10 「平家物語」に見える熊野信仰

 

鎌倉時代に成立したとされる「平家物語」には、熊野信仰全盛期の様が見てとれるような描写が多くある。長文となってしまうが、「平家物語」の熊野関係の記述を見てみよう。《適宜改行した》

 

 

「巻第一・鱸(すずき)

 

平家かやうに繁昌せられけるも、熊野権現の御利生とぞきこえし。其の故は、古(いにしへ)、清盛公、いまだ安芸守たりし時、伊勢の海より船にて熊野へ参られけるに、大きなる鱸の船に入りたりけるを、先達申しけるは、「是は(熊野)権現の御利生なり。いそぎ参るべし」と申しければ、清盛宣(のたま)ひけるは、「昔、周の武王の船にこそ、白魚は踊り入りたりけるなれ。是、吉事なり」とて、さばかり十戒をたもち、精進潔斎の道なれども、調味して、家子侍共に食はせられけり。其の故にや、吉事のみうちつづいて、太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途(くわんど)も、竜の雲に昇るよりは、猶すみやかにり。九代の先蹤(せんじょう)をこえ給ふこそ目出たけれ。

 

 

 

意訳

 

平家がかように繁昌したのも熊野権現の御利益である、と諸方に聞こえている。その故は、平清盛(11181181)がまだ安芸守であった頃、伊勢の海より船で熊野へ参詣したが、突然、大きな鱸が船に躍り込んできた。それを見た先達は「これは熊野権現の御利益です。急いで食べましょう」と言い、清盛は「その昔、周の武王の船に白魚が躍り込んだというが、これも同じ吉事である」として、固く十戒をたもって精進潔斎をしてきた道中ではあったが、鱸を調理して家の子、侍達に食べさせたのである。その故であろうか、清盛には吉事のみが続いて、太政大臣まで昇りつめている。清盛の子孫の官位も、竜が雲に昇るよりも、なお速いものであった。先祖・九代の先例を越えられたのはめでたいことである。

 

 

「巻第二 大納言流罪」

 

安元3(1177)6月、後白河院を擁する近臣が平家打倒を企てたとされる「鹿ケ谷(ししがだに)事件」では、密告によりことが事前に露見。首謀者とされた大納言・藤原成親(11381177)は流罪となる。かつて後白河院の熊野参詣に随った成親が、兵に囲まれて船に乗り込む光景を描いた文章は、この時代における熊野詣での模様が窺われるものとなっている。それによると、「熊野や天王寺に参詣する時は、二つ瓦、三棟の立派な御座船に乗り、続く供船は二、三十艘ほど漕ぎ連ねていた」という盛大なものだった。

 

 

 

熊野詣、天王寺詣なんどには、二つがはらの三棟につくったる舟に乗り、次の舟二三十艘漕ぎつづけてこそありしに、今はけしかるかきすゑ屋形舟に大幕ひかせ、見もなれぬ兵共にぐせられて、今日をかぎりに都を出でて、浪路はるかにおもむかれけん心のうち、おしはかられて哀れなり。

 

 

「巻第二 康頼祝言」

 

「鹿ケ谷事件」の首謀者とされる藤原成親は備前国へ流罪。西光(?~1177)は斬首、成親の子・成経(11561202)も備中国へ流され、後に平康頼(生没年不詳)、真言僧の俊寛(11431179)と共に薩摩国鬼界ケ島へ配流される。藤原成経、平康頼の二人は鬼界ケ島の各所を熊野三山に見立て、流罪赦免を祈願している。

 

 

 

さる程に、鬼界が島の流人共、露の命草葉のすゑにかかって、惜しむべきとにはあらねども、丹波少将のしうと、平宰相の領、肥前国鹿瀬庄より、衣食を常に送られければ、それにてぞ、俊寛僧都も康頼も、命をいきて過しける。

 

康頼はながされける時、周防の室積にて、出家してんげれば、法名は性照とこそついたりけれ。出家はもとよりの望なりければ、

 

つひにかくそむきはてける世間を、とく捨てざりしことぞくやしき

 

丹波少将、康頼入道は、もとより熊野信じの人々なれば、「いかにもして、此島のうちに、熊野の三所権現を勧請し奉って、帰洛の事を祈り申さばや」と云ふに、俊寛僧都は、天性不信第一の人にて、是を用いず。二人は同じ心に、もし熊野に似たる所やあると、島のうちを尋ねまはるに、或は林塘の妙なるあり、紅錦繍の粧しなじなに、或は雲嶺のあやしきあり、碧羅綾の色一つにあらず。山のけしき、木のこだちに至るまで、外よりもなほ勝れたり。南を望めば、海漫々として、雲の波煙の浪ふかく、北をかへり見れば、又山岳の峨々たるより、百尺の滝水漲り落ちたり。滝の音ことにすさまじく、松風神さびたる住ひ、飛滝権現のおはします、那智のお山にさ似たりけり。

 

さてこそやがてそこをば、那智のお山とは名づけけれ。此峰は本宮、かれは新宮、是はそんぢやう其王子、彼王子なんど、王子王子の名を申して、康頼入道先達にて、丹波少将相ぐしつつ、日ごとに熊野まうでのまねをして、帰洛の事をぞ祈ける。「南無権現金剛童子、ねがはくは憐をたれさせおはしまして、古郷へかへし入れさせ給ひて、妻子をも今一度みせ給へ」とぞ祈りける。

 

