五老僧による「天台沙門」との名乗りは謗法ではなく師説にかなったものであるということ

1 日蓮と日昭・日朗らによる「天台沙門」との名乗り

 

日昭・日朗らの申状にある「天台沙門」との名乗りについて見てみよう。

 

日興一門による「五人所破抄」(嘉暦三戊辰年1328]七月草案 日順)では、日蓮亡き後の日昭・日朗・日向・日頂による武家への申状を引用する。

 

五人武家に捧ぐる状に云く[未だ公家に奏せず。]

天台の沙門日昭謹んで言上す。
先師日蓮は忝くも法華の行者と為して専ら仏果の直道を顕し、天台の余流を酌み地慮の研精を尽すと云々。

又云く、日昭不肖の身為りと雖も、兵火永息の為め副将安全の為に法華の道場を構え、長日の勤行を致す、已に冥冥の志有り豈昭昭の感無からんや 詮取。

 

天台沙門日朗謹んで言上す。

先師日蓮は如来の本意に任せ先判の権経を閣いて後判の実教を弘通せしむるに、最要未だ上聞に達せず愁欝を懐いて空しく多年の星霜を送る。玉を含みて寂に入るが如く逝去せしめ畢んぬ。然して日朗忝くも彼の一乗妙典を相伝して鎮に国家を祈り奉る 詮取。

 

天台法華宗の沙門日向・日頂謹んで言上す。
桓武聖代の古風を扇ぎ伝教大師の余流を汲み立正安国論に准じて法華一乗を崇められんことを請うの状。

右謹んで旧規を検するに、祖師伝教大師は延暦年中に始めて叡山に登り法華宗を弘通したもう云云。
又云く法華の道場に擬して天長地久を祈ること今に断絶すること無し 詮取。

(日蓮宗宗学全書2 P79、以下「宗全」)

 

「富士一跡門徒存知事」でも簡略に記している。

一、五人一同に云く、日蓮聖人の法門は天台宗なり。仍て公所に捧る状に云く、天台沙門云云。又云く、先師日蓮聖人天台の余流を汲むと云云。又云く、桓武聖代の古風を扇いで伝教大師の余流を汲み法華宗を弘めんと欲す云云。

(宗全2 P119)

 

このような昭・朗・向・頂の「天台沙門」との名乗りに、また「祈国・天長地久の御願を祈った」ことに対し、日興一門は激しく批判する。

 

「五人所破抄」

凡そ一代教籍の濫觴は法華の中道を説く為なり。三国伝持の流布は盍ぞ真実の本門を先とせざらんや。若し瓦礫を貴んで珠玉を棄て、燭影を捧げて日光を哢せば、只風俗の迷妄に趁いて世尊の化導を謗ずるに似るか。華の中に優曇有り、木の中に栴檀有り、凡慮覃び難し併て冥鑑に任す云云。本迹既に水火を隔て時機と亦天地の如し。何ぞ地涌の菩薩を指して苟も天台の末弟と称せんや。次に祈国の段亦以て不審なり。所以は何ん。文永免許の古は先師素意の分、既に以て顕れ畢んぬ。何ぞ僭聖道門の怨敵に坐を交へ、鎮に天長地久の御願を祈らんや。況や三災弥よ起りて一分も徴し無し。啻に祖師の本懐に違するのみにあらず還って己身の面目を失うの謂いか。

(宗全2 P80)

 

「富士一跡門徒存知事」

日興が云く、彼の天台伝教所弘の法華は迹門なり。今日蓮聖人の弘宣し給う法華は本門なり。此の旨具に状に載せて畢んぬ。此の相違に依て五人と日興と堅く以て義絶し畢んぬ。

(宗全2 P119)

 

「三師御伝土代」

日興上人御伝草案

日興上人御遺告、元徳四年(1332)正月十二日日道之を記す。

一、天台沙門と仰せらる申状は大謗法の事。

地涌千界の根源を忘れ天台四明の末流に跪く天台宗は者智顗禅師の所立迹門行者の所判なり。既に上行菩薩の血脈を汚す争か下方大士の相承と云はん。

中略

何ぞ日蓮聖人の弟子となって拙くも天台の沙門と号せんや。

中略

しかればすなはち日蓮聖人の御弟子は天台と云ふ字をば禁ずべきものなり。本門迹門の付嘱すでに異なり、下方他方弘通何ぞ同じからんや。すでに天台沙門と号す、全く地涌千界の眷属にあらず。

(宗全2 P252)

 

しかしながら、日興自らが書写した「立正安国論」(玉沢妙法華寺蔵)の題号次下には、「天台沙門日蓮勘之」との署名があり、文応元年(1260)716日、日蓮が前執権最明寺入道時頼に「立正安国論」を進呈した時、「天台沙門」の名乗りであったことが窺えるのである。(「日興写本・玉沢本」の紙背には、日蓮筆の「夢想御書」二行と「涅槃経等要文」の記述がある。)他にも千葉県市川市中山・法華経寺蔵の「日高写本」、千葉県香取郡多古町島・正覚寺蔵の「日祐写本」、千葉県香取郡多古町南中・()妙興寺蔵の「日弁写本」の計三本に「天台沙門日蓮」との名乗りが確認されている。

 

 

2 日蓮一門に独自の宗名なし

 

ここで日蓮の著作者としての署名、「撰号」の冠詞の変化を確認してみよう。

 

文永3年「法華題目抄」(真蹟)

本文冒頭「根本大師門人 日蓮 撰」(P391)

 

系年・佐渡期と推測される「顕謗法抄」(真蹟断片か・真蹟曽存)

冒頭「本朝沙門 日蓮撰」(P247)

 

系年、文永9年とされる「祈祷抄」(真蹟曽存)

冒頭「本朝沙門 日蓮 撰」(P667)

 

文永10425日「観心本尊抄」

冒頭「本朝沙門 日蓮撰」(P702)

 

文永10年閏511日「顕仏未来記」(真蹟曽存)

冒頭「沙門 日蓮勘之」(P738)

文末「桑門 日蓮記之」(P743)

 

文永11524日「法華取要抄」(真蹟)

冒頭「扶桑沙門 日蓮 述之」(P810)

 

建治元年6月「撰時抄」

冒頭「釈子 日蓮 述」(P1003)

 

建治2721日「報恩抄」では自らの阿闍梨号を記す

冒頭「日蓮 撰之」(P1192)

 

このような日蓮の「撰号」の冠詞の変化と妙法曼荼羅の図顕、台密批判の展開とをあわせ考えれば、「法門申しはじめ」以降しばらくは「天台宗の僧=四宗兼学の道場・比叡山・台密信仰圏の僧日蓮」として「大乗仏教復興」「天台宗の再興」を期していたものが、度重なる法難を経て蒙古襲来間近となるに到って「天台僧」としての意識から自立志向となり、独自の法門展開、路線へと転じたことが窺えるのだが、結局、日蓮は存命中に自らが創案した宗名を公称することはなかった。(真蹟・真蹟曽存遺文より確認。「諸宗問答抄」での、天台宗を批判する観点から「日蓮一門」を「法華宗」とした表現と同書の扱いについては、「不動・愛染感見記について」を参照して頂きたい。私としては、日蓮そのものに迫るには、真蹟・真蹟曽存遺文に基づく作業が優先されるべきと思う)日蓮遺文から確認できるのは自己と弟子・檀越を含めた総称であり、代表的なものとして以下のような表現がある。

 

日蓮が一門」「此一門」(P1674 弘安2101日 聖人御難事 真蹟)

 

「我一門」(P1752 弘安3526日 諸経与法華経難易事 真蹟)

 

「我か門弟」(P810P816P818 文永11524日 法華取要抄 真蹟)

 

「我門人」(P1299 建治3410日 四信五品抄 真蹟)

 

「我弟子」(P1479 弘安元年321日 諸人御返事 真蹟)

 

 

3 弘安8年・鎌倉日蓮教団への圧迫

 

日昭・日朗の申状を見ると、日昭の申状の末尾は「弘安八年卯月 日」(宗全6 P9)とあり、日朗の申状の末尾も「弘安八年 月 日」(宗全6 P23)とある。両名が武家への申状を作成した弘安8(1285)は、幕府による鎌倉法華衆への圧迫が強まっていた時だ。弘安7(1284)1018日、日興は上総の美作房に書状(美作房御返事)を送り、「抑も代も替りて候。聖人より後も三年は過ぎ行き候に、安国論の事御沙汰何様なる可く候らん。鎌倉には定めて御さはぐり(詮議)候らめども、是れは参りて此の度の御世間承はらず候に、当今も身の術無きまゝはたら()かず候へば仰せを蒙る事も候はず、万事暗々と覚え候。(宗全2 P145)と、北条時宗が四月に没して執権は子の貞時となったが、幕府の「立正安国論」に対する反応の変化を気にかけ、鎌倉方面の諸情勢を案じている。文面から推測すれば、師日蓮の3年忌に当たるこの年に、日昭・日朗らは新しい執権に「立正安国論」を進呈したものだろうか。

