1260年・正元2年(4月13日改元)・文応元年 庚申(かのえさる) 39歳

亀山天皇

 

北条長時

 

14

朝廷 園城寺の三摩耶戒壇を認可

(吾妻鏡・一代要記・百錬抄・武家年代記・五代帝王物語・続史愚抄)

五代帝王物語

「さて三井寺に戒壇を立べきよし訴申せども、昔より沙汰ありて許されざりしを、三昧耶戒にて法臈を定むべきよし宣下せられたりしかば、山門の衆徒蜂起して、日吉の神輿を陣頭まで振奉りて、嗷々に訴申によりてやがて召かへされぬ。中々面目なくぞ侍し。代々勅裁なかりし事を、適聖断ありて程なく召返さるる、定て様こそ侍つらめ。このなごり猶静りやらず」

 

 

16

延暦寺衆徒 園城寺戒壇の認可に対して強訴

続史愚抄[柳原紀光著、1746年・延享3年~1800年・寛政12年、江戸時代の公卿・歴史家]

「早旦、日吉神輿入洛す。富小路皇居陣頭(西門下と云う)に八王子・客人等二基、一院仙洞(万里小路殿西門)に北野二基、新院仙洞(三條坊門)に京極寺一基を棄て置く。僧徒退散す。因って天台座主無品尊助法親王に仰せ、祇園社に陣頭の日吉神輿三基・本社に北野神輿を遷し入れらる」

 

 

119

朝廷 園城寺戒壇の勅許を撤回

続史愚抄

「延暦寺の欝訴に依って、園城寺三摩那戒壇の官符を召し返さるべく宣下す(口宣)。上卿権大納言(師継)、奉行蔵人治部大輔経業。また一院より山門に院宣を賜う。奉行院司経業院宣を書き下す」

 

 

2月上旬

書を著す

「災難興起由来(さいなんこうきゆらい)

(1-20P158、創新24P441、校1-23P189、新P187)

真蹟10紙断・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

縮二続122

*昭和定本・創価学会新版「正元22月上旬」

*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(19131914年 神保弁静編)

災難興起由来

 

 

2

書を著す

「災難対治抄」

(1-21P163、創新25P448、校1-24P194、全P78、新P191)

真蹟15紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

日朝本

録内23-50 遺6-4 縮299

*平成校定「災難対治抄(息災勘文抄)

 

*日蓮は建長88月には鎌倉に来ていたものか

疑って云はく、今此の国土を見聞するに種々の災難起こる。所謂建長八年八月より正元二年二月に至るまで、大地震・非時の大風・大飢饉・大疫病等種々の災難連々として今に絶えず、大体国土の人数尽くべきに似たり。之に依って種々の祈請を致す人之多しと雖も其の験(しるし)無きか。

 

*日蓮は法然浄土教の活発化による大乗仏教衰退を嘆く。

今之を勘ふるに、日本国中の上下万人深く法然上人を信じ此の書を弄(もてあそ)ぶ。故に無智の道俗此の書の中の捨閉閣抛等の字を見て、浄土の三部経・阿弥陀仏より外の諸経・諸仏・菩薩・諸天善神等に於て捨閉閣抛等の思ひを作し、彼の仏経等に於て供養受持等の志を起こさず、還って捨離の心を生ずる故に、古(いにしえ)の諸大師等の建立する所の鎮護国家の道場、零落(れいらく)せしむと雖も護惜建立の心無し。護惜建立の心無き故に亦読誦供養の音(こえ)絶へ、守護の善神法味を嘗()めざる故に国を捨てゝ去り、四依の聖人も来たらざるなり。偏に金光明・仁王等の「一切の聖人去る時は七難必ず起こらん」「我等四王皆悉く捨去(しゃこ)せん、既に捨離し已()はれば其の国当(まさ)に種々の災禍有るべし」の文に当たれり。豈「諸の悪比丘多く名利を求め悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲」の人に非ずや。

 

 

421

書を著す

「十法界明因果抄(じっぽうかいみょういんがしょう)

(P1-22P171、創新26P460、校1-26P209、全P427、新P205)

日進本・身延山蔵

日朝本

録内16-20 遺6-12 縮309

< 系年 >

昭和定本「文応元年4月、或は正元元年(御書新目録 日奥師編)

創価学会新版「文応元年421日」

*平成校定「十法界明因果抄(十界明因果抄)

 

 

