エミシとその時代 2 文武(もんむ)天皇5年(701)~天平21年(749)

文武(もんむ)天皇5年(701)

 42代・文武(もんむ)天皇の5(701)315日、追大肆(ついだいし)という位階であった凡海宿禰麁鎌(おおしあまのすくねあらかま)が治金のため陸奥に派遣されます。

 

・「続日本紀」巻第二・文武天皇5(701)

戊子。遣追大肆凡海宿禰麁鎌、于陸奥冶金。

 

 

和銅2年(709)

 43代・元明(げんめい)天皇(女帝)の和銅2(709)35日、「陸奥・越後二国の蝦夷(えみし)は野蛮な心があって馴れず、しばしば良民に危害を及ぼしている。」即ち騒乱を起こしているとして、朝廷は使者を遣わして遠江、駿河、甲斐、信濃、上野(こうずけ)、越前、越中等の国から兵を徴発し、左大弁・正四位下・巨勢朝臣麻呂(こせのあそみまろ)を陸奥鎮東将軍とし、民部大輔・正五位下・佐伯宿禰石湯(さえきのすくねいわゆ)を征越後蝦夷将軍に、内蔵頭(くらのかみ)・従五位下・紀朝臣諸人(きのあそみもろひと)を副将軍に任命し、東山道・北陸道の両道より蝦夷に向かわせました。将軍には節刀(せっとう)と軍令を授けます。

 

 秋71日、従五位上・上毛野朝臣安麻呂(かみつけぬのあそみやすまろ)が陸奥守に任じられます。

 同日、蝦夷征討のため諸国より徴発された武器類が出羽柵(でわのき・でわのさく)に運び込まれました。出羽柵とは蝦夷征服の為に出羽に設けられた古代の城柵(じょうさく)で、軍事的防御施設であると同時に政治行政機能も併せ持っていました。

 713日、越前、越中、越後、佐渡の四カ国の船、100艘を蝦夷征討の根拠地である征狄所(せいてきしょ)に送らせます。

 825日、佐伯宿禰石湯と紀朝臣諸人が蝦夷征討を終えて入京。二人は元明天皇と対面し、手厚い恩寵(おんちょう)を与えられました。

 

・「続日本紀」巻第四・和銅2(709)

三月・・・壬戌。陸奥・越後二国蝦夷。野心難馴。屡害良民。於是、遣使徴発遠江。駿河。甲斐。信濃。上野。越前。越中等国。以左大弁正四位下巨勢朝臣麻呂為陸奥鎮東将軍。民部大輔正五位下佐伯宿禰石湯為征越後蝦夷将軍。内蔵頭従五位下紀朝臣諸人為副将軍。出自両道征伐。因授節刀并軍令。

 

秋七月乙卯朔。以従五位上上毛野朝臣安麻呂為陸奥守。」令諸国運送兵器於出羽柵。為征蝦狄也。

丁卯。令越前。越中。越後。佐渡四国船一百艘送于征狄所。

 

八月・・・戊申。征蝦夷将軍正五位下佐伯宿禰石湯。副将軍従五位下紀朝臣諸人。事畢入朝。召見特加優寵。 

 

和銅3年(710)

 和銅3(710)310日、元明天皇は藤原京より平城京に遷都し、これより奈良時代が始まります。平城京は唐の都・長安を模して、奈良盆地北部に作られました。

 

・「続日本紀」巻第五・和銅3(710)

三月・・・辛酉。始遷都于平城。

 

 

和銅7年(714)

 元明天皇の和銅7(714)102日、勅により尾張、上野、信濃、越後等の諸国から二百戸の人々が出羽柵に柵戸(さくこ・きのへ)として移住。このような移住は蝦夷征討期中、何度も行われます。

 柵戸とは城柵を守る屯田兵のようなもので、東山道、東海道、北陸道等の諸国から多くの人々が蝦夷に移住して平時は農耕に従事、戦時には守備兵として戦いました。

 

 東山道の要路である上野国でも征討軍の兵士が徴発され、神亀元年(724)までの間に陸奥・出羽国への出兵が続き、農民は柵戸として移配され、物資の供出が頻繁に行われています。

