日蓮の一弟子・日興の入門の時期について

 

『正嘉元年(1257)8月に発生した鎌倉での大地震を受けて、日蓮は仏教的知見から災難由来の根本原因を解明し対処法を確立すべく、駿河国岩本実相寺の一切経蔵で一切経を閲覧した。その間に日興が帰依した』という説について考えました。

 

 

多くの日蓮に関する年表では、「正嘉21月または2月、日蓮は駿河国岩本実相寺に大蔵経を閲す」と伝え、また「その間に日興帰依と伝う」と記すものもあります。

大石寺17世・日精が著した「富士門家中見聞(家中抄)上・日興」では、次のように記しています。

 

1662年・寛文2(日蓮滅後381)1218日 大石寺17世日精著 (富要5148)

正嘉元年丁巳二月廿三日の大地震に付いて日蓮聖人・岩本実相寺の経蔵に入り給ふ、爾の時大衆の請により御説法あり、大衆聴聞して難遭の想ひ渇仰の心日々新なり、是の時大衆の中より甲斐公(日興)、承教随喜して弟子となり給ふ

 

しかしながら、日蓮の遺文には日興入門の前提としての、「岩本実相寺入蔵」の記述は見あたりません。

「法華本門宗要抄・下※に初めて「日蓮見此事容駿河國岩本経蔵引諸経論勘之看之指掌知之懸鏡覩之如是災難此等義也」と日蓮の岩本入蔵を記すも、同書自体が日蓮滅後、7080年後の書にして偽書との指摘があり、第一次資料とはならないものです。

 

日蓮の遺文中、「一切経」を勘えた記述には以下のようなものがあります。

 

「安国論御勘由来」文永545日 真蹟

日蓮世間の体を見て粗一切経を勘ふるに、御祈請験無く還りて凶悪を増長するの由、道理文証之を得了んぬ。終に止むこと無く勘文一通を造り作し其の名を立正安国論と号す。文応元年庚申七月十六日辰時、屋戸野入道に付し故最明寺入道殿に奏進し了んぬ。此偏に国土の恩を報ぜんが為なり。

 

「強仁状御返事」建治元年12月 真蹟

仍って予正嘉・文永二箇年の大地震・大長星に驚きて一切経を開き見るに、此の国の中に前代未起の二難有るべし。所謂自他返逼の両難なり。是併ら真言・禅門・念仏・持斎等、権小の邪法を以て法華真実の正法を滅失するが故に招き出だす所の大災なり。

 

このように「粗一切経を勘ふるに」「一切経を開き見るに」であり、現存遺文では、日蓮は「どこで一切経を勘えたのか」については不明ではないでしょうか。大地震を受けて一切経の閲覧というよりも、既に比叡山等での修学期に一切経を学んでいるでしょうから、大地震の被災体験を契機に再度、諸経の要文を確認したということではないでしょうか。

 

以上のように、日蓮のいわゆる「岩本入蔵」自体が確かではありませんので、「正嘉2(1257)日興帰依」も確実性がなく、日蓮と日興の邂逅は別の時ではないかと考えるのです。

 

さて、日蓮と駿河国の関係として特筆されるのは、駿河国富士郡上方の荘上野郷の地頭・南条兵衛七郎(南条七郎次郎時光の父)の入信であり、兵衛七郎の鎌倉在勤時、日蓮に帰依したと推測されています。日蓮が文永元年(1264)1213日に、兵衛七郎に送った「南条兵衛七郎殿御書」(真蹟)の冒頭には、「御所労の由承り候はまことにてや候らん。世間の定めなき事は病なき人も留まりがたき事に候へば、まして病あらん人は申すにおよばず。但心あらん人は後世をこそ思ひさだむべきにて候へ。又後世を思ひ定めん事は私にはかなひがたく候。一切衆生の本師にてまします釈尊の教こそ本にはなり候べけれ」と慰労されており、七郎は病気療養のため上野に在住していることがうかがわれます。

 

更に文中では「一家の人々念仏者にてましましげに候ひしかば、さだめて念仏をぞすゝめむと給ひ候らん。我が信じたる事なればそれも道理にては候へども、悪魔の法然が一類にたぼらかされたる人々なりとおぼして、大信心を起こし御用ひあるべからず。大悪魔は貴き僧となり、父母兄弟等につきて人の後世をばさうるなり。いかに申すとも、法華経をすてよとたばかりげに候はんをば御用ひあるべからず候」と、念仏者の南条家にあって兵衛七郎が一人法華経を信仰すれども、周囲の反対などにより、念仏への執着が捨てきれずに日蓮法華の信仰を退転してしまうことを誡めており、兵衛七郎の入信が浅いことがうかがわれます。

