4 阿闍梨寂澄自筆納経札

 

「阿闍梨寂澄自筆納経札」(早稲田大学所蔵文書)

 

房州 清澄山

奉納

六十六部如法経内一部

右、当山者、慈覚開山之勝地

聞持感応之霊場也、仍任

上人素意六十六部内一部

奉納如件、

弘安三年五月晦日 院主阿闍梨寂澄

 

日蓮の身が身延山にあった1280年・弘安3年当時、故郷の清澄寺は慈覚大師円仁の開山と伝わる六十六部如法経納入の寺院であり、「聞持感応之霊場也」即ち虚空蔵菩薩求聞持法を修する霊場として喧伝されていました。

 

      虚空蔵菩薩 Wikipediaより引用
      虚空蔵菩薩 Wikipediaより引用

 

 

 

【 虚空蔵菩薩 】

 

梵名はアーカーシャ・虚空、ガルバ・母胎の意訳であり、虚空蔵菩薩とは、無限なる宇宙空間の尽きることのない知恵、溢れる慈悲を内蔵した菩薩であり、知恵、知識、記憶力増進の利益をもたらす菩薩とされます。

密教の胎蔵界曼荼羅の中の虚空蔵院での主尊であり、釈迦院での右脇士です。

 

金剛界曼荼羅の賢劫十六尊の中におり、外院方壇南方四尊の第三位です。

       善無畏 Wikipediaより引用
       善無畏 Wikipediaより引用

 

 

【 虚空蔵菩薩求聞持法 】

 

虚空蔵菩薩を念じて記憶力増進を成就する修行法であり、中国の善無畏訳の「虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法」には、

「一経耳目文義倶解。記之於心永無遺忘」

とあり、経典を一度見聞きする事有れば、経典の意味を理解する事ができ、永く忘れる事が無いとしています。

(善無畏=善無畏三蔵・637年~735年、インド鳥荼国の国王・僧。716年、唐の長安に行き、虚空蔵求聞持法、大毘遮那経[大日経]を漢訳する。真言伝持の八祖の第五祖)

 

 

     聾瞽指帰 Wikipediaより引用
     聾瞽指帰 Wikipediaより引用

 

【 三教指帰 】

 

記録に残る修行としては弘法大師空海が入唐する前に行ったものが有名で、その著「三教指帰(さんごうしいき)・序」(797年・延暦16121日成立)には以下のように記されています。

 

 

 

時に一沙門有り。虚空蔵求聞持法を呈示す。其の経に説く。若し人、法に依って此の真言一百万遍を誦せば、即ち一切経法の文義暗記を得ん。是に於て大聖の誠言を信じ、飛焔を鑽燧(さんすい)に望み、阿波国大瀧之獄(あわのくにたいりょうのたけ)に躋(のぼ)り攀(よ)ち、土佐国室戸之崎に勤念(ごんねん)す。幽谷は聲に応じ、明星は影を来す。

とある。

 

 

文意

ある時、空海は一沙門から「虚空蔵求聞持法」を示された。その経によると、「山中に篭もり、虚空像菩薩の真言(ノウボウアキャシャキャラバヤ・オンアリキャマリボリソワカ=華鬘蓮華冠[けまんれんげかん]をかぶれる虚空蔵に帰命す)を百万遍誦すれば、一切経の深義、文の意味するところが心中に入るであろう。記憶力が増進し、一切経の智恵を得ることができるのである」ということであり、沙門の教えを聞いた空海は、木鑽(きのみ)により炎を発するような不眠不休の修行を成し、四国阿波の国の深山、太龍の岳や土佐の国室戸岬に篭もったのです。深山幽谷は大師の音声に応じて響き、ついには明星(虚空蔵菩薩の応化)が来影しました。

 

※ある時=791年・延暦10年頃とされる。

「一沙門・空海の師僧」は、通説では勤操(ごんそう 754827・三論宗の学僧)とされていた。(「遍照発揮性霊集」巻八「先師の為に梵網経を講釈する表白」の記述、及び造東寺別当に勤操の後に空海が就いたことによるものか)

近代では、空海が重要視した「釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)」を請来した大安寺・戒明(他に唐より「首楞厳経(しゅりょうごんきょう)」なども請来する)が、「三教指帰・序」の一沙門・空海の師僧ではないかと推測されています。

 

 

※高野山御影堂に空海真蹟として伝来してきた「聾瞽指帰(ろうこしいき)(高野山霊宝館収蔵・国宝)は「三教指帰」と同じ797年・延暦1612月の作となっており、両書の比較では序文と巻末の十韻の詩の異なり、若干の字句の変更のみの相違であり、現在では「聾瞽指帰」が原作、「三教指帰」はそれを修正したものとされています。