 

永仁6(1298)、日興が作成した「白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事」(弟子分本尊目録)には、「聖人御弟子六人中、五人者一同改聖人御姓名号天台弟子。爰欲被破却住坊之刻、行天台宗而致御祈祷之由、各々依捧申状免破却難了。具見彼状文。=(日蓮)聖人御弟子六人の中、五人は一同に聖人の御姓名を改めて天台の弟子と号す。爰(ここ)に住坊を破却せられんとするの刻、天台宗を行じて御祈祷を致すの由、各々申し状を捧ぐに依って破却の難を免れ了んぬ。具(つぶさ)には彼の状の文を見よ。」(宗全2 P112)とあり、日興以外の一弟子五人は天台沙門としての祈祷をすることによって住坊の破却を免れたとの記録から、幕府による法華衆への圧迫は実力行使を厭わない相当なものであったことが窺われる。

 

弘安8年といえば日蓮の入滅からわずか3年弱、師匠亡き後の日蓮法華教団の事始めの時であり、一弟子六人、門徒衆による「特定の宗名・宗派としての名乗り」が共通認識として定まっていたとは思われない。参考文献として日朗の「与肥後殿書」(宗全6 P28)を確認しよう。同書に年号はなく「三月十四日」を記すのみだが、文中で「おもひがけ候はず鎌倉や()け候て、御處もや()け候て経論・聖教も皆焼失、おもふばかりもなく存候」と鎌倉の火災に触れていることから、鎌倉に大火のあった正和4(1315)頃の書状と推測されている(尚、この火災により建長寺は創建当初の建物の大部分を失ったと伝える)。同書には「さても一井殿京都へいそぎ可参候事候て罷登候、京都法花宗の人に仰候て御もてなし候はゞ日朗之面目と相存候」とあり、日朗は京都における日像と門弟を「京都法花宗」といっている。

 

日興の使用例を確認すると、徳治2(1307)712日付けの「与了性御房書」では「法花衆たるによて」(日興上人全集P169)と、檀越らを「法花衆」としている。元亨3(1323)622日、日興が佐渡の檀越らに宛てた「報佐渡国講衆書=佐渡国法花講衆御返事」(宗全2 P177)では、「御かうしう(講衆)の申さるゝむね()」「御かうしうら(講衆等)しこんいこ(自今以後)においてへんは(偏頗)ありてしやう()人のほうもん(法門)にきす()つけ給候な。」「さと(佐渡)の国の法花かうしう(講衆)の御返事」と法華経信奉者を「法花講衆」と呼んでいる。日蓮直弟子の日朗は「法花宗」、日興は「法花衆」「講衆」「法花講衆」であって、日蓮滅後の法華経信仰集団の呼び名は当事者であっても一様ではなかったようだ。

 

尚、時代が下り日蓮の孫弟子が活動する鎌倉後期から南北朝期にかけて、「法華宗」と称するのが一般的となったことが、坂井法曄氏の論文「日蓮教団の宗号とその実態」(興風22)で解説されている。

 

 

4 天台沙門との名乗りは

 

以上見てきたように、

日蓮が「立正安国論」を最明寺入道時頼に進呈した時、「天台沙門」と称したこと。

日蓮は終生、「従来とは異なる自らが創案した独自の宗名」を名乗ることはなかったこと。

日蓮が「独自の宗名」を弟子・檀越に示した真蹟・真蹟曽存遺文は見当たらないこと。

弘安8年は日蓮亡き後、わずか3年弱であること。

当時もそれからも、日蓮の一弟子・六人の共通認識としての「宗名」はなかったこと。

鎌倉後期から南北朝期、日蓮孫弟子の活動する頃になって「法華宗」との名乗りが一般的となったこと。

 

これらを勘案すれば弘安8年頃、日昭・日朗らが武家に対する時の宗派の名乗りとして「天台宗」「天台沙門」と称したのは日蓮在世からの継続性もあり、至極当然のことであったいえよう。日蓮法華信奉者以外の人々が彼らを見る時、その宗派は「天台宗」と認識したことだろうし、「専持法華」「是一非諸」「題目勝念仏劣」「謗法断罪」という彼らの主張と行動の過激さからすれば「天台宗の異端」「天台宗を母胎とする異質な集団・日蓮党」程度のものであったことだろう。智顗、最澄が考えもしなかった法華経(涅槃経)のみによって自身の思想と行動の正当性を主張し、最澄を崇敬しながら最澄が欲してやまなかった密教を批判し、専修唱題を勧めながら国家権力と相対した天台僧(日蓮)は前代未聞であり、教えの広まりは専修念仏の法然に及ばなかったとしても、そのインパクトは勝るとも劣らないものがあったと思う。

 

日昭・日朗にしてみれば「宗名」という宗教的立場、いわば入口で議論を起こすのではなく、先師日蓮と同じく権力者・世間一般にも容易に認識される「天台宗」「天台沙門」から入り、肝心なのはその主張するところであると考えたのではないか。申状で、日昭は「後五百歳中広宣流布」の時は「法華一乗の機」「妙法蓮華経の五字の機」であることを示し、日朗は「後五百歳広宣流布の時」であることを示し「仏法の邪正」「仏法の浅深」「教の勝劣」をわきまえ「妙法蓮華経の五字」を弘め、「正法への御帰依」あれば「仏日はじめて扶桑に輝き」「法水久しく娑婆に潤わん」ことを訴えている。日昭・日朗らの申状は先師日蓮の「立正安国論」の先例に倣ったものである、といえるのではないだろうか。当時としては、日蓮門下ですら「宗名」は定まらず、法華宗も後のことであったから、公に対する公の文書に、公の宗派名を表示するのはごく普通のことであったろう。尚、「日蓮宗宗学全書6上聖部」(P36)に載せられた日向の申状には「日蓮聖人遺弟日向申」とある。同じく日頂の申状(P40)には「天台法華宗沙門日頂謹言上」とある。

 

日昭が「日昭不肖の身為りと雖も兵火永息の為副将安全の為に法華の道場を構え、長日の勤行を致し奉る」ことをしたのは、また日朗が「日朗忝くも彼の一乗妙典を相伝して鎮に国家を祈り奉る」ことをしたのも、両名が日興の批判する「祈国」「天長地久の御願を祈」ったのは、他国の兵が乱入して国土が蹂躙される亡国という事態を防ぐために、仏教者として「成せること、成すべきこと」を成したということであった。現実に二度も元の軍勢は押し寄せており、三度目の侵攻はいつあってもおかしくないという非常事態下なのである。彼らには「立正安国論」(真蹟)の「所詮天下泰平国土安穏は君臣の楽う所土民の思う所なり。夫れ国は法に依って昌え法は人に因って貴し。国亡び人滅せば仏を誰か崇む可き。法を誰か信ず可きや。先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし。」(P220)との教示が念頭にあっただろうか。ただし、議論となるのは「国主の帰依・謗法諸宗禁断」が前提ではないか、後でもよいのか?というところだろう。この場合、私としては幕府膝下にあった鎌倉法華衆には原理原則を貫くという選択肢は取れない、「国主の帰依・謗法諸宗禁断」を主張できる状況ではなかったと考えている。

 

これとは逆に、鎌倉法華衆の伝道拠点となる住坊が破壊されかねない事態となっていたこの時に、師匠と同じく「日本国の人の父母よりもをもく、日月よりもたかくたのみたまへる念仏を、無間の業と申し、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の邪法、念仏者・禅宗・律僧等が寺をばやきはらひ、念仏者どもが頚をはねらるべしと申す上、故最明寺・極楽寺の両入道殿を阿鼻地獄に堕ち給ひたりと申すほどの」 (P1153 光日房御書 真蹟曽存)言動をしていたらどのようなことが起きたか、それは容易に想像されるところだろう。

 