429

鎌倉大火

吾妻鏡

「丑尅、鎌倉中大焼亡、自長樂寺前至龜谷人屋〈云云〉」

丑の刻鎌倉中大焼亡。長楽寺前より亀谷の人屋に至る。

 

 

511

宗性 「弥勒感応抄」を著す

 

 

528

書を著す

「唱法華題目抄」

(1-23P184、創新1P1、校1-27P222、全P1、新P217)

鎌倉 名越

日朝本 平23

録内11-19 遺6-24 縮322

 

*神奈川・某家他蔵真蹟「南条兵衛七郎殿御書」(213行、1264年・文永元年1213)の行間に日興筆の「唱法華題目抄」一部分の書写あり。

 

 

*三類の強敵

問うて云はく、其の証拠如何。

答へて云はく、法華経勧持品に云はく「諸の無智の人、悪口罵詈(めり)等し及び刀杖(とうじょう)を加ふる者有らん。我等皆当(まさ)に忍ぶべし」文。

妙楽大師此の文の心を釈して云はく「初めの一行は通じて邪人を明かす。即ち俗衆なり」文。文の心は此の一行は在家の俗男俗女が権教の比丘等にかたらはれて敵(あだ)をすべしとなり。

経に云はく「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲(てんごく)に、未だ得ざるを為()れ得たりと謂(おも)ひ我慢の心充満せん」文。

妙楽大師此の文の心を釈して云はく「次の一行は道門増上慢の者を明かす」文。文の心は悪世末法の権教の諸の比丘、我(われ)法を得たりと慢じて法華経を行ずるものゝ敵(あだ)となるべしといふ事なり。

経に云はく「或は阿練若(あれんにゃ)に納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在って自ら真の道を行ずと謂(おも)ひて人間を軽賎(きょうせん)するもの有らん。利養に貪著(とんじゃく)するが故に白衣(びゃくえ)の与(ため)に法を説き、世に恭敬(くぎょう)せらるゝこと六通の羅漢の如くならん。是の人悪心を懐(いだ)き、常に世俗の事を念(おも)ひ、名を阿練若に仮りて好んで我等が過(とが)を出ださん。而も是くの如き言(ことば)を作()さん、此の諸の比丘等は利養を貪るを為(もっ)ての故に外道の論議を説き、自ら此の経典を作りて世間の人を誑惑(おうわく)す。名聞を求むるを為(もっ)ての故に分別して是の経を説く。常に大衆の中に在りて我等を毀(そし)らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向かって、誹謗して我が悪を説いて是邪見の人、外道の論議を説くと謂()はん」已上。

大師此の文を釈して云はく「三に七行は僭聖増上慢の者を明かす」文。

経並びに釈の心は、悪世の中に多くの比丘有って身には三衣()一鉢(ぱち)を帯し、阿練若(あれんにゃ)に居()して、行儀は大迦葉等の三明(みょう)六通(つう)の羅漢のごとく、在家の諸人にあふ()がれて、一言を吐けば如来の金言のごとくをもはれて、法華経を行ずる人をいゐやぶらんがために、国王大臣等に向かひ奉りて、此の人は邪見の者なり、法門は邪法なりなんどいゐうと()むるなり。

上の三人の中に、第一の俗衆の毀(そし)りよりも、第二の邪智の比丘の毀は猶(なお)しの()びがたし。又第二の比丘よりも、第三の大衣の阿練若の僧は甚(はなはだ)し。

中略

故に悪鬼此の三人に入って末代の諸人を損じ国土をも破るなり。

故に経文に云はく「濁劫悪世の中には多く諸の恐怖(くふ)有らん、悪鬼其の身に入って我を罵詈(めり)し毀辱(きにく)せん、乃至仏の方便随宜(ずいぎ)所説の法を知らず」文。

文の心は濁悪世の時、比丘、我が信ずる所の教は仏の方便随宜の法門ともしらずして、権実を弁へたる人出来すれば、罵()り破()しなんどすべし。是偏(ひとえ)に悪鬼の身に入りたるをしらずと云ふなり。

 

 

*悪知識

されば末代の愚人(ぐにん)の恐るべき事は、刀杖(とうじょう)・虎狼(ころう)・十悪・五逆等よりも、三衣一鉢を帯せる暗禅の比丘と並びに権教の比丘を貴しと見て実教の人をにくまん俗侶等なり。

