原点回帰~日蓮が門下の釈尊像造立を讃嘆したのは何故なのか?

 

文永8年の法難以降、妙法曼荼羅本尊の図顕を始め、文永末から建治、弘安年間へと怒涛ともいえる勢いで本尊を顕しぬいた日蓮。

中央に「南無妙法蓮華経」の首題、初期は左右に、やがて首題直下に「日蓮」と自署花押を大書したその意識、また自身図顕の妙法曼荼羅を「大本尊」(万年救護本尊)とし、弟子檀越に合掌帰命礼拝をうながした「振る舞い」からは、「日蓮の末法の教主意識」というものがうかがえるのではないでしょうか。

 

一方で日蓮は「教主釈尊(に還れ)」と繰り返し強調、門下の釈迦仏像造立を讃えてもいます。

自らの手で妙法曼荼羅を顕して「大本尊」としながら、造立した檀越が拝するであろう釈尊像を讃嘆したのは何故でしょうか?

 

日蓮の意とする本尊は妙法曼荼羅なのか?釈尊像なのか?

 

視点を鎌倉時代から平安中期に移して、長久年間(10401044)に比叡山・首楞厳院の鎮源(生没年不詳)が撰した「大日本国法華験記」(法華験記)から、当時の信仰観を確認してみましょう。

 

「巻上・第十三 紀伊国宍背山に法華経を誦する死骸」

長年にわたり法華経を受持してきた壱睿は、熊野へ向かう道中、宍背山(鹿ヶ背峠・和歌山県日高郡と有田郡の境)で一泊した。夜半、法華経読誦の声が聞こえてきたが、自らも法華経を誦し三宝を礼拝、罪を懺悔した。

朝になり周囲を見ると死骸の骨があり、舌だけが赤く鮮やかであった。感悦した壱睿はその晩も法華経を誦し、明け方、骸骨と語り合う。死骸は比叡山東塔の住僧・円善で、六万部の法華転読を志したが半分ほどで死んでしまい、生前の立願を果たすためにこの地で法華経を唱え続けてきた。今、願いは既に満ち、残りの経は幾ほどのものでもない。今年はここに住し、その後は都率の内院に生まれ弥勒菩薩に値遇(ちぐう)して引摂(いんじょう)を蒙りたい、という。聞き終わった壱睿は骸骨に礼拝し、熊野に参詣した。後年、骸骨をたずねたがどこにも見えず、壱睿は随喜の涙を流した。

 

深夜の山の中で法華経読誦の声?

夜が明けて確認したら死骸の読経?

舌だけが赤く鮮やか?

骸骨と語り合う?

 

なんとも不気味といいますか、有り得ないことですが、当時は次々と霊験譚(れいげんたん)が創作されて「法華経の功徳力、法験」が喧伝されており、法華経がいかに知識人に受容されていったのかを知る貴重な史料ともいえるでしょう。

 

このような「神霊の善行に共鳴、同化」「神霊の許しにより救われる」等の霊験譚に興味を惹かれるというのは、現代人も同じことではあるでしょう。当時の人々の法華経信仰の内実を知るにつけ、鎌倉時代に登場した日蓮は「生き方として法華経を身で読んだ人」であり、それは「法華経観の革命」でもあったのだと改めて思います。

 

さて、骸骨となった円善の「都率の内院に生まれ弥勒菩薩に値遇して引摂を蒙りたい」との願望は雄大ともいえるのですが、一方で素朴な疑問が湧いてきます。

比叡山東塔の住僧ならば伝教大師最澄の法灯を継いで法華一乗を信奉、釈迦仏、釈尊の登場かと思いきや、弥勒菩薩になっているのです。

 

ここが肝心なところだと思います。

当時は、釈迦滅後五十六億七千万年後に出現するとされた弥勒菩薩を待つのではなく、それまで弥勒菩薩が説法している兜率天に往生しようとの上生信仰(じょうしょうしんこう)が流行していて、円善はまさにその一人であったわけです。その信仰では、釈尊の存在が小さくなっています。

