郡身延町身延 身延山久遠寺

473行・京都府京都市左京区東大路二条下ル北門前町 妙伝寺

181行・静岡県伊豆の国市長岡 宗徳寺

71行・東京都港区高輪 円真寺

453行・千葉県千葉市緑区土気町 本寿寺

443行、61行・福井県越前市本町 妙高寺

141行・京都府京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町 本能寺

141行・千葉県茂原市茂原 藻原寺

152行・京都府京都市北区鷹峰北鷹峰町 常照寺

131行・東京都 某家

252行・石川県羽咋市竜谷町ヨ 妙成寺

 

 

*浄土

実義をも()て申さば、一切衆生の成仏のみならず、六道を出で十方の浄土に往生する事はかならず法華経の力なり。例せば日本国の人唐土(もろこし)の内裏(だいり)に入らん事は、必ず日本の国王の勅定によるべきが如し。穢土(えど)を離れて浄土に入らん事は必ず法華経の力なるべし。

 

 

書を(四条金吾)に報ず

「呵責謗法滅罪抄」

(1-137P779、創新196P1529、校1-140P830、全P1125、新P711)

佐渡一谷・(四条金吾)

 

満下331 宝19 真蹟なし

録外16-13 受4-20 遺15-32 縮1011

*平成校定「呵責謗法滅罪抄(与四条氏書)

 

 

教主釈尊の各の御心に入り替はらせ給ふ

然れども凡夫なれば動(やや)もすれば悔ゆる心有りぬべし。日蓮だにも是くの如く侍(はべ)るに、前後も弁(わきま)へざる女人なんどの、各仏法を見ほ()どかせ給はぬが、何程(いかほど)か日蓮に付いてく()やしとおぼすらんと心苦しかりしに、案に相違して日蓮よりも強盛の御志どもありと聞こへ候は偏(ひとえ)に只事にあらず、教主釈尊の各(おのおの)の御心に入り替はらせ給ふかと思へば感涙押さへ難し。

 

 

*本尊・寿量品の釈尊

二千二百余年が間、教主釈尊の絵像・木像を、賢王・聖主は本尊とす。然れども但小乗・大乗・華厳・涅槃・観経・法華経の迹門・普賢経等の仏、真言大日経等の仏、宝塔品の釈迦多宝等をば書けども、いまだ寿量品の釈尊は山寺精舎(さんじしょうじゃ)にましまさず。何(いか)なる事とも量(はか)りがたし。釈迦如来は後五百歳と記し給ひ、正像二千年をば法華経流布の時とは仰せられず。

 

 

*日蓮・日本国の一切衆生の慈悲の父母なり

爾前の経々は一手・二手等に似たり。法華経は「一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」と、無数手の菩薩是なり。日蓮は法華経並びに章安の釈の如くならば、日本国の一切衆生の慈悲の父母なり。天高けれども耳と()ければ聞かせ給ふらん。地厚けれども眼早ければ御覧あるらん、天地既に知ろし食()しぬ。又一切衆生の父母を罵詈(めり)するなり、父母を流罪するなり。此の国此の両三年が間の乱政は先代にもきかず、法に過ぎてこそ候へ。

 

 

図録を著す

「一代五時鶏図」

(3図録22P2355、校3図録26P2486、新P1085)

身延

真蹟6紙断片・京都府京都市上京区新町通鞍馬口下ル下清蔵口町 妙覚寺

*平成校定「真蹟7紙断」

*昭和定本「建治2年」

 

*都守基一氏の解説「京都妙覚寺の宗宝解題」(「妙覚寺寺宝集成」P1892003 妙覚寺)より

西山本との関連から、あえて文永9年か10年頃、佐渡における執筆と考えたい。

標題の「鶏」字の書体、「経」の糸偏を下部に垂らさない、右下への払いを大きく跳ね上げるなどの筆跡の特徴も、佐渡期の中山広本、西山本と共通しているようにみえる。

 

 

書を著すと伝う

「祈祷経言上」

(3続編26P2093)

佐渡

三宝寺本 真蹟なし

録外3-1 縮二続2

< 系年 >

昭和定本「文永10()