 

その後、兵衛七郎は文永23年頃に亡くなった模様です。

 

南条七郎次郎時光の弟・南条七郎五郎が16歳という若さで永眠(1280年・弘安395)して四十九日となり、時光の母・上野尼に送った書「上野殿母尼御前御返事」(同年1024日 真蹟)にはそれをうかがわせる一説があります。

 

故上野殿には盛んなりし時をく()れてなげき浅からざりしに、此の子をはら()みていまださん()なかりしかば、火にも入り水にも入らんと思ひしに、此の子すでに平安なりしかば、誰にあつらへて身をもな()ぐべきと思ひて、此に心をなぐさめて此の十四五年はすぎぬ。いかにいかにとすべき。二人のを()のこ()ゞにこそにな()われめと、たのもしく思ひ候ひつるに、今年九月五日、月を雲にかくされ、花を風にふかせて、ゆめかゆめならざるか、あわれひさ()しきゆめ()かなとなげ()きを()り候へば、うつゝ()にに()て、すでに四十九日は()せすぎぬ。

 

文中、父の逝去より「此の十四五年はすぎぬ」と記していて、兵衛七郎の逝去は1280年・弘安3から十四・五年前、1265年・文永2年または1266年・文永3年と推測されます。(日蓮宗年表・富士年表は文永2年としている)

ほどなくして、日蓮は故人を悼み鎌倉より上野郷へ墓参しています。

 

1274年・文永11726日「上野殿御返事」真蹟

こうへのどの(故上野殿)だにもを()はせしかば、つね()に申しうけ給はりなんとなげ()きをもひ候つるに、をんかたみ(御遺愛)に御みをわか()くしてとゞめをかれけるか。すがた(姿)のたが()わせ給はぬに、御心さえに()られける事いうばかりなし。法華経にて仏にならせ給ひて候とうけ給はりて、御はか()にまいりて候ひしなり。

 

1275年・文永121月に南条七郎次郎時光に送った「春の祝御書」真蹟

春のいわ()いわすでに事ふ()り候ひぬ。さては故なんでうどの(南条殿)はひさしき事には候はざりしかども、よろづ事にふれて、なつかしき心ありしかば、をろ()かならずをもひしに、よわ()ひ盛んなりしにはか()なかりし事、わかれかな()しかりしかば、わざとかまくら(鎌倉)よりうちくだかり、御はか()をば見候ひぬ。

 

日蓮がこの往還の際、一切経を蔵していたとされる岩本実相寺に足を停めることは容易に想像されるところであり、ほど近い蒲原庄の天台寺院・四十九院と日蓮になんらかの接点があり、その際に日興は日蓮の弟子となったのではないでしょうか。

故に日興の入弟は「文永23年頃」との推測も成り立つと考えるのです。

 

尚、参考ですが、上記「家中抄」の記述より100年ほど前、1560年・永禄3(日蓮滅後279) 117日に京都要法寺・日辰によって著された「祖師伝」(富要519)では、日蓮の岩本入蔵での日興弟子入りが記されていません。

 

駿州富士山重須本門寺釈の日興伝

釈の日興・俗姓は由比、岩本実相寺の住持・伯耆の阿闍梨と名くるなり、後に日蓮聖人の弟子と成り改ためて日興と号するなり、岩本の実相寺とは四十九院の中の一院なり、日興は彼の寺の住持にして社家の供僧なり、岩本とは冨士山の南を下り其の坂路より南方に当るなり

 

 

※法華本門宗要抄

系年・弘安57

昭和定本3続編44P2150、平成校定3真偽未決書14P2886

三宝寺本 真蹟なし 

7-15 縮二続106

 

※日蓮の岩本入蔵の有無については、以下の論考が参考になります。

・「法華仏教研究」12号 川﨑弘志氏の論考「日蓮聖人の生涯と遺文の考察()

・「法華仏教研究」19号 川﨑弘志氏の論考「日蓮聖人の生涯と遺文の考察()

 

                                                      2022.11.27