 徴発された農民は弓・征箭・大刀等の武具や、刀子・砥石・蘭笠等の生活用具を自前で準備しなければならなかったようで、戦闘、生活備品の生産と供給、人員と物資の輸送体制、生産人口の減少、労働力不足による家庭・現場の疲弊は、上野国をはじめとする諸国に多大なる負担を強いるものでした。

 

・「続日本紀」巻第六・和銅7(714) 43代・元明天皇

冬十月・・・丙辰。勅、割尾張。上野。信濃。越後等国民二百戸。配出羽柵戸。

 

・「続日本紀」巻第七・霊亀3(717) 44代・元正(げんしょう)天皇(女帝)

二月・・・丁酉。以信濃。上野。越前。越後四国百姓各一百戸。配出羽柵戸焉。

 

・「続日本紀」巻第八・養老3(719) 元正天皇

秋七月・・・丙申。遷東海。東山。北陸三道民二百戸。配出羽柵焉。

 

・「続日本紀」巻第九・養老6(722) 元正天皇

八月・・・丁卯。令諸国司簡点柵戸一千人。配陸奥鎮所焉。 

 

養老4年(720)

 44代・元正天皇の養老4(720)928日、陸奥国から元正天皇に「蝦夷が反乱をおこして按察使(あぜち)正五位上・上毛野朝臣広人(かみつけぬのあそみひろひと)が殺害された」との報告が入ります。

 翌29日、天皇は征討軍を編成し、播磨(はりま)の按察使で正四位下の多治比真人県守(たじひのまひとあがたもり)を持節征夷将軍に任じ、左京亮(さきょうのすけ)で従五位下の下毛野朝臣石代(しもつけぬのあそみいわしろ)を副将軍に任じて軍監3人・軍曹2人を配し、従五位上の阿倍朝臣駿河(あべのあそみするが)を持節鎮狄将軍に任じて軍監2人・軍曹2人を配し、即日、節刀を授け蝦夷に向かわせました。

 

・「続日本紀」巻第八・養老4(720) 元正天皇

九月・・・丁丑。陸奥国奏言。蝦夷反乱。殺按察使正五位下上上毛野朝臣広人。

戊寅。以播磨按察使正四位下多治比真人県守為持節征夷将軍。左京亮従五位下下毛野朝臣石代為副将軍。軍監三人。軍曹二人。以従五位上阿倍朝臣駿河。為持節鎮狄将軍。軍監二人。軍曹二人。即日授節刀。 

 

養老5年(721)

 元正天皇の養老5(721)610日、太政官が天皇に種々の奏上を行いました。

 

「陸奥や筑紫の辺境の砦の民は度重なる戦いに兵として参加し、疲れ切っている。

加えて父子共に死亡したり、一家離散となる家庭もあり、太政官として深く憂慮している。

民の実情を考慮すれば今年の調・庸は免除すべきである。

諸国の軍人達で自ら兵を率いて逆賊を殺したり捕えたり、勝ち戦に乗じて逃げる敵を追った者には二年間の租税を免除すべき。

戦い死去した者には、その人物の父子ともに一年間租税を免除し、子がないときは親族で話し合い、選ばれた者の税を免除する」

 

 これら太政官の率直な訴えを天皇は受け入れ、許可しました。

 

・「続日本紀」巻第八・養老5(721) 元正天皇

六月・・・乙酉。太政官奏言。・・・又陸奥・筑紫辺塞之民。数遇煙塵。疚労戎役。加以、父子死亡。室家離散。言念於此。深以矜懐。宜令免当年調庸。諸国軍衆。親帥戦兵。殺獲逆賊。乗勝追北者。賜復二年。冒犯矢石。身死去者。父子並復一年。如無子者。昭穆相当郷里者。議亦聴復之。

・・・奏可之。 

 

養老6年(722)

 元正天皇の養老6(722)416日、陸奥の蝦夷、薩摩の隼人らを征討した諸将、官人と功績のあった蝦夷、通訳の者に勲位が授けられました。

 

・「続日本紀」巻第九・養老6(722)  元正天皇

夏四月丙戌。征討陸奥蝦夷。大隅・薩摩隼人等将軍已下及有功蝦夷。并訳語人。授勲位各有差。

 

