2 「聖」による寺院の「開山、再興」

清澄寺の梵鐘が造立された明徳3(1392)には、醍醐三宝院流親快方の流れを汲む弘賢が寺主となっていたものの、鐘銘では天台宗の「慈覚大師草創」として前代からの寺伝を刻んでいます。この慈覚大師円仁による「草創」について、実際のところはどうなのでしょうか。円仁による開基、再興と伝承される寺院が全国では300以上、500以上ともされ、特に出生地(栃木県下都賀郡壬生町または岩舟町)である関東や伝道教化に歩いたとされる東北に多数存在しています。主だったものを確認してみましょう。

 

 

【 円仁による開基、再興と伝える寺院 】

 

< 東北地方の寺院 >

 

瑞巌寺 臨済宗妙心寺派 宮城県宮城郡松島町

828年・天長5年、円仁が3000名の大衆と共に松島に来訪。淳和天皇の勅願寺として開基した延福寺が始まりとされる。

 

中尊寺 天台宗 岩手県西磐井郡平泉町

850年・嘉祥3年、円仁が弘台寿院を開基したのが始まり。859年・貞観元年に清和天皇から中尊寺の額を賜ったと伝承される。

 

立石寺 天台宗 山形県山形市

860年・貞観2年、円仁が清和天皇の勅命により開基したと伝承される。

 

恐山菩提寺 曹洞宗 青森県むつ市

862年・貞観4年、円仁が本尊として地蔵菩薩を彫刻安置して開基したとされる。

 

黒石寺 天台宗 岩手県奥州市水沢区黒石町

729年・天平元年、法相宗薬師寺5代・行基が薬師如来を彫刻安置して開基したのが始まりとされ、その後、円仁の東北巡化の折に再興されたと伝承される。

 

 

< 清澄寺と同じ千葉県内の主な寺院 >

 

龍正院 天台宗 千葉県成田市滑川

838年・承和5年、円仁の開基と伝承される。

 

清水寺 天台宗 千葉県いすみ市岬町

782806年・延暦年間、最澄が十一面観世音菩薩を彫刻安置したのが始まりとされ、807年・大同2年に円仁が千手観世音菩薩を彫刻安置して再興と伝承される。

 

行元寺 天台宗 千葉県いすみ市萩原

849年・嘉祥2年、円仁の開基と伝承される。

 

長楽寺 天台宗 千葉県印西市大森

円仁の開基と伝承される。

 

能満寺 天台宗 千葉県いすみ市須賀谷

864年・貞観6年、円仁が本尊として虚空蔵菩薩を彫刻安置して開基と伝承される。

山号は虚空蔵山、院号は求聞持院。

 

真野寺 天台宗 千葉県南房総市久保

725年・神亀2年、行基が開基、860年・貞観2年、参籠中の円仁が大黒天を彫刻と伝承。

 

滝泉寺 天台宗 千葉県いすみ市大原

円仁の開基と伝承される。

 

石堂寺 天台宗 千葉県南房総市石堂

708年・和同元年、僧恵命・東照がアショカの王塔を祀る、とする。

726年・神亀3年、行基が堂宇を建立と。

851年・仁寿元年、円仁が七堂伽藍を造営して再興と伝承される。

 

那古寺 真言宗智山派 千葉県館山市那古

行基による開基とし、847年・承和14年、円仁が再興と伝承される。

 

観明寺 天台宗 千葉県長生郡一宮町一宮

734年・天平6年、行基による開基とし、円仁が再興と伝承される。

 

妙覚寺 天台宗 千葉県長生郡長南町地引

法相宗の道昭(629年・舒明天皇元年~700年・文武天皇4)による開基とし、円仁が阿弥陀如来を彫刻安置し再興と伝承される。

 

長秀寺 天台宗 千葉県勝浦市部原

延暦年中(782年~806)、最澄による開基とし、860年・貞観2年、円仁が再建と伝承する。

 

 