 

また熊野三山の那智山の場合、観音菩薩のいます補陀落浄土(ふだらくじょうど)と喧伝されたことから多くの道俗が那智滝本に仏像・経典を埋納し、釈迦滅後五十六億七千万年後の弥勒菩薩の出現まで伝えようとしました。大正から昭和初期に発見された仏像、鏡像、懸仏、立体曼荼羅壇の品、仏具、経筒、鏡、利器、合子、大壺、古銭、小塔等、多彩な二百数十点がそれらを物語っています。

 

公家や武士、人々が熱心だったのは弥勒菩薩信仰だけではなく、観音菩薩の補陀落浄土、薬師仏の浄瑠璃世界、そして阿弥陀仏のいる極楽浄土への往生願望等です。これらは此岸(しがん)から彼岸(ひがん)への憧憬、此土(しど)から他界浄土への往生願望という二重構造となっていますが、このような「仏教観」が平安から鎌倉時代にかけて定着、常識化していきました。

釈尊から出発した仏教が「日本化」していく過程では、末法思想と共に釈尊は徐々に存在が薄くなっていったのです。

 

そこに「法華経最第一」を説く人物の登場。

日蓮です。

既成仏教では前提が多種多様な仏菩薩の百花繚乱状態ですが、そのような「宗教世界」「精神世界」の真っただ中で、日蓮は「法華経最第一」を強く主張するのです。

 

我が身に置き換えてください。

もし、私達がこのような所に飛び込んだらどうするでしょうか?

「阿弥陀如来、薬師如来、観音菩薩、大日如来、地蔵菩薩、弥勒菩薩」に向かって手を合わせるのが当然、自然の人達に向かい「法華経最第一」を主張する時、まずは仏教の原点に還ろう、教主釈尊に戻ろう、いわば「原点回帰」の運動を始めるのではないでしょうか。

法華経の教主であるのに、多くの人が忘失、または信仰心が薄くなっていた「教主釈尊に還ろう」と訴え、その方向に導こうとすることでしょう。

 

日蓮はいわばものごとの順序に則り、仏教でいえば「次第に誘引する義」を以て末法の衆生を法華経へ、その教主たる釈尊のもとへ直参させようとするのです。

それが遺文の中での「対機説法」となり、個々の門下の法門信解に応じての「教主釈尊(に還れ)」であったり、「釈尊像讃嘆」であったと理解するのが、日蓮以前の仏教史を踏まえた上での解釈として成り立つのではないかと思います。

 

一方で、一つ忘れてはいけないことがあります。

「教主釈尊(に還れ)」「釈尊像造立讃嘆」の日蓮も、大集経(だいじっきょう)の「末法は白法隠没」を認識理解し肯定説示していた、ということです。

 

曾谷入道殿許御書

大集経の五十一に~

次の五百年は我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん~

今末法に入つて二百二十余年、我法中闘諍言訟・白法隠没の時に相当れり

 

門下に向かい釈尊への回帰を説いて、一方では「白法隠没の時に相当れり」(釈尊の教えは功力を失う)ですから日蓮は「両論並立」であったように思われるかもしれませんが、前者(釈尊回帰)はやはり受け手の機と法門理解の程度によるものでしょう。後者(白法隠没)を十分理解していたことの表れ、対策といいましょうか、その「かたちが曼荼羅」となり、「唱題成仏という独自の法門として展開」されていったのではないか、と私は考えています。

 

『日蓮遺文に教主釈尊を立て、讃え、還るべきことが説かれているのだから、日蓮は釈尊本仏論者である』との説は、「遺文をそのまま読んでのもの」であり、平安期から鎌倉時代に至る仏教の歩み、展開と受容を知るほどに、「日蓮の振る舞いの意味の探究」「日蓮文書を読み解く作業」が必要になっていると痛切に感じます。

 

 

2023.10.8