 

 閏425日、太政官が天皇に種々の奏上を行いました。

「最近、辺境の郡の人民は賊の侵略を受け、その度に東へ、西へ逃げては分散している。    人民に憐れみと恵みを与えないと後に憂いを残すことになる。聖王が制度を立てるにあたっては、辺境の民を思い実利をもたらすことに務めるのは、国土を安んじている中国の例にもあるところ。そこで請願する。陸奥国の按察使の管内では百姓の庸・調を免除し、農業と養蚕を励ませ、騎馬と射術を教え、辺境の為の税は蝦夷への禄として賜りたい。(後略)

 天皇はこれらの奏上を許しました。

 

・「続日本紀」巻第九・養老6(722)  元正天皇

閏四月乙丑。太政官奏曰。廼者。辺郡人民。暴被寇賊。遂適東西。流離分散。若不加矜恤。恐貽後患。是以、聖王立制。亦務実辺者。蓋以安中国也。望請。陸奥按察使管内。百姓庸調浸免。勧課農桑。教習射騎。更税助辺之資。使擬賜夷之禄。其税者。・・・・ 

 

養老7年(723)

 元正天皇の養老7(723)917日、出羽国司である正六位上の多治比真人家主(たじひのまひとやかぬし)が天皇に奏上し、勅命により、蝦夷征討に加わり功績のあった52名の蝦夷の人々に褒美と位が与えられました。

 養老6年の蝦夷の通訳褒賞と併せて、蝦夷から朝廷に協力する人が出てきたこと、また蝦夷征討の現地化が進められていたことが確認されます。

 

・「続日本紀」巻第九・養老7(723) 元正天皇

九月・・・己卯。出羽国司正六位上多治比真人家主言。蝦夷等惣五十二人。功効已顕。酬賞未霑。仰頭引領。久望天恩。伏惟。芳餌之末。必繋深淵之魚。重禄之下。必致忠節之臣。今夷狄愚闇。始趨奔命。久不撫慰。恐二解散。仍具状請裁。有勅。随彼勲績。並加賞爵。 

 

神亀元年(724)

45代・聖武天皇の神亀元年(724)225

 陸奥国鎮守の軍卒等が「この地に本籍を移して、父母妻子ら家族を呼び寄せ共に生活したい」とした願いが許可されます。今度は朝廷軍と家族の現地への同化です。

 

325

 朝廷のもとに陸奥国からの一報が入ります。海道(東北地方太平洋岸)の蝦夷が反乱を起こし、大掾(だいじょう・律令制四等官のうち三等官)で従六位上の佐伯宿禰児屋麻呂(さえきのすくねこやまろ)が殺害されました。

 

43

 朝廷は死亡した陸奥国大掾の佐伯宿禰児屋麻呂に従五位下を追贈。

 続いて47日、海道の蝦夷を征討するため、式部卿(しきぶきょう・律令制における式部省の長官職)で正四位上の藤原朝臣宇合(ふじわらのあそみうまかい)を持節大将軍に任じ、宮内大輔で従五位上の高橋朝臣安麻呂(たかはしのあそみやすまろ)を副将軍に任命します。他に判官8人、主典8人を任じます。

 

414

 坂東九ヵ国の軍勢三万人に馬術、射術を教習させて軍事演習を行い、征討に必要な物資を陸奥の鎮所に運びます。

 5月に入ると出羽の蝦夷に動きがあり524日、朝廷は従五位上の小野朝臣牛養(おののあそみうしかい)を鎮狄(ちんてき)将軍に任命して現地に向かわせます。これらの遠征は半年ほどで終了した模様で、1129日に藤原朝臣宇合、小野朝臣牛養らが帰京しています。

 

 この年、多賀城(多賀柵)が大野朝臣東人(おおのあそみあずまひと)によって設置されたことが、宮城県に残る多賀城碑(宮城県多賀城市市川字田屋場)に刻まれています。多賀城には国府・鎮守府が置かれ、蝦夷の制圧と開拓の拠点となりました。

 

