「報恩抄」の「本門の教主釈尊を本尊とすべし」について

 

「報恩抄」 建治2(1276)721

 

問うて云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや。答えて云く有り、求めて云く何物ぞや。答えて云く三あり、末法のために仏留め置き給う、迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、天台伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。

 

求めて云く其の形貌(ぎょうみょう)如何(いかん)。答えて云く、一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂(いわゆる)宝塔の内の釈迦・多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし。二には本門の戒壇。三には日本乃至漢土月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし。此の事いまだひろまらず、一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず。日蓮一人、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり。

 

 

古くから論争の的となってきた文であり、その解釈も一様ではありません。 

一例としては、「日本を始めとして一閻浮提の人々一同が、法華経本門寿量品の釈尊を本尊(釈尊像)とすべきである。曼荼羅・宝塔の内では釈迦仏・多宝仏、その他の諸仏並びに上行等の四菩薩は脇士となるのである」

「本門の教主釈尊を本尊とすべしとある如く、法華経本門寿量品の釈尊・久遠実成の釈尊が本仏であり本尊は仏像となる。その奉安形式は一尊四士などである。曼荼羅は釈尊の精神世界を表したものであり日蓮の正式な本尊ではない」

等というものがあります。

 

いったい「本門の教主釈尊」とは仏像なのか、妙法曼荼羅本尊なのか。

これより「報恩抄」の該文をもとに考えてみましょう。

 

文中の「末法の~正法」といっても、釈尊や先師は知らざるところで日蓮独創の信仰世界です。しかし、日蓮的な教理上の位置付けは「末法のために仏が留め置き、迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、天台・伝教等が弘通せずの正法」というもの。日蓮としては、末法のために仏が留め置いた正法には三つあり、二つは本尊に向かい唱える「本門の題目」、本尊を安置する「本門の戒壇」となります。

 

では、肝心要、帰命の対象たる本尊とはどのようなものなのでしょうか?

 

これを究明するには「報恩抄」よりはるか以前からの、当時の宗教界の常識・衆生の機根というものを考慮しなければならないと思います。

 

日蓮在世の衆生の機根はいかなるものかといえば、「形として顕された仏像・薬師如来、阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩、大日如来」等を本尊として拝するというもので、かような「本尊と言えば仏像を拝するのが常識である信仰世界」の中で妙法を流布するならば、日蓮法華としても可視的世界に顕された本尊とせねばならないことは理の当然です。

 

立教から文永中期までは「爾前権教(主に法然浄土教)を破して実教たる法華経を勧奨し妙法を唱える」ことが主眼になっており、本尊は「唱法華題目抄」(文応元年[1260]528)に見られるように「法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊」「釈迦如来多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て」「十方の諸仏普賢菩薩等をもつくりかきたてまつる」というものであり、伊豆期(弘長元年[1261])以降では、ある時は、随身仏・立像釈迦仏もそこに加わっていたと推測されるでしょう。

 

いわゆる竜口の首の座、「文永8(1271)の法難」における死地を脱することにより日蓮の内面世界は変化しており、それは『妙法曼荼羅』という「かたち」となって顕れ、日蓮独自の法華経信仰世界が創出されることになります。この妙法曼荼羅について、日蓮は「観心本尊抄」(文永10[1273]425)で「其の本尊の為体」「是くの如き本尊は」と「本尊」として位置付けており、ここに至って法華経虚空会の相を再現・相貌とした日蓮独自の妙法曼荼羅が本尊として明示されることになりました。そのことは後の万年救護本尊(文永11[1274]12)讃文にも、「大本尊」と記されるところでもあります。

 

しかしながら、当時の仏教信仰では根本尊形の当体(本尊)は仏像であり、日蓮一門も拝していたものでもあります。「ありがたい仏さま(尊い仏像)を拝んで諸願成就を期する」という人々が一般的な中で紙本の妙法曼荼羅を本尊としたからには、それを拝することによる宗教的安心感、充足感を与えるような教理的意義付けを妙法曼荼羅本尊に付与しなければなりません。その表出形態が「仏滅後二千二百二十余年之間 一閻浮提之内未曾有大曼荼羅」という「仏滅後に未だかつてなき未曾有の大曼荼羅である」との讃文と、遺文の随所に見られる妙法曼荼羅本尊に関する教示となったのではないでしょうか。

 

「法華経の行者」(御書の随所)、「一閻浮提第一の聖人」(聖人知三世事)、「此の国に大聖人有り」(法蓮抄)、「日本の柱」(開目抄)、「日蓮は日本国の人人の父母ぞかし主君ぞかし明師ぞかし[主師親](一谷入道御書)との自覚を横溢させ、末法万年の一切衆生を救済する妙法曼荼羅を本尊として顕す日蓮であれば、その法華経解釈、本尊の意義付け等の教理展開も自在にして縦横無尽ですが、このような「日蓮の意とするところ」を門下が直ちに理解できるか否かは微妙なところです。

