エミシとその時代 1  景行天皇40年(110)~持統天皇6年(692)

参考文献

宇治谷孟氏「日本書紀 全現代語訳」上下 1988 講談社

宇治谷孟氏「続日本紀 全現代語訳」上中下 1995 講談社

森田悌氏「日本後紀 全現代語訳」上中 2006 講談社

 

※蝦夷(えみし)と呼ばれた人々に対して「賊」「野蛮」「獣」等の表現がありますが、これは個人的なものではなく、当時の「日本書紀」「続日本紀」「日本後紀」等の「正史」をそのまま記述しているためですのでご了承ください。

 

 

 朝廷による蝦夷出兵は「日本書紀」によれば、弥生時代の12代・景行(けいこう)天皇の代から古墳時代の16代・仁徳(にんとく)天皇、30代・敏達(びだつ)天皇、32代・崇峻(すしゅん)天皇、飛鳥時代の34代・舒明(じょめい)天皇の代にかけて記録されています。

 しかし、景行天皇より命じられて蝦夷征討に向かう日本武尊(やまとたける)が伊勢神宮に参拝し、叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣(くさなぎのつるぎ=天叢雲剣・あまのむらくものつるぎ)を授かった。また、仁徳天皇の命で蝦夷征討に向かい、死亡した田道の墓を蝦夷が掘ったところ大蛇に襲われた等、景行天皇と仁徳天皇の代の記述は神話的で、これらは後年における蝦夷征討が投影されたものではないかと思われます。

 

 

景行天皇40年(110)

・「日本書紀」巻第七・景行天皇40(110)

四十年 夏六月 東夷多叛 辺境騒動。

 

秋七月・・・・・天皇詔群卿曰

「今東国不安。暴神多起。亦蝦夷悉叛、屡略人民。遣誰人、以平其乱。」

群臣皆不知誰遣也。

日本武尊奏言・・・・・

 

冬十月壬子朔癸丑

日本武尊発路之。

 

抂道、拝伊勢神宮。仍辞于倭姫命、曰

「今 被天皇之命 而東征 将誅諸叛者。故辞之。」

於是 倭姫命 取草薙剣、授日本武尊、曰

「慎之。莫怠也。」

 

仁徳天皇55年(367)

・「日本書紀」巻第十一・仁徳天皇55(367)

五十五年 蝦夷叛之。遣田道、令撃。則 為蝦夷 所敗以 死于伊峙水門。

時有従者取得田道之手纒与其妻。乃抱手纒而縊死。時人聞之流涕矣。是後蝦夷亦襲之略人民。因以掘田道墓。則有大蛇発瞋目自墓出以咋。蝦夷悉被蛇毒而多死亡。唯一二人得兔耳。故時人云「田道雖既亡遂報讎何死人之無知耶。

 

⇒蝦夷が背き田道を派遣して討たせたが、蝦夷の守りに敗北を喫して伊峙水門(いしのみと=石巻か)で死んでしまった。従者が田道の手に巻かれていた玉を取り田道の妻に与えたら、妻は玉を抱いたまま縊死してしまった。時の人はこれを聞き悲しんだ。

 再度、蝦夷の襲撃があり、人民は掠められ蝦夷は田道の墓を掘り返した。そこには大蛇がいて目を怒らして蝦夷に食らいついた。蝦夷は大蛇の毒気にやられて沢山死に、一人二人が免れただけであった。時の人は「田道は死んだものの、ついに仇を討った」などと言っていた。

 

 

敏達天皇10年(581)

・「日本書紀」巻第二十・敏達天皇10(581)

十年春潤二月 蝦夷数千 冦於辺境。

由是 召其魁帥 綾糟等魁帥者大毛人也、詔曰

「惟 爾 蝦夷者 大足彦天皇之世 合殺者斬、応原者赦。

今 朕 遵 彼前例、欲誅元悪。」

於是 綾糟等 懼然恐懼。乃下泊瀬中流、面三諸岳、漱水而盟、曰

「臣等 蝦夷 自今以後 子子孫孫 古語云生児八十綿連連 用清明心、事奉 天闕。臣等若違盟者 天地諸神及天皇霊 絶滅臣種矣。」

 

