11 万年救護本尊奉安・文永末、建治期、弘安期

建治年間(12751278)、幕府はいわゆる元寇防塁(石築地)の築造を進め、非御家人を統轄下に入れて軍事動員の対象とし、異国警固のため東国御家人を九州に移動させ一時は高麗遠征も検討するなど、次なる蒙古襲来に備えて防御体制の強化を急いでいます。いつ襲来するかもしれない蒙古の影に脅える日本国の上下万人。このような「臨戦態勢下」にある日本国の中の、人里離れた身延山。かねてから他国侵逼難を警告し、誰よりもその治術を心得ていると自負する日蓮にとっては、世情の騒然と一見無縁な静寂なる環境とは対照的に、その心中は、九州の現地で防御の任にあたる武士に勝るとも劣らない緊張感(それは同時に気迫でもあると思ういますが)に満ちたものがあったと思われます。

 

このような「日本の人々定めて大苦に値いぬと見えて候。眼前の事ぞかし」(兄弟抄)という状況下では、文永の役の後、「最後なれば申すなり」(曾谷入道殿御書)から程なくして書き顕された万年救護本尊は、「此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱るべし」(新尼御前御返事)の本尊として、また「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」(種種御振舞御書)、「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」(開目抄)という日蓮の法華経信仰世界での立場「上行菩薩」、更には「大本尊」に末法の教主の意を含ませた明証として、それを弟子檀越に教示、信解せしめる意味からも、身延の草庵に建治年間から弘安初期にかけて常時かまたは経典読誦などの際に奉掲されたのではないでしょうか。

 

日蓮が東国から九州の防御に向かう人々の、心情を綴った書状を確認してみましょう。

 

 

文永12[1275](又は建治2[1276])416日「兄弟抄」

今の世にはなにとなくとも道心おこりぬべし。此の世のありさま厭うともよも厭われじ。日本の人々定めて大苦に値いぬと見えて候。眼前の事ぞかし。~中略~文永十一年の十月ゆき(壱岐)・つしま(対馬)、ふのものども一時に死人となりし事は、いかに人の上とおぼすか。とうじもかのうて(打手)に向かいたる人々のなげき、老いたるおや、おさなき子、わかき妻、めづらしかりしすみか、うちすてて、よしなき海をまほり、雲のみ(見)うればはた(旗)かと疑ひ、つりぶねのみゆれば兵船かと肝心(きもこころ)をけす。日に一二度山えのぼ()り、夜に三四度馬にくらををく。現身に修羅道をかんぜり。各々のせめられさせ給う事も、詮するところは国主の法華経のかたきとなれるゆえなり。国主のかたきとなる事は、持斉等・念仏者等・真言師等が謗法よりおこれり。今度ねうしくらして法華経の御利生心みさせ給え。日蓮も又強盛に天に申し上げ候なり。いよいよおずづる心ねすがたをはすべからず。

 

 

建治元年(1275)72日 「南条殿御返事」

当時つくし(筑紫)へむかひてなげく人人は、いかばかりとかおぼす。これは皆日蓮をかみのあなづらせ給しゆへなり。

 

 

建治2(1276)327日「富木尼御前御書」

かまくら(鎌倉)の人々の天の楽のごと(如)にありしが、当時つくし(筑紫)へむかへば、とど()まる女こ()、ゆ()くをとこ()、はな()るるときはかわ(皮)をは()ぐがごとく、かを(顔)とかを()とをと()りあ()わせ、目と目とをあ()わせてなげ()きしが、次第にはな()れて、ゆいのはま(由比の浜)・いなぶら(稲村)・こしごへ(腰越)・さかわ(酒匂)・はこねさか(箱根坂)。一日二日す()ぐるほどに、あゆ()みあゆ()みとを()ざかるあゆ()みも、かわ()も山もへだ()て、雲もへだ()つれば、うちそ()うものはなみだ()なり、ともなうものはなげ()きなり、いかにかな()しかるらん。

 

 