 

故に「観心本尊抄」の「送状」(文永10426)に、「此の事日蓮当身の大事なり。之を秘して無二の志を見ば之を開拓せらるべきか。此の書は難多く答へ少なし、未聞の事なれば人の耳目之を驚動すべきか。設ひ他見に及ぶとも、三人四人座を並べて之を読むこと勿(なか)れ。仏滅後二千二百二十余年、未だ此の書の心有らず、国難を顧みず五五百歳を期して之を演説す」と、妙法曼荼羅本尊の意義を「日蓮当身の大事」として慎重な扱いを期す教戒をしたのではないかと考えるのです。

 

一門の法華勧奨により日蓮法華の信仰世界に入った者、新たに登場した妙法曼荼羅本尊を拝する従来からの弟子檀越にとっても、日蓮独創の本尊を拝するということは『以前の仏から別の仏を拝するという信仰上の意味合い』を帯びることになります。

 

即ち新参者は「爾前権教の仏から実教たる法華経の仏に向かい妙法を唱える』、門下には『法華経の仏(仏像)が新たな仏のすがた=妙法曼荼羅本尊(紙本)となる』というものであり、このような新旧の門下側・一般的な仏身観の側に立ち考慮した時(機根を踏まえた時)、日蓮は『妙法曼荼羅本尊に教主釈尊なき末法万年の久遠実成の教主釈尊=久遠の仏』という教理的見解を含意させ、対機の上から「妙法曼荼羅本尊を、本門の教主釈尊、仏像」等と言い換えることもしたのではないでしょうか。

 

それは意識してのことであったと考えられますが、もしかしたら自然と書き記したものかもしれません。または師匠と弟子の間の口頭での了解、共通認識があったものでしょうか。

 

故に「報恩抄」では「本門の教主釈尊(妙法曼荼羅)を本尊とすべし」との表現となり、「観心本尊抄」の「未だ寿量の仏(久遠仏をかたちとして顕した意もある妙法曼荼羅本尊)有さず、末法に来入して始めて此の仏像(久遠仏をかたちとして顕した意もある妙法曼荼羅本尊)出現せしむ可きか」「本門寿量品の本尊(久遠仏をかたちとして顕した意もある妙法曼荼羅本尊)並びに四大菩薩をば三国の王臣倶に未だ之を崇重せざる由」という記述になったと考えるのです。

 

仏師が精魂傾けて彫像した仏菩薩像から一見、劣るかのような「紙本を本尊」とするからには、「慈愛に満ちた尊容」「迫力みなぎる姿」を上回るような意義を付与する、即ち「妙法曼荼羅本尊即教主釈尊即ち久遠の仏」とするのも至極当然なことであったでしょう。

 

日蓮が妙法曼荼羅を本尊とした所以については、当時の日蓮一門の社会的階層・財力からすれば、資金力を要する彫像の必要なく、日蓮自らにより直ちに顕せ、かついずこにでも携帯し各所で拝せる妙法曼荼羅本尊こそが、「一閻浮提広宣流布・立正安国」を大願とする我が一門に相応しいとの判断があったのではないでしょうか。

 

 

冒頭の「報恩抄」に戻りますが、当抄は建治2(1276) 7月、安房国・清澄寺の師僧・故道善房追善のため、法兄の浄顕房・義浄房のもとに送られた書であり、そこは台密と東密が混在した虚空蔵菩薩求聞持法の霊場でした。日蓮は「御本尊図して進候」(報恩抄送文)と妙法曼荼羅本尊を授与しており、「御まへと義成房と二人、此の御房をよみてとして嵩がもりの頂にて二三遍」()と浄顕房(清澄御房・御まへ) ・義成房・此の御房(日向か)の三人で清澄の嵩が森で報恩抄を二、三遍読み、「故道善御房の御はかにて一遍よませさせ給いて」亡き道善房の墓前でも一遍読み、後に「此の御房にあづけさせ給いてつねに御聴聞候へ」と此の御房(日向)に報恩抄を預けて教示を受けなさいとするのです。

 

仏菩薩の像が立ち並ぶ清澄寺には虚空蔵菩薩求聞持法を行ずるために諸国の霊場、聖地を訪ね歩く修行僧が集っており、彼らも三人の道善房追善に関与、もしくは目にしたことでしょう。そこで知るのは、日蓮の妙法曼荼羅は「仏滅後二千二百二()十余年之間 一閻浮提之内未曾有大曼荼羅」にして、その妙法曼荼羅の意は「日本をはじめ一閻浮提の一同が本尊とする本門の教主釈尊(久遠の仏)」であるということでした。いわば「報恩抄」は道善房逝去を機にして、浄顕房・義浄房を通しての、日蓮による故郷清澄寺在住の諸僧、修行者たちへの法華信仰勧奨と、妙法曼荼羅の意義を示された書でもあったと考えるのです。