日数つもりてたちかふべき浄衣もなければ、麻の衣を身にまとひ、沢辺の水をこりにかいては、岩田河のきよき流とおもひやり、高き所にのぼっては、発心門とぞ観じける。参るたびごとには、康頼入道祝言を申すに、御幣紙もなければ、花を手折りてささげつつ、維あたれる歳次、治承元年丁酉、月のならび十月二月、日の数三百五十余ケ日、吉日良辰を択んで、かけまくも忝く、日本第一大領験、熊野三所権現、飛滝大薩埵の教令、宇豆の広前にして、信心の大施主、羽林藤原成経、并に沙弥性照、一心清浄の誠を致し、三業相応の志を抽でて、謹でもって敬白。

 

夫証誠大菩薩は、済度苦海の教主、三身円満の覚王也。或は東方浄瑠璃医王の主、衆病悉除の如来也。或は南方補陀落能化の主、入重玄門の大士。若王子は娑婆世界の本主、施無畏者の大士、頂上の仏面を現じて、衆生の所願をみて給へり。是によって、かみ一人より、しも万民に至るまで、或は現世安穏のため、或は後生善処のために、朝には浄水を結んで、煩悩の垢をすすぎ、夕には深山に向って、宝号を唱ふるに、感応おこたる事なし。峨々たる嶺のたかきをば、神徳のたかきに喩へ、嶮々たる谷のふかきをば、弘誓のふかきに准へて、雲を分きてのぼり、露をしのいで下る。爰に利益の地をたのまずむば、いかんが歩を嶮難の路にはこばん。権現の徳をあふがずんば、何ぞ必ずしも幽遠の境にましまさむ。仍って証誠大権現、飛滝大薩埵、青蓮慈悲の眸を相ならべ、さをしか(小牡鹿)の御耳をふりたてて、我等が無二の丹誠を知見して、一々の懇志を納受し給へ。然れば則ち、結早玉の両所権現、おのおの機に随って、有縁の衆生をみちびき、無縁の群類をすくはんがために、七宝荘厳のすみかをすてて、八万四千の光を和げ、六道三有の塵に同じ給へり。故に定業亦能転、求長寿得長寿の礼拝、袖をつらね、幣帛礼奠を捧ぐる事ひまなし。忍辱の衣を重ね、覚道の花を捧げて、神殿の床を動かし、信心の水をすまして、利生の池を湛へたり。神明納受し給はば、所願なんぞ成就せざらん。仰ぎ願はくは、十二所権現、利生の翅を並べて、遥かに苦海の空にかけり、左遷の愁をやすめて、帰洛の本懐をとげしめ給へ。再拝。とぞ、康頼祝言をば申しける。

 

 

 

意訳

 

さて、鬼界が島の流人達は、露が草の葉の末にかかっているように、惜しんでいるというわけではないが、丹波少将(藤原成経)の舅・門脇宰相(平教盛)の領地・肥前国鹿瀬庄から、衣食を常に送られたので、それで俊寛僧都も平康頼も命をつなぎ過ごしていた。平康頼は流された時、周防の室積で出家して、法名は性照としていた。出家はもとよりの望みだったので、

 

ついにはかく捨ててしまった世の中を、早くに捨てなかったのは悔しいことである

 

と自らの心情を吐露された。

 

丹波少将成経と康頼入道は元々、熊野信仰の人なので、「なんとかして、この島の内に熊野三所権現を勧請し奉って、帰京の事を祈り申したいものだ」と言ったが、俊寛僧都は天性の不信第一の人であり、成経と康頼のいうことを用いない。二人は同心して、もしや熊野に似た所があるかもしれないと、島の中を尋ねまわると、あるいは林の堤があり、紅や錦の刺繍のように美しき所がある。あるいは、雲のかかった山々があり、青空も一色ではなく変化している。山の景色や木立ちの様までが他の所よりも美しく、実に妙なる景勝の地である。南を望めば海は広がり、波は雲や煙のように見え、北へ振り返ると山々の険しいところより、百尺の滝の水が轟き落ちている。滝の音はことに凄まじく、松風が吹き神々しく古びたところは、飛滝権現のまします那智のお山によく似ている。そこで、その地を那智のお山と名付けた。

 

この峰は本宮、かの地は新宮、これは何々王子、かの王子、この王子と、王子の名を言いながら康頼入道を先達として、丹波少将成経が共をして、日毎に熊野詣での真似をして帰京の事を祈っていた。

 

「南無権現、金剛童子、願わくは憐れみを垂れ、故郷へ帰し京へ入れさせ給え。妻子にも、今一度、会わせ給え」と二人は祈った。

 

日が経ち、着替えるべき浄衣もないので、麻の衣を身にまとって、沢辺の水を身の垢を落とすために汲んでは、岩田河の清き流れと思い、高き所に登っては、そこを発心門としていた。参詣の度毎に康頼入道が祝詞(のりと)を申したが、御幣の紙も無いので、花を手折りしては捧げていった。

 

年はこれ治承元年(1177)丁酉(ひのととり)、月のならびは十二か月、日の数は三百五十余日となる。吉日、良き日を選んで、申し上げるも忝いが、日本第一の大霊験、熊野三所権現、千手観音の垂迹で忿怒身である飛滝大菩薩の教えに浴す御前において、信心の大施主、右近衛少将・藤原成経、並びに沙弥・性照(康頼入道)、一心清浄の誠を捧げて、身口意の三業が相応した志をもって、謹んで敬って申します。

 

それ証誠大菩薩(本宮)は、衆生を苦海から救い彼岸へ渡す教主であり、法報応の三身が円満された仏であります。

 