弘安2(1279)101日「聖人御難事」

月々日々につよ(強)り給へ。すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし。我等凡夫のつたなさは経論に有る事と遠き事はをそるゝ心なし。一定として平等も城等もいかりて此の一門をさんざんとなす事も出来せば、眼をひさい(塞)で勧念せよ。当時の人々のつくし(筑紫)へか、さゝれんずらむ。又ゆく人、又かしこに向へる人々を、我が身にひきあてよ。当時までは此の一門に此のなげきなし。彼等はげん(現)はかくのごとし。殺されば又地獄へゆくべし。我等現には此の大難に値ふとも後生は仏になりなん。設へば灸治のごとし。当時はいたけれども、後の薬なればいたくていたからず。彼のあつわら(熱原)の愚痴の者どもいゐはげま(言励)してをどす事なかれ。彼等には、ただ一えん(円)にをもい切れ、よ(善)からんは不思議、わる(悪)からんは一定とをもへ。

 

 

弘安3(1280)72日「上野殿御返事」

そのやうに当時日本国のたのしき人々は、蒙古国の事をきゝてはひつじの虎の声を聞くがごとし。また筑紫へおもむきていとをしきめ(妻)をはなれ、子をみぬは、皮をはぎ、肉をやぶるがごとくにこそ候らめ。いわうやかの国よりおしよせなば、蛇の口のかえる、はうちやうし(包丁師)がまないた(爼)にをけるこゐふなのごとくこそおもはれ候らめ。今生はさてをきぬ。命きえなば一百三十六の地獄に堕ちて無量劫ふ(経)べし。

 

 

日蓮は対蒙古防衛の最前線にある武士の心情を見事に描いており、これを以て心の置き所がどこにあったのか、それは、九州より遠く離れた身延の山中に身を置きながら、異国警護の任にあたる武士達、また、そこにいる門下と共にあり、いつ身命を失うかもしれない彼らとその家族のことを思い続けていたことがうかがい知れると思います。

 

一方、法華弘通の面からは国主帰依・一国皆法華は遠い日のことではなく、「文永の役」の翌年、建治元年(1275)6月に著した「撰時抄」では、次の蒙古襲来の時には日本国の人々が日蓮に救いを求めるようになる、としています。

 

 

今末法に入って二百余歳、大集経の於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時にあたれり。仏語まことならば定んで一閻浮提に闘諍起こるべき時節なり。

 

蒙古のせめも又かくのごとくなるべし。設ひ五天のつわものをあつめて、鉄囲山を城とせりともかなうべからず。必ず日本国の一切衆生兵難に値ふべし。

 

いまにしもみよ。大蒙古国数万艘の兵船をうかべて日本国をせめば、上一人より下万民にいたるまで一切の仏寺・一切の神寺をばなげすてゝ、各々声をつるべて南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へ、掌を合はせてたすけ給へ日蓮の御房、日蓮の御房とさけび候はんずるにや。

 

 

攻め寄せる蒙古の大軍、逃げ惑う人々、その時になって聞こえてくる南無妙法蓮華経の大音声と「たすけ給へ日蓮の御房」との叫び声。実に日蓮の眼に浮かんでいればこそ、このような臨場感あふれる描写が可能になったのだと思われます。日蓮の脳裏では観念ではなく、近き現実のことだったのです。

 

日本国と衆生の行く末を憂慮する日蓮であれば、対蒙古に関する認識、緊張感は数年で落ち着くものではないことでしょう。弘安元年(1278)3月の「四十九院申状」では、

「未萠を知るを聖と謂つ可きか」

「国主此の法を用いて兵乱に勝つ可きの秘術なり」

「国の為世の為尤も尋ね聞し食さるべき者なり」とし、

 

弘安2(1279)10月の「滝泉寺申状」には、

「本師は豈に聖人に非ずや。巧匠内に在り、国宝外に求むべからず」

「隣国に聖人有るは敵国之憂也」

「国に聖人有れば天必ず守護す」

「聖人国に在るは、日本国之大喜にして蒙古国之大憂也」

「諸龍を駈り催して敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし」

として法華経信仰世界の表出による異国退治の効験が確かなることを明示し、日本国の救済は日蓮によるべきことを力説するのです。

 