 

 

【 三教指帰と立正安国論 】

 

「立正安国論」四六駢儷体文章の典拠の一つとして、空海の「三教指帰」を踏まえていることが北川前肇(きたがわぜんちょう)氏(大崎学報157号「日蓮聖人の立正安国論と三教指帰」P53)、山中講一郎氏(法華仏教研究3号「立正安国論はいかに読まれるべきか」P56)によって指摘されています。そして中山法華経寺には平安後期・院政期のものとされる「三教指帰注」が伝来しています。若き空海の虚空蔵菩薩求聞持法と明星来影の体験が著された「三教指帰」を、日蓮は「立正安国論」を進呈した正元2年・文応元年(1260)以前に読み込んでいたことは確実で、その時期はやはり、集中的に学習を行った建長5(1253)の「法門申しはじめ」以前ということになるでしょう。

 

日蓮は17(嘉禎4年・1238)の時には天台座主・円珍の「授決集」を補った「授決円多羅義集唐決」を写し、30(建長3年・1251)には東密と浄土教の融合を説いた覚鑁の「五輪九字明秘密義釈」を写しており、台密・東密の学習に励んだこの頃の日蓮の手元には「三教指帰」が置かれていたのではないでしょうか。山中氏が論考中で指摘された「立正安国論」と「三教指帰」の対象箇所を見ると、空海と密教が日蓮に与えた影響は実に大なるものがあったように思われるのです。それは「立正安国論」の文体のみならず、建長6年に「不動明王」「愛染明王」が感得されていることや、後年、図顕される妙法曼荼羅の形相的起源という角度からもいえることでしょう。

 

 

また、日蓮は少年時に虚空蔵菩薩高僧示現の不可思議なる体験をしており、それを解明するということも、修学期の密教探求活動の一端にあったのではないでしょうか。このような日蓮の修学過程は、空海が高僧より虚空蔵菩薩求聞持法を教えられ、教理研鑽よりもその実践修行を行い、結果、明星来影の不思議体験をして、その理論的根拠を知るべく経典探索を続けた姿と重なるものがあるように思われるのです。

 

【 自然智宗 】

 

求聞持法」は空海に始まるものではなく、奈良時代の山林修行の僧団「自然智宗(じねんちしゅう)」が始まりとされています。

 

宮家準氏の著「修験道と日本宗教」P44(1996年 春秋社)によれば、奈良時代初期に元興寺(がんごうじ・創建593年、開基・蘇我馬子)に来た唐僧の神叡(しんえい・法相宗)は、吉野川北側の比蘇寺(現在の曹洞宗世尊寺・奈良県吉野郡大淀町上比曾)にて二十年間に亘り籠る。その間、神叡は虚空蔵菩薩を本尊とする修行を行い結果、自然智を得る。この自然智とはヨーガの観法によって得られる仏梵一如の境地を意味し、その実践は自然智宗と呼ばれています。その後、大和大安寺で華厳・戒律・禅を説法した唐僧の道璿(どうせん・702760)も自然智を求めて比蘇寺で修行しています。

 

最澄は12歳の時、比叡山の南の神宮禅院で、如来禅や天台を説いた行表の下で出家して弟子となっていますが、最澄は自然智宗にも触れています。一方、興福寺の賢璟(けんけい)とその弟子修円は天応元年(781)頃、室生寺を開き、ここを興福寺僧の修行道場とします。そこに初代比叡山座主・義真の弟子円修が入山します。

 

他に、大安寺の道慈は竹渓山寺を開きましたが、その孫弟子の勤操は空海の師となっています。また、金峰山で修行して醍醐寺を開き、のちに当山派修験の祖とされた聖宝は,勤操の孫弟子にあたります。

 

自然智宗の淵源は中国の揚子江下流域で実践された山林修行であり、飛鳥地方南部に移住した帰化人檜前氏により伝来され、同氏創建の比蘇寺で行われました。(以上、引用趣意)

 

宮家準氏の解説に基づいて清澄寺に至る伝来の過程を大まかにたどれば、「中国・揚子江下流域の山林修行・自然智宗→檜前氏の帰化→山林修行・自然智宗とその修行法・虚空蔵菩薩求聞持法の伝来→比蘇寺の創建→時を経て空海による虚空蔵菩薩求聞持法→東密より台密へ取り入れられる→慈覚大師・円仁の流れを汲む『聖』による全国各地、安房の国への伝来→虚空蔵菩薩求聞持法を修する道場として清澄寺は再興され、喧伝されるようになる」というところでしょうか。

 

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