5 別所と聖について

(1) 柴田弘武氏の考察をもとに

 

平安時代(794年~1185年頃)の中期より末法思想(日本では1052年・永承7年が末法元年とされる)が広まる頃になると、本寺から離れた「別所」に集住し、そこを拠点として修行、布教を行う仏教僧が現れ、彼らを「聖」と呼ぶようになった。

 

そして東国各地の寺院に見られる「聖人開山伝説」の創唱者についても、諸国を行脚して布教、寺院のもととなる堂宇を建て、時には鉱山開発や土木事業を行った「聖」によるものが多かった。

 

ここではそれに付け加えて、「聖の時代」以前はどのようなものだったのか、「別所」という観点から探っていきたいと思う。 

 

 

「別所」については、郷土史家・俘囚研究者である菊池山哉氏の考察がある。

菊池氏は「別所と俘囚」と題した論考で、明治時代に全国215か所の別所を調査・分析した結果、「大和朝廷による東国遠征に対して抵抗、戦った現地先住民、蝦夷の住民が捕虜(俘囚と呼ばれる)となり、主として関東以西の諸国に移住させられた。その居住地が『俘囚の別所』となった」(趣意)と実証されている。

 

古代史研究家の柴田弘武氏は「別所」について、菊池山哉氏の考察を自著「鉄と俘囚の古代史」(1989 彩流社)で次のように紹介される。

 

「この別所という地名については、本論で紹介するようにさまざまな解釈がなされている、私は故菊池山哉の唱えた『俘囚の移配地説』が最も妥当だと考えている。簡単にいえば、それは山間僻地に多く、そこに東光寺、薬師堂、白山神社(本地仏十一面観音)を祭り、また慈覚大師円仁の伝承を伝えるなど、多くの共通要素を備えているということである。特に白山信仰は奥羽において一般的なものであり、奥州俘囚長藤原基衡建立の毛越寺吉祥堂の本尊は、京都大原の別所にあった補陀落寺の本尊を模したという事実(「吾妻鏡」)などからみて、別所と奥羽俘囚の関係は明らかであるというのである。」(P12)

 

 

柴田氏は新たに278か所の別所地名を析出し、計493か所の内251か所の実地調査を行って菊池氏の説を確認するとともに、更なる考察を重ねて「別所・俘囚の移配地説」を展開されている。以下、柴田氏の著書「鉄と俘囚の古代史」(1989 彩流社)より学んでいこう。

 

 

柴田氏は「地名用語語源辞典」(楠原佑介 溝手理太郎編 1983 東京堂出版)での「別所」の項を引用紹介。

 

「『べっしょ[別所]

①古代、蝦夷の虜囚を各地に移住させた所[菊池山哉]

②本寺とは別に、修行僧が移り住んだ所。別院。

③本所に対し、別に立てられた所領。別名。

④墓地(「日葡辞書」)

[解説]①説は一部で根強く流布されているが、あまり根拠はないと思われる。』

とあるように、俘囚移配地説には疑念もあるとされている。そして今では②説が有力となってきた観がある。」(P180)

として、「別所」についての②の説を、井上光貞氏、黒田俊雄氏、網野善彦氏の著作より紹介。

 

「別所が『山民』または被差別民の集落からおこったようにいう説があるが、これは正しくない。それは筋違いの説明であって、別所の起源は、修行のための荒野(または深山)の草庵にあったというべきである。」(黒田俊雄氏「寺社勢力」)

 

「別所は上人=聖による無縁(アジ―ル)の設定」(網野善彦氏「無縁・公界・楽」)

 

これらを紹介した後、「私も別所が院政期に聖・上人たちの隠棲場所であったことは否定しないが、その起源を彼等の草庵にあるとする説には抵抗を禁じ得ない。」(P182)とし、以下、菊池山哉説を踏まえて自説を展開される。

 

「果たして聖・上人たちは全くの荒野や深山に住めるものであろうか。彼等がそこに草庵を結ぶ以上、食料の確保は必定であって、全く何もない所に畠をつくり、食料を自ら生産しながら修行し、さらには別所寺院の設立までやっていけたのだろうか。私にはそのようなことは考えられない。

何らかの形である人びとがそこに住み、一定の生活基盤が確保されておりながら、そこが世間から隔絶した場所であったが故に、その隔絶性を求めて聖や上人が拠っていったのではないだろうか。またこれは精しくは別稿で紹介するしかないが、現在私の調べ得た限りでは、別所地名を残すところは後出表の通り九州南部を除いてほぼ全国的にあり、その数は四百九十三か所に上る。これは今後小字を調査すればさらに増え、五百を超えるのではないかと思われる。そのなかには、茨城県大洋村汲上の別所釜、同波崎町別所、福井市浜別所、福井県三方町別所、京都府伊根町平田、同亀島の小字別所、鳥取県赤崎町別所のように、海岸べりにあるところもあって、とても聖の隠棲所とは考えられないところもある。私はこれらの別所は浜砂鉄の採集か、塩汲みの労働に従事させられた人びとが住んだところではないかと考えている。