このように時間の経過とともに日蓮の危機意識は強まり、その信仰観念は拡大して溢れんばかりの高揚感となり、それは使命感の発露となって国家的危機を法華経信仰によって救うという日本国の導師意識へと昇華されていきます。

 

四十九院申状(弘安元年[1278]3)

駿河の国蒲原の庄四十九院の供僧等謹んで申す。

中略

且去る文応年中・師匠日蓮聖人仏法の廃れたるを見・未来の災を鑒み諸経の文を勘え一巻の書を造る立正安国論と号す。異国の来難果して以て符合し畢んぬ、未萠を知るを聖と謂つ可きか。大覚世尊霊山虚空二処三会二門八年の間三重の秘法を説き窮むと雖も、仏滅後二千二百二十余年の間月氏の迦葉・阿難・竜樹・天親等の大論師、漢土の天台・妙楽、日本の伝教大師等内には之を知ると雖も外に之を伝えず、第三の秘法今に残す所なり。是偏に末法闘諍の始・他国来難の刻・一閻浮提の中の大合戦起らんの時、国主此の法を用いて兵乱に勝つ可きの秘術なり。経文赫赫たり所説明明たり。彼れと云い、此れと云い、国の為世の為尤も尋ね聞し食さるべき者なり。仍て款状を勒して各言上件の如し。

承賢 賢秀 日持 日興

 

滝泉寺申状(弘安2[1279]10月 真蹟)

訴状に云く 日秀・日弁日蓮房之弟子と号し、法華経より外の余経、或は真言の行人は皆以て今世後世、叶ふべからざる之由、之を申す云云。取意

此の條は日弁等之本師、日蓮聖人、去る正嘉以来の大仏星・大地動等を観見し、一切経を勘へて云く 当寺日本国の為体、権小に執著し実経を失没せる之故に、前代未有之二難を起すべし。所謂、自界叛逆難・他国侵逼難也。仍て治国之故を思ひ、兼日彼の大災難を対治せしむるべき之由、去る文応年中一巻の書を上表す立正安国論と号す。勘へ申す所、皆以て符合す。既に金口の未来記に同じ。宛も声と響きとの如し。外書に云く未萠を知るは聖人なり。内典に云く智人は起を知る、蛇は自ら蛇を知る云云。之を以て之を思ふに、本師は豈に聖人に非ずや。巧匠内に在り、国宝外に求むべからず。外書に云く隣国に聖人有るは敵国之憂也云云。内経に云く国に聖人有れば天必ず守護す云云。外書に云く世必ず聖智之君有り 而して復賢明之臣有り云云。此本文を見るに、聖人国に在るは、日本国之大喜にして蒙古国之大憂也。諸龍を駈り催して敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし。君既に賢人に在さば豈に聖人を用ひずして徒に他国之逼を憂へん。

 

「四十九院申状」の「第三の秘法今に残す所なり。是偏に末法闘諍の始・他国来難の刻・一閻浮提の中の大合戦起らんの時、国主此の法を用いて兵乱に勝つ可きの秘術なり」との、「日蓮が法門」を日本国主が用いて兵乱(蒙古の攻め)に勝利すべきとの訴え。

「滝泉寺申状」の「聖人国に在るは、日本国之大喜にして蒙古国之大憂也。諸龍を駈り催して敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし」との、日蓮が国に在ることによって=日蓮を用いることによって対蒙古戦に勝利できるとの確信。

これら、日蓮とその門下によって表明された「日本国救済の導師・日蓮」としての意識は文永の役以降、年を追うごとに高まっていきます。

 

文永末から弘安年間へ、「日蓮が法門」の展開は対蒙古という角度を織り交ぜながら展開されていくのであり、やはり第一次蒙古襲来・文永の役によって最後の時に顕された「大本尊」、即ち万年救護本尊が次なる蒙古襲来への危機感の持続と平行して、身延の草庵に奉掲されたと考えられるのではないでしょうか。

 

 

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