⇒蝦夷数千人が辺境を犯し荒らした。

天皇は首領の綾糟(あやかす)らを召して詔され、「お前達蝦夷は景行天皇の世に討伐されて殺すべき者は殺され、許される者もいた。今、私も前例に倣って首謀者は殺そうと思う」といわれた。綾糟らは恐懼して泊瀬川(はつせがわ)に入り、三輪山に向かい「私達、蝦夷はこれより後、子々孫々に至るまで、清く明朗なる心で天皇にお仕えします。この誓いに背いたならば、天地の諸神と天皇の霊により、私達の種族は絶滅されてしまうことでしょう」と誓った。

 

崇峻天皇2年(589)

・「日本書紀」巻第二十一・崇峻天皇2(589)

二年秋七月壬辰朔 

遣近江臣満 於東山道、使観 蝦夷国境。

遣完人臣鴈 於東海道 使観 東方浜海諸国境。

遣阿倍臣 於北陸道 使観 越等諸国境

 

⇒朝廷は、近江臣満(おうみのおみみつ)を東山道の使いとして遣わし、蝦夷国境を視察させた。東海道は宍人臣雁(ししひとのおみかり)を使いとして東方の海辺の国を視察させ、北陸道は阿倍臣を使いとし、越などの諸国の境を視察させた。

 

舒明天皇9年(637)

・「日本書紀」巻第二十三・舒明天皇9(637)

是歳 蝦夷叛、以不朝。即 拝大仁上毛野君形名、為将軍、令討。

還、為蝦夷 見敗 而走入 塁。遂 為賊 所囲。

軍衆 悉漏城、空之。

将軍迷、不知所如。

時日暮。

踰垣、欲逃。

爰方名君妻歎、曰

「慷哉。為蝦夷 将見殺。」

則謂夫 曰

「汝祖等 渡蒼海、跨万里、平水表政、以威武伝 於後葉。

今汝 頓屈先祖之名 必為後世 見嗤。」

乃酌酒、強之令飲 夫 而親佩夫之剣、張十弓、令女人数十、俾鳴弦。

既而 夫更起之、取伏仗而進之。

蝦夷 以為軍衆猶多 而稍引退之。

於是 散卒更聚、亦振旅焉、撃蝦夷。大敗、以悉虜。

 

⇒この年、蝦夷が背いて入朝しなかった。

 天皇は大仁・上毛野君形名(だいにん・かみつけぬのきみかたな)を将軍として蝦夷征討に向かわせた。しかしかえって蝦夷に討たれて敗走、砦に逃げ込み賊に囲まれてしまった。

 軍勢は逃亡し、空となった砦の中で将軍はなす術を知らなかった。日が暮れて垣を越えて逃げようとした時、君形名の妻が「蝦夷のために殺されてしまうとは、いまいましい」と嘆き、「あなたの先祖方は青海原を渡り、万里の道を踏み越えて海のかなたに国を平らげ、その武威は後世に伝わっています。ここであなたが先祖の名を汚してしまえば、必ずや後世の笑いものとなってしまうことでしょう。」と夫に語った。妻は酒をくんで強いて夫に飲ませ、自らは夫の剣を取って十の弓を張り、数十人の女に弦を鳴らさせた。夫も奮起して進撃した。

 蝦夷は軍勢が多くいるものと誤認して、兵を後退させた。逃げ散らばっていた君形名の兵卒らも集まり、蝦夷を討って大敗させ、多くを捕虜とした。

 

斉明天皇4年(658)

 朝廷と蝦夷との拮抗関係の記録は飛鳥時代中期、大化2(646)正月1日に36代・孝徳(こうとく)天皇によって「改新の詔(みことのり)」が発せられて「大化の改新」が始まり、政治的改革が行われた後、37代・斉明(さいめい)天皇が阿倍比羅夫(あべのひらふ)を蝦夷に遠征させた頃から始まるものが確実なようです。

 

 

・「日本書紀」巻第二十六・斉明天皇4(658)

夏四月 阿陪臣 <闕名> 率船師一百八十艘、伐蝦夷。

齶田・渟代 二郡蝦夷望、怖、乞降。

於是 勒軍 陳船 於齶田浦。

齶田蝦夷恩荷進而誓、曰

「不為官軍故持弓失。但奴等性食肉故、持。

若 為官軍 以 儲弓失 齶田浦神知矣。将清白心、仕官 朝矣。

仍 授 恩荷 以小乙上、定 渟代・津軽 二郡 々領。

遂 於有間浜 召・聚渡嶋 蝦夷等、大饗 而帰。

 