あるいは早玉宮(新宮)の本地・薬師如来は東方浄瑠璃世界の主であり、衆生を病より救われる如来であります。

 

あるいは結宮(那智)の本地・千手観音菩薩は南方補陀落を遊行能化の主であり、等覚の菩薩であります。

 

若王子は娑婆世界の本主で、観世音菩薩(施無畏者)であり、頭上の仏面を現じて衆生の所願を叶えてくださいました。

 

これによって、上一人より、下万民に至るまで、あるいは現世安穏のため、あるいは後生善処のために、朝には浄水を汲んで煩悩の垢をすすぎ、夕べには深山に向って仏の名を唱えると、感応怠る事はありません。

 

峨々たる峰の高きを神徳のたかきに譬え、険しき谷が深いのを衆生済度の誓い深きになぞらえて、雲を分けては登り、露をしのいでは下っています。ここに衆生済度の仏菩薩の利益を頼みとしなければ、いかにして険難の路を歩むことができるでしょうか。権現の徳を仰がなければ、どうしてこのような幽遠の境におわしますことがあるでしょうか。ゆえに証誠大権現、飛滝大菩薩よ、青蓮慈悲の眼を並べ、小牡鹿(さおしか)のような御耳をふりたてて、我等が無二の真心を知見され、一つ一つの懇ろなる志を納受され給え。

 

然ればすなわち、結・早玉の両所権現は、各々の機に随って、有縁の衆生を導き、縁無き衆生を救わんがために、七宝荘厳のすみかを捨てて、八万四千の光を和げ下界へとおりられ、六道三界の煩悩の塵に同じられております。故に定業亦能転(法華文句記)、求長寿得長寿(薬師本願功徳経)を願い礼拝する者が袖を連ね、幣帛(神に捧げる物)、礼奠(神仏に供える供物)を捧げることは途切れることがありません。忍辱の衣を着て、仏への花を捧げて、神殿の床を動かすほど祈願し、信心の水を澄まして、利生利益の池は満ちています。神様が納受してくださるならば、願いがどうして成就しないということがあるでしょうか。仰ぎ願わくば十二所権現よ、利生の翼を並べて遥かに我らのこの苦しみの海、空に飛んできて、左遷の悲しみをなくし帰京の本懐を遂げさせ給え。再拝。

 

と康頼入道は祝詞を読み上げた。

 

 

 

(翌治承2[1178]、平清盛の次女・徳子[11551213]の安産祈願の大赦が出され、藤原成経と平康頼は赦されて帰京。俊寛は島で亡くなった)

 

 

「巻第三 飈(つじかぜ)

 

同五月十二日午剋(うまのこく)ばかり、京中には辻風おびたたしう吹いて、人屋おほく顚倒す。風は中御門京極よりおこって、未申(ひつじさる)の方へ吹いて行くに、棟門平門を吹きぬいて、四五町十町吹きもてゆき、けた、なげし、柱なんどは、虚空に散在す。檜皮、ふき板のたぐひ、冬の木葉の風に乱るるが如し。おびたたしうなりどよむ音、彼地獄の業風なりとも、これには過ぎじとぞみえし。ただ舎屋の破損するのみならず、命を失ふ人も多し。牛馬のたぐひ、数を尽くして打ちころさる。是ただ事にあらず、御占あるべしとて、神祇官にして御占あり。

 

「今百日のうちに、禄をおもんずる大臣の慎、別しては天下の大事、並びに、仏法王法共に傾いて、兵革相続すべし」とぞ、神祇官陰陽寮、共にうらなひ申しける。

 

 

 

意訳

 

同年(治承3年・1179)512日の正午頃、京中に辻風が吹き荒れ、多くの人家が倒壊した。風は中御門大路と京極大路の交差するあたりから起こり、南西の方へ吹いていき、棟(むね)のある門、平門(ひらかど)を吹き飛ばして、四、五町、十町ももっていき、桁、長押(なげし)、柱等は空に舞いあがってしまった。屋根の檜皮(ひわだ)、葺板(ふきいた)の類は、冬の木の葉が風に乱れるようなものだ。風の音はおびただしく鳴りどよめいて、彼の地獄の業風でも、これほどではあるまいと思われる。ただ、家屋が破壊されるだけではなく、多くの人が命を失った。牛馬の類いは、数限りなく打ち殺されている。このような惨事はただ事ではない。御占(みうら)を行うべきだとして、神祇官で御占が行われた。

 

そこでは「今より百日の内に、高禄の大臣が謹慎することとなり、とくに天下の大事が起き、同時に仏法・王法共に衰えて戦乱がうち続く事態となるでしょう」と、神祇官・陰陽寮共に占い申された。

 

 

「巻第三 医師問答」

 

小松のおとどか様の事共を聞き給ひて、よろづ心ぼそうや思はれけん、其比熊野参詣の事ありけり。本宮証誠殿の御前にて、夜もすがら敬白せられけるは、「親父入道相国の体をみるに、悪逆無道にして、ややもすれば君をなやまし奉る。重盛長子として、頻りに諫をいたすといへども、身不肖の間、かれもって服膺せず。そのふるまひをみるに、一期の栄花猶あやふし。枝葉連続して、親を顕し、名を揚げん事かたし。此時に当って、重盛いやしうも思へり。なまじひに列して、世に浮沈せん事、敢へて良臣孝子の法にあらず。しかじ、名を逃れ身を退いて、今生の名望を抛て、来世の菩提を求めんには。但し凡夫薄地、是非にまどへるが故に、猶心ざしを恣(ほしいまま)にせず。南無権現金剛童子、願はくは子孫繁栄たえずして、仕へて朝廷にまじはるべくは、入道の悪心を和げて、天下の安全を得しめ給へ。栄耀又一期をかぎって、後混(こうこん)恥に及ぶべくは、重盛が運命をつづめて、来世の苦輪を助け給へ。両ケの求願、ひとへに冥助を仰ぐ」と、肝胆を摧いて祈念せられけるに、灯籠の火のやうなる物の、おとどの御身より出でて、ぱっと消ゆるがごとくして失せにけり。人あまた見奉りけれども、恐れて是を申さず。