以上、数多存在する「開山・再興は慈覚大師円仁」と伝える寺院から一握りだけを並べましたが、これらが史実であるならば「八面六臂」とは仏像などが八つの顔と六つの腕を持つことを意味しているように、円仁の伝道教化は多方面に亘り目覚ましいものがあるといえるでしょう。しかし、寺院に伝わる「慈覚大師による開山・再興」はあくまで伝承であり、円仁の事跡を記した「慈覚大師伝」には各地への伝道についての記述が見受けられないようです。一方、研究者の間では天長6(829)から約4年間は関東、東北を巡化したのではないかと推測されてもいます。

 

【 聖人開山伝説 】

このような東日本各地に見られる「慈覚大師による開山・再興」との伝承については、佐藤弘夫氏がその著「霊場の思想」(2003年 吉川弘文館)で詳細に論じています。

 

以下、論考の要点を挙げれば、

・平安末期の聖人信仰の高揚が時代背景としてある

・「聖」と呼ばれる天台系の僧侶が諸国を歩き伝道教化した

・「聖」は同時に中央の最新知識、土木技術を伝えた

・「聖」自身も新道を通す、田畑を開くなどの地域の総合的な開発を進めた

・「聖」は再興した寺院を祖師信仰の聖地とすることを目指した

・そのために慈覚大師にまつわる様々な伝説を作り上げた

ということになります。

 

各地を渡り歩いた「聖」の行動力、教化力もさることながら、彼らとその指導を受けた地元民の手による総合的な開発は、現地の人々に生活上の恩恵をもたらしたことでしょう。また、「聖」という学のある人物の口から発する都の最新情報、知識などは地域の人々を魅了したでしょう。里人は、彼らの説く教えに帰依すると同時に彼らのもたらしたもの、何よりも彼ら自身に信頼を寄せた故にそれぞれの地域で「聖による開基・再興の寺院」が地域住民に支えられるようになり、「聖人開山伝説」も継承されることになったのではないでしょうか。

 

各地にみられる「聖」の伝道教化というものを踏まえれば、清澄寺の「771年・宝亀2(奈良時代)、不思議法師が訪れて虚空蔵菩薩を祭祀。836年・承和3(平安時代)、慈覚大師が再興する」との寺伝についても、同地を訪れた「聖」により創られたものと考えられます。

 

また、安房の国に隣接する上総の国に開基された能満寺(天台宗 千葉県いすみ市須賀谷)では、「864年・貞観6年、円仁が本尊として虚空蔵菩薩を彫刻安置して開基」と伝えています。山号は虚空蔵山、院号は求聞持院であるところから、清澄寺と同じく虚空蔵菩薩求聞持法を古くより修していたのでしょう。このようなことから上総、安房に伝道教化した「聖」は、虚空蔵菩薩求聞持法を修行する密教色の強い一団だったと考えるのです。

 

【 「安房国清澄寺縁起」 】

 

「安房国清澄寺縁起」(1930年 岩村義運氏編集発行)より

 

◇清澄寺の開創

時は今を距(へだて)ること一千百六十年の昔、人皇四十九代、光仁天皇の宝亀(ほうき)二年、一人の旅僧何地よりか飄然(ひょうぜん)として此の山に来たり一大柏樹を以って、虚空蔵菩薩の尊像を謹刻し、一宇を此處に建立し、日夜礼拝供養怠らず、人の来たりて加持祈祷を乞う者あれば、快く諾し、然も必ず験あり。里人其の生国氏名を問うに笑って応えず、暫くして忽然何地へか去って復た行く處を知らず。時の人、此の不思議なる行動と不思議なる法験とに因みて、此の僧を呼ぶに不思議法師となす。是れ清澄寺の草創にして、此の堂の傍らに浄池あり、清く澄めること鏡の如し。

此の山の古歌に、

みきはには立ちもよられす山賤の

影はつかしききよすみの池

とあるに因みて、寺の名を清澄寺と名け、山の頂、常に妙光を発するを以って、山号を千光山と称せり。 

 

