13 授与書きのない臨滅度時本尊

弘安3(1280)3月、日蓮は後に門下より「臨滅度時本尊」と呼ばれることになる曼荼羅(御本尊集NO81)を書き顕しました。「御本尊集」(立正安国会)の解説によれば、

 

聖祖御入滅の時に臨み、御床頭に聖筆大漫荼羅を奉懸したことは

西山日代師「宰相阿闍梨御返事」 (「宗学全書興門集」二百三十四頁)

「当家宗旨名目」 (下巻二十九丁)

「立像等事」 (「本尊論資料」第一編百十五頁)

「元祖化導記」 (下巻四十二丁)

以下の諸書に概ね之を載せ、其の臨滅度時の大漫荼羅が即ち当御本尊であることは、

「本化別頭仏祖統紀」 (六巻二十六丁)

「高祖年譜攷異」 (下巻五十三丁)

の伝えるところである。

但し、「別頭統紀」が文永十一年四月の御図顕としたのは、失考としなければならぬ。 

「蛇形御本尊」と云う称号の由来も、亦同書に詳しい。

 

というもので入滅の時にあたり、その床頭に掲げたと伝えられています。

 

顕示年月日は「弘安三年太才庚辰三月 □」、讃文には「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曾有大漫荼羅也」と書かれ、寸法は「161.5×102.7㎝」10枚継ぎの大きな曼荼羅です。

 

平成13(2001)、日蓮宗により臨滅度時本尊の修理が行われ、その際、曼荼羅右下「大広目天王」の表具の背面に「日朗(花押)」と小さく署名されていることが確認されており(「妙本寺蔵『日蓮聖人御真蹟 臨滅度時曼荼羅本尊』の成立と伝来」中尾堯氏 2008年 「日蓮仏教研究」常円寺日蓮仏教研究所)、現在の所蔵寺院が鎌倉・比企谷妙本寺であることからも、臨滅度時本尊は日蓮一弟子の一人・日朗の門流で継承されてきたことが分かります。

 

この曼荼羅で注目すべきは授与書が無いことで、削られた跡が有るわけでもなく、始めから授与書きが無いのです。渡辺宝陽氏は考察「大曼荼羅本尊御図顕の意義」(日蓮聖人門下歴代・大曼荼羅本尊集成 解説 1986大塚巧藝社)において、「なお、ここで注目されることは、臨滅度時の御本尊には授与書がないことである。十枚継以上の五幅のうちで、この一幅には授与書が認められていない。しかも大曼荼羅全体が見事な完成美を示していることといい、聖人の御入滅の時に掲げられたと伝えられていることとかさね合わせて、授与書がないことが逆に重要な意味をもっているようにも推察されるのである。」(P16)と指摘されています。

 

中尾堯氏は前記考察で、鎌倉における日朗の法華堂には文永11(1274)に揮毫されたとみられる曼荼羅(「御本尊集」では曼荼羅18にあたる。寸法は189.4×112.1cm で、20枚継ぎの大きなもの)が掲げられていたが、10年余り経過して破損が目立ってきたようで、日朗は日蓮に本尊の揮毫を願い出た。弘安3(1280)3月、日蓮は要請に応じて曼荼羅を揮毫、それが臨滅度時本尊で、曼荼羅を直授された日朗は直ちに鎌倉法華堂に奉掲した。古くなった曼荼羅18は巻かれて仕舞われ、後世に伝えようとした。日蓮は授与する相手の名を「□□□授与之」と書くことがあるが、臨滅度時本尊の場合は「直授」なので改めて書くことはしなかった(趣意)と解説されています。

 

さて、どうでしょうか。

弘安3(1280)3月、臨滅度時本尊を書き顕した「直後」に、日蓮が日朗に授与したことを証するもの、記録等は見当たりません。程なくして鎌倉法華堂に奉掲されたという記録、文献も管見の限りありません。

 

弘安3(1280)3月の図顕直後、日朗に臨滅度時本尊を授与していたのならば、他の弟子への曼荼羅に、

・「大日本国沙門日照之」(建治24月 祈祷御本尊 曼荼羅37 寸法133.4×98.5㎝ 8枚継ぎ・「当曼荼羅の授与書きは、もと紙背に認めさせられたものを、表装に際し、之を切り離して表面に現した」と伝承されています)

・「日頂上人授与之」(弘安元年8月 曼荼羅53  寸法94.5×52.4㎝ 3枚継ぎ)

・「日向法師授与之」(弘安248日 曼荼羅61 寸法89.4×47.6㎝ 3枚継ぎ)

・「釈子日昭伝之」(弘安311月 伝法御本尊 曼荼羅101 寸法197.6×108.8㎝ 12枚継ぎ)

とあるように、「日朗授与之」などと授与書きを記したのではないでしょうか。

 

「日蓮一門が大勢集まるところ、法華堂、持仏堂などに掲げるために揮毫された曼荼羅だから、授与書きはいらない」との意見もあるでしょうが、臨滅度時本尊と同じ年、弘安311月に「釈子日昭伝之」と書かれた曼荼羅101伝法御本尊は、寸法が197.6×108.8㎝、12枚継ぎの大きなもので、この形状からすれば日昭の法華伝道拠点に集まる信徒が礼拝するための曼荼羅であったと推測でき、その曼荼羅には授与書きが認められているのです。

 

他にも、弘安元年1121日に書き顕された曼荼羅57は、寸法234.9×124.9㎝、大小28枚継ぎという現存真蹟曼荼羅中最大のもので、教線拡大により法華伝道拠点が誕生し、そこでの礼拝のために顕された曼荼羅と思われます。ここには「優婆塞藤太夫日長」との授与書きがあるのです。

 

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