 

又下向の時、岩田川を渡られけるに、嫡子(ちゃくし)権亮(ごんのすけ)少将維盛(これもり)以下の公達(きんだち)、浄衣のしたに薄色のきぬを着て、夏の事なれば、なにとなう河の水に戯(たわむ)れ給ふ程に、浄衣のぬれてきぬにうつったるが、偏に色のごとくに見えければ、筑後守貞能(さだよし)、これを見とがめて、「何と候やらん、あの御浄衣の、よにいまはしきやうに見えさせおはしまし候。召しかへらるべうや候らん」と申しければ、おとど、「わが所願既に成就しにけり。其浄衣敢へてあらたむべからず」とて、別して岩田川より熊野へ、悦(よろこび)の奉幣(ほうへい)をぞ立てられける。人あやしと思ひけれども、其心をえず。しかるに此公達、程なくまことの色を着給ひけるこそふしぎなれ。下向の後、いくばくの日数を経ずして、病付き給ふ。権現すでに御納受あるにこそとて、療治もし給はず、祈祷をもいたされず。

 

 

 

意訳

 

内大臣・重盛(小松の大臣・平重盛、11381179)は、512日に強風が吹き荒れ、甚大な被害をもたらしたことを聞かれて、何事につけ心細く思われたのであろう。その頃、熊野に参詣されたことがあった。本宮・証誠殿の御前にて、夜通し願われたことは、

 

「父・入道相国(平清盛)の振る舞いを見ますと、悪逆無道にして、ややもすれば君(後白河法皇)を悩まし奉っています。重盛は長男として頻りに諫めておりますが、不肖の身でもある故、父は聞き入れてくれません。今のままでは、一代の栄華でさえも危ういものがあります。この先、子孫が繁栄して、親の名を高めることは難しいことでしょう。このような時にあたり、重盛は不相応ながらも思います。なまじ重臣に列して、世の浮き沈みに身を任せることは、とても良臣孝子の行いとはいえません。名を捨て身を退いて、今生の名声をなげうって来世の菩提を求めるにこしたことはありません。しかし、煩悩にまみれた凡夫で是非に迷うが故に、なお、出家の志を遂げられずにいます。南無権現金剛童子、願わくば、子孫の繁栄が絶えず、朝廷に仕えて人々に交われるならば、入道の悪心を和らげて、天下の安全を得させ給え。それとも栄華が一代限りで、子孫にまで恥が及ぶのならば、重盛の運命はこれまでとし、来世まで繰り返される苦しみより助け給え。この二つの願いをもって、神の助けを仰ぐものです」

 

と、心を尽くして深く祈念したところ、灯籠の火のようなものが重盛の身より出て、ぱっと消えるようにしてなくなった。多くの人がこの不思議な様を見ていたが、皆、恐れて口にする人はいなかった。

 

また、帰りに岩田川を渡っていたところ、重盛の長男・維盛(11581184)以下の公達が、浄衣の下に薄柴色の衣を着て、夏のことであり、なんとはなしに川の水で戯れたのだが、浄衣が濡れて下の衣が透けたのが、あたかも薄墨色の喪服に見えたので、筑後守貞能がこれを見とがめて、「何ということでしょう。あの御浄衣は忌まわしいものに見えます。召し替えたほうがよろしいでしょう」と申し上げたところ、重盛は「私が願うところは既に成就したのだ。その浄衣はあえて着替えるべきではない」と言い、特別に岩田川より熊野へ、御礼の奉幣使を遣わされた。

 

周囲の人は重盛の心が分からず、おかしなことだと思った。しかるに、この公達が、程なくしてまことの喪服を着るようなことになったのは実に不思議なことである。熊野より帰られた後、何日もたたないうちに病気になってしまった。重盛は「熊野権現が既に我が願いを御納受されたのだ」として治療もされず、祈祷をすることもなかった。

 

(治承3[1179]729日、平重盛は病没した)

 

                       京都タワーより
                       京都タワーより

 

「巻第四 源氏揃」

 

治承4(1180)4月、以仁王(11511180)が平氏追討の令旨を全国の源氏と寺社に向けて発し、源行家(新宮十郎 ?~1186)が諸国に向かう。翌5月、この動きを知った熊野別当家の湛増(11301198)は平家方に与し、本宮と田辺の勢力を率いて源氏方の新宮勢、那智勢と戦うも敗北する。しかし、源頼朝の挙兵後は熊野三山の融和に動き、寿永3(1184)21代熊野別当に補任されてからは源氏方に加勢。寿永4(1185)3月、熊野水軍を率いた湛増は源氏軍と共に平家相手に戦い、「壇の浦の戦い」の勝利に貢献した。

 

 

 

尚、五来重氏の教示によると()、湛増は高野山往生院谷に三間四方の住房を持っており、承安5(1175)5月、仏種房心覚(1117~?)に譲り渡している。心覚の移住によって住房は遍照光院となった。南都東大寺系の念仏を高野山に導入したのが心覚であったという。