日昭・日朗らが「祈国」「天長地久の御願を祈」ったのは、鎌倉の住坊破壊を予期させる幕府との駆け引きを背景とした現実的対応として、第三次蒙古襲来が起きて亡国という事態が現実化する前に日本国の仏教者として務めを果たしたということであり、そこには、ひとまずは弾圧を回避して鎌倉と周辺の法華衆組織と信奉者を守るとの思いもあったことだろう。日昭・日朗らが日蓮の如くに真正面から幕府に「謗法諸宗断罪・禁断」を叫び、速やかなる国主の帰依を促せば、身命に及ぶ「法難」を招くこととなったのではないか。日昭・日朗という「文永8年の法難」後の、日蓮一門存亡の危機を乗り越えた導師がいなくなれば、鎌倉における日蓮一門は潰滅してしまう。日向、日頂の教線にあっても同様だったのではないか。日昭、日朗らは日蓮とは器が違って当然だし、弟子は師の残してくれたもの、法華衆組織と信徒を守らなければならないという思いが先に立ったとして、そこにいない第三者が云々、非難することは筋としていかがなものであろうか。その時、その渦中に飛び込んで、自らが正しいと考えるところを実行するならばそれなりの説得力があろうというものだが、事が終った後に一々を挙げて非難するなど、いくらでもできることだと思う。

 

 

5 日興一門の事情

 

日蓮一弟子が師の滅後「天台沙門」と称することについて、それを激しく批判した日興側には「彼我の相違を明示して自派の正当性を主張、門弟らに正統意識を持たせる」という思惑があったのではないだろうか。

 

永仁6(1298)に作成された日興の「白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事」(弟子分本尊目録)には、「聖人御弟子六人中、五人者一同改聖人御姓名号天台弟子。爰欲被破却住坊之刻、行天台宗而致御祈祷之由、各々依捧申状免破却難了。具見彼状文。」(宗全2 P112)と、日昭・日朗ら五人が天台沙門としての祈祷を行い住坊の破壊を免れたことを批判的に記すが、そこに後の「富士一跡門徒存知事」「五人所破抄」のような直截な批判の言葉は見当たらない。一弟子五人が天台沙門と称したことにより「五人と日興と堅く以て義絶し畢んぬ」と、決別を表明した「富士一跡門徒存知事」は、山上弘道氏の論考「富士一跡門徒存知事について」(興風19P52)により正和2(1313)または元応2(1320)以降元亨3(1323)以前の成立と推定されている。日興の真筆はないが、その記述は日興の思想と考えを伝えたものと理解されよう。「何ぞ地涌の菩薩を指して苟も天台の末弟と称せんや」と批判した「五人所破抄」には、「嘉暦三戊辰年(1328)七月草案 日順」との奥付があり、こちらも日興真筆はないものの彼の思想を伝えることは同様だろう。

 

このような「富士一跡門徒存知事」と「五人所破抄」の記述内容からすれば、日興とその一門が富士山麓を中心に形成される過程に於いて、他の一弟子五人との法門理解の異解、自派の教理的正当性を明示して、それを門弟に学習、継承させることを主眼として日興の弟子により両書が作成されたと理解でき、その教材の一つ(批判材料)として「弘安8年」という日蓮弟子教団の名称も定まらない、和合よりも対立することの多かった不安定な発足期の「一表現」が使用された、といえるのではないだろうか。

 

いずれの時代、いずれの教団、門派であっても、組織の基盤を固め結束させるには、他を非難しながら感情論を先行させてそこに教理的正当性(それは自派の構成員を適度に納得、満足させればいいものであり他から独善的、一方的、曲解と言われようが一切関係ない)を確立、明示して、組織にいることにより自己が優越的地位に立てるという自信と自覚を持たせる手法が効果があるもので(実は、それは人間の弱さの裏返しでもあると思うが)、日興一門は意識の有無は別として結果としてそのような路線を歩んだのではないかと私は考えている。

 

元徳四年(1332)という文字通り日興晩年の遺告で、日道が筆記したと伝える「日興上人御遺告」は「天台沙門と仰せらる申状は大謗法の事。」「既に上行菩薩の血脈を汚す争か下方大士の相承と云はん。」「何ぞ日蓮聖人の弟子となって拙くも天台の沙門と号せんや。」「しかればすなはち日蓮聖人の御弟子は天台と云ふ字をば禁ずべきものなり。」「すでに天台沙門と号す、全く地涌千界の眷属にあらず。」と激しく批判し、ここにおいて日興一門による「権力に屈して媚び諂い、日蓮の法門を曲げて天台沙門と称した大謗法者、臆病者である日昭・日朗らの門流」という印象が作られて、「富士門流としての日昭・日朗観」が後世まで継承される原型ができあがったのではないか。

 

思想をいささかも曲げず、妥協せず、理想・理念を貫徹して殉教の道を行くのか、環境の変化、世の動向に応じて柔軟に対応して生き続けるのか、どちらも思想を守るということでは思いは同じだろうが、身で知る結果は甚だ異なるものとなる。これは古くて新しい今日的な議論でもあると思う。

 

 

 

6 駿河国富士川流域の天台寺院と富士日蓮法華衆

 

ここで視線を転じて、日興が活動の主舞台とした駿河国富士川流域に注目してみよう。まずは日興の申状(宗全2 P95P100)における名乗りを確認しよう

 

日蓮聖人の弟子日興重ねて申す。

早く真言、念仏、禅、律等の邪法興行の僧徒を破却して妙法蓮華経の首題を崇敬せられ、天下泰平国土安穏異国降伏の祈に資せんことを請ふの状。

以下、本文

正応二年(1289)正月 日

 

日蓮聖人の弟子駿河の国富士山住日興誠惶誠恐庭中に言上す。

殊に天恩を蒙り且つは三時弘教の次第に任せ且つは後五百歳の金言に依り永く爾前迹門を停止し法華本門を尊敬せられんと請ふ子細の状。

以下、本文

嘉暦二年(1327)八月 日

 

日蓮聖人の弟子日興重ねて言上す。

早く爾前迹門の謗法を対治し法華本門の正法を立てられば天下泰平国土安全たらんと欲する事。

以下、本文

元徳二年(1330)三月 日

 

このように「日蓮聖人の弟子日興」「日蓮聖人の弟子駿河の国富士山住日興」が彼の名乗りである。

 

日興に関する所伝によれば、父は遠江・紀氏の大井橘六、母は駿州富士郡河合住の河合入道の女子(法名・妙福)、舎弟に橘三郎光房がいる。幼少にして父は他界、母は武蔵国綱島九郎太郎と再婚。後、外祖父河合入道に養われ、更に近隣の駿河蒲原庄・四十九院に入り修学、というものだが、「四十九院申状」には「駿河の国蒲原の庄四十九院の供僧等謹んで申す。」(宗全2  P93)とあって、日興は駿河国蒲原庄にかつて存在した四十九院の供僧(ぐそう=供奉僧・ぐぶそう)職を勤めていたことは確かなようだ。これについては大石寺に伝わる「三師御伝土代・日興上人御伝草案」も「日興上人は八十八代一院の御宇、寛元四ひのへむま御誕生。俗姓は紀氏、甲州大井の庄の人なり。幼少にして駿州四十九院寺に上り修学あり。同国冨士山の麓須津の庄良覚美作阿闍梨に謁して外典の奥義を極め、須津の庄の地頭冷泉中将に謁して歌道を極はめ給ふ。」(宗全2  P248)と伝えている。

 

日興は出身地である甲斐・駿河方面での弘法を活発に展開し、彼が居住する富士川西岸の四十九院では供僧である日持・賢秀・承賢ら、熱原滝泉寺では日秀・日弁・日禅ら、富士川東岸の岩本実相寺では肥後公・筑前房・豊前公・円乗房らが日蓮法華の僧、日興の弟子となった。日蓮、日興の弟子となった僧はまたそれぞれの人脈、地縁、血縁などから専持法華・専修唱題の日蓮の教説を弘め、在地の農民層から法華経の題目を唱える者が生まれその数は増すようになり、それは同時に北条得宗家当主の家領である駿河国における富士川流域の日蓮教団形成を意味した。日興らによる法華伝道の拠点となった滝泉寺、実相寺は天台宗寺院、四十九院も天台宗であったとされ、念仏、密教等の教えが入り混じったものが現地の宗教世界そのものであったことだろう。ということは、法華(涅槃)一経尊崇、唱題成仏を強説する日蓮の分身ともいえる信奉者が作る世界と、従来の宗教世界を形成して、そこに世俗的利権も絡めていた天台宗各寺院との衝突は避けようがなかったといえる。

 

