立正安国論の「略本」「広本」「中山本」「身延本」などについて

 

◇以下、「立正安国論」の概要と写本等について箇条書きにまとめてみました。

 

・構想の年月は「立正安国論奥書」にあり。

「正嘉(1257)より之を始め文応元年(1260)に勘え畢る」と。

 

・四六駢儷(べんれい)の文体。

 

・十問九答の主客問答形式、客の問に対して主人が答え、客を承服させる。

 

・批判対象は「略本」は主に「法然・念仏」。「広本」は更に「弘法・真言密教」も加わる。

 

1260年・文応元年716日、北条時頼に上進されたものを「文応本」と称する。

 

 

 

◇「安国論別状」について(系年は1272年・文永9年か) 

 

立正安国論の正本、富木(土木)殿に候、かきて給び候はん、ときどの(富木殿)か、又。

五月廿六日  日蓮花押

 

⇒二通りの解釈

 

1 鎌倉方面の信者某が、配流地・佐渡にいる日蓮に「立正安国論を写して頂きたい」と申し出る。日蓮は、「立正安国論の正本は富木殿の手許にあるので富木殿若しくは他の誰かに写してもらいなさい」と返報したのが同書である。

宮崎英修氏、稲田海素氏、

 

2 日蓮自身が、立正安国論写本の送付を要求したものが同書である。

鈴木一成氏、中尾堯氏、

尚、中尾氏は、文永9年ではなく「佐渡配流以前の書である」と指摘。

山中講一郎氏は「日蓮自伝考」中で、「安国論別状」を「文永5年」と指摘。

 

 

 

◇中山本と真間切損本

 

・中山法華経寺所蔵の立正安国論を「中山本」と称する。全36紙より成り、1紙あたり16行、本文は358行目で終わり、残り1紙半には跋文(ばつぶん・書物・文書などの終わりに書く文、あとがき)が記される。本文は首題を入れて563行、国宝に指定されている。

 

・「中山本」の奥書には「文永六年(1269)十二月八日書写」と。

北条時頼に上進してから9年以上のもの、日蓮の署名はなし。

 

・中山に同書が納められるようになった由来を記したものが「道正譲状」。

1306年・嘉元4年正月13日の日付となっている。

譲状に、日蓮が、1269年・文永6128日、下総国の地頭・矢木式部大夫胤家(千葉常胤の孫)の為に目の当たり授けたものであることが記される。1280年・弘安3年、遠藤右衛門沙弥道正は、矢木式部大夫胤家から「中山本」を相承する。中山2世・日高の代に、「中山本」は中山に納められ今日まで伝わることになる。

 

日蓮 ⇒矢木式部大夫胤家 ⇒遠藤右衛門沙弥道正⇒ 中山2世・日高

 

・「中山本」の第24紙、本文13181字は、慶長6(1601年、関ヶ原の戦いの翌年)11月、法華経寺14世・功徳日通が「身延本」によって書写し補ったもの。

「中山本」末尾の書き入れに、

「此一紙於身延山以御真筆之安国論奉写之 慶長六年辛丑閏霜月六日 日通 花押」とある。

 

・「真間切損本」と称されるものは各地に散在する。「高祖年譜」記載。

 

 

 

◇身延本

 

・身延本は、1875年・明治8年の身延の大火で焼失する。全20紙より成っていた。

 

・身延21世・寂照日乾( 15601635、慶長~元和の身延山久遠寺の学匠 )の模写本が京都本満寺にあり。中山本とほぼ同じで署名もなし。本分末尾に「文應元年大歳庚申勘之」と。奥書には、「於甲州波木井郷身延山久遠寺妙法華院 以御正筆謹奉写之校合了 慶長九年甲辰五月二十六日 日乾花押」とある。

 

・中尾堯氏はこの「身延本」について、「北条時頼に上進したものが返却され身延山にて伝わったもの」とする。興風談所・池田令道氏はこの説に対して、日乾本を引用しながら「行取りや字数、全体の不調和」など、疑問を呈する。

 

 

 

◇建治の広本

 

・文応元年の立正安国論を「略本」と称するのに対して、京都本圀寺所蔵の立正安国論は「広本」「建治の広本」と称される。または「建治・弘安の再治本」とも。24紙の巻子本(かんすぼん)

 

・「広本」は、文応元年の立正安国論「略本」の原本となったのでは?との説もあるが、文応元年の上進本を建治頃に増補したものとの説が主流。

 

・「広本」には法然念仏の他、真言密教批判が加わり、文字数も2000字余り多い。

 

・「略本」「広本」の呼称は、身延・行学日朝の「御書見聞」(安国論広本略本事)が初出か。

「広本」の署名には「沙門日蓮勘」とある。

 

1880年・明治13(滅後599)に、「高祖遺文録」全30巻が発刊される。この中に、初めて「立正安国論・広本」が収録される。

「高祖遺文録」は、医師である小川泰堂が30年かけて一人で日蓮の真蹟を照合し、「ご遺文(御書)の校訂と集大成」の仕事に取り組んだ成果。

明らかな偽作を削除して、387書の日蓮遺文を編年体で整理。1865年・慶応元年から木版本の『高祖遺文録』を出版。続いての全30巻の出版は小川の死後となった。

 