・「続日本紀」巻第九・神亀元年(724) 聖武天皇

二月・・・乙卯。陸奥国鎮守軍卒等。願除己本籍便貫此部。率父母妻子共同生業。許之。

 

三月・・・陸奥国言。海道蝦夷反。殺大掾従六位上佐伯宿禰児屋麻呂。

 

夏四月庚寅朔。令七道諸国造軍器幕・釜等。有数。

壬辰。陸奥国大掾佐伯宿禰児屋麻呂贈従五位下。賻絁一十疋。布廿端。田四町。為其死事也。丙申。以式部卿正四位上藤原朝臣宇合為持節大将軍。宮内大輔従五位上高橋朝臣安麻呂為副将軍。判官八人。主典八人。為征海道蝦夷也。

癸卯。教坂東九国軍三万人教習騎射。試練軍陳。運綵帛二百疋。絁一千疋。綿六千屯。布一万端於陸奥鎮所。

 

五月・・・壬午。従五位上小野朝臣牛養為鎮狄将軍。令鎮出羽蝦狄。軍監二人。軍曹二人。

 

十一月・・・乙酉。征夷持節大使正四位上藤原朝臣宇合。鎮狄将軍従五位上小野朝臣牛養等来帰。 

 

神亀2年(725)

閏正月4

 陸奥国の俘囚が西国に移配されます。144人を伊予国へ、578人を筑紫へ、15人を和泉監(いずみのげん)へ移しました。

 

317

 天皇は常陸国の百姓で蝦夷の裏切りで家を焼かれた者については、財物の損失度合いに応じて租税負担を免除する、としました。

 

・「続日本紀」巻第九・神亀2(725) 聖武天皇

閏正月己丑。陸奥国俘囚百卌四人配于伊予国。五百七十八人配于筑紫。十五人配于和泉監焉。

 

三月庚子。常陸国百姓。被俘賊焼。損失財物。九分已上者給復三年。四分二年。二分一年。 

 

神亀4年(727)

921

 渤海の使者である首領・高斉徳(こうせいとく)8人が出羽国に来着します。京都に向かう途次、蝦夷の軍勢に襲撃されて寧遠将軍・高仁義以下16人が殺害され、難を逃れ無事だった首領・高斉徳ら8人が入京しました。

 

・「続日本紀」巻第十・神亀4(727) 聖武天皇

九月・・・庚寅。渤海郡王使首領高斉徳等八人。来着出羽国。遣使存問。兼賜時服。

十二月・・・丙申。遣使賜高斉徳等衣服・冠・履。渤海郡者旧高麗国也。淡海朝廷七年冬十月。唐将李勣伐滅高麗。其後朝貢久絶矣。至是、渤海郡王遣寧遠将軍高仁義等廿四人朝聘。而着蝦夷境。仁義以下十六人並被殺害。首領斉徳等八人僅免死而来。 

 

神亀5年(728)

411

 天皇は、陸奥国からの申請があった白河軍団の新設と、丹取(にとり)軍団を改めて玉作(たまつくり)軍団とすることを許可します。

 

・「続日本紀」巻第十・神亀5(728) 聖武天皇

夏四月・・・丁丑。陸奥国請新置白河軍団。又改丹取軍団為玉作軍団。並許之。 

 

天平2年(730)

正月26

 陸奥国は「田夷(たい)村の蝦夷は帰順して教えるところに従い、長く反逆することもない。そこで郡家(郡役所)を田夷村につくり蝦夷を等しく公民にしたい」と申請し、天皇より許可されます。蝦夷の人々が朝廷側に帰順して君姓を賜り、郡家を建て編戸の民となっていくことは、和銅3(710)頃より記録されるようになります。

 

・「続日本紀巻第五・和銅3(710) 43代・元明天皇

夏四月・・・辛丑。陸奥蝦夷等、請賜君姓同於編戸。許之。

 

・「続日本紀」巻第七・霊亀元年(715) 44代・元正天皇

冬十月・・・丁丑。陸奥蝦夷第三等邑良志別君(おらしべのきみ)宇蘇弥奈(うそみな)等言。親族死亡、子孫数人。常恐被狄徒抄略乎。請、於香河村。造建郡家。為編戸民。永保安堵。