文永5(1268)8月には、(駿河国賀嶋庄)実相寺第4代院主、及び院主代の「仏法上の非法」と「不法行為」等を51箇条に亘り列挙して彼らの速やかなる罷免と、北条泰時の下知状の趣旨に則って実相寺住僧より院主を選ぶことを訴えた「実相寺衆徒愁状」(日興筆写本 北山本門寺蔵 日興上人全集P93)が実相寺供僧らによって提出された。北条得宗家によって推任された院主と得宗被官上首の有縁者と思われる院主代理を、供僧らが訴えた文書を日興が書いた(現存写本が日興筆ということは提出されて正本も日興筆ではなかったか)ということは、幕府にすれば日蓮法華衆による挑戦とも映ったであろうか。いずれにしても、文永8年の法難に至る幕府の対日蓮観というものに、駿河国における門弟の動きが大きく作用したと思われる。

 

建治年間(建治2[1276])には、阿弥陀信仰であった(駿河国富士郡下方庄熱原の市場寺にある)滝泉寺の院主代・平左近入道行智と、寺内及び近郷で専持法華と法華経の題目を弘める日弁・日秀・日禅らとの対立が深まり、行智は法華信仰の住僧達にその信仰断絶を強要するに至った。そのことは弘安210月の「滝泉寺申状」に記録されている。

 

「滝泉寺大衆日秀日弁等陳状案」(滝泉寺申状 真蹟・富木常忍筆)

行智は乍に当寺霊地の院主代に補し、寺家三河房頼円・並に少輔房日禅・日秀・日弁等に行智より仰せて、法華経に於ては不信用の法なり。速に法華経の読誦を停止し、一向に阿弥陀経を読み念仏を申す可きの由の起請文を書けば安堵す可きの旨下知せしむるの間、頼円は下知に随って起請を書いて安堵せしむと雖も、日禅等は起請を書かざるに依って所職の住房を奪い取るの時日禅は即ち離散せしめ畢んぬ。日秀・日弁は無頼の身たるに依って所縁を相憑み猶寺中に寄宿せしむるの間、此の四箇年の程日秀等の所職の住房を奪い取り厳重の御祈祷を打ち止むるの余り、悪行猶以て飽き足らず、為に法華経行者の跡を削り謀案を構えて種種の不実を申し付くるの条豈在世の調達に非ずや。(P1681)

 

行智は日興の教化による滝泉寺の住僧・三河房頼円、越後房日弁、下野房日秀、少輔房日禅らに対し、法華経は不信用の法であるから直ちに「法華経読誦を停止し、阿弥陀経の読誦と念仏を唱える」という起請文を書くことを強要。従えば所職と住房を安堵するというのである。これに対し、頼円は起請文を書いて従い、日禅は拒絶して所職と住房を奪われ河合に退出。日弁、日秀も起請文を書かずになお滝泉寺に寄宿したものの、後に所職と住房を奪い取られることになった。

 

次に建治4(1278)116日の「実相寺御書」(P1433 日興本・北山本門寺蔵)を見てみよう。

岩本実相寺に住した日興の弟子・豊前公は、実相寺住侶の尾張阿闍梨より「法華玄義巻四」にある涅槃経の文を引用されて、「小乗を以て大乗を破折したり大乗を以て小乗を破折することは仏教上の盲目となる因であり、小乗と大乗は一如なのだから一方に執着してはいけないのである」と指摘された。この尾張阿闍梨の立義について豊前公が日蓮に問い、それに対する返状が当書なのだが、まず「尾張阿闍梨の言うとおりならば、あなたが信仰する日本の弘法・慈覚・智証等、中国の善無畏・金剛智・不空の真言先師らは、密教を最勝と判じて真言三部経典以外の諸経を破折するのだから真言諸師も盲目者になったというのか」と、いつもながらの鋭い切り返しで問い詰めることを促し以下、教理面を説示している。これにより実相寺においても日蓮法華の住僧と従来の信仰である「諸宗融和・共存」であった他の住僧らの間に対立、論争の起きていたことが窺い知れるのである。尚、切り返しの文に「弘法・慈覚・智証」とあることから、尾張阿闍梨は東密・台密兼学の僧であったと考えられる。この頃には、「法華経最第一」「専修唱題成仏」という日蓮一門の主張と、智顗の「絶対開会」について爾前権経を法華に開会して権実は不二であるとする諸経の融会を考えた、いわば「権実皆得道」の天台的教理の対立は決定的になっていたようだ。

 

弘安元年3月には、駿河国蒲原庄・四十九院の供僧等が「申状=四十九院申状」(大石寺17代・日精写本、宗全2 P93P95)を呈する事態にまで発展している。同状によれば、寺務二位律師厳誉らの言動は「四十九院内に日蓮の弟子等が居住しているようだが、(諸宗を排斥して法華一経専持を勧め題目成仏を主張する)彼の党類(日蓮党)は仏法を学びながら(仏法に非ずしてその唱えるところは)外道の教えと同じであり、(従来の仏教の)正見を改めて(日蓮が教説する)邪義を唱えるのはもっての外である。故に院の大衆等により評定を行い、日蓮党は寺内に住むことはならないことを決した」というもので、これにより四十九院内の「彼の党類=日蓮党」であった日興・日持・承賢・賢秀らが住坊、田畠を奪い取られ院外へ追放されてしまった。

 

日興は「所学の法華宗を以て外道大邪教と称し、往古の住坊並に田畠を奪い取り寺内を追い出さしむる謂れ無き子細の事。」として反論、申状を提出している。(文中の法華宗とは、日蓮が使用した法華尊崇の正統天台宗を意味すると思われる。尚、弘安年間と推される定本・断簡209は「法師申す。寺務の為、二位律師厳誉、世間一分之科無しと雖も」[P2928、真蹟三行]というもので、日蓮による四十九院申状の案文であったろうか。当申状の提出先は不明なようだ。)

 

法華の正義を以て外道の邪教と称するは何の経何れの論文ぞや。

⇒正法たる法華経を外道の邪教というのは、いずれの経論によるのか。

 

爰に真言及び諸宗の人師等、大小乗の浅深を弁えず権実教の雑乱を知らず。或は勝を以て劣と称し、或は権を以て実と号し、意樹に任せて砂草を造る。

⇒諸宗の人師等は大乗教と小乗教の浅深をわきまえず、権経と実経の勝劣を違えて権実が入り乱れていることを知らず、自らの意にまかせて俄かに法門を作っているのである。

 

夫れ仏法は王法の崇高に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す。正法を学する僧を以て外道と称せらるの条、理豈に然る可けんや。外道か外道に非ざるか、早く厳誉律師と召し合わせられ真偽を糺されんことを欲す。

⇒仏法は王法が崇め尊ぶことによって威力を増し、王法は仏法が擁護することによって長く栄えるのである。正法たる法華経を学ぶ僧を以て外道と称するのにいかなる道理があると言うのか。法華経信奉者が外道なのか外道ではないのか、早く厳誉律師と対面してその真偽を正したいのである。

 

月氏の迦葉・阿難・竜樹・天親等の大論師、漢土の天台・妙楽、日本の伝教大師等、内には之を知ると雖も外に之を伝えず。第三の秘法今に残す所なり。

⇒「日蓮が法門」は、インドの迦葉・阿難・竜樹・天親等の大論師や、中国の智顗・湛然、日本の最澄等は心には秘めていたが外に出されることはなかった。末法に至ってはじめて顕される第三の秘法なのである。

 

 

7 四十九院から追放された天台沙門・日興

 

日興の弘通の結果、「彼の党類=日蓮党」と呼ばれるまでの日蓮法華集団が富士川流域に形成されたのだが、(文永年間、師日蓮が目指したものが及んだともいえる)「法華経尊崇の正統天台」回帰の活動が天台寺院とその周辺で活発化するほどに、「四宗兼学の正統天台」寺院の対応が、加速度を増すことになったのである。それは日興と一団にとっては法華弘通故の難というものであった。ここで注意すべきは、日興が法華勧奨の拠点としたのは供僧職を勤めた四十九院(天台)と周辺の天台寺院であり、彼は「日蓮が一門」でありながら同時に「天台沙門」でもあったということではないか。日興は少年期から青年期を天台の四十九院で修学研鑽したと伝えられ、周囲の認識と同じく彼の中にも「天台沙門」としての自覚があったことだろう。「日蓮が一門」と「天台沙門」、この二つは日興にとっては同一のものだったろうが、彼により寺内秩序を乱され、農民層の信仰的自立が促されることによって既得権益に影響が及んだであろう実相寺、滝泉寺、四十九院の院主とその周囲からすれば、日興と一団は「彼の党類=日蓮党」として排除されるべきではあっても、決して同じ「天台沙門」とは認められない、ましてや「正統天台」などはもっての外であったことだろう。