 

 

 

其比一院第二の皇子、以仁の王と申ししは、御母加賀大納言季成卿の御娘なり。三条高倉にましましければ、高倉の宮とぞ申ける。去んじ永万元年十二月十六日、御年十五にて、忍びつつ近衛河原の大宮の御所にて、御元服ありけり。御手跡うつくしうあそばし、御才学すぐれてましましければ、位にもつかせ給ふべきに、故建春門院の御そねみにて、おしこめられさせ給ひつつ、花のもとの春の遊には、紫毫をふるって手づから御作を書き、月の前の秋の宴には、玉笛をふいて身づから雅音をあやつり給ふ。かくしてあかしくらし給ふほどに、治承四年には、御年卅にぞならせましましける。其比近衛河原に候ひける源三位入道頼政、或夜ひそかに此宮の御所に参って申しけることこそおそろしけれ。

 

「君は天照大神四十八世の御末、神武天皇より七十八代にあたらせ給ふ。太子にもたち、位にもつかせ給ふべきに、卅まで宮にてわたらせ給ふ御事をば、心うしとはおぼしめさずや。当世のていをみ候に、うへにはしたがひたる様なれども、内々は平家をそねまぬ者や候。御謀反おこさせ給ひて、平家をほろぼし、法皇のいつとなく鳥羽殿におしこめられてわたらせ給ふ御心をも、やすめ参らせ、君も位につかせ給ふべし。これ御孝行のいたりにてこそ候はんずれ。もしおぼしめしたたせ給ひて、令旨を下させ給ふ物ならば、悦をなして参らむずる源氏どもこそおほう候へ」とて申しつづく。

 

「まづ京都には、出羽前司光信が子共、伊賀守光基、出羽判官光長、出羽蔵人光重、出羽冠者光能、熊野には、故六条判官為義が末子、十郎義盛とてかくれて候。摂津国には多田蔵人行綱こそ候へども、新大納言成親卿の謀反の時、同心しながらかへり忠したる不当人で候へば、申すに及ばず。

 

さりながら其弟、多田二郎朝実、手島の冠者高頼、太田太郎頼基、河内国には、武蔵権守入道義基、子息石河判官代義兼、大和国には、宇野七郎親治が子共、太郎有治、二郎清治、三郎成治、四郎義治、近江国には、山本、柏木、錦古里、美濃、尾張には、山田次郎重広、河辺太郎重直、泉太郎重光、浦野四郎重遠、安食次郎重頼、其子太郎重資、木太三郎重長、開田判官代重国、矢島先生重高、其子太郎重行、甲斐国には、逸見冠者義清、其子太郎清光、武田太郎信義、加賀見二郎遠光、同小次郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎義定、信濃国には、大内太郎維義、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、其子四郎義信、故帯刀先生義賢が次男、木曾冠者義仲、伊豆国には、流人前右兵衛佐頼朝、常陸国には、信太三郎先生義憲、佐竹冠者正義、其子太郎忠義、同三郎義宗、四郎高義、五郎義季、陸奥国には、故左馬頭義朝が末子、九郎冠者義経、これみな六孫王の苗裔、多田新発満仲が後胤なり。

 

朝敵をもたひらげ、宿望をとげし事は、源平いづれ勝劣なかりしかども、今は雲泥まじはりをへだてて、主従の礼にもなほおとれり。国には国司にしたがひ、庄には預所につかはれ、公事雑事にかりたてられて、やすい思ひも候はず。いかばかり心うく候らん。君もしおぼしめしたたせ給ひて、令旨をたうづるものならば、夜を日についで馳せのぼり、平家をほろぼさん事、時日をめぐらすべからず。入道も年こそよって候とも、子共ひき具して参り候べし」とぞ申したる。

 

宮は此事いかがあるべからんとて、しばしは御承引もなかりけるが、阿古丸大納言宗通卿の孫、備後前司季通が子、少納言伊長と申し候、勝れたる相人なりければ、時の人相少納言とぞ申しける。其人が此宮を見参らせて、「位に即かせ給ふべき相まします。天下の事思食しはなたせ給ふべからず」と申しけるうへ、源三位入道も、かやうに申されければ、「さてはしかるべし、天照大神の御告やらん」とて、ひしひしとおぼしめしたたせ給ひけり。熊野に候十郎義盛を召して、蔵人になさる。行家と改名して、令旨の御使に東国へぞ下りける。

 

同四月廿八日、都をたって近江国よりはじめて、美濃、尾張の源氏共に次第にふれてゆくほどに、五月十日、伊豆の北条にくだりつき、流人前兵衛佐殿に令旨奉り、信太三郎先生義憲は、兄なればとらせんとて、常陸国信太浮島へくだる。木曾冠者義仲は、甥なればたばんとて、東山道へぞおもむきける。

 

其比の熊野別当湛増は、平家に心ざしふかかりけるが、何としてかもれきいたりけん、「新宮十郎義盛こそ高倉宮の令旨給はって、美濃、尾張の源氏ども、ふれもよほし、既に謀反をおこすなれ。那智新宮の者共は、さだめて源氏の方人をぞせんずらん。湛増は、平家の御恩を天山とかうむったれば、いかでか背き奉るべき。那智新宮の者共に、矢一つ射かけて、平家へ子細を申さん」とて、ひた甲一千人、新宮の湊へ発向す。

 