◇本尊虚空蔵菩薩

当山の本尊は虚空蔵菩薩なり。此の菩薩は往古より汎(ひろ)く我が国に尊信せられ、所謂虚空蔵菩薩求聞持法は、夙(つと)に世に行われたり。

其の功徳本誓について、虚空蔵経に曰く

若し智慧を得んと欲し、若しくは歌詠(うたよみ)を好みて第一音聲を得んと欲し、王位百官の位を得んと欲し、種々の眷族を得んと欲し、善悪事に於いて遠名聞を得んと欲する者は、此の呪を持し、又吾名を称念せよ。

・・・・とあり。

往昔、日蓮聖人が、日本第一の智者たらしめ給へと此の本尊に祈願して、智慧の宝珠を授けられしとの伝は、已でに何人もよく知る所。

浄土宗の巨刹、三縁山増上寺第卅二世貞譽大僧正及び同山第四十世衍譽大僧正は、若かりし折り、此の山の本尊に栄達出世の願を掛け、遂に三縁山増上寺に晋(すす)み、僧位極官に陞(のぼ)りしため、多くの寄進をなし、徳川大奥の春日局は、竹千代君成人出世及千世姫君の安泰を祈りて悉く成就せし等、挙げて数え難し。

現在本堂に安置し奉る不思議法師御作の尊体は腹胎仏にして、母体の大尊像は実に尾張国八事山遍照院興正寺の開山にして、徳川家康の血族として尊信せられし天瑞大和尚一刀三礼の御作にして、是れ常陸国村松山の虚空尊像、会津の柳井津の虚空尊像と共に、日本三体の虚空蔵菩薩として世に称せらるるものなり。

 

以上、「安房国清澄寺縁起」より

 

                    東大寺 大仏脇士の虚空蔵菩薩
                    東大寺 大仏脇士の虚空蔵菩薩

【 武蔵の国・天正寺 】

 

ここに興味深い伝承があります。

「清澄山、不思議法師、虚空蔵菩薩」をキーワードとする寺院は、安房の国千光山清澄寺のみではないということです。

 

武蔵の国、現在の埼玉県大里郡寄居町大字桜沢にある曹洞宗・天正寺の寺伝によれば、772年・宝亀3年に不思議法師が訪れ、安房の国清澄寺の虚空蔵菩薩と同一木を以て虚空蔵菩薩を刻み安置した、と伝えています。山号を清澄山、寺号を天照寺と称し、その後天台宗になっています。元亀年中(1570年~1573)に火災により本堂を焼失。1573年・天正元年に本堂を再建、寺名を天正寺に改める。この時に宗旨替えとなり現在の曹洞宗となったようです。

 

このことはやはり、「聖」一行の広範囲に亘る布教伝道による物語の一つでしょうし、「不思議法師による彫像」「清澄寺の虚空蔵菩薩と同じ材木で彫像した」との伝承、そして「山号の清澄山」は、安房の国清澄寺を開創した「聖」達が、この地を訪れたことを示しているといえるでしょうか。

 

【 「聖」について 】

奈良時代の遊行僧から始まるものでしょうか。

諸国を巡り修行を重ね教えを伝え歩いた僧らで、名の知られた人物としては、貧民救済や土木事業を行い東大寺大仏造営の勧進をした行基(668年~749)、若き日の空海(774年~835)、市の聖と慕われた民間浄土教行者・空也(903年~972)らがいます。

 

平安時代(794年~1185年頃)の中期より末法思想(日本では1052年・永承7年が末法元年とされる)が広まる頃になると、本寺から離れた別所に集住し、そこを拠点として修行、布教を行う仏教僧が現れ彼らを「聖」と呼ぶようになります。

 

高野山の高野別所に集住する念仏聖は高野聖と呼ばれ、東大寺再建の大勧進職をつとめた重源(1121年~1206)、東大寺で三論宗を修学、高野山入山後に法然の門弟となり専修念仏に帰依した明遍(1142年~1224)らがいます。

 

平安後期、比叡山延暦寺黒谷別所に住した念仏聖が法然房源空であり、弟子の親鸞も念仏一門の弾圧以降は、関東に居を定めて教化伝道をしています。「聖」らは概して、伝統仏教とされる本寺やその教義に捉われない自由な立場で修行を行い、新しい教説を広めており、彼らの活動が鎌倉時代に至って新仏教の誕生へとつながっていくわけです。このような観点からすれば、日蓮も伝統仏教に学びそこから巣立った「天台聖」「法華聖」または「題目聖」でもあったといえるでしょうか。