故に涅槃経二十二に云はく「悪象等に於ては心に恐怖すること無かれ。悪知識に於ては怖畏(ふい)の心を生ぜよ。何を以ての故に、是の悪象等は唯能()く身を壊(やぶ)りて心を壊ること能(あた)はず。悪知識は二倶(とも)に壊るが故に。乃至悪象の為に殺されては三趣(しゅ)に至らず、悪友の為に殺されては必ず三趣に至らん」文。

此の文の心を章安大師宣べて云はく「諸の悪象等は但是悪縁にして人に悪心を生ぜしむること能はず、悪知識は甘談詐媚(かんだんさび)・巧言令色(こうげんれいしょく)もて人を牽()いて悪を作()さしむ。悪を作すを以ての故に人の善心を破る。之を名づけて殺と為す、即ち地獄に堕()す」文。

文の心は、悪知識と申すは甘くかたらひ詐(いつわ)り媚()び言(ことば)を巧(たく)みにして愚癡(ぐち)の人の心を取って善心を破るといふ事なり。総じて涅槃経の心は、十悪・五逆の者よりも謗法・闡提(せんだい)のものをおそ()るべしと誡(いまし)めたり。闡提の人と申すは法華経・涅槃経を云ひうとむる者と見えたり。

 

 

法華経を師匠と

問うて云はく、若しかやうに疑ひ候はゞ、我が身は愚者にて侍り、万(よろず)の智者の御語をば疑ひ、さて信ずる方も無くして空しく一期()過ごし侍るべきにや。

答へて云はく、仏の遺言に依法不依人と説かせ給ひて候へば、経の如くに説かざるをば、何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か。又依了義経・不依不了義経と説かれて候へば、愚癡の身にして一代聖教の前後浅深を弁(わきま)へざらん程は了義経に付かせ給ひ候へ。了義経・不了義経も多く候。

阿含小乗経は不了義経、華厳・方等・般若・浄土の観経等は了義経。又四十余年の諸経を法華経に対すれば不了義経、法華経は了義経。涅槃経を法華経に対すれば、法華経は了義経、涅槃経は不了義経。大日経を法華経に対すれば、大日経は不了義経、法華経は了義経なり。

故に四十余年の諸経並びに涅槃経を打ち捨てさせ給ひて、法華経を師匠と御憑(たの)み候へ。法華経をば国王・父母・日月・大海・須弥山(しゅみせん)・天地の如くおぼしめせ。

諸経をば関白・大臣・公卿(くぎょう)・乃至万民・衆星・江河・諸山・草木等の如くおぼしめすべし。我等が身は末代造悪の愚者・鈍者・非法器の者、国王は臣下よりも人をたすくる人、父母は他人よりも子をあはれむ者、日月は衆星より暗(やみ)を照らす者、法華経は機に叶はずんば況んや余経は助け難しとおぼしめせ。

 

 

*本尊

問うて云はく、法華経を信ぜん人は本尊並びに行儀並びに常の所行は何にてか候べき。

答へて云はく、第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師(ほっし)品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし。

行儀は本尊の御前にて必ず坐立(ざりゅう)行なるべし。道場を出でては行住坐臥(ぎょうじゅうざが)をゑらぶべからず。常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱ふべし。たへたらん人は一偈一句をも読み奉るべし。助縁(じょえん)には南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸菩薩・二乗・天人・竜神・八部等心に随ふべし。愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず、其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。

 

 

*通力

疑って云はく、唐土の人師の中に慈恩大師は十一面観音の化身、牙(きば)より光を放つ。善導和尚は弥陀の化身、口より仏をいだす。この外の人師、通を現じ徳をほどこし三昧を発得(ほっとく)する人世に多し。なんぞ権実二経を弁(わきま)へて法華経を詮(せん)とせざるや。

答へて云はく、阿竭多(あかだ)仙人外道は十二年の間耳の中に恒河(ごうが)の水をとゞむ。婆籔(ばそ)仙人は自在天となりて三目を現ず。唐土の道士の中にも張階(ちょうかい)は霧(きり)をいだし、鸞巴(らんば)は雲をはく。第六天の魔王は仏滅後に比丘・比丘尼・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)・阿羅漢・辟支仏(びゃくしぶつ)の形を現じて四十余年の経を説くべしと見えたり。通力をもて智者愚者をばしるべからざるか。唯仏の遺言の如く、一向に権経を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は、権経に宿習(しゅくじゅう)ありて実経に入らざらん者は、或は魔にたぼらかされて通を現ずるか。但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず。