新宮には、鳥井の法眼、高坊の法眼、侍には、宇井、鈴木、水屋、亀甲、那知には、執行法眼以下、都合其勢二千余人なり。時つくり矢合して、源氏の方にはとこそ射れ、平家の方にはかうこそ射れとて、矢さけびの声の退転もなく、鏑なりやむひまもなく、三日がほどこそたたかうたれ。熊野別当湛増、家子郎等おほくうたせ、我身手おひ、からき命をいきつつ、本宮へこそにげのぼりけれ。

 

 

 

意訳

 

その頃、後白河院の第二王子・以仁王と申す方は、御母が加賀大納言季成卿の御娘である。三条高倉に住まわれたので、高倉の宮と申された。

 

去る永万元年(1165)1216日、御年15にして、人目を忍ぶように近衛河原の大宮の御所にて、御元服された。達筆で書を美しく認め、学問にも優れていて、位にもおつきになるべきであったが、故建春門院の妬みのために押し込められ過ごされていた。花のもとの春の遊びには筆をふるわれて自作の詞歌を書き、月の前の秋の宴では自ら玉笛を吹かれて雅な音を奏でられる。このように明かし暮らしているうちに、月日は過ぎ、治承4(1180)には御年30になられていた。

 

その頃、近衛河原に住んでいた源三位入道頼政(1104頃~1180)が、ある夜、秘かに高倉宮の御所に参り申されたことは、大変に重大なことであった。

 

「君(高倉宮)は天照大神以来48世の御末であられ、神武天皇より78代にあたられております。太子ともなり、皇位にもつかれるべきが、30まで宮のままで過ごされたことは残念なことではありませんか。今の世の有り様を見ますと、うわべでは平家に従っているようでいて、内心では平家を憎まない者がいるでしょうか。御謀反を起こされて、平家を滅ぼし、法皇が何時までと先も見えずに、鳥羽殿に押し込められている御心を安めまいらせて、君(高倉宮)も皇位につかれるべきです。これ、御孝行のいたりというものでありましょう。もし、私の申し上げたことがお心にかない立ち上がられ、令旨をお下しいただければ、喜び馳せ参ずる源氏は多くいるでありましょう」といい、話し続けた。

 

「まず京都には、出羽前司光信の子・伊賀守光基、出羽判官光長、出羽蔵人光重、出羽冠者光能がいます。熊野には、故六条判官為義の末の子が、十郎義盛といって隠れ暮らしています。摂津国には、多田蔵人行綱がいますが、新大納言成親卿の謀反の時、一旦は同心しながら返り忠して平家に密告、裏切った人物ですから、申すまでのことはありません。ですが、その弟、多田二郎朝実、手島の冠者高頼、太田太郎頼基がいます。

 

河内国には、武蔵権守入道義基、子息石河判官代義兼、大和国には、宇野七郎親治の子・太郎有治、二郎清治、三郎成治、四郎義治、近江国には、山本、柏木、錦古里、美濃・尾張には、山田次郎重広、河辺太郎重直、泉太郎重光、浦野四郎重遠、安食次郎重頼、その子の太郎重資、木太三郎重長、開田判官代重国、矢島先生重高、その子の太郎重行、甲斐国には、逸見冠者義清、その子の太郎清光、武田太郎信義、加賀見二郎遠光、同じく小次郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎義定、信濃国には、大内太郎維義、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、その子の四郎義信、故帯刀先生義賢の次男、木曾冠者義仲、伊豆国には、流人の前右兵衛佐頼朝、常陸国には、信太三郎先生義憲、佐竹冠者正義、その子の太郎忠義、同じく三郎義宗、四郎高義、五郎義季、陸奥国には、故左馬頭義朝の末の子・九郎冠者義経がいます。

 

これらは皆、六孫王経基の子孫、多田新発満仲の子孫です。朝敵を平らげ、宿望を遂げたことは源平いずれとも勝劣はなかったのですが、今は雲泥の差となり交わることがありません。主従の関係よりも差が開いているほどです。国では国司に従い、荘園にあっては預り所に使われて公事雑事に駆り立てられ、心安らぐ時がありません。各地の源氏の無念さは、いかばかりでありましょう。君がもし、立たれて令旨を下されるならば、源氏の軍勢は夜を日についで京へと馳せのぼり、平家を滅ぼすのに日数は要しません。入道(源頼政)も年をとってはいますが、我が子共々、馳せ参じましょう」と申した。高倉宮は、この事はどうしたものだろうかと、しばし、承知されることはなかった。

 

そんな時、阿古丸大納言宗通卿の孫で、備後前司季通の子、少納言伊長と申す者がいた。彼は勝れた人相見で、当時の人々は相少納言と呼ぶほどであった。その人が高倉宮を見て、「皇位につかれるべき人相であられます。天下の事への思いを手放されるべきではありません」と申した上、源三位入道も同じことを申したので、「さては、然るべきことなのであろう。これは天照大神の御告であろうか」と思い、打倒平家を決断した。高倉宮は、感づかれないように、水面下で計画を練られたのである。

 

まず、熊野に隠れていた十郎義盛を呼び寄せて、八条院の蔵人に補任された。義盛は行家と改名し、令旨の御使として東国へと下っていった。

 

同年(治承4年・1180)428日、行家は都を発って近江国より始め、美濃、尾張の源氏共に次第に触れていくうちに、510日、伊豆の北条に下り着き、流人として暮らしていた前兵衛佐殿(源頼朝)に令旨をさしあげた。  

 

それから、信太三郎先生義憲(?~1184)は兄であるからということで、常陸国信太浮島へと下った。続いて、木曾冠者義仲(11541184)は甥なので令旨を与えようと、東山道へと赴いた。