⇒夏四月、阿陪臣(あべのおみ)が船軍180艘を率いて蝦夷征討に向かった。

 秋田・能代の蝦夷は軍勢を遠望しただけで恐怖にかられ降伏した。阿陪臣は軍勢を整え、秋田湾に船団を連ねた。秋田の蝦夷の恩荷(おが)は進み出て誓った。「官軍に対して弓矢を持っているのではなく、私たちは肉を食べるので動物を捕えるために弓矢を持っているのです。もし官軍に弓矢を向けたなら、秋田浦の神のとがめにあうことでしょう。私達は清らかなる心で、天皇にお仕えします。」

 恩荷に小乙上の位を授け、能代・津軽二郡の郡領(こおりのみやっこ)に定められた。有間の浜に渡嶋(おしま)の蝦夷を召し集めて、大いに饗応して帰らせた。 

 

斉明天皇5年(659)

・「日本書紀」巻第二十六・斉明天皇5(659)

三月・・・甲午 甘檮丘 東之川上 造須弥山 而饗 陸奥与越蝦夷 檮此云柯之。 川上此云箇播羅。

是月 遣阿倍臣<闕名> 率船師一百八十艘、討蝦夷国。

阿倍臣 簡・集 飽田・渟代 二郡 蝦夷 二百四十一人・其虜 三十一人・津軽郡 蝦夷 一百十二人・其虜 四人・胆振鉏 蝦夷 二十人 於一所 而大饗、賜禄 胆振鉏 此云 伊浮梨娑陛。即 以船一隻 与五色綵帛 祭彼地 神。

至肉入籠 時 問菟 蝦夷 胆鹿嶋・菟穂名 二人進、曰

「可以後方羊蹄 為政所焉 肉入籠 此云 之之梨姑。問菟 此云 塗毘宇。菟穂名 此云 宇保那。後方羊蹄 此云 斯梨蔽之。政所 蓋 蝦夷 郡乎。

随 胆鹿嶋等 語 遂置郡領 而帰。

授 道奥 与越 国司 位 各二階。

郡領 与主政 各一階。

或本云 阿倍引田臣比羅夫 与粛慎戦 而帰 献虜三十九人

 

秋七月朔丙子朔戊寅

遣小錦下 坂合部連石布・大仙下 津守連吉祥、使於唐国。

仍以陸道奥 蝦夷 男女二人 示唐天子。

 

317日、天皇は甘檮丘(あまかしのおか)の東の川上に須弥山を造って、陸奥と越の国の蝦夷を饗応された。

 この月、阿陪臣(あべのおみ)は船軍180艘を率いて蝦夷の国を討った。阿陪臣は秋田・能代二郡の蝦夷241人と捕虜31人、津軽郡の蝦夷112人と捕虜4人、胆振鉏(いぶりさえ)の蝦夷20人を一ヵ所に集めて大いに饗応し物を与えられた。かの地に神を祭って、船一隻と五色に染めた絹を捧げた。

 肉入籠(ししりこ)に至ると、問菟(という)の蝦夷の胆鹿嶋(いかしま)・菟穂名(うほな)の二人が進み出て言った。彼らは「後方羊蹄(しりへし)を政庁(郡家)として頂きたい」と願った。阿陪臣は胆鹿嶋らの言葉に従い、郡家を設けて帰った。陸奥と越の国司に位それぞれ二階を、郡領と主政(まつりごとひと)とにそれぞれ一階を授けた。

 ある本に、阿倍引田臣比羅夫(あべのひけたのおみひらふ)が粛慎(みしはせ)と戦って帰り、捕虜39人を献上したとある。

 秋73日、小錦下(しょうきんげ)の坂合部連石布(さかいべのむらじいわしき)と大仙下(だいせんげ)の津守連吉祥(つもりのむらじきさ)を唐に遣わした。その時、陸奥の蝦夷男女二人を唐の天子にお目にかけた。

 

斉明天皇6年(660)

・「日本書紀」巻第二十六・斉明天皇6(660)