また四百九十余か所に及ぶ別所地名の多くで、別所そのものか、又はその近辺に製鉄、精銅など鉱産関連地名や神社、伝承が見受けられるのも、聖の隠棲地にしては偶然すぎるように思われる。

次に②説であるが、これはある歴史時点では正しいといえるし、菊池もすべての別所を俘囚移配地と考えているのではなく、寺院の別院の意味での別所もあろうかとして、丹後国普甲山別所、河内国宇礼志別所、近江国飯室別所、播磨国南無阿弥陀仏別所(これは先に紹介した播磨国賀茂郡夷俘郷と想定した浄土寺のこと)、備後国堂崎別所などを挙げている。

しかし別所の起源は聖の隠棲以前にあったと考えられるのである。

③説に関していえば、今まで私が調査した限りでは別所に対する本所そのものが不明であり、その証拠を見出すことはできない。

④説についていえば、これもある歴史時点では正しい。即ち弘安六年(1283)成立の『沙石集』の中に『首をはぬべしとて別所へやる』という記事もあり、現に埼玉県大宮市別所町、奈良県川西町結崎<別所>、同天理市柳本町<北別所>、同広陵町広瀬<大別所>、同町赤部<別所垣内>等は室町期頃から墓郷となっていた。おそらくこれは聖が隠棲した別所に三昧寺のようなものが建てられ、鎌倉期以降そのうちのいくつかの別所が墓地と同義のようになっていったものと思われる。

即ち私は平安初期の俘囚の移配地としての別所があり、そこに平安中期頃から聖が拠るようになって、聖の隠棲地=別所という観念が生じた。またこの頃から寺院の別院という意味での別所という呼称も生まれてきたことも認められる。更に鎌倉期以降になると、その中には墓地と同義と考えられるような別所も生じてきたと考えるのである。」(P182P184)

 

 

 

私も「別所」から連想するものといえば、「本寺とは別に、修行僧が移り住んだ所。別院」と「聖」でしかなかったのだが、菊池氏、柴田氏の論考に学ぶことにより、「それ以前の時代」というものを思い、調べて、更に掘り下げて考える必要があることを知った。この「別所」の意味については、柴田氏の言われる「平安初期の俘囚の移配地としての別所があり、そこに平安中期頃から聖が拠るようになって、聖の隠棲地=別所という観念が生じた。またこの頃から寺院の別院という意味での別所という呼称も生まれてきたことも認められる。更に鎌倉期以降になると、その中には墓地と同義と考えられるような別所も生じてきたと考えるのである。」との解説を踏まえて考えていくべきだと思う。

 

 

(2) 別所の特徴・内浦の西蓮寺と清澄寺

 

さて、菊池氏、柴田氏の指摘される「別所」の共通要素、特徴である「山間僻地、東光寺、薬師堂、白山神社(本地仏十一面観音)、慈覚大師円仁の伝承」で思い浮かぶ寺院といえば、日蓮誕生の地、現在の千葉県鴨川市内浦にある天台宗東光山西蓮寺となるだろう。

 

 

寺伝では、天安2(858)、慈覚大師円仁による開創。同寺は小湊の海から平地を進んだ奥地の山裾に位置し、山号は東光山、薬師堂の本尊は円仁作と伝わる一木造りの薬師如来坐像で平安時代の古像とのこと。本堂の本尊は阿弥陀如来で一木造りの古仏で12世紀の作とされる。これらは菊池氏、柴田氏が説かれる「別所」の特徴と符合する。

 

 

 

また、清澄寺周辺が産鉄地でもあったことについては、石川修道氏の考察「日蓮聖人『立教開宗』における妙見尊と虚空蔵菩薩の関係」(1998「現代宗教研究」第32P175 日蓮宗現代宗教研究所)で示されており、これも柴田氏の記される「また四百九十余か所に及ぶ別所地名の多くで、別所そのものか、又はその近辺に製鉄、精銅など鉱産関連地名や神社、伝承が見受けられる」(鉄と俘囚の古代史P183)との指摘に符合するものだろう。そして、清澄寺の日蓮宗改宗以前、真言宗智山派時代の境内には「薬師瑠璃光如来」を祀る薬師堂があったことが「安房国清澄寺縁起」(1930 岩村義運氏)により確認され、清澄寺も「別所」の特徴のうち、「山間僻地、薬師堂、慈覚大師円仁の伝承」において符合しているのである。

 

ということは、全国に多数出現したであろう慈覚大師円仁達、即ち台密系等の「聖」達が安房国を訪れる以前は、清澄、内浦(小湊)周辺は「別所の地」であった可能性がある、といえるだろうか。 

 

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