日蓮法華信仰の周辺            鎌倉と安房国 清澄寺と虚空蔵信仰

1 鎌倉幕府と安房国

古来より房総と相模を結ぶ水運、往来は活発だったようだが、特に源頼朝の時代以来、その関係は深まっている。治承4(1180)、伊豆国で挙兵した頼朝とその軍勢は、817日に伊豆国目代・山木兼隆を討ち取るも、同月23日、石橋山の戦いで大庭景親らの平家軍に敗れてしまう。頼朝は僅かな従者と共に山中より海路、安房国へと逃れる。829日、安房国猟島(鋸南町竜島)に上陸した頼朝は、安房国在住の源家譜代の家人・安西氏、丸氏に応援を頼み、房総の武将・上総広常と千葉常胤も頼朝に参じて合流。常胤は一族300騎を、広常は一千騎~二万騎の軍勢を率いたといわれ、上総、下総の平氏側勢力と戦い破り、上総氏と千葉氏はその後の鎌倉幕府創業に多大な貢献をするのである。

 

「吾妻鏡」治承四年(1180)九月五日(甲寅)の項によると、源頼朝は須崎神社(社伝では日本の初代天皇・神武天皇の代に創建と伝える)に神田を寄進している。

 

 

洲崎明神に御参有り。宝前に丹祈を凝らし給う。召し遣わす所の健士、悉く帰往せしめば、功田を寄せ神威を賁り奉るべき由、御願書を奉らると。

 

                      房総 須崎神社
                      房総 須崎神社

 

源氏三代が滅亡した後、北条氏は建暦3(1213)5月の「和田合戦(和田義盛の乱)(和田一族滅亡)、宝治元年(1247)6月の「宝治合戦(三浦氏の乱)(三浦一族滅亡)などで相模国、武蔵国の有力御家人を滅ぼし、おさえていくのだが、ここでもその支援をしたのが房総の御家人であり、千葉氏の軍事力だった。

 

このように源氏、北条氏による鎌倉幕府を支えたのが房総地方であり、特に北条氏は、政治的、経済的基盤を固める後背地として、房総の武将とその地を最大限に利用し、また多くの所領を集積していく。その端的な例が北条(金沢)実時(元仁元年・1224~建治2年・1276)で、北総、東京湾岸地域に所領を拡大している。

 

建暦3(1213)5月、和田義盛が滅びた後、六浦荘を支配したのが北条(金沢)実時だった。仁治2(1241)、鎌倉と六浦荘(横浜市金沢区)を結ぶ六浦道が開かれ、以来、六浦荘の六浦港が鎌倉の外港となり、対岸の房総とを結ぶ東京湾海上交通の要衝として発展していく。

 

「吾妻鏡」

仁治元年(1240)1130日 己未 天晴

鎌倉と六浦津との中間、始めて道路に当てらるべきの由議定有り。今日縄を曳き丈尺を打ち、御家人等に配分せらる。明春三月以後造るべきの由仰せ付けらると。前の武州その所処を監臨し給う。中野左衛門の尉時景これを奉行す。泰貞朝臣日次を擇び申すと。

 

仁治2(1241)4月5日 癸亥 霽

六浦道造り始めらる。これ急速の沙汰有るべきの由、去年の冬評議を経らると雖も、新路を始めらるること、大犯土たるの間、明春三月以後造らるべきの旨重ねて治定すと。仍って今日前の武州その所に監臨せしめ給うの間、諸人群集し、各々土石を運ぶと。

 

同年5月14日 辛丑

六浦路造るの事、この間頗る懈緩す。今日前の武州監臨し給う。御乗馬を以て土石を運ばしめ給う。仍って観る者奔営せざると云うこと莫しと。

 

 