 

 

◇各門流での立正安国論「広本」の認識

 

・中山3世・日祐(12981374)

「本尊聖教録」

安国論一帖並再治本一帖

 

・本成日実

「当家宗旨名目」

建治再治安国論御座也

 

・富士、重須・日澄著

「富士一跡門徒存知の事」

(御本応永廿九(1422)年極月廿七日に書写せしめ畢ぬ 筆者・日算六十八歳)

 

一、立正安国論一巻。 此れに両本有り。一本は文応元年の御作。是れ最明寺殿、宝光寺殿へ奏上の本なり。一本は弘安年中・身延山に於て先本に文言を添えたもう。而して別の旨趣無し。只建治の広本と云う。

 

この書によれば、立正安国論は「最明寺殿=北条時頼」「宝光寺殿=北条時頼の長子である時宗(当時10)」の二人に上進されたことになる。

 

・身延山11世・行学日朝は、「御書見聞」中の「安国論私抄」の「安国論広本略本事」にて、

安国論広本・略本事、或人云く広本は草案の御本也。当時の略本は公界に出たまへる御本也、

( 広本は略本の草稿本であるとの説 )

と、或人の説を紹介するも後段にて、

又建治年号にて再治の安国論とて之有り、

と、文応元年の上進本を建治頃に再治したものとして、或人の説を退けている。

 

・宮崎英修氏の指摘

筆跡年代から考えれば、「広本」は建治・弘安の交の系年になる。

 

・「日蓮宗辞典」と宮崎氏曰く(趣意)

「広本」の第4紙以降は日蓮の筆ではなく、模写である。模写ということは、原本=日蓮自筆のものがあり、それによって模写したものであろう。

(これについては、「しかるべき理由の提示を」との指摘が興風談所・池田氏よりなされている。また中尾氏も「議論の余地がある」との指摘)

 

 

【 各門流での立正安国論写本 】

 

◇日興の写本は二本あり

 

1 1304年・嘉元2年の写本、大石寺蔵(静岡県富士宮市)

・日興の署名・花押なし。

 

・平成14年発行の「興風」14号、「保田妙本寺所蔵の『日蓮遺文等抄録』について」では、「重須談所初代学頭・寂仙房日澄の筆ではないか」と推定されている。

 

2 玉沢妙法華寺蔵(静岡県三島市)

・題号の次下に「天台沙門日蓮勘之」の署名あり、日興の署名・花押はなし。

 

・興風談所・菅原氏の考察では、日興の「実相寺衆徒等愁状写」と「玉沢本」の字は一致しており、「玉沢本」は日興の筆に間違いないとされる。

 

・同書は、日興が師・日蓮の立正安国論を書写したものであり、鎌倉の草庵にあったが、佐渡流罪前後に日昭が預かり、そのまま玉沢に伝わったものか。

 

・「玉沢本」の紙背に日蓮筆の「夢想御書」二行の記述あり。

立正安国会刊『日蓮大聖人御真蹟対照録』では、文永9年の記述と推測。

 

夢想御書

文永九年[太才壬申]十月二十四日の夜の夢想に云く 来年正月九日、蒙古治罰の為に相國より大小向ふべし等云云。

 

・同じく紙背に日蓮筆の「涅槃経等要文」がある。

 

 

 

◇日向の写本

 

身延山久遠寺蔵

「沙門日蓮勘」の署名あり。第三問答の「答」の途中までで、以下は欠となっている。引用経文に混同がある、広本の写しか。

伝日向との説も。

 

 

 

◇岡宮・和泉日法の写本

 

岡宮光長寺蔵

末尾に「文應元年太歳庚申勘之」と。

興風談所・池田氏によると、「日法本」の奥書の「来我朝」、「諸」等の加筆訂正は日蓮の筆であり、日法本は日蓮の在世に書写され、日蓮の高覧を経ているとされる。

 

 

 

◇日弁の写本

 

多古妙興寺蔵

「天台沙門日蓮勘之」の署名あり。

 

 

 

◇富木常忍の「常修院本尊聖教目録」(「常師目録」)

 

文中に立正安国論の記述あり。

 

 

 

◇中山日高の写本

 

中山法華経寺蔵

「天台沙門日蓮勘之」の署名あり。

 

 

 

◇中山日祐の写本

 

千葉県多古正覚寺蔵

「天台沙門日蓮勘之」の署名あり。

 

 

 

◇中山日祐の「祐師目録」

 

「大学三郎の筆・立正安国論」

 

 

 

◇三位日進の写本

 

鎌倉妙本寺蔵

 

 

 

◇日源の写本

 

北山本門寺蔵

 

 

【 公武への諫暁 】

 

門下の公武への諫暁には、略本の「立正安国論」を副進として上進される。

日興、日向、日朗、日頂、日弁、中山日高、日像、日目、日代、日道、日妙、日尊、日什他、多数。