 

駿河国富士川流域という既存の天台宗信仰圏にあって、天台寺院の住僧を教化しながらそこを拠点化して法華経最第一を旨とする(それは天台の正統なる系譜を継ぐものでもあった)日蓮法華への帰依を促し、天台宗を中心とする宗教秩序と真っ向から対決。結果、供僧職を勤める天台寺院から追放されて、寺内における立場を失ったのが日興である。天台寺院を退出せざるをえなくなった僧がその後も「天台沙門」と称したのかどうかについては、他の誰よりも日興の師・日蓮という先例がある。真言・東密と天台・台密が共存し密教の修法が盛んな清澄寺の中で、台密の法脈であった日蓮は同寺を離れた後、「天台沙門」として勘文たる「立正安国論」を進呈しているのだから、日興も同様の名乗りは可能であったことだろう。ただ、日興の場合、師日蓮とは違ったようだ。文永5年の「実相寺衆徒愁状」から遡って思考すれば、少年期から青年期にかけて修学研鑽をなしたこと、学恩には感謝をしていただろうが、世の人々を信仰により救済することを目指す仏教者として、現地の僧侶の教えと行いに義憤を覚えざるを得ないものがあり、法華経最第一を主張し智顗・最澄の源流に立ち還るべきことを唱える日蓮法華信仰を始めたことと相俟って、教理面行躰面を正す活動を展開したことだろう。その結果、弘安元年3月に「往古の住坊並に田畠を奪い取り寺内を追い出さ」れるということになった日興の思考においては、四十九院追放以降は「天台沙門日興・天台宗の僧日興」という宗教的な、(「日蓮聖人の弟子日興」と共にあった)もう一方の立場(名乗り)は終わりをつげていたのではないか。天台寺院に天台僧としていながら、天台的なものと相対しなければならなかった日興ならではの宗教的活動環境が、彼の思想・信条の形成に大きく作用したと考えられるのである。

 

ここで法然房源空のことが思い出される。

源空は9歳の時に父親を土地争論の渦中で殺害され、13(または15)で比叡山に入り途中、清涼寺、醍醐寺などに遊学しながら、43歳の時に専修念仏による救済を主張して比叡山を下山。京都・東山吉水に居を定めて念仏を広めたのだが、30年も身を置いた彼の眼に映った比叡山はどのようなものだったろうか。日吉大社の神輿を奉じて洛中内裏に押しかけて要求を繰り返し、園城寺とは争いを常とし、僧兵が跳梁跋扈するという、比叡山寺を開創した最澄の時代とはほど遠いものだったのではないか。かような「比叡山の姿」を長年見ていた源空が、華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃・大日等は時機不相応なもの「聖道・難行・雑行」とし、浄土三部経(阿弥陀経・観無量寿経・無量寿経)と専修念仏こそが末法の世に相応しい「浄土・易行道・正行」であるとしたのは、「既存の教え、修学修法では衆生は救われない」との思いから、比叡山的なものを一掃したということではなかったか。源空が眼にしたのは、顕密兼習の仏教者としての本来の使命を放棄して私利私欲に明け暮れる、衆生済度の役に立たない堕落した僧侶らの姿であり、故にそのような僧侶の説く教え、僧侶ですら救われない教えなどは捨て去るべきであると思考したものであろうか。約30年も比叡山にいて修学研鑽した源空の仏教的救いの道が、「阿弥陀仏以外の仏に対する功徳行を捨て、閉じ、自力を閣(さしお)き、抛(なげう)って念仏に帰せよ」であったと思う。長年の場を去る、対して留まって追放されるまで改革に取り組む、また念仏と法華経の題目の違いはあるにせよ、少年期より天台寺院にいながら「既存のものより新しいものに救いの道を見出し寺を去る」という点において、日興の宗教的成り立ちには私としては法然房源空と重なるものを感じるのである。

 

 

8 天台沙門日蓮の勘文「立正安国論」

 

駿河国富士川流域とは遠く隔たった鎌倉の日昭・日朗らと周辺の日蓮法華衆は、天台宗の僧、檀越らと相対することはいかほどのものだったのか。日興とは対極的に、おそらくはその機会は少なかったのではないかと思う。建治3(1277)69日、鎌倉桑谷での問答は天台僧・龍象房と日行の間で行われ、四条金吾もその場にいたものだったが、龍象房は京都で人肉を食していたことが露見して比叡山より逐電した僧といわれ、この問答自体は鎌倉天台勢力と日蓮門下の衝突というものではなかった。

 

日蓮が文永8年の法難に到るまで法華勧奨の主舞台とした鎌倉は、同時に日昭・日朗が師説を弘めた地でもあった。正嘉3年・正元元年(1259)717日、日蓮は書を武蔵房に送り書籍の借用を依頼。天台宗の「法華八講」の日時を訪ねているところから、他の天台僧と共に参加もしていたと推測される。そこには日蓮に付き従う弟子達もいたのではないか。であれば、日蓮一門では年配者であった日昭の同席も考えられよう。

 

翌文応元年(1260)716日、日蓮は「天台沙門」と名乗り、「勘文」としての「立正安国論」を最明寺入道時頼に進呈する。「勘文」の意味について辞書を紐解けば、「天皇・院などの上意を受け、その裁断の資料として先例・故実を考査して提出する上申書。」(日本大百科全書)、「平安時代、神祇官・陰陽師等が天皇などの諮問に答えて、先例・吉凶・方角・日時などを調べて上申する文書」(大辞林)、というものだが日蓮の場合、鎌倉幕府からの諮問などはなかった。

 

日蓮のいう「勘文」について、文永5(1268)45日の「安国論御勘由来」(P421 真蹟)を見てみよう。

 

正嘉元年太歳丁巳、八月二十三日戌亥の時、前代に超えたる大地振。同二年戌午八月一日大風。同三年己未大飢饉。正元元年己未大疫病。同二年庚申四季に亘て大疫已まず。万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。

⇒正嘉元年(1257)の大地震、大風という天災地変と飢饉、疫病による大量死によって、

 

而る間国主之に驚き、内外典に仰せ付けて種種の御祈祷有り。

⇒驚き恐れた国主(幕府)は宗教界各派に祈祷を命じたものの、

 

爾りと雖も一分の験しもなく還りて飢疫等を増長す。

⇒なんらの効験もないばかりか、かえって飢饉・疫病の惨状は増すばかりであった。

 

日蓮世間の体を見て、粗一切経を勘ふるに、御祈請験し無く、還りて凶悪を増長する之由、道理文証之を得了んぬ。終に止むこと無く、勘文一通を造り作し其の名を立正安国論と号す。文応元年庚申七月十六日辰時、屋戸野(やどや)入道に付し、古最明寺殿に奏進して了んぬ。此れ偏に国土の恩を報ぜんが為也。其の勘文の意は・・・・

⇒日蓮がこのような世の有り様を見て一切経と照らし合わせ考えるに、様々な祈祷に効果がなくかえって天災地変がひどくなり、世の嘆きが深まることの道理と経文上の証を見出すことができた。そこで止むにやまれぬ思いから勘文一通を作成した。その名は「立正安国論」という。文応元年(1260)716日、宿屋入道を仲介として故最明寺入道殿に奏進したのである。これはひとえに国土の恩に報じるためであってそこに身の為というものはない。その勘文の意としては・・・・

 

日蓮の場合、「立正安国論」という「勘文」は公家、武家から問い尋ねられたものに対する答えではなかった。世の惨状、民の嘆きを直視して、隠れ没していた正法・法華一経(涅槃経)により一切の災難を払い、根源的に解決することを決意した一仏教者の宗教的信念の発露であり、確信の表明であった。このような思いで考え書いた「立正安国論」を日蓮自らは「勘文」と位置付けた、即ち国家にとっては十分にその書の意とするところを解釈・検討し、採用した後は書の指南に基づいて事に当たり、善政を行って国の繁栄、天下泰平・国土安穏を期するべき「勘文」だったのである。

 

幕府からしてみれば一天台僧が自称しているにすぎない「勘文」でも、日蓮にとっては一国の動向を決するべき重大なる「勘文」。そこに持てる宗教的知見を注ぎ込み、初めて事実上の国主にそれまでの修学・研鑽の宗教的成果を表明、そのもたらす結果も予期しながら身命を賭した書ではなかったか。そのような日蓮にとっての「勘文」に、公に対する書に、彼は「天台沙門」との名乗りを使用した。日蓮は公権力、内外に対して、宗派は天台宗であることを明示、同時に天台僧であることを名乗ったのである。これで当時の日蓮への仏教的な認識は定まった、としてもよいだろう。鎌倉日蓮一門は天台宗(台密)の天台沙門日蓮を導師とする、天台系の一門であったのだ。