 

以上見てきたように「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」について、「本門の教主釈尊を妙法曼荼羅」と読めば、続いては「宝塔の中の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩は(中央首題の南無妙法蓮華経の)脇士となるのである」と、該文は妙法曼荼羅の相貌を示したものとしてすっきり読めるようになります。

 

対して、釈尊像を本尊にせよとしながら次はいきなり妙法曼荼羅の説示、しかも本尊とされた釈尊が今度は脇士になっていたのでは不自然というべきでしょう。

 

長文となりましたが、至極単純に考えれば「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」と説示して本尊たる曼荼羅を授与しているのですから、「日蓮の言葉と行い」により本門の教主釈尊とは妙法曼荼羅であると理解するのが自然だと考えるのです。

 

尚、日蓮は建治2721日に浄顕房・義成房に「報恩抄」を、さらに弘安元年(1278)9月には「本尊問答抄」を浄顕房に送ったのですが、弘安3(1280)には、故郷の清澄寺は東密僧の寂澄を別当とする寺院になっていたことが「阿闍梨寂澄自筆納経札」(早稲田大学所蔵文書)からうかがわれます。「報恩抄送文」の清澄御房は浄顕房のことと推測され、清澄を冠していることから浄顕房が別当となっていたと推測されるのですが、慈覚大師円仁開創譚が語りつがれ虚空蔵菩薩求聞持法の聖地として喧伝されていた清澄寺に法華経信仰を根付かせるのは、いかな日蓮一門とはいえ容易なことではなかったようです。

 

 

「阿闍梨寂澄自筆納経札」(早稲田大学所蔵文書)

  

房州 清澄山

 

奉納

 

六十六部如法経内一部

 

右、当山者、慈覚開山之勝地

 

聞持感応之霊場也、仍任

 

上人素意六十六部内一部

 

奉納如件、

 

弘安三年五月晦日 院主阿闍梨寂澄

 

 

追記

 

「報恩抄」の「本門の教主釈尊を本尊とすべし」について、宗教社会学者の西山茂氏は以下のように記述されています。

 

「法華仏教研究」第32(202112月 法華仏教研究会)

「御法さま」考 ~人法一箇と法面人裏~

 

日蓮教学界では、日蓮法華宗(日蓮宗諸派)の本尊は法本尊(妙法曼荼羅またはその中尊の南無妙法蓮華経)なのか、それとも人本尊(仏本尊)なのかの論争が昔から姦(かしま)しい。日蓮遺文のなかに、「法華経の題目を以て本尊とすべし」(本尊問答抄・真蹟なし)という文言と、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(報恩抄)という、一見、相矛盾する文言が並存しているからである。

 しかし、報恩抄のこの文言のあとに「いわゆる宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏ならびに上行等の四菩薩、脇士となるべし」という文言が続くから、この場合の「本門の教主釈尊」が妙法曼荼羅中尊の南無妙法蓮華経を指していることは明白である。すると、日蓮は本尊を、ある時には「南無妙法蓮華経」と法格的に言い、別の場合には「本門の教主釈尊」と人格的に言っていることになる。

 だが、報恩抄の「本門の教主釈尊」(妙法曼荼羅中尊の南無妙法蓮華経)が久成釈尊(山川智応的には妙法と「冥合一如」した始成の存在)を意味しているのか、それとも本覚仏(山川智応的には妙法と「不二一如」の無始の存在)を指しているのかについては、これだけでは分からない。

 もっとも、本覚仏にまで論を進めると、本仏は三身即一とはいえ、それをインドのシャカ族に由来する「釈尊」の名で呼んで良いのか、それとも「寿量品の仏」とか「寿量仏」と呼んだほうが良いのではないか、という別の問題も生ずる。

それはともかく、総じて、勝劣派(法華宗の本・陣・真の三門流や富士門流など)は妙法曼荼羅を本尊とし、一致派(身延・池上・中山等一致派諸門流の集合体としての日蓮宗など)は久成釈尊を本尊としている、といえる。p167

 

以上、引用。

 

論考中の『「本門の教主釈尊」が妙法曼荼羅中尊の南無妙法蓮華経を指していることは明白である』ということは、「報恩抄」の該文は『答えて云わく、一には、日本乃至一閻浮提一同に、「本門の教主釈尊=妙法曼荼羅中尊の南無妙法蓮華経」を本尊とすべし』であり、このような西山氏の解釈は、「本尊問答抄」の「法華経の題目を以て本尊とすべし」との端的な教示と軌を一にしているといえるでしょう。

 

では、何故、日蓮は「本尊問答抄」と同じく「法華経の題目を以て本尊とすべし」と分かりやすく書かずに、「報恩抄」ではわざわざ「本門の教主釈尊を本尊とすべし」と書いたのか?

その答えが上記になります。

 

次の『「報恩抄」の本門の教主釈尊とは』もご参照ください。

 

2023.8.20