又蝦夷須賀君(すがのきみ)古麻比留(こまひる)等言。先祖以来。貢献昆布。常採此地。年時不闕。今国府郭下。相去道遠。往還累旬。甚多辛苦。請、於閉村。便建郡家。同於百姓。共率親族。永不闕貢。並許之。

 

・「続日本紀」巻第十・天平2(730) 聖武天皇

春正月・・・辛亥。陸奥国言。部下田夷村蝦夷等。永悛賊心。既従教喩。請、建郡家于田夷村。同為百姓者。許之。 

 

天平5年(733)

1226

 朝廷勢力の北進に伴い、出羽柵(山形県庄内地方にあった)が秋田村の高清水岡(秋田県秋田市付近)に遷されました。また雄勝村に郡を建て、民を住まわせます。

 

・「続日本紀」巻第十一・天平5(733) 聖武天皇

十二月己未。出羽柵遷置於秋田村高清水岡。又於雄勝村建郡居民焉。

 

天平8年(736)

429

陸奥と出羽の二国で功の有った郡司及び俘囚27人に対し、天皇より爵位が授けられます。

 

・「続日本紀」巻第十二・天平8(736) 聖武天皇

夏四月・・・戊寅。賜陸奥・出羽二国有功郡司及俘囚廿七人爵、各有差。

 

天平9年(737)

正月23

 陸奥の按察使である大野朝臣東人(おおのあそみあずまひと)らが「現在、陸奥国より出羽柵に行くのには男勝(おかち)を回り道して遠回りをしなければならず、時間がかかるので、直通する路を作りたい」旨を申し出ます。

 天皇は持節大使で兵部卿・従三位の藤原朝臣麻呂(ふじわらのあそみまろ)、副使で正五位上の佐伯宿禰豊人(さえきのすくねとよひと)、常陸守で従五位上・勲六等の坂本朝臣宇頭麻佐(さかもとのあそみうずまさ)等に詔して、陸奥国に発進させます。判官(じよう)4人、主典(さかん)4人も同行しました。

 

 藤原朝臣麻呂らは219日、陸奥の多賀柵に到着。鎮守府将軍で従四位上の大野朝臣東人らと作業工程を考え、常陸、上総、下総、武蔵、上野、下野等、六ヶ国の騎兵、総計1000人で山道と海道を作り始めます。しかし、工事を知った蝦夷は疑いと恐怖を抱くようになります。

 そこで、現地の人である遠田郡の郡領・外従七位上の遠田君雄人(とおだのきみおひと)を海道に派遣。やはり現地人である和我君計安塁(わがのきみけあるい)を山道に派遣して、蝦夷をなだめ諭し鎮撫しました。

 

 健康体で勇敢な蝦夷196人を選抜して将軍・東人に委ね、459人を玉造(宮城県大崎市)等の五柵に分散、配置します。

 藤原朝臣麻呂らは残る345人を指揮して多賀柵を守り、副使で従五位上の坂本朝臣宇頭麻佐(さかもとのあそみうずまさ)は玉造柵を、判官で正六位上の大伴宿禰美濃麻呂(おおとものすくねみのまろ)は新田柵を、国大掾で正七位下の日下部宿禰大麻呂(くさかべのすくねおおまろ)は牡鹿(おじか)柵を守りました。

 

225

 将軍・東人は多賀柵を出発。

 31日、下判官で従七位上の紀朝臣武良士(きのあそみむらじ)らと騎兵196人、鎮守府の兵499人、陸奥国の兵5000人、帰順した蝦夷249人を率いて管内の色麻(しかま)柵を出発。同日、出羽国大室駅に到着します。

 出羽国守・正六位下の田辺史難破(たなべのふひとなにわ)は管内の兵500人、帰順した蝦夷140人と大室駅で待機。

 33日、将軍・東人の軍勢と合流して賊地に入り、しばらくは道を開拓しながら行軍します。しかし、雪が深かったことと小勝(雄勝)の人々が協力しなかったこともあり、この時は道半ばにして作業は終わったようです。

 

