空海の入唐について

【 空海入唐の動機・目的について 】

 武内孝善氏はその著「弘法大師空海の研究」(2006年 吉川弘文館)にて、「空海入唐の動機・目的は密教を受法するためであった」との通説について考察されている。(pp.146~189)

 

 まず空海の著作における密教の使用例を列記。

    大同元年(806)1022日「御請来目録」

    弘仁4(813)11月「叡山の澄法師の理趣釈経を求むるに答する書」

    弘仁5(814)7月「梵字悉曇字母幷釈義」

    弘仁6(815)41日「諸の有縁の衆を勧め奉って秘密蔵の法を写し奉るべき文」

    弘仁6(815)頃「弁顕密二教論」巻上

    弘仁10(819)5月「高野建立の初めの結界の時の啓白文」

    弘仁13(822)「太上天皇灌頂文」

    弘仁(810年~823)末から天長(824年~833)の初め頃「即身成仏義」

    天長7(830)頃、「秘密漫荼羅十住心論」

    天長7(830)頃「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)

 

続いて、

 

 以上、空海の真撰疑いないとみなされる十の文章に「密教」なる言葉がみられた。このなか、①は恵果和尚の言葉として記されているので、しばらく措くと、空海が「密教」なる言葉を、自分の言葉として意識的に使用されたのは、意外に少なく、九ヵ所だけである。しかも「密教」なる言葉を使いはじめられるのは、②③より弘仁45(813814)頃からであったことがわかる。

 では、空海は「密教」なる言葉を、いかなる意味・内容で使っていたであろうか。空海は多くの場合、「顕教」なる言葉と対比した形で使用しており、ここに特徴が認められる。肝心の「密教」の意味・内容であるが、⑤「二教論」、⑨「十住心論」、⑩「宝鑰」などによると、密教とは、法身大日如来が自眷属とともに、自受法楽のためにさとりの境界(自内証の境界)をありのままに説かれた教え、となろう。

 さきに、空海が「密教」なる言葉をはじめて使用したのは、弘仁45(813814)ごろからであった、といった。ではそれ以前は、どのような言葉を使っていたのであろうか。この課題に答える資料が二つある。一つは、「大唐神都青龍寺・故三朝の国師・潅頂の阿闍梨・恵果和尚の碑」であり、一つは「御請来目録」である。

 これらの文章によると、空海は「密教」を使用するまえに、「密教」に替わる言葉として、「密蔵」なる言葉を多用していることがわかる。

 

 とする。空海が自らの言葉として「密教」を使用したのはわずか九箇所だけであり、しかも、入唐後しばらくしてから使用ということには、専門外の人は意外に思われるのではないだろうか。

 

 武内氏は次に、空海入唐の目的・動機について、空海自身が書き残している「重要と考えられる」二つの書、「福州の観察使に与えて入京する啓」(貞元20年[804]10月日付け)、「四恩のおんために二部の大曼荼羅を造る願文」(弘仁12[821]97日付け)を引用解読。

 

そして、

 

 空海の生涯には、いくつかのエポックメーキング、つまり画期的なできごとがあったが、その最大のものの一つが虚空蔵求聞持法との出逢いであり、いま一つが入唐求法の旅であった、と考える。しかもこの二つのことは、別々のことがらではなかった。すなわち入唐にいたる、そもそもの出発点が求聞持法との出逢いであった、と考える。

 

とされて「三教指帰」の序文を解読。

 

続けて、

 

 最後の「谷響きを惜しまず、明星来影す」は、空海が体験された事実を、ありのままに記されたものと考える。すなわち、「谷響きを惜しまず、明星来影す」とは、一心に虚空蔵菩薩の真言、

ノーボー アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ

(虚空蔵尊に帰命します。オーン、怨敵と貪欲を打ち破る尊よ、スヴァーハー)

を唱えていると、こだまが必ず返ってくるように、求聞持法の本尊・虚空蔵菩薩の象徴である明星が、私に向かって飛び込んできた、つまり虚空蔵菩薩と合一した、一つになった、と解される。ここには、簡潔な文章とはうらはらに、強烈な神秘体験が表明されている、と考える。

求聞持の法によって、強烈な神秘体験に出逢った空海のその後は、この体験した世界がいかなる世界であるかを探求する道程であり、いろいろな僧にみずから体験した世界を語り、それがいかなる世界であるかを問い、また自身も仏典のなかに解答を求め、解明・研鑽に精魂をかたむけたものと思われる。

 そのひとこまとして、「御遺告」が語るように、「大日経」をひもといたけれども、納得できる解答を見出せないまま悶々としていた、といったことも、全くの虚構とは思えない。

中略

 わが国では十分納得できる解答はえられない。ダメだ、との結論に達した空海は、最後の手段として、唐に渡ることを考えた、と思う。どのような手続きで、遣唐使の一員に選任されたかは明らかでないが、空海は留学僧として入唐を果たした。留学の期間は、二十年であった。

 貞元21(805)211日、遣唐大使・藤原葛野麻呂らが長安を去ったあと、空海は西明寺の永忠の故院にうつり、留学僧としての本格的な生活が始まった。恵果和尚と出逢うまでの三ヵ月余りの間、空海は持ち前の好奇心から、長安城内をくまなく歩いたことと思われる。その間の一日、ある寺の潅頂道場に足をふみいれた空海は、驚嘆した。なんとそこには、求聞持の法を修したとき体験した神秘の世界が、そっくりあったからである。その潅頂道場の壁は、仏たちで満ち満ちていた。つまり曼荼羅が余すところなく描かれていたのであった。曼荼羅と対峙したとき、それまでずっといだいていた空海の疑念は、ただちに氷解したのではなかったか、と愚考する。

 曼荼羅と対峙した空海は、かつて神秘体験した世界が、

    密教なる世界であったこと、

をはじめて知り、

    密教なる世界があること、

を、長安ではじめて認識したのであった。したがって、空海は、求聞持法を修したとき、体験的にはすでに密教の世界にまで到達していた、密教の世界を体験的には知っていた、と考える。

 空海自身のなかに、生命を賭けて出かけるだけのもの、つまり強烈な神秘体験があったからこそ、唐に渡ることを決意した、と考える。

 

とする。そして、空海が長安で訪ねた寺については、「秘密漫荼羅教付法伝」の「恵果和尚の項」を元に禮泉寺、または青龍寺と推測されている。

 このように、空海は密教との明確な認識のないまま虚空蔵菩薩求聞持法を修して感得する、それが密教であったと認識したのは入唐後の長安における寺院であり、以来、恵果和尚のもとで密教修得に励んだ、と武内氏は考察するのである。

 

 入唐時の空海の宗派については、藤井淳氏が「空海の思想的展開の研究」(2008年 トランスビュー)において、当時の桓武天皇は法相宗の勢力台頭を牽制することを目的に「三論宗復興政策の勅令」を盛んに出して三論宗を援助、その教学を振興させていた時期と空海入唐が重なること。空海は「性霊集(遍照発揮性霊集)」の「国家の為に修法せんと請い奉るの表」や「高野雑筆集」収載の文書に、「入唐できたのは桓武天皇の恩である」ことを後年まで記していることなどから、「空海は三論宗僧として入唐したと推測される」(p.31)としている。

 

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