戦場に赴く門下の心に寄り添う日蓮

 

その時代にめぐり合わせた定め、避けがたい現実といいましょうか、日蓮と同時代の檀越(在家の門下)・武士の中には、元軍との戦いのために西国(さいごく)へ赴いた人々がいました。

 

曽谷二郎入道がその一人です。

 

弘安4(1281)71日、日蓮は九州の戦場へ向かう曽谷二郎入道へ手紙を送り、涙を流さんばかりに包み込みながら温かい言葉を送られています。

 

「曽谷二郎入道殿御返事(曾谷二郎入道殿御報) 弘安4(1281)71

日興本・北山本門寺蔵

爰に貴辺と日蓮とは師檀の一分也。然りと雖も有漏(うろ)の依身(えしん)は国主に随ふ故に、此の難に値はんと欲する歟。感涙押へ難し。何の代にか対面を遂げん乎。唯だ一心に霊山浄土を期せらる可き歟。設ひ身は此の難に値ふとも心は仏心に同じ、今生は修羅道に交り、後生は必ず仏国に居()せん。

 

元軍迎撃のため九州の戦地へと向かう予定の曽谷二郎入道に対し、日蓮は語りかけるように記しています。

 

日蓮とあなたとは師檀の一分なのだ。しかしながら、あなたは国主に仕える身である故に、蒙古の攻めという未曽有の国難に立ち向かうことになるのだろう。あなたのことを思うと感涙は抑えがたいものがある。いずれの代にか、共に会うことができるだろうか。ただ一心に霊山浄土を期すべきである。そうであればあなたの身は、蒙古との戦いにより今生は修羅道に交わるのだが、心は仏心に同じく、後生は必ずや仏国に居住できる身となるであろう。

 

と霊山浄土への往詣を勧めるのです。

 

第二次蒙古襲来、弘安の役となり、いよいよ、日蓮の警告通り他国侵逼難が再び的中し、日本は国の存亡を懸けた一大事に突入しました。

曽谷二郎入道に霊山往詣を勧め、後生の仏国での居住を確約するところからも、日蓮は二度目の蒙古襲来を相当深刻に受け止め、曽谷二郎入道は戦死するかもしれないと心配されていました。また手紙の中の他の箇所では「此の国の人人、今生には一同修羅道に堕し、後生には皆阿鼻大城に入らんこと疑ひ無き者也」と記していることからも、日本国の行く末は相当危うい、危険である、と見られていたことが読み取れると思います。

 

なお、後日談となりますが、曽谷二郎入道は出征しなかった可能性もあります。奇しくも、「曽谷二郎入道殿御返事」の日付、閏71日の頃、台風により元軍の軍船が水没していますので、実際に曽谷二郎入道が西国へ赴いたかどうかは不明としておきたいと思います。

 

以上、「曽谷二郎入道殿御返事(曾谷二郎入道殿御報)」で確認しましたように、中世の鎌倉時代の中で、時代の波にもまれながらも、懸命に生き抜いた多くの日蓮門下がいたことでしょう。

 

あるときは一女性門下に優しく、ある時は武士を叱咤するように、またある時は妙法の広大なる功徳を説きながら、日蓮の心は社会のあらゆる分野の人、即ち日本国の一切衆生を包まれていたことが改めて確認できるのではないかと思います。

 

2023.2.5