・「続日本紀」巻第十二・天平9(737) 聖武天皇

九年春正月・・・丙申。先是。陸奥按察使大野朝臣東人等言。従陸奥国達出羽柵、道経男勝。行程迂遠。請、征男勝村、以通直路。於是、詔持節大使兵部卿従三位藤原朝臣麻呂。副使正五位上佐伯宿禰豊人。常陸守従五位上勲六等坂本朝臣宇頭麻佐等。発遣陸奥国。判官四人。主典四人。

 

夏四月・・・戊午。遣陸奥持節大使従三位藤原朝臣麻呂等言。以去二月十九日、到陸奥多賀柵。与鎮守将軍従四位上大野朝臣東人共平章。且追常陸。上総。下総。武蔵。上野。下野等六国騎兵惣一千人。開、山海両道。夷狄等、咸懐疑懼。仍差田夷遠田郡領外従七位上遠田君雄人。遣海道。差帰服狄和我君計安塁。遣山道。並以使旨慰喩、鎮撫之。仍抽勇健一百九十六人、委将軍東人。四百五十九人分配玉造等五柵。麻呂等、帥所余三百卌五人、鎮多賀柵。遣副使従五位上坂本朝臣宇頭麻佐鎮玉造柵。判官正六位上大伴宿禰美濃麻呂鎮新田柵。国大掾正七位下日下部宿禰大麻呂鎮牡鹿柵。自余諸柵、依旧鎮守。廿五日。将軍東人従多賀柵発。三月一日。帥使下判官従七位上紀朝臣武良士等及所委騎兵一百九十六人。鎮兵四百九十九人。当国兵五千人。帰服狄俘二百卌九人、従部内色麻柵発。即日、到出羽国大室駅。出羽国守正六位下田辺史難破将部内兵五百人。帰服狄一百卌人。在此駅。相待以三日。与将軍東人共入賊地。且開道而行。但賊地雪深、馬芻難得。所以、雪消草生。方始発遣。(後略)

 

天平13年(741)

324日、聖武天皇は諸国に「国分寺(金光明四天王護国之寺)、国分尼寺(法華滅罪之寺)建立」の詔勅を発しました。

 

・「続日本紀」巻第十四・天平13(741) 聖武天皇

三月・・・乙巳。詔曰。朕以薄徳。忝承重任。未弘政化。寤寐多慚。古之明主、皆能先業。国泰人楽。災除福至。修何政化。能臻此道。・・・又毎国僧寺。施封五十戸。水田一十町。尼寺水田十町。僧寺必令有廿僧。其寺名、為金光明四天王護国之寺。尼寺一十尼。其寺名為法華滅罪之寺。両寺相共、宜受教戒。若有闕者。即須補満。其僧尼。毎月八日。必応転読最勝王経。毎至月半。誦戒羯磨。毎月六斎日。公私不得漁猟殺生。国司等宜恒加検校。

 

天平14年(742)

123

陸奥国・黒川郡以北の十一郡で赤い雪が降り、平地で二寸ほど積もりました。

 

・「続日本紀」巻第十四・天平14(742) 聖武天皇

春正月・・・己巳。陸奥国言。部下黒川郡以北十一郡。雨赤雪。平地二寸。

 

天平15年(743)

1015

聖武天皇は盧舎那仏(大仏)金銅像造立の詔勅を発します。

 

・「続日本紀」巻第十五・天平15(743) 聖武天皇

冬十月辛巳。詔曰。朕以薄徳、恭承大位。志存兼済。勤撫人物。雖率土之浜、已霑仁恕。而普天之下、未浴法恩。誠欲頼三宝之威霊、乾坤相泰。修万代之福業、動植咸栄。粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。発菩薩大願、奉造盧舍那仏金銅像一躯。尽国銅而鎔象。削大山以構堂。広及法界、為朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。(後略) 

 

天平21年(749)

222

 陸奥国が天皇にはじめて黄金を献上します。このことは幣帛(へいはく・みてぐら)を奉って畿内、七道の諸社に報告されました。

 

・「続日本紀」巻第十七・天平21(749) 聖武天皇

「天平廿一年二月」丁巳。陸奥国、始貢黄金。於是。奉幣、以告畿内七道諸社。

 

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