三月遣阿倍臣<闕名>、率船師二百艘、伐粛慎国。

阿倍臣 以陸奥蝦夷 令乗 己船、到 大河側。

於是 渡嶋蝦夷 一千余屯・聚 海畔、向河 而営。

営中 二人進 而急叫、曰

「粛慎 船師多来、将殺我等。之故 願・欲 済河 而仕官 矣。」

阿倍臣遣船、喚・至 両箇蝦夷、問 賊隠所 与其船数。

両箇蝦夷便 指隠所、曰

「船二十余艘。」

即遣使、喚。而 不肯来。

阿倍臣乃 積 綵帛・兵・鉄等 於海畔 而令 貪・嗜。

粛慎乃 陳船師、繋羽 於木、挙 而為旗、斉棹、近、来、停 於浅処。従一船 裏 出二老翁、廻・行、熟視所積綵帛等物。

便 換著 単衫、各提布一端、乗船、還・去。

俄而 老翁 更来、脱・置換衫、并、置提布、乗船 而退。

阿倍臣 遣数船、使喚。

不肯来。復於弊賂弁嶋。食頃乞和。

遂 不肯聴 弊賂弁 度嶋之別也。

拠 己柵、戦。

于時 能登臣馬身竜 為敵 被殺。

猶戦、未倦之間 賊 破殺己 妻子。

 

3月、阿倍臣は船軍200艘を率いて粛慎国(みしはせのくに)を討った。

 阿倍臣は陸奥の蝦夷を自分の船にのせ、大河のほとりまできた。そこに渡嶋(おしま)の蝦夷が一千余、海のほとりにむらがり、河に面して屯営していた。営中の二人が急に呼びかけて「粛慎国の船が多数来たり、我等を殺そうとしています。河を渡って官軍にお仕えすることをお許しください。」という。

 阿倍臣は船を遣わして二人の蝦夷を招き寄せ、賊が隠れている所と船数を尋ねた。二人の蝦夷は賊の隠れ場所を指さして「船は二十余艘です」といった。阿倍臣は粛慎の軍勢に使いをやって呼んだが、彼らは応じなかった。そこで阿倍臣は、綵帛(しみのきぬ)、武器、鉄などを海辺に積み上げて見せ、彼らに欲しがらせた。

 粛慎の船軍は鳥の羽を木にかけ上げて、旗としていた。海辺に積み上がった物を見た彼らは船の棹を揃えて近づき、浅瀬に停まった。一隻の船から二人の老翁(おきな)が出てきて、綵帛等を熟視していた。翁は単衫(ひとえきぬ)に着替えて、それぞれ布一端(むら)を提げて船に乗り帰っていった。少しするとまた老翁がやって来て、着替えた単衫を脱いで、持ってきた布を置き、船に乗り帰っていった。

 阿倍臣は数船を粛慎の軍勢に遣わして呼んだものの聞き入れられず、弊賂弁嶋(へろべのしま)に帰った。しばらくすると粛慎は和を乞うてきたが話し合いは不調に終わり、彼らは自らが築いた柵に籠って戦った。能登臣馬身竜(のとのおみまむたつ)は敵に殺されてしまった。その戦いはまだまだと思われたのに、賊は自分たちの妻子を殺して逃げてしまった。

 

天武天皇13年(684)~持統天皇6年(692)

 飛鳥時代の天武天皇13(684)1014日夜10時頃、大地震(白鳳南海地震)が発生。国中の男女は叫び合い逃げまどい、山は崩れ川は溢れました。諸国の郡の官舎、百姓の家屋、倉庫、社寺の破壊は数知らず、人畜の被害も多大なものでした。伊予国の道後温泉は埋もれて湯が出なくなり、土佐国の田畑五十余万頃が埋まり海となりました。

 古老は「このような地震は未だかつてなかった」といいます。夕方、鼓の鳴るような音が東方で聞えました。「伊豆島の西と北の二面がひとりでに三百丈あまり広がって、もう一つの島ができてしまった。鼓の音のように聞こえたのは、神がこの島を造られる響きだったのだ」という人もいました。

 この時の大地震は全国的に甚大な被害をもたらしましたが、現在では東海・東南海・南海の連動型地震と分析されています。また「日本書紀」による日本最古の地震津波記録となりました。

 