 

これについては後の日興一門も認識しており、「富士一跡門徒存知事」には、

一、唱題目抄一巻。

此の書は最初の御書なり。文応年中常途の天台宗の義分を以て且く爾前法華の相違を註し給へり。仍て文言義理共に(日蓮宗宗学全書2 興尊全集興門集・P123)

と「唱題目抄=唱法華題目抄」(文応元年[1260]528日 定P184)は日蓮法華伝道初期、文応年中の書であり、「常途天台宗の義分を以て且く爾前法華の相違を註し」たとしている。常途天台宗の経典判釈を行う日蓮は、天台系の僧であったといえよう。

 

 

9 鎌倉における天台系日蓮一門

 

日蓮が進呈した「立正安国論」に対する幕府からの返答はなく無視黙殺だったが、それまでの布教現場における対立論争の結果としてもよいであろう、念仏者らによる草庵の襲撃があり次には伊豆への配流となった。赦免後に故郷安房国を訪れたものの東条松原での襲撃により負傷、日蓮は鎌倉に戻った。その後は、鎌倉で、諸国への往来の道中で、自説の説法教化に力を注いだことだろう。文永51月、蒙古からの牒状到来により「他国侵逼難」の危機が現実化するに及んで、鎌倉の天台系日蓮一門は増加したが、その結集軸となったのが天台大師講だった。

 

文永667日の「富木殿御消息」(真蹟)には、「大師講の事。今月は明性房にて候が、此の月はさしあい候。余人の中せんと候人候はゞ申させ給へと候。貴辺如何仰せを蒙り候はん。」(P440)とあって、鎌倉では日蓮を中心に「天台大師講」が行われていたことが確認できる。文永71128日の「金吾殿御返事(大師講書)(真蹟)にも「大師講に鵞目(がもく)五連給()び候ひ了んぬ。此の大師講三・四年に始めて候が、今年は第一にて候ひつるに候。」(P458)とある。その身が流刑地の佐渡にあった文永10919日、日蓮は鎌倉の日昭に書 (弁殿尼御前御書 真蹟) を送り、「しげければとゞむ。弁殿に申す。大師講ををこ()なうべし。大師とてまいらせて候。」と天台大師講を行うよう指示している。文永8年の法難から2年後、一旦は壊滅状態となった鎌倉日蓮法華衆の再建が天台大師講を軸に進んでいることが窺われるのである。弘安31129日の「富木殿御返事」(真蹟)は冒頭に、「鵞目一結、天台大師の御宝前を荘厳し候ひ了んぬ。」(P1818)とあり、富木氏が身延山での「天台大師講」のために銭一結を供養していることから、日蓮晩年期となった身延山においても天台大師講が行われていたことが知れる。

 

文永8年の法難に続く佐渡配流までの日蓮は、天台宗(台密)・比叡山の再興を意とし、書状には期待と配慮が記されていた。

 

文永5(1268)45日「安国論御勘由来」(真蹟)

日蓮復之を対治するの方之を知る。叡山を除きて日本国には但一人なり。(P423)

 

系年、文永6(1269)とされる「法門可被申様之事」(真蹟)

仏法の滅不滅は叡山にあるべし。叡山の仏法滅せるかのゆえに異国我が朝をほろぼさんとす。叡山の正法の失するゆえに、大天魔日本国に出来して、法然大日等が身に入り、此等が身を橋として王臣等の御身にうつり住み、かへりて叡山三千人に入るゆえに師檀中不和にして御祈しるし()なし。御祈請しるし()なければ三千の大衆等檀那にすてはてられぬ。(P453)

中略

又日蓮房の申し候。仏菩薩並びに諸大善神をかえしまいらせん事は別の術なし。禅宗・念仏宗の寺々を一もなく失い、其の僧らをいましめ、叡山の講堂を造り、霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請じ入れたてまつらざらん外は諸神もかえり給うべからず、諸仏も此の国を扶け給わん事はかたしと申せ。(P456)

 

系年、文永6(31)とされる「御輿振御書」(真蹟断簡)

御文並びに御輿振の日記給び候ひぬ。悦び入って候。中堂炎上の事其の義に候か。山門破滅の期其の節に候か。

中略

但恃(たの)む所は妙法蓮華経第七の巻の「後五百歳閻浮提に於て広宣流布せん」の文か。伝教大師の「正像稍(やや)過ぎ已()はって末法太(はなは)だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是其の時なり」の釈なり。滅するは生ぜんが為、下るは登らんが為なり。山門繁昌の為是くの如き留難(るなん)を起こすか。(P437)

 

文永7(1270)1128日「金吾殿御返事(大師講書)(真蹟)

我が朝又此の邪法(禅門・念仏)弘まりて、天台法華宗を忽諸(ゆるがせ)のゆへに山門安穏ならず、師檀違叛の国と成り候ひぬれば、十が八・九はいかんがとみへ候。(P458)

 

書状に「天台宗(台密)・比叡山への期待と配慮」を書いたということは、日蓮の門弟への教示もかようなものだったといえ、教えを受ける弟子檀越はそれを基に教理的思考をなし、更には周囲にも師説として伝播したことだろう。文永8年の法難から竜口の首の座、そして佐渡配流へと至るに及んで日蓮の天台宗(台密)・比叡山への期待、配慮は薄れていくのだが、その身は鎌倉にはなく、このような師の意思の変化を日昭・日朗は日常的に直接教示される環境ではなかった。両名は師の姿が消えた後の、鎌倉日蓮法華衆再建という難事に取り組まねばならなかった。教理面の細かな説示よりも日蓮法華信仰の勧奨である。また、期待した日蓮の赦免後も、師は鎌倉に留まることなく身延へと去ってしまった。同じ頃、駿河国では日興らが天台寺院と周辺を舞台に法華勧奨を貫徹し、それは弘安2年の熱原法難となって爆発する。日昭・日朗の教線では、池上兄弟、四条金吾らが個人に降りかかった信仰的試練を乗り越えていくが、日興のように天台寺院勢力と直接的に対決するようなことは記録には見えない。むしろ、日蓮亡き後の日昭は天台宗と親密であったことが後年、批判されている()ぐらいだから、そこから遡って考えると日蓮が身延に入山している間、幕府・既成仏教勢力に対して組織だっての公然たる批判は控え、距離を取りながら、法華経・題目流布を展開したのではないだろうか。

 

※「日蓮聖人遺文辞典・歴史編」P875より

(日昭は)徳治二年(1307)三月、日成に妙法寺を、文保元年(1317)十一月、弟子日祐に妙法華寺を譲った。この譲状にはともに「法印日昭花押」とあって(正本・池上本門寺蔵)、日昭が晩年叡山にのぼり官位を得たことは上古日蓮門下では極めて特異なことである。元亨三年(1323)三月二十六日、百三歳の高齢をもって浜土の妙法華寺に寂した。日昭の本拠は浜土の妙法華寺にあったから、一般に浜門流といい、その門下は日昭の先例によって叡山の戒壇にのぼったといわれ、諸門より批判をうけたことが日親の「伝燈抄」にのせられているが、これは浜門流の特殊な伝統として守られたようである。

 

 

10 小教団並列の日蓮一門

 

日蓮法華一門は師の滅後、東国各地に散在する小教団のような状態となるが、原形ともいえるものが師の「身延期」には形成された。その形成過程において、念仏・禅・律・真言等既成仏教各派との関係は「日蓮一人、阿弥陀仏は無間の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗持斎等は国賊なりと申す」(P1732 秋元御書[筒御器抄] 日興写三行断片 三島・本覚寺蔵 弘安3127)と破折対象という一点で師が存命中に確立した。

 

しかし、対天台宗については「仏法の滅不滅は叡山にあるべし」(P453 法門可被申様之事 真蹟 文永6)、「但恃(たの)む所は妙法蓮華経第七の巻の『後五百歳閻浮提に於て広宣流布せん』の文か。伝教大師の『正像稍(やや)過ぎ已()はって末法太(はなは)だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是其の時なり』の釈なり。滅するは生ぜんが為、下るは登らんが為なり。山門繁昌の為是くの如き留難を起こすか。」(P437 御輿振御書 真蹟断簡 文永6[31])等、佐渡期以前の教説があり、それらは「法華一乗の最澄の時代に還るべし」との意を表したと解釈されるもので、このような教説が文永8年までには鎌倉・下総を中心に浸透していたと思われる。