宝治元年(1247)6月の「宝治合戦」で三浦氏が滅びて以降、実時の所領は下総国を中心として拡大。文永4(1267)、実時は極楽寺・忍性(良観)の推薦により、下野薬師寺の僧・妙性房審海を開山に招いて、荘内金沢郷に称名寺(横浜市金沢区)を創建する。この称名寺も房総に荘園を有しており、実時・称名寺への房総からの年貢・租税等は東京湾をわたり、六浦港へと届けられたことだろう。

 

                         称名寺
                         称名寺
                    称名寺にある北条実時の像
                    称名寺にある北条実時の像

称名寺への寄進地を列挙してみよう。

(12回日蓮教学研究発表大会での中尾堯氏の論考「中世における中山法華経寺教団の形成」~武州六浦上行寺の成立をめぐって~より。同氏は舟越康寿氏の論考「金沢称名寺寺領の研究」[横浜市立大学紀要20]を参照されている)

 

・初期寄進地

下総下河辺荘下方寺領村々

称名寺敷地

 

・北条(金沢)貞顕(弘安元年・1278~元弘3年・正慶2年・1333)時代の寄進地

信濃国大田庄大倉郷

下総国埴生庄内山口郷及び南栖立村

常陸国北部

下総国東庄内上代郷

上総国周東郡内諸村

因幡国千土師郷

加賀国軽海郡

下総国下方内毛呂郷

上総国土宇郷

天竜川、高野川両橋遠江国天竜川

大石禾観音堂田

 

・金沢氏滅亡前後の寄進地

下総国下河辺庄赤岩郷

信濃国大田郷内石村郷

武蔵国六浦庄内富田郷

 

 

称名寺や、鎌倉の鶴岡八幡宮寺、極楽寺、浄光明寺、円覚寺等、幕府に近い有力寺社が房総に有する寺社領からの年貢、公事はその寺社の経営にあてられるだけではなく、都市・鎌倉の経済を活性化し、潤わしていく。房総と鎌倉のつながりが深まることは、同時に交通事情の発達、充実をもたらし、東京湾の海路は経済活動の動脈となり、行きかう船は年貢・公事をはじめ、文化人、宗教者、技術者らを運ぶのである。特に宗教面では清澄寺に見られるように、地方の一寺院でありながら京都などからの経典類が届けられ、学問は進展し、山林修行などは活発になり、諸国回遊の僧・聖の往来は房総各地の宗教地図を塗り替えていくようになる。

 

                       清澄山より
                       清澄山より

 

中世、房総・安房国と鎌倉の政治、経済、文化、宗教の緊密なる結びつきについて興味をひかれるのが、現在でも房総・安房国と鎌倉の関係を物語るものが各地に少なからず残っていることだ。ここで、当時を語るものを順に訪ねてみよう。そこに、東京湾の往復を重ねたであろう、日蓮の姿を幾分でも想像してみながら。

 

 

2 「物部姓」が刻まれる各地の梵鐘を訪ねて

 

はじめに、関東地方にある物部氏鋳造の梵鐘を見ていこう。

 

 

館山市の山中にある小網寺(こあみじ)

 

和銅3(710)行基による開創と伝える。宗派は安房国に多い真言宗智山派だ。

 

 

小網寺・鐘楼にある梵鐘の鐘銘には、製作年である弘安9年(1286年)の紀年、製作者・大和権守物部国光(やまとごんのかみもののべのくにみつ)が「金剛山 大荘厳寺」(小網寺の古称)のために作成したことが刻まれている。

 

 

 

梵語で、「大随求陀羅尼」(だいずいぐだらに)を刻む。

 

 

小網寺の古称「金剛山 大荘厳寺」を刻む。

 

 

 

物部姓鋳物師(いもじ)は河内の国丹南郡を中心とした鋳物師集団で、執権北条氏の要請を受けて同じ河内の国を本拠とする丹治、大中臣、広階氏と共に東国にくだり、建長4(1252)から始められた鎌倉大仏(浄土宗高徳院・銅造阿弥陀如来坐像)を鋳造したとされる。以降、物部氏は執権北条氏一族や、幕府有力御家人により開創された寺院の梵鐘を鋳造している。

 

 