 翌天武天皇14(685)3月には信濃国で火山が噴火します。327日には「諸国においては家ごとに仏舎(ほとけのおおとの)を作り、仏像・経典を置いて礼拝供養せよ」との詔が出されました。

 

 持統天皇3(689)13、務大肆(むのだいし)で陸奥国・置賜郡(おきたまのこおり)の柵戸の蝦夷の脂利古(しりこ)の子、麻呂(まろ)と鉄折(かなおり)が髭や髪を剃って沙門になりたいと願い出ます。41代・持統天皇(女帝)は詔して「麻呂等は年は若いが、雅やかで欲も少なく、菜食をして戒律を守っている。願い通りに出家、修道しなさい」といわれました。

 続いて同月の9日、持統天皇は越(こし)の蝦夷の僧である道信(どうしん)に「仏像一体」「灌頂幡・鍾・鉢各一個」「五色の綵(しみのきぬ)各五尺」「綿五屯」「布十端」「鍬十枚」「鞍一具」を与えました。

 持統天皇5(691)21日、持統天皇は公卿らに詔を出し、「卿たちよ、天武天皇の御世に仏殿・経蔵を作り、毎月六回の斎日(いみび)を行じた。天皇はその時々に、大舎人(おおとねり)を遣わして問い訊ねられた。我が世にもこのようにしたいと思う。故に、心から仏道を勤めて仏法を崇めるべきである」と命じます。

 続いて持統天皇6(692)515日、持統天皇は筑紫大宰率(九州における総責任者)である河内王らに詔して、「沙門を大隅(おおすみ)と阿多(あた)に派遣して仏教を伝えるように。大唐の大使・郭務悰(かくむそう)(38)天智天皇の為に造立した阿弥陀仏像を京に送るように」と命じました。

 

 このような持統天皇の仏教崇敬と蝦夷である脂利古の子、麻呂と鉄折の出家を許したこと、蝦夷の僧侶・道信への仏像・仏具の下賜、九州での仏教伝道を命じた詔を勘案すれば、持統天皇の代に蝦夷地でも相応の仏教教化が行われたであろうことが推測されます。

 

・「日本書紀」巻第二十九・天武天皇13(684)

冬十月・・・・壬辰 逮于人定、大地震。挙国男女叺唱、不知東西。

則山崩河涌、諸国郡官舍、及百姓倉屋・寺塔・神社破壌之類不可勝数。

由是人民及六畜、多死傷之。

時伊予湯泉没、而不出。土左国田苑五十余万頃没、為。

古老曰

「若是、地動未曾有也。」

是夕有鳴声如鼓、聞于東方。

有人、曰

「伊豆嶋西北二面自然増益三百余丈、更為一嶋。則如鼓音者、神造是嶋響也。」

 

・「日本書紀」巻第二十九・天武天皇14(685)

三月・・・・是月 灰零於信濃国、草木皆枯焉。

 

・「日本書紀」巻第二十九・天武天皇14(685)

三月・・・・壬申 詔

「諸国毎家作仏舍、乃置仏像及経、以礼拝供養。」

 

・「日本書紀」巻第三十・持統天皇3(689)

三年春正月・・・丙辰 務大肆 陸奥国優耆曇郡 城養 蝦夷脂利古 男 麻呂 与鉄折 請「剔鬢・髪、為沙門」。

詔 曰

「麻呂等 少 而 閑雅、寡欲。遂至於此、蔬食、持戒。

可 随所請、出家、修道。」

・・・壬戌・・・是日 賜越蝦夷沙門道信、仏像一躯・灌頂幡・鍾・鉢各一口、五色綵各五尺、綿五屯、布一十端、鍬一十枚、鞍一具。

 

・「日本書紀」巻第三十・持統天皇5(691)

二月壬寅朔

天皇詔公卿等 曰

「卿等於天皇世作仏殿・経蔵、行月六斉、天皇時々遺大舍人、問・訊。

朕世亦如之。故当勤心、奉仏法也。」

 

・「日本書紀」巻第三十・持統天皇6(692)

閏五月・・・・乙酉

詔 筑紫大宰率河内王等 曰

「宜遣沙門、於大隅与阿多、可伝仏教。

復 上送 大唐大使 郭務悰 為御近江大津宮天皇 所造阿弥陀像。」

 

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