 

日蓮最後の約8年は台密批判が行われたものの、各地の門流形成過程における「天台宗勢力・寺院・僧侶・信徒との関わり方」によって、その認識・対応に違いが生じたようだ。同じ日蓮法華という概念で括られる東国の教団でありながら、師説への教理的理解(本尊の人・法、法華経迹門・本門等)も含めて対天台宗の見方は一弟子六人各位とそれぞれが受け持った地域ごとに、結果として異なるものがあったのではないか。師日蓮は存命中に、門弟間に存していた対天台宗の認識の異なりと教理面における解釈の相違を是正したようではなく、師滅後はそれがそのまま各門流の結集軸になると共に、日蓮法華一門は小教団並列のような有りようとなった。

 

 

11 日興一門の独自の歩み

 

鎌倉における日昭・日朗ら法華衆は、師日蓮と共に法華勧奨に歩いたことは容易に想像されるところで、そこには「法門申しはじめ」からの師説の浸透があり、当然、その継続性を有することになる。一門を揺るがすような天台系勢力との衝突もなかった。智顗・最澄の思想と教えという天台的なものを基盤として日蓮が法華仏教を展開していた時空間を、鎌倉方面の門下は共有したのである。「滝泉寺申状」「実相寺御書」「四十九院申状」等によれば、富士山麓の法華衆形成は大半が師の身延入山以降なされたもので、そこでは佐渡期以前の師説を知る者は少なく、天台寺院当局からの圧迫がむしろ日興一門の形成に寄与し、その思想的自立を促す結果となった。日興一門は、はじめから天台宗という大きな壁を乗り越えるべく宿命づけられていたのではないか。尚、弘安29月下旬の富木常忍と天台僧・了性房、思念房の論争は個人的、教理的なもので、同地や他の日蓮一門を圧迫、揺るがすようなものではなく、日興と弟子檀越が受けた信仰的試練とは次元の異なるものだったと思う。

 

師日蓮滅後17年、日興が身延から離山して9年後の永仁6(1298)、日興によって著された「白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事」(弟子分本尊目録)には、日蓮在世中に日興が教化した弟子・檀越が多数記されており、それによれば駿河国38名、甲斐国20名、伊豆国3名、武蔵国3名、計64名(出家者16名・在家人48名)となっている。これら日興の教化により法華信奉者となった駿河国、甲斐国を中心とした一団は、日蓮と共に歩き教化して門徒組織を作り上げるという経験がなく、その発生当初から日興の個性が浸透して、従来の日蓮法華一門とは一線を画していたとはいえまいか。

 

対天台系勢力との攻防から原型が作られた日興一門は、本尊観についても現場における必要から独自の考え方をするに至ったのではないだろうか。熱原法難時の逮捕事件に象徴されるように、法敵たる天台勢力といつ事件が起きるかもしれない緊張状態が常のことであれば、本尊として直ちに持ち出せる紙本の曼荼羅、経典たる法華経が主となったことだろう。また、誰人であれ、専修唱題成仏を主張するのが師説であったから、財力に乏しい在地の農民層の本尊としても、曼荼羅と経巻が適合していたのではないか。

 

弘安2(1279)921日、熱原の法華衆が逮捕されるのだが、その前日の20日、日興に宛てた「伯耆殿御書」(日興筆断簡 北山本門寺蔵)には以下のようにある。

「形像舎利並余経典 唯置法華経一部と申す釈と、直専持此経。則上供養の釈をかまうべし。余経とは小乗経と申さば、況彼華厳○以法化之。故云乃至不受余経一偈の釈を引け。」(P1671)ここでは、智顗の「法華三昧懺義儀」の「形像舎利並余経典 唯置法華経一部」と「文句」の「直専持此経。則上供養」の文、及び湛然の「法華五百問論」にある「況彼華厳○以法化之。故云乃至不受余経一偈」の一文を引用して、形()像、舎利及び余の経典を安置するのではなく、法華経を安置すべき事を主張するよう指示している。日興が天台僧、または誰人かと議論することを知った日蓮が指南したものか。この書状の日時、送付先、前後の日興と周辺の状況を踏まえると、対論を前にした日興に宛てて熱原の法華衆の信仰形態に正当性を与える書面であったと思われ、そのことはまた富士方面での本尊奉安の態様が天台寺院の仏像に対して法華経であったことを示しているのではないかと思う。また、日蓮は熱原、市庭寺界隈の信者に曼荼羅を図顕して授与していることから、同地での本尊として紙本の曼荼羅が奉安されていたことが認識される。

 

白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事(弟子分本尊目録)より

次在家人弟子分
一、富士下方熱原郷住人神四郎兄。
一、富士下方同郷住人弥五郎弟。
一、富士下方熱原郷住人弥次郎。
此三人者越後房下野房弟子二十人之内也。
中略

一、富士下方熱原六郎吉守者、下野房弟子也。仍日興申与之。
一、富士下方熱原新福地神主者、下野房弟子也。仍日興申与之。
一、富士下方三郎太郎者、下野房弟子也。日興仍申与之。
一、富士下方江美弥次郎者、越後房弟子也。日興仍申与之。
一、富士下方市庭寺太郎太夫入道者、越後房弟子也。仍日興申与之。
一、富士下方市庭寺太郎太夫入道子息弥太郎者、越後房弟子也。仍日興申与之。
一、富士下方市庭寺太郎太夫入道舎弟弟又次郎者、越後房弟子也。仍日興申与之。
一、富士下方市庭寺弥四郎入道者、越後房弟子也。仍日興申与之。
一、富士下方市庭寺田中弥三郎者、越後房弟子也。仍日興申与之。

(宗全2 P116)

 

日興らは唱題成仏を主張して曼荼羅本尊を伝道拠点に奉掲し、法華経を安置。布教の場でも曼荼羅を掲げ法華経を置きながら、富士川一帯の法華勧奨を展開したのではないかと思う。このようなところから、後の五一相対に見られる「曼荼羅正意説」の原型の一端が作られたのではないか。同時に対破天台の論戦から「日蓮が法門と智顗・最澄の流れを汲む天台宗との相違」も思惟され、後の「富士一跡門徒存知事」「五人所破抄」作成に至るのではないだろうか。

 

 

ところで「伯耆殿御書」を以て、日蓮は「曼荼羅正意」に近き指南を示して弘安2年以降は明確に仏像を退けた、と理解する向きもあるようだ。だが、当の日蓮自身が身延山で釈尊像を置き、鎌倉では四条金吾夫妻が、安房でも光日尼などの檀越が釈尊像を拝している。「伯耆殿御書」で()像、舎利、余経典ではなく法華経安置の主張を示したのは、危難の時に仏像を持ち出す余裕などなく、また財力からも仏像造立がかなわない、曼荼羅・法華経の安置以外の余力がなかった富士一帯の弟子檀越を取り巻く宗教事情を前提として、それでも彼らに教理的正当性を与えようとした対機指南というべきだろう。

 

日蓮の書の一部分、振舞いの一端を以て日蓮の「意」と斟酌しても、他の「行い」「教示」等がそれと矛盾をきたしたりすることが多い。日蓮理解の難しさがこのようなところにあると思う。

 

12 日蓮の教説の裾野の広さ

 

天台寺院の天台僧が天台宗の教義にあらざる新義を唱え、寺内秩序を乱して天台寺院から擯出される。その経過を辿ったのが日興であった。仏教者日興を形成した環境がそのまま、日蓮の弟子となった日興を天台宗より自立させる因となったのである。

 

導師自らが比叡山時代の阿闍梨号を名乗り、天台沙門と内外に称し、天台の再興を願う言動であれば、彼が率いる一団は天台系の一門である。その導師が日蓮であった。日蓮はかような活動を鎌倉を中心に展開し、弟子は師説を継承した。後に日蓮の対天台観の変化があっても、身延と鎌倉、下総、安房という師との距離が隔たったものであれば、書簡による新たなる説の浸透には限界もあり、従来説も同居したと思われる。また、これ以降の日蓮の説示にも「天台的なもの」は多分に残されていたから、そこには様々な理解が生まれたのではないだろうか。

 

文永10年閏511日、佐渡の日蓮は「安州の日蓮は恐らくは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通す。三に一を加えて三国四師と号く。」(P743 顕仏未来記 真蹟曽存)と、自己の仏教上の位置付けを釈迦・智顗・最澄に続くものとして「三国四師」を名乗る。これは正統天台の系譜に連なるものと弟子・檀越には理解されたことだろう。

 