 

その頃、熊野別当家の湛増は平家に心を深く寄せていたのだが、どのようにして聞き及んだものだろうか。

 

「新宮十郎義盛(行家)は高倉宮の令旨を賜って、美濃、尾張の源氏共に触れ回し、既に謀反を起こしたようだ。那智・新宮の大衆は、必ずや源氏の味方をすることだろう。湛増は平家の御恩をこうむること、天高く、山ほどであり、どうして背くことができるだろうか。那智・新宮の者共に矢の一つでも射かけて、謀反の詳細を平家へお伝えしよう」といって、鎧を身にまとった一千人が新宮の湊へ向け出陣した。

 

新宮には鳥井の法眼、高坊の法眼、侍では、宇井、鈴木、水屋、亀甲。那知には執行法眼以下の大衆で、軍勢は合わせて二千余人となる。鬨をつくり、矢合わせをして、源氏の方ではこう射れ、平家の方ではこう射れといって、矢叫びの声が衰えることもなく、鏑矢が鳴り止む暇もなく、3日程も戦ったのである。結果、熊野別当湛増側は家子・郎等が多く討たれ、湛増も傷を負い、なんとか命拾いをして本宮へと逃げ帰った。 

 

                      京都 御所
                      京都 御所

 

「巻第十 熊野参詣」

 

寿永3(1184)2月、一ノ谷の戦い前後に逃亡した平維盛(たいらのこれもり・平清盛の嫡孫、平重盛の嫡男)は高野山で出家した後、熊野三山に参詣。その模様を、「平家物語」は次のように描写している。

 

 

 

やうやうさし給ふ程に、日数ふれば岩田河にもかかり給ひけり。「此河の流れを一度もわたる者は、悪業煩悩、無始の罪障消ゆなる物を」と、たのもしうぞおぼしける。本宮に参りつき、証誠殿の御まへについ居給ひつつ、しばらく法施参らせて、御山のやうををがみ給ふに、心も詞もおよばれず。大悲擁護の霞は熊野山にたなびき、霊験無双の神明は、音無河に跡をたる。一乗修行の岸には感応の月くまもなく、六根懺悔の庭には、妄想の露もむすばず。いづれもいづれもたのもしからずといふ事なし。

 

夜更け人しづまって、啓白し給ふに、父のおとどの此御前にて、「命を召して後世をたすけ給へ」と申されける事までも、思食し出でて哀れなり。「当山権現は本地阿弥陀如来にてまします。摂取不捨の本願あやまたず、浄土へ引導き給へ」と申されける中にも「ふる郷にとどめおきし妻子安穏に」といのられけるこそかなしけれ。うき世を厭ひ、まことの道に入り給へども、妄執はなほつきずと覚えて、哀れなりし事共なり。

 

明けぬれば、本宮より船に乗り、新宮へぞ参られける。神蔵ををがみ給ふに、巌松たかくそびえて、嵐妄想の夢を破り、流水きよくながれて、浪塵埃の垢をすすぐらむとも覚えたり。

 

明日社ふしをがみ、佐野の松原さし過ぎて、那知の御山に参り給ふ。三重に漲りおつる滝の水、数千丈までよぢのぼり、観音の霊像は岩の上にあらはれて、補陀落山共いっつべし。霞の底には法花読誦の声きこゆ、霊鷲山とも申しつべし。抑権現当山に跡を垂れさせましましてより以来、我朝の貴賎上下歩をはこび、かうべをかたむけ、掌をあはせて、利生にあづからずといふ事なし。僧侶されば甍をならべ、道俗袖をつらねたり。寛和の夏の比、花山の法皇十善の帝位をのがれさせ給ひて、九品の浄刹をおこなはせ給ひけん、御庵室の旧跡には、昔をしのぶとおぼしくて、老木の桜ぞ咲きにける。

 

那智籠の僧共の中に、此三位中将をよくよく見知り奉ったるとおぼしくて、同行にかたりけるは、

 

「ここなる修行者をいかなる人やらむと思ひたれば、小松の大臣殿の御嫡子、三位中将殿にておはしけるぞや。あの殿の未だ四位少将と聞え給ひし安元の春の比、法住寺殿にて五十の御賀のありしに、父小松殿は内大臣の左大将にてまします。伯父宗盛卿は大納言の右大将にて、階下に着座せられたり。其外三位中将知盛、頭中将重衡以下一門の人々、今日を晴とときめき給ひて、垣代に立ち給ひし中より、此三位中将、桜の花をかざして青海波を舞うて出でられたりしかば、露に媚びたる花の御姿、風に翻る舞の袖、地をてらし天もかかやくばかりなり。女院より関白殿を御使にて御衣をかけられしかば、父の大臣座を立ち、是を給はって右の肩にかけ、院を拝し奉り給ふ。面目たぐひすくなうぞ見えし。かたへの殿上人、いかばかりうらやましう思はれけむ。内裏の女房達の中には、『深山木のなかの桜梅とこそおぼゆれ』なんどいはれ給ひし人ぞかし。唯今大臣の大将待ちかけ給へる人とこそ見奉りしに、今日はかくやつれはて給へる御有様、かねては思ひもよらざっしをや。うつればかはる世のならひとはいひながら、哀れなる御事哉」

 

とて、袖をかほにおしあてて、さめざめと泣きければ、いくらもなみゐたりける那知籠の僧共も、みな打衣の袖をぞぬらしける。

 

 

 

意訳

 

維盛一行は歩みを進めるうちに日数も重なり、岩田河へとさしかかった。

 