 

埼玉県比企郡ときがわ町にある天台宗・都幾山慈光寺の鐘は、栄西の弟子・栄朝が願主となって、寛元3(1245)518日に物部重光が鋳造したもので、埼玉県では最古の梵鐘とされ、物部姓が確認される最初の鐘である。

 

 

 

銘文

奉治鋳 六尺椎鐘一口

天台別院 慈光寺

大勧進遍照金剛深慶

善知識入唐沙門妙空

大工 物部重光

寛元三年乙巳五月十八日辛亥

願主権律師法橋上人位栄朝

 

 

 

「都幾山慈光寺実録」(同寺96世・信海の著)によると、白鳳2(673)に僧・慈訓が千手観音堂を建て、観音霊場として創建。その後、役小角は西蔵坊を造り修験道場とした。続いて、鑑真和尚の教化を受けた釈道忠によって開山される、と伝えている。

 

 

 

境内の多羅葉樹(葉書の木)は樹齢1200年、慈覚大師円仁が植えたものと伝える。

 

 

 

慈光寺は源頼朝より寺領1200町歩の寄進を受け、鎌倉時代には幕府から厚く庇護されたと伝えるが、北条時頼創建の、建長寺・梵鐘を鋳造した物部重光が慈光寺の鐘を鋳造していることが、同寺が幕府と近い関係にあったことを示している。

また、今日まで伝来する、鎌倉時代初頭のものとされる国宝「法華経一品経」「阿弥陀経」「般若心経」や、関東地方最古の写経とされる貞観13(871)の「紙本墨書大般若経」、金銅密教法具をはじめとした数々の重要文化財が、慈光寺が仏教界の中でも高い位置にあった、権力(幕府など)から重く見られていたことを物語るものだろう。

 

 

 

鎌倉幕府第5代執権・北条時頼(嘉禄3年・1227~弘長3年・1263)が南宋の禅僧・蘭渓道隆(建保元年・1213~弘安元年・1278)を開山として、建長5(1253)に創建した建長寺(臨済宗建長寺派)の梵鐘は建長7(1255)221日、物部重光が鋳造。

 

 

 

建長七年卯乙二月二十一日

本寺大檀那相模守平朝臣

時頼 謹勧千人同成大器

建長禅寺住持宋沙門道隆謹題

都勧進監寺僧 琳長

大工大和権守物部 重光

 

 

 

弘安5(1282) 、第8代執権・北条時宗(建長3年・1251~弘安7年・1284)が南宋の僧・無学祖元(嘉禄2年・1226~弘安9年・1286)を招いて創建した円覚寺(臨済宗円覚寺派)の梵鐘は「洪鐘(おおがね)」と呼ばれ、第9代執権・北条貞時(文永8年・1272~応長元年・1311)を檀那とし、正安3年(130187日、「大和権守物部国光」により鋳造されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

円覚寺鐘 正安三年八月大檀那平貞時 住持宋西澗子曇 大工大和権守物部国光

 

銘文「皇帝万歳 重臣千秋 風調雨順 国泰民安」西澗子曇(せいかんすどん)

 

 

 

 

※西澗子曇=南宋の僧(建長元年・1249~嘉元4年・1306)、北条貞時の信任を得て円覚寺、建長寺の住持となる。

 

金沢北条氏の祖・北条(金沢)実時が開基した称名寺(真言律宗)の梵鐘は、「文永己巳仲冬七日」との旧銘があるところから文永6年(1269117日に作られ、「正安辛丑仲和九日」の改鋳銘により正安3年(130189日に改鋳されたことが認識されるが、これも物部国光と依光が鋳造している。

 

 

 

正安3(1301)、能登国、安芸国、豊前国の三箇国の守護を兼任した北条一門の武将・北条宗長(?~延慶2年・1309)は、禅僧・桃渓徳悟(とうけいとくご、仁治元年・1240~嘉元4年・1307)を開山に迎えて東漸寺(臨済宗建長寺派・横浜市磯子区)を創建。同寺の梵鐘は永仁6(1298)に、物部国光によって鋳造されている。