文永111120日の「曾谷入道殿御書」(真蹟断片)では、「漢土には善無畏・金剛智・不空三蔵の誑惑の心、天台法華宗を真言の大日経に盗み入れて、還て法華経の肝心と天台大師の徳とを隠せし故に漢土滅する也。日本国は慈覚大師が大日経・金剛頂経・蘇悉地経を鎮護国家の三部と取って、伝教大師の鎮護国家を破せしより、叡山に悪義出来して終に王法尽きにき。」(P838)として台密批判を始め、正統であるべき比叡山を密教化した円仁(後に円珍らも加える)を批判したが、当書でもこれ以降でも、日蓮は智顗を立て最澄を尊重する記述を重ねている。

 

建治2715日の「四條金吾釈迦仏供養事」(真蹟曽存・真蹟断簡)では、「御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云。開眼の事、普賢経に云はく『此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり』等云云。又云はく『此の方等経は是諸仏の眼なり諸仏是に因って五眼を具することを得たまへり』云云」(P1182)されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。」「此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり。天台大師のさとり也。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。」「此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ。優(うでん)大王の木像と影顕(ようけん)王の木像と一分もたがうべからず。梵帝・日月・四天等必定して影の身に随ふが如く貴辺をばまぼらせ給ふべし。」(P1184)と教示している。日蓮は台密を批判する一方で、木画の像の開眼供養は法華経・天台宗に限るものでそれによる木画の像は生身の仏になると説いている。これは多様な解釈の可能性をはらむもので、滅後の弟子達に議論の余地を残したのではないかと思われる。このように日蓮の教説は門弟をして異解を生じさせる幅の広いものであったが、師滅後の一弟子六人は見解の相違を話し合うことはなかったし、門流の組織と思想の原型を作った地でそれぞれが独自の道を歩むのみであった。

 

 

13 最澄と密教と日蓮と

 

日興一門が「天台沙門と仰せらる申状は大謗法」というのならば、その因は日興の師である日蓮が作ったということになるだろう。弟子が信仰の純粋性を求めるあまり師説と矛盾をきたしてしまうことは、日興の師である日蓮自身にも見られたもので、日蓮は比叡山が円仁らによって密教化されたと痛烈な批判を繰り返したが、空海に弟子の礼を取ってまで天台密教を完成させようとしたのが日蓮の崇敬する最澄であり、師最澄の願いを達したのが批判対象の円仁だった。

 

弘仁4(813) 91日、47歳の最澄は「依憑天台集」を著し、3年後の弘仁7(816)50歳の時には「依憑天台集」に序文を加え、「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯(みん)ず」と面授を重んじる真言授受法を批判している。日蓮は「撰時抄」でそれを引用して「日本国の伝教大師漢土にわたりて、天台宗をわたし給ふついでに、真言宗をならべわたす。天台宗を日本の皇帝にさづけ、真言宗を六宗の大徳にならわせ給ふ。但し六宗と天台宗の勝劣は入唐已前に定めさせ給ふ。入唐已後には円頓の戒場立てう立じの論か計りなかりけるかのあひだ、敵多くしては戒場の一事成じがたしとやをぼしめしけん、又末法にせめさせんとやをぼしけん、皇帝の御前にしても論ぜさせ給はず。弟子等にもはかばかしくかたらせ給はず。但し依憑集(依憑天台集)と申す一巻の秘書あり。七宗の人々の天台に落ちたるやうをかゝれて候文なり。かの文の序に真言宗の誑惑一筆みへて候。(P1035)と記している。

 

しかしながら、日蓮は最澄の「依憑天台集」を認識しながらも、先に見たように「法門申しはじめ」から文永初期に至るまでは「法華真言並列」であったことにまずは注意すべきだろう。また、日蓮が「撰時抄」では「天台宗をわたし給ふついでに、真言宗をならべわたす(P1035)とあたかも最澄は天台宗を伝来したついでに真言宗も伝えたかのように書き、「報恩抄」では「伝教大師は善無畏三蔵のあやまりなり、大日経は法華経には劣りたりと知しめして(P1210)大日経をば法華天台宗の傍依経となして()真言・天台二宗の勝劣は弟子にも分明にをしえ給はざりけるか()法華経に大日経は劣るとしろしめす事、伝教大師の御心顕然也(P1211)釈迦如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師の御心は一同に大日経等の一切経の中には法華経すぐれたりという事は分明なり(P1211)と最澄は勝法華・劣大日と明確化していたように書いているが、このような日蓮的認識はともかくとして、密教こそが最澄の求めてやまないものだったというのが史実ではなかったか

 

最澄は延暦23(804)38歳の時に入唐して不空金剛の弟子・順暁より越州にて金剛界五部の灌頂、胎蔵界三部三昧耶の灌頂を受けるも、その内容には不完全なものがあった。空海が唐より帰国して大同4(809)7月中旬に京都・高雄山寺に入山以降、最澄は書を送り、また弟子を行かせて経論、儀軌の貸し出しの要請を重ね、最澄から空海への書状は24通、空海から最澄への書状は6通が現存しているといわれる。

 

弘仁3(812)最澄が46歳の時、1115日に空海が灌頂壇を高雄山寺に開筳するや、最澄は和気真綱、和気仲世兄弟と共に高雄山寺に赴き、三濃種人を加えた四名で空海に弟子の礼を取り、金剛界の結縁灌頂を受法。続いて1214日には、最澄は弟子の円澄、光定、比叡山寺の僧徒、更に泰範と南都諸大寺の学匠・沙弥・近事・童子など190名余と共に、空海より胎蔵の結縁灌頂を受法している。金剛界・胎蔵の灌頂は一般的な結縁灌頂であり、最澄の望んでいた伝法灌頂ではなかったとされる。

 

翌弘仁4(813)には、最澄は高雄山寺の空海のもとに円澄・泰範・賢栄を派遣し、2月に泰範・円澄・光定ら数名は空海より「法華儀軌一尊法」の伝授を受け、3月には泰範・円澄・光定等19名が金剛界の結縁灌頂を空海から受法している。ところが円澄と光定は比叡山寺に戻るも泰範は空海のもとに留まり、619日に最澄は泰範に「棄てられし老同法最澄」と綴った書を送り、「摩訶止観輔行伝弘決」十巻の返還を求めている。空海より意とするような密教の受法がかなわず、最愛の弟子にも事実上捨てられたかのような思いとなりながらも、91日に「依憑天台集」を著す。その後も1123日に最澄は空海に書を送り「文殊讃法身礼」「方円図」「注義」「釈理趣経一巻」等の借覧を願い出るのだが、この年12月頃(または11月か)、空海は「叡山の澄法師、理趣釈経を求むるに答する書」を以て密教受法の厳格なることを説いて、経典の貸し出しを拒絶。これ以降、両者は疎遠となり、互いが独自の道を歩み始めることになる。最澄の約10年間に亘った天台密教完成への思いは断ち切られることとなったのだ。そして3年後に「依憑天台集」に序文を加え、真言授受法を批判するのである。

 

このような過程より推測すれば、空海からの密教伝授を求めていたものが、かなわない結果となった心情的なものから、「依憑天台集」に序文が加えられた可能性もあるのではないだろうか。空海より胎蔵界・金剛界の結縁灌頂を受法したわずか4年前後に、「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯(みん)ず」と書いているのだ。空海から「叡山の澄法師、理趣釈経を求むるに答する書」が届いた時点で、最澄にとって密教受法は中断のまま終わったのであり、次なる展開へと至らざるをえなかったのである。

 

日蓮にしてみれば法華経継承の正統の系譜としての最澄であり、「依憑天台集」序文の「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯(みん)ず」は自説の補強材料となったのではないか。最澄の長年にわたる密教受法への取り組みは知りながらもその角度については意図的に詳論せず、日蓮なりの認識にとどめたものだろうか。日興一門もまた師説の裾野の広さを知りながらも、一弟子五人を本格的に批判した背景には「門流」意識が多分にあったのではないかと思う。

 

これまで長々と確認してきたが、結論としては師が「勘文」に「天台沙門」と称したのだから、宗名の定まらない一門の弟子が申状に「天台沙門」と名乗ることは師説のとおりである、というものだ。日興一門の「天台沙門と仰せらる申状は大謗法」との主張については、彼我の相違を明示することが先にあって後付の批判材料として使われたというべきもので、日興一門の思いを汲みとれば、彼らの主張を議題として一弟子六人で「申状には『天台沙門』か『日蓮聖人の弟子』かを議論すること」の必要性はあるだろうが、「大謗法」と一方的に批判するのはいかがなものかと思う。

 

 

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