*平成校定は偽書として不収録

 

 

書を著すと伝う

「観心本尊抄文科(観心本尊得意抄)

(3続編27P2095)

佐渡

真蹟なし

録外3-7 縮二続3

*昭和定本「観心本尊抄文科()=観心本尊得意抄()

< 系年 >

昭和定本「文永10()

*平成校定は偽書として不収録

 

 

書を著す

「木絵二像開眼之事」

(1-138P791、創新45P662、校1-118P741、全P468、新P636)

佐渡一谷

真蹟18紙完・身延山久遠寺曽存(乾・遠録)

日朝本 平15

録内31-18 遺9-9 縮525

*昭和定本「木絵二像開眼之事(法華骨目肝心)

平成校定「木絵二像開眼之事(法華骨目肝心抄)

< 系年 >

昭和定本「文永10年或は文永元年()

創価学会新版「文永後期以降」

平成校定「文永9年」

全集「文永元年」

*中山法華経寺蔵の古写本は巻子五紙と少ないため、前欠又は曽存本の抄写か。

 

 

書を著す

「其中衆生御書」

(1-139P795、校2-214P1124、新P926)

身延

延山録外2 真蹟なし

縮続96 

< 系年 >

昭和定本「文永10()

平成校定「建治元年」

 

 

*釈尊は三義を備へ阿弥陀等の諸仏は三義欠けたり

「其の中の衆生は悉(ことごと)く是吾が子なり。而も今此の処は諸の患難(げんなん)多し。唯我一人のみ能()く救護(くご)を為す」等云云。

此の経文は釈尊は三義を備へ阿弥陀等の諸仏は三義欠けたり。此の義前々の如し。但し唯我一人の経文は小乗経の語にも非ず、諸大乗経の帯権赴機(たいごんふき)の説にも非ず、多宝十方の仏の証明を加へし金言なり。今の念仏者等の賢父の教言なり、明王の奉詔(ほうしょう)なり、聖師の教訓なり。三義に背き二十逆罪を犯し入阿鼻獄の人と成る事悲しむべし悲しむべし。是は法華経の初門の法門なり。次第に深く之を説かん云云。

 

 

曼荼羅を図顕する

「御本尊集」NO7と同型の本尊

中尾堯氏が鑑定。「中外日報」平成1663日号掲載。

*曼荼羅の料紙は、幅44.8㎝、縦29.5㎝の紙を、縦に4枚継いで縦長にしたもの。

現在は、上下が少し欠失、全体で幅44.8㎝、天地が112.5㎝。

楮(こうぞ)の皮を材料にした楮紙(ちょし)に、打ち紙や染め紙の加工を施し、強さとツヤを出したものを使用している。

*所蔵

新潟県三条市西本成寺 本成寺

⇒文永10年頃か 

 

 

曼荼羅(9)

*通称

女人成仏御本尊

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無十方分身諸仏 南無尽十方諸仏 南無上行無辺行菩薩 南無浄行安立行菩薩 南無文殊普賢 南無智積菩薩 薬王菩薩 南無舎利弗迦葉迦旃延目連須菩提 不動明王 愛染明王 南無大梵天王 南無釈提桓因 南無十羅刹

*寸法

157.0×103.0cm 18枚継ぎ

 

*備考

・寺伝では「千日尼に授与したものであり『女人成仏御本尊』の称号も之に由来する」と伝う。

*所蔵

新潟県佐渡市阿仏坊 妙宣寺

系年は文永10年か

*系年 文永116月、身延入山後の図顕か

 

「法華仏教研究」35号 川﨑弘志氏の論考「佐渡始顕本尊」の研究

 

新潟県立歴史博物館 公式X(Twitter) 日蓮聖人と法華文化展

女人成仏御本尊

 

女人成仏御本尊の大きさがうかがわれる

 

山梨県立博物館 公式X(Twitter) 日蓮聖人と法華文化展

女人成仏の本尊

 

 

佐渡期の曼荼羅

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 不動明王 愛染明王

*寸法

44.5×27.3cm 1

 