 

 

正応5(1292)106日、源季頼が寄進した相模・国分尼寺の梵鐘は物部国光が鋳造している。現在は神奈川県海老名市の相模国分寺(高野山真言宗)境内にある。

 

 

寛元2(1244)、現在の埼玉県川越市に創建された養寿院は、河越経重が開基。円慶を開山とする。天台宗寺院であったものの、天文4(1535)に曹洞宗になったと伝える。本堂にある銅鐘は文応元年(1260)、河越氏が新日吉山王社に寄進したもので、「文応元年」「武蔵国河肥庄新日吉山王宮」「大檀那平経重」「鋳物師丹治久友」の文字がある。丹治氏は鎌倉大仏造立に関わった人物だ。

 

 

埼玉県日高市の真言宗智山派高麗山・聖天院勝楽寺には、文応2(1261)に、物部季重が鋳造した梵鐘がある。「武州高麗勝楽寺 奉鋳長二尺七寸 諸行無常 是生滅法 生滅滅己寂滅為楽 文応二年歳次二月日 辛酉 大檀那比丘尼信阿弥陀仏 平定澄朝臣 大工物部 季重」との陽鋳銘を刻む。

 

聖天院勝楽寺の開創縁起

1300年前の高句麗滅亡によって、高句麗の人々が日本に渡来。その内、多くの人が武蔵国に移住して高麗郡が置かれる。長として高麗郡を治めた高麗王若光が同地で亡くなり、その菩提を祈るために侍念僧・勝楽が天平勝宝3(751)に勝楽寺を創建。当初は法相宗として続いたものの、中興一世とされる秀海の代に真言宗に改宗し、醍醐寺の末となる。

 

 

 

北条時頼創建の建長寺、時宗の円覚寺、実時の称名寺、宗長の東漸寺、相模国・国分尼寺、武蔵国・慈光寺の梵鐘を物部氏が鋳造したということは、従来から言われているように、執権北条氏や幕府有力御家人と物部氏が深い関係にあった、物部姓鋳物師は幕府お抱えの鋳物師であったことを示すものだろう。

 

 

小網寺に伝わる鋳銅(ちゅうどう)密教法具の内、金剛盤(こんごうばん)、羯磨台(かつまだい)、花瓶(けびょう)には、「金沢審海」の銘が刻まれており、現在の横浜市金沢区にある真言律宗・称名寺の開山に招かれた、下野薬師寺の僧・妙性坊審海ゆかりの品であるとのことだ。

 

 

 

小網寺観音堂の本尊「木造聖観音立像」は、12世紀頃の制作と考えられる藤原様式のもので、館山周辺には相当数の藤原仏(平安時代後期の仏像)があるようだ。

 

 

 

平成8(1996)、館山市国分地区の萱野(かやの)遺跡の中世の溝より70点ほどの瓦が出土。その内10数点の瓦には北条氏家紋の三鱗の文様がついており、鎌倉の鶴岡八幡宮寺、極楽寺、建長寺、東勝寺などと関係した寺院ではないかと推測されている。特に極楽寺の鎌倉後期の瓦との酷似が指摘され、そこに寺院が存在したとしたら、それは真言律宗の可能性が高いとされる。

 

 

 

このような幕府お抱えの鋳物師・物部国光の鋳造による「金剛山 大荘厳寺」の梵鐘、同寺観音堂本尊の藤原様式の観音立像と館山一体の藤原仏、萱野遺跡出土の瓦等は、当時の安房・房総一帯が鎌倉幕府の政治・経済の後背地であったことの一端を示すものだろう。また、「金剛山 大荘厳寺」伝来の鋳銅密教法具に、金沢北条氏が開基した称名寺の開山となった「金沢審海」の銘が刻まれていることは、金沢北条氏の安房進出と称名寺・真言律宗の同地での展開を物語っていると思う。

 

 

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