日蓮は曼荼羅を拝まず釈迦像を拝んでいたのか?

 

知人より「日蓮遺文には自らが曼荼羅を拝んだという文証はない。終生所持された立像釈迦仏=釈尊像を安置の文証はあり、日蓮は曼荼羅ではなく釈尊像を拝んでいたのではないか」とのコメント。

 

いや、それは文証ではなく文証・理証・現証の三証の内の一つ、「理証」の問題というべきでしょう。

 

例えば、「御書には日蓮がトイレに行ったという文証はないので日蓮はトイレに行かなかった」というでしょうか?そんなの常識ですよね。

また、「御書には日蓮の食事風景をうかがわせる文証がないから、孤高の人・日蓮は一人孤独に食事していたのではないか。また一日一食だったかも」とかいうでしょうか。

常識というか、普通に考えれば誰でも分かるようなことですよね。

 

まずは理証・道理を以て言えば、「皆さんに曼荼羅を書いてさしあげました。はい、どうぞ」と授与して「でも、私は拝まないけどね」などとやるでしょうか。

 

日蓮真筆曼荼羅で、現存は百数十幅、推測では400500、いや1,000近く曼荼羅を図顕したといわれており、それだけ曼荼羅を書きに書いておきながら、授与された人は安置・拝んでいて、当の図顕した本人が拝まないということはあり得ないことです。

 

「図顕に図顕、授与に授与を重ねた妙法曼荼羅を誰よりも拝したのが当の日蓮であった」というのが物事の道理だと思います。

 

次に、通称・万年救護本尊讃文に「大本尊」と書かれていることです。

曼荼羅を顕して、そこに「本尊」即ち根本尊敬(こんぽんそんぎょう)の当体とされているのですから、曼荼羅を本尊として、日蓮を中心に門下一同が身延の草庵で拝していたというべきでしょう。

 

「大本尊だけど拝まないよ」では、何のための本尊なのか?

 

展示物でもなければ、鑑賞・美術品として書いたのではなく、図して顕した(図顕)曼荼羅に「大本尊」と示したのですから、「日蓮は曼荼羅を本尊として拝していた」ということがいえるでしょう。

 

 

2022.12.3