*日蓮宗新聞・2011620日号

「ご真蹟に触れる」(中尾堯)で紹介される。

記事

佐渡世尊寺に伝来の一紙

曼荼羅本尊はご真蹟

日蓮聖人が数多く揮毫し授与

*新潟県佐渡市竹田 世尊寺

 

【 文永10年から11年にかけて、佐渡の日蓮門下に弾圧が加えられる 】

 

*佐渡の念仏、律などの諸宗の僧達が一同に会し、代表が鎌倉へ直訴に向かう

「種種御振舞御書」真蹟曽存

念仏者集まりて僉議(せんぎ)す。か()うてあらんには、我等か()つえし()ぬべし。いかにもして此の法師を失はゞや。既に国の者も大体つきぬ、いかんがせん。念仏者の長者の唯阿弥陀仏(ゆいあみだぶつ)・持斎の長者生喩房(しょうゆぼう)・良観が弟子道観(どうかん)等、鎌倉に走り登りて武蔵守殿(北条宣時)に申す。

 

 

*諸宗の僧達は佐渡の守護・北条宣時(ほうじょうのぶとき)に讒言(ざんげん)をする

「同」

此の御房島に候ものならば、堂塔一宇も候べからず、僧一人も候まじ。阿弥陀仏をば或は火に入れ、或は河にながす。夜もひるも高き山に登りて、日月に向かって大音声(だいおんじょう)を放って上を呪咀(じゅそ)し奉る。其の音声一国に聞ふと申す。

 

 

*北条宣時(大仏宣時・おさらぎのぶとき)は日蓮一門への弾圧を画策、三回も「偽の御教書」を発行する。そこには極楽寺良観の関与があったか。

 

 

「同」

武蔵前司殿(北条宣時)是をきゝ、上へ申すまでもあるまじ、先づ国中のもの日蓮房につくならば、或は国をおひ、或はろう()に入れよと、私の下知を下す、又下文(くだしぶみ)下る。かくの如く三度、其の間の事申さざるに心をもて計りぬべし。

 

 

「法華行者逢難事」文永11114日 真蹟

(しか)るに文永十年十二月七日武蔵前司殿より佐渡国へ下す状に云はく、自判之在り

佐渡国の流人の僧日蓮、弟子等を引率し、悪行を巧(たくら)むの由其の聞こえ有り。所行の企(くわだ)て甚(はなは)だ以て奇怪なり。今より以後、彼の僧に相随はんの輩に於ては炳誡(へいかい)を加へしむべし。猶以て違犯せしめば、交名(きょうみょう)を注進せらるべきの由候所なり。仍って執達件(しったつくだん)の如し。

文永十年十二月七日  沙門 観恵(北条宣時かまたは秘書役か)(たてまつ)

依智六郎左衛門尉殿等云云。

 

 

「千日尼御前御書」弘安元年728日 真蹟

極楽寺の良観等は武蔵の前司(ぜんじ)殿の私の御教書(みぎょうしょ)を申して、弟子に持たせて日蓮をあだみなんとせしかば、いかにも命たすかるべきやうはなかりしに、天の御計らひはさておきぬ。

 

 

「窪尼御前御返事」(弘安3年か)53日 真蹟

さど(佐渡)の国にても、そらみげうそ(虚御教書)を三度までつくりて候ひしぞ。

 

 

*佐渡での日蓮一門への弾圧

「種種御振舞御書」真蹟曽存

或は其の前をとを(通行)れりと云ひてろう()に入れ、或は其の御房に物をまいらせけりと云ひて国をおひ或は妻子をとる。

 

「千日尼御前御書」同上

又其の故に或は所ををい、或はくわれう(科料)をひき、或は宅をとられなんどせしに、ついにとをらせ給ひぬ。

 

 

⇒日蓮に関わっているだけで、罰金を科され、投獄され、国=在所を追われ、妻子を取り上げられ、家も奪われる。このような過酷な弾圧が続いた。

 

⇒「熱原法難のさきがけとも位置づけられると思う。」(「日蓮自伝考」P317)  

 

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