 

⇒「本尊」について

法師品・神力品の「経巻安置」を依文として「法華経一部八巻・題目」を本尊とし、機根に応じて耐えうる上根の者には「法華経・題目」の両脇に「釈迦如来・多宝仏」「十方の諸仏・普賢菩薩等」の木像・画像の安置を説示したものであり、当時の日蓮とその弟子檀越が「法華経・題目」を主体として木像・画像の安置も行っていたことがうかがわれる。

 

 

64

幕府 重罪者は関東に押送、軽罪者は六波羅にての即決を命ず(吾妻鏡)

 

 

612

幕府 諸国寺社に疾疫対治の祈祷を命ず

吾妻鏡

「爲人處疾疫對治、可致祈祷之由、今日被仰諸國守護人〈云云〉。其御教書云、

諸國寺社大般若經轉讀事。

爲國土安隱疾病對治。於諸國寺社、可被轉讀大般若經最勝仁王經等也。早仰其國寺社之住僧、致精誠、可轉讀之由、可令相觸地頭等也。只於地行所者、同可令下知之状、依仰執達如件

文應元年六月十二日 武藏守 相摸守

某殿」

 

人庶疾病退治の為、祈祷を致すべきの由、今日諸国守護人に仰せらると。その御教書に云く、

諸国の寺社大般若経転読の事

国土安穏・疾病退治の為、諸国の寺社に於いて大般若経・最勝仁王経等を転読せらるべきなり。早くその国寺社の住僧に仰せ、精誠を致し転読すべきの由、地頭等に相触れしむべきなり。且つは知行所に於いては、堅固に下知せしむべきの状、仰せに依って執達件の如し。

文應元年六月十二日 武蔵の守 相模の守

某殿

 

                      
                      

 716

日蓮 「立正安国論」を前執権・北条時頼に進覧〔第1回国諫〕

「立正安国論」

(14-24P209P3035、創新2P24、校1-28P247、全P17、新P234)

北条時頼

・真蹟36紙完(但第24紙欠)・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

20紙完身延山久遠寺曽存、17紙各所散在

・日興本・静岡県富士宮市上条 大石寺、静岡県三島市玉沢 妙法華寺蔵

・日進本・神奈川県鎌倉市大町 比企谷妙本寺蔵

・日朝本 平1

録内1-1 遺7-1 縮373

 

< 断片所蔵 >

141行、171行・京都府京都市山科区御陵大岩 本圀寺

141行、101行、151行、503行・京都府京都市上京区新町通鞍馬口下ル下清蔵口町 妙覚寺

9字・新潟県上越市寺町 長遠寺

141行・長崎県大村市古町 本経寺

151行・新潟県三条市西本成寺 本成寺

151行・愛知県名古屋市中区大須 聖運寺

734行・千葉県香取郡多古町南中 ()妙興寺

13字、152行、19字、16字、153行・京都府京都市上京区寺町通今出川上ル二丁目鶴山町 本満寺

161行・京都府宮津市日ケ谷 円教寺

171行・福井県鯖江市平井町 平等会寺

131行・某所

15字、142行・千葉県千葉市緑区土気町 善勝寺

*「建治の広本」京都府京都市山科区御陵大岩 本圀寺蔵

 

*四六駢儷体(しろくべんれいたい)で綴られていることについて

「法華仏教研究」9号 山中講一郎氏の論考「『立正安国論』の文体」、10()

「法華仏教研究」11号 山中講一郎氏の論考「『立正安国論』の文体() 『賢愚の論理』とその止揚」

 

*菅原関道氏の論考「保田妙本寺蔵の日澄筆『日蓮遺文等抄録』」(興風14P175)

「保田妙本寺の『遺文抄録』と富士大石寺の『立正安国論』写本を、日澄筆と推定して良いのではないかと思う」

 

*日蓮と諸天善神について~「法華仏教研究」7号 川口日空氏の論考「日蓮伝再考」

 

*「法華仏教研究」3号 山中講一郎氏の論考「『立正安国論』はいかに読まれるべきか 文体と用字についての一考察」

 

*日蓮が提出した立正安国論原本の行方

中山の日祐は立正安国論を鎌倉の普恩寺(北条一族が創建した律宗寺院)で書写しており、日蓮が提出したものが同寺に伝来していたものか。

「法華仏教研究」6号 坂井法曄氏の論考「日蓮と鎌倉政権ノート」参照

 

