6 最後の時にあたり日蓮の真実を残した万年救護本尊

万年救護本尊については、蒙古襲来と密接に関連していると考えられます。

文永11(1274)105日に対馬が元軍に襲われ、1014には壱岐に侵攻。続いて1020日、筑前国に上陸、守備の鎮西の御家人と激戦を展開。日本勢は防戦しつつ太宰府に退きましたが、夜半のうちに元軍は撤退してしまいます。短期間で思わぬ一応の決着がついたといえますが、かねてから他国侵逼難を説いて亡国の危機を訴えてきた日蓮にとっては、次は本土に攻め込まれて大量殺戮が行われる、多くの人が生け捕りになる、日本は滅亡するという事態が眼前となったのであり、書状にはその緊張感が満ち溢れるようになります。

 

文永111111日の「上野殿御返事(与南條氏書)」には「大蒙古国よりよ()せて候と申せば、申せし事を御用ひあらばいかになんどあはれなり。皆人の当時のゆき(壱岐)つしま(対島)のやうにならせ給はん事、おもひやり候へばなみだもとまらず」とあります。同じく1120日の「曾谷入道殿御書」にも、「自界叛逆の難、他方侵逼の難すで()にあ()ひ候ひ了んぬ。(中略)当時壱岐・対馬の土民の如くに成り候はんずるなり」と、日蓮の視界には本土を蹂躙する蒙古軍の姿がありました。

 

「法華取要抄」の草案である「取要抄」には、「慈覚等忘本師実義付順唐師権宗人也。智証大師少似伝教大師。」と台密・円仁批判が書かれるも、文永11524日の「法華取要抄」では公にされませんでした。ところが、かねてから主張・警告していた他国侵逼難が蒙古襲来として現実化するに及んで、1120日の「曾谷入道殿御書」では「日本国は慈覚大師が大日経・金剛頂経・蘇悉地経を鎮護国家の三部と取って、伝教大師の鎮護国家を破せしより、叡山に悪義出来して終に王法尽きにき。此の悪義鎌倉に下って又日本国を亡ぼすべし」と、明確に台密・円仁への批判を展開しています。

この時の日蓮の思考は「日本が亡国となったということは、これまでの我が国の仏教も共にその功力は失せた」というものでしょうし、故に出身母体である比叡山・台密批判という諸宗破折の最終段階に入ったのではないかと思われます。同時に、破局の時まで残された時間は少ないこともあり、「最後なれば申すなり。恨み給ふべからず」(曾谷入道殿御書)という緊迫感漲る文章を綴っています。いわば、この時の日蓮は「最後の時」という覚悟を持つに至ったといえるでしょうか。

 

日蓮は文永1111月に曼荼羅1415を顕した後、1215日に「顕立正意抄」を著して、門下に覚悟をもって法華経信仰に奮起するよう促しています。

日蓮が「去る正嘉元年太歳丁巳八月二十三日、大地震を見て之を勘え定めて書ける立正安国論」の自界叛逆難と他国侵逼難が的中したことを以て、「情有らん者は之を信ず可し」と法華経信仰に目覚めるべきなのだが、「天魔の国に入りて酔へるが如く狂へるが如く」の日本国の民は一向に信じる心がないので、「上下万人阿鼻大城に堕せんこと大地を的と為すが如し」阿鼻地獄に堕ちるであろう。

それは「日蓮が弟子等又此の大難脱れ難きか」日蓮一門といえども逃れ難い大難であり、「是を免れんと欲せば、各薬王楽法の如く臂を焼き皮を剥ぎ、雪山国王等の如く身を投げ心を仕えよ。若し爾らずんば五体を地に投げ、徧身に汗を流せ。若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め。若し爾らずんば奴婢と為て持者に奉へよ。若し爾らずんば等云云」と、今こそ経文に説かれるような不惜身命の信仰に立脚するべきなのである。

「四悉檀を以て時に適うのみ。我弟子等の中にも信心薄淡者は臨終の時阿鼻獄の相を現す可し。其の時我を恨む可からず等云云。」たとえ日蓮の弟子であっても、信心薄き者は最期に阿鼻地獄の相を現わしてしまうだろうが、その時、日蓮を恨んではいけない。

というもので、やはり、蒙古軍襲来という国家的有事、危急存亡の時にあたって日蓮一門はいかなる法華経信仰を貫徹すべきかを教示、というよりも訴える文面となっています。

 

「顕立正意抄」を著した1215日前後でしょうか、日蓮は万年救護本尊を図顕します。

 

その讃文を意訳すれば、

大覚世尊(釈尊)が入滅された後、二千二百二十余年が経歴しますが、月漢日(インド、中国、日本)の三ヶ国に於いて未だなかった大本尊です。日蓮以前、月漢日の諸師は、或いはこの大本尊のことを知っていましたが弘めず、或いはこれを知りませんでした。我が慈父=釈尊は仏智を以て大本尊を隠し留め(釈迦より上行菩薩に譲られて)、末法の為にこれを残されたからです。後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣するのです。

ということになると思いますが、この「大本尊」と「上行菩薩」は重く見るべきでしょう。

 

この時の日蓮の思考では、「蒙古軍襲来⇒九州での戦闘が一旦は終わっても、また必ずや攻めてくる⇒次は本土が蹂躙されて日本は滅びる」であり、故に「最後なれば申すなり」(曾谷入道殿御書)という心境となり、門下には覚悟の奮起を促し、自らの身命も先のことは分からないのであれば最後の作業をするべき時が来た、というものだったでしょう。その帰結として顕されたのが曼荼羅本尊であり特に万年救護本尊ではなかったか、と考えるのです。

 

 

いわば、国も仏教界も全てがリセットされて、滅びの中から「法華経による再生の物語」が始まる前夜に書かれたのが、万年救護本尊だと考えます。故にその讃文の中に、たとえ蒙古の攻めによって我が身命がなくなろうとも後世に残すべき自らの真実、即ち「教主釈尊より妙法蓮華経の付属を受け、滅後末法の弘通を託された『上行菩薩』である」と文の表に示し、『大本尊』と書くことにより「末法の衆生が拝するべきは妙法の曼荼羅本尊であり、末法の新たなる本尊を独創した日蓮こそ末法の教主である」と信解せしめる意を含ませたのではないでしょうか。

 

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