 

 

もちろん、上記の人物と違い歴史に名は残さないものの、「聖人信仰」により祖師・開祖に仮託して寺院の母胎となる草庵、堂などを造り残しながら、諸国を回遊した「名もなき聖」達の方が圧倒的に多かったことを忘れてはならないでしょう。

 

                 比叡山延暦寺 祖師御業績絵看板 空也
                 比叡山延暦寺 祖師御業績絵看板 空也
                 比叡山延暦寺 祖師御業績絵看板 一遍
                 比叡山延暦寺 祖師御業績絵看板 一遍
                   比叡山延暦寺 親鸞修行の地と伝わる
                   比叡山延暦寺 親鸞修行の地と伝わる

【 高野聖 】

 

「聖」について、五来重氏は「増補=高野聖」(P29 1975年 角川学芸出版)で、以下のようにその語源、性格を記されています。

 

 

聖はおそらく原始宗教者の「日知(ひし)り」から名づけられたものであろうといわれるが、わたくしは火を管理する([]る=治[]ろしめす)という意味で「火治(ひし)り」といってもよいとかんがえている。

 

それは「古事記」の景行天皇条に日本武尊が、

新治(にひばり)筑波をすぎて、幾夜か宿()つる

と日数をたずねたのにたいして、

かかなべて、夜()には九夜(ここのよ)、日には十日を

とこたえたのは「御火焼(おひたき)の老人(おきな)」で、神聖な火を管理する宗教者が日をかぞえ、また日の吉凶を知っていたからである。

 

この「御火焼の老人」は同時に「東(あずま)ノ国造」であったから、原始宗教者であるとともに、部族国家の首長でもあった。この意味から祭政一致の主権者である天皇が聖帝(ひじりみかど)とよばれたのは当然で、高野聖のような「ひじり」はきわめて原始的な宗教者一般の名称であったと考えてよい。

 

このような宗教者には、呪力を身につけるための山林修行と、身のけがれをはらうための苦行があった。これが山林に隠遁する聖の隠遁性と苦修練行の苦行性になったのである。また原始宗教では死後の霊魂は苦難にみちた永遠の旅路をつづけるとかんがえたので、これを生前に果たしておこうという巡礼が、聖の遊行性(回国性)となっている。

 

隠遁と苦行と遊行によってえられた呪験力は、予言・治病・鎮魂などの呪術にもちいられるので、聖には呪術性があることになる。また原始宗教者は一定の期間、あるいは山伏の夏行(げぎょう)や入峯(にゅうぶ)修行のような一年の何か月かは、隠遁と苦行のきびしい掟があるけれども、それ以外は妻帯や生産などの世俗生活をいとなむので、俗聖とよばれる世俗性がある。

 

なお原始宗教ほど信仰を内面的な質よりも作善(さぜん・宗教的善行)の数量ではかるので、多数者による多数作善をおもんずるために、集団をなして作善をする集団性がある。この多数者による集団的作善は大衆を動員して道路や橋をつくり、あるいは寺や仏像をつくる勧進に利用されるから、仏教化した聖の最大のはたらきはその勧進性にあったのである。この勧進ということが、実は聖の社会史的、経済史的意義で、高野聖についてもこの点に重点をおいてかんがえなければならない。また勧進の手段として聖は、説経や祭文などの語り物と、絵解(えとき)と、踊念仏や念仏狂言などの唱導をおこなった。これが聖の唱導性であるが、これが庶民文学や民間芸能となって日本文化に寄与したのである。

 

 

このように、原始宗教者としての聖は、隠遁性・苦行性・遊行性・呪術性・世俗性・集団性・勧進性・唱導性をもつものとして歴史にあらわれてくる。高野聖もけっして例外ではなく、これら七つの性格をそなえて高野山の歴史をかたちづくり、日本の庶民仏教の歴史に大きな足跡をのこした。

 

                      高野山 奥の院
                      高野山 奥の院

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