*立正安国論に関する論考

・「法華仏教研究」5号 星光喩氏「『立正安国論』に学ぶ」

・「法華仏教研究」6号 山中講一郎氏「『立正安国論』にみる平和への視点」

・「法華仏教研究」17号 座談会「現代に『立正安国論』を問う」

・「法華仏教研究」18号 都守基一氏「『立正安国論』の再確認」

・「法華仏教研究」22号 川﨑弘志氏の論考「日蓮聖人の生涯と遺文の考察()

・日蓮「立正安国論」全訳注 佐藤弘夫氏 (2008年 講談社)

 

「立正安国論」をめぐって

「立正安国論」当時の日蓮は爾前権教を肯定していたのか? 

 

 

717

宗性 東大寺別当に補任される(東大寺別当次第・東大寺要録)

 

 

85

諸国大雨

吾妻鏡

「申尅甚雨大風。人屋多以破損戌尅、風休。地震」

甚雨、申の刻大風 人屋多く以て破損す。戌の刻風休む。地震

 

 

827

鎌倉の草庵を暴徒に襲撃される、日時については伝承

 

「破良観等御書」建治2年 延山録外

きり()もの()どもよりあひて、まちうど(町人)等をかたらひて、数万人の者をもって、夜中にをしよせ失はんとせしほどに、十羅刹の御計らひにてやありけん、日蓮其の難を脱れしかば、両国の吏心(りこころ)をあ()はせたる事なれば、殺されぬをとが()にして伊豆の国へながされぬ。最明寺殿計りこそ子細あるかとをもわれて、いそ()ぎゆる()されぬ。

 

⇒襲撃の年月日について、「元祖化導記」「日蓮聖人註画讃」には記されず。1685年・貞享2年の「法華霊場記」冠部「蓮公行状」に日付けを記すのが初出か。

故に、827日草庵襲撃については、検討を要する。

 

 

11

醍醐寺 諸堂焼失(続史愚抄)

  

 

この年 

 

日蓮 下総国富木邸にて百座説法と伝う(山城新編法華霊場記)

⇒御書にはなく後世の伝承か

 

 

兀庵普寧(ごったんふねい)宋より来日(聖一国師年譜・建長寺年代記)

 

 

比企大学三郎・大田乗明・曾谷教信・秋元太郎等入信と伝う

(本化別頭仏祖統記・日蓮宗年表・富士年表)

 

 

日目 伊豆国仁田郡畠郷に誕生と伝う

*「家中抄」(富要513)

日目上人御伝土代

右上人は八十九代当今御宇文応元年かのへさる御誕生なり、胎内に処する一十二ケ月上宮太子の如し、豆州仁田郡畠郷の人なり、族姓は藤氏、御堂関白道長廟音行、下野の国小野寺十郎道房の孫、奥州新田太郎重房の嫡子五郎重綱の五男なり、母方は南条兵衛入道行増の孫子なり。

 

 

 

この年大疫病

◇「安国論御勘由来」文永545日 真蹟 延山録外

同二年庚申(かのえさる)四季に亘りて大疫已まず。万民既に大半に超えて死を招き了んぬ

 

【 系年、正元2年・文応元年と推定される書 】

 

 

図録を著す

「像法決疑経等要文」

(3図録8P2273)

真蹟13(但し、定NO20「災難興起由来」裏書)・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

縮二続125(災難興起由来続載)

*校1-23P193「災難興起由来」

「第10紙後半~第12紙及第11紙裏~第2紙裏に像法決疑経等要文あり」

 

 

図録を著す

「今此三界合文」

(3図録10P2288、校3図録8P2381、新P251)

日朝本 満下262 宝12 真蹟なし

録外16-9 遺7-23 縮399

 

 

図録を著す

「後五百歳合文」

(3図録11P2293、校3図録9P2386、新P255)

日朝本 平24 真蹟なし

録内27-35 遺7-26 縮404

 

 

図録を著す

「日本真言宗事」

(3図録12P2296、校3図録10P2390、新P258)

満下139 宝3 真蹟なし

録外6-35 遺7-29 縮407

 

 

「秘書要文」

133紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

大部分、他筆により記入される

中間と末尾二箇所に真蹟書き入れがある

修学時代のメモ書きか

 

 

要文抄録

「玄義要文」

真蹟18紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

法華玄義第三、同釈籖第三の要文を抄録したもの

 

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