川の流れを見ていると、「この川の流れを一度でも渡る者は、悪業・煩悩、無始以来の罪障が消えるのであろう」と、頼もしく思われる。

 

一行は本宮に参詣し、証誠殿の御前で端座して長い読経を捧げ、お山の様を眺めていると、心にも言葉にも尽くせぬ有りがたいものに感じられた。神仏の衆生擁護の大慈悲は霞のように熊野山にたなびき、並ぶことなき霊験あらたかな神明は音無河の宮に垂迹されている。法華経を修行するこの地では神仏の感応は月の輝きのように遍く、六根より起こる罪を懺悔するこの庭では妄想が露ほども生じない。証誠殿で祈念をするうちに浄土への往生は確かなものとなり、どうして頼もしくないということがあろうか。

 

夜が更けて人も寝静まる中、維盛は一人神仏に申し上げているうちに、父の重盛がこの御前にて、「命を召して後世をお助けください」と申されたことを思い出して感無量であった。「熊野本宮の権現は、本地・阿弥陀如来でいらっしゃる。衆生の願いを聞き入れて、浄土へお導きくださるという本願は誤つことはない。どうか我を浄土へと導きください」と申される中でも、「故郷に残してきた妻子が安穏でありますように」と祈ったのは悲しいことである。浮世を厭い仏の道に入っても、妻子を思う執着は尽きないようで、哀れなことであった。

 

夜が明けて、本宮から船に乗り新宮に参詣した。神蔵を参拝すると、岩の上に根を張った松が高くそびえており、吹く風は、はかない夢を持ち去り、流水は清く、波立つ流れは娑婆の塵、ほこりの垢をすすいでいるようだ。

 

維盛らは明日社(飛鳥神社)を伏し拝み、佐野の松原を通って那知のお山に参詣された。三重に漲り落ちる滝の水は数千丈の高さまでよじ登っているよう、観音の霊像は山の岩の上に現れ、補陀落山ともいうところ。霞がたなびく底よりは法華経読誦の声が聞こえ、那智山は釈迦如来のおられる霊鷲山ともいうべきである。

 

そもそも権現が那智山に跡を垂れ鎮座されてより、我が朝の貴賎上下は足を運び、礼拝・合掌して、利益にあずからない人はいなかった。故に僧侶は多くの坊舎を建て、出家も在家も袖を連ねるように参詣した。

 

寛和2(986)の夏の頃、花山法皇は天子の位を譲られて出家。那智に来られて、九品の浄土への往生を願われ修行されている。法皇の御庵室の旧跡には、昔を偲ぶように老木の桜が咲いている。

 

那智に参籠する僧の中には、三位中将(平維盛)をよく見知っている者がいるようで、同行者に語るには、

 

「ここにいらっしゃる修行者はどのようなお方だろうかと思えば、小松の大臣殿(平重盛)の御嫡子、三位中将殿でありませんか。あの殿が、まだ四位少将だった安元2(1176)の春の頃、法住寺殿で後白河院の五十の御賀が行われた時、父の小松殿は内大臣兼左大将であられた。叔父の宗盛卿は大納言兼右大将で、階下に着座されていた。そのほかに、三位中将知盛、頭中将重衡以下、平家一門の人々は今が盛りと晴れやかで、垣代に立っておられた。

 

その中より、この三位中将が、桜の花を頭にかざして青海波を舞いながら出てこられ、露に媚びた花のような御姿といい、舞うごとに袖が風に翻る様といい、その姿は地を照らし天も輝くばかりであった。

 

女院より、関白殿を御使にして御衣を賜ったので、父の大臣が座を立ち、衣を頂戴して右の肩にかけ、後白河院を拝し奉る。周囲の者は、この上もない面目であろうと見ていて、傍らにいた殿上人はいかばかり羨ましく思ったことだろうか。

 

内裏の女房達の中には、『あの舞いの美しさは、深山木の中の桜梅をみるようです』とまで言われた人だ。今すぐにでも、大臣兼左大将の位につかれる人だと拝見奉っていたのに、今日のやつれ疲れはてたお姿、昔を知る人には思いもよらない。移れば変わる世の習いとはいいながら、哀れなことではないか」と言い、袖を顔に押しあてて、さめざめと泣いたので、周囲の多くの那知参籠僧達も、皆、衣の袖を涙で濡らしていた。

 

 

 

以上、平家物語全体からすればごく一部の引用だが、それでも長いものとなってしまった。

 

 

 

本宮の岩田河は「一度でも渡る者は悪業・煩悩、無始以来の罪障が消える」と信じられ、本宮・証誠殿には阿弥陀如来が垂迹し、そこで祈念する者は神仏の衆生擁護の大慈悲に包まれる。法華経を修行する本宮では、神仏の感応は月光遍しの如く、六根懺悔により妄想は消滅する。参詣する人には、証誠殿は極楽浄土への入り口であった。

 

新宮は薬師如来の瑠璃光浄土で、近くの神蔵に吹く風は妄想の夢を吹き消し、水の流れに娑婆の塵、ほこりの垢はすすがれる。

 

熊野牟須美神(本地・千手観音)を主神とし如意輪観音を祀る那智山は、観音菩薩の補陀落浄土であり法華経読誦の声が聞こえ、さながら霊鷲山のよう。そこには貴紳衆庶、僧俗、身分を問わずに多くの参詣者があり、山には僧坊が連なっている。このような平家物語の記述は、平安後期の熊野三山の宗教的位置付けと、それがいかに喧伝されていたかを端的